みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

鴨歩きの正しいステップ

 

        *

 夢から醒めようとする反動のせいか、挙動が少しおかしい。タクシーはエナメルでできていて、とてもキュートだ。でも、おれでないだれかからの指令でとてつもない悪意に変わる。ポケットは空っぽ。なにもない空白のようで、おもわず眼をそむける。砂丘がつづく夜の街でたったひとりの男を見た。歩道橋からこちらにむかって叫ぶ。キャデラックの卵巣から電波を受信しました。何卒、よろしくお願いします。ナニトゾ。ひらかれた街区に車は駐まって、おれはそこで現実に立ち返り、その醜さに驚く。たじろいだおれの眼にきみは映っていただろうかと訝る。せっかくの花がすべて枯れてしまったから、虐殺の支度をしよう。そうおもって、運転手にいった、
 「警察を呼んでください」と。
 おれは仮設の葺合署に連れて来られた。スーパーボインの、赫いとっくりセータの女がおれの腰紐をたどって、おれの身体的特徴を調べた。おれはかの女に卑猥なことをいったのだろう。エロチズムを感じた。連帯意識を持った男たちが色めき合っておれを非難した。威嚇した。かの女のおっぱいはほんとうにでかかかった。ただし、顔がだめだった。いけない、いけない、もちろんこと、こんなことを書けば留置場にもどることになる。でも、おれはけっきょく、その場所にいた。
 相部屋はヤク中の老人だった。篠山市のうえ、小雨の降る町で、おれたちは束の間の仲間だった。朝になって病院に連れられた。おれの頭に複数の殴打痕があるからだ。でも、医者はすべてを嘗め腐った眼で調べ、おれは包帯もしないでだされた。刑事もおれの前科をおもってか、なにもいわない。たしかにおれはきのう、おれの口座から勝手に金を抜いた父に怒って、タクシーで実家へゆき、喧嘩のすえに1万をせしめた。そして泥酔のなかでいくつかの駅を経て、正体不明のまま、タクシーに乗ってしまったんだ。気づくと金はない。おれは運転手に金がないからと、警官を呼んでもらった。以前の執行猶予から半年、おれには勝ちめなんか、なにもなかったんだ。
 やがて日暮れたころになって警官が、おれを余所の留置場に移送した。丹波だった。若い男がふたりいた。ひとりはずっと眠っていた。もうひとりがうずうずとなにかをうかがってた。夜になって横になったていた男はだされた。おれとうずうずだけが残された。やがてうずうずが話しかけてきた。よっぽど不安だったらしい。細身の男で、背が小さかった。
      おまえ、なんで入れられたんや?  
    詐欺だとよ。
      なにやったんや?
    無賃乗車だよ。
      なんや、そんなことか。
    おまえはなんだ?
      猥褻だってよ。
      それでな、相談があるねん。
      示談にしたいんや。
      手紙の書き方、教えてくれへんか。
 やつが話すには相手の合意はあるのに、1年経っていきなり立件されたということだった。おれはやつの事情を聴きながら、手紙の手解きをしてやった。ところが、話を進めていくうちに、やつが無理くり女をヤッたこと、そしてシャブをやりながらだったことがわかっておれは手を引いてしまった。口を濁し、やつがおとなしくなるのを待った。でも、おれたちは終日騒ぎまくった。ばかげたことをばかげた大声でわめき、愉しんだ。歌を唄い、猥談を繰り返した。やつは背中の刺青を見せた。焔に包まれた仏像が描かれていた。
   おまえ、絵ぇ描けるんやろ?
   これ、描いてぇな。
  いいけど、いま眼鏡がなくってな。
   ここでたら描いてくれよな。
 やつのばかげた話を聴くのはなかなか愉しいものだった。たとえば丹波の米は旨くて躍り食いができるとか、深夜になると仲間たちとバイクで町内をパトロールしているとか、サツの手入れがあったときの話だとか。やつは外車を3台も所有していて、妻と子供がいる。妻は薬物の持ち込みをきらっていたけど、あるときサツに踏み込まれて手入れを受けた。寸でのところでやつは冷蔵庫のバックパネルに1袋のシャブを隠し、なんとかやりおおせたらしい。地元では、堅気の職場に勤めながら、ヤクの運び屋と、大麻の栽培をやっていると話した。──大麻か、おれも吸ってみてえ。
    まあ、少量のヤクなら躰にいいらしいからな。
     せやろ!
   おまえ、ええこというやんけ。
   少しならええねん!
 おれは黙っていた。
   なあ、おまえ、ここでたら一緒に仕事せえへんか?
  なんの?
      運び屋、車で大阪いって配達するだけや。
      週給200万はかたいで。
      ちょうど、おれの家、空いてる室もあるしな。
 やつは妻から差し出されたケータイ小説の本をおれに指しだした。──「これに住所と連絡先、書けよ」。おれは書いて渡した。200万の魅力はとてもじゃないが抗えない。だが本気じゃなかった。    
      ここでたら連絡するわ。
 まあ、やつがどうなろうとおれには知ったことじゃなかった。おれはテキトーなことを放言しては笑った。そしてガスを放った。やがて取り調べが始まり、われわれはそれぞれべつの監房に移された。取り調べじゃあ、おれが故意に詐欺をしたとさんざん詰められた。眼鏡でぶの刑事と、年寄りの禿刑事のコンビにさんざやりこめられ、さらに検察で拘束延長が決まってしまった。どうにも、やつらがいうにはタクシーのカメラに映ったおれがあまりにも冷静に見えるということだ。冗談じゃなかった。おれはいちどパニックになると、硬直してしまうんだ。嘘じゃない。
 猥褻野郎の芦田信司はべつの房から、たびたびおれに声をかけて来た。おれのあたらしい室には西脇市の中年男と、足のわるいヤク中の老人がいる。終日点灯している灯りのもとで、おれたちはまたばかっばなしをしていたし、やつはやつでまたぞろ、ほかのやつに示談にするための手紙の文案を、ほかの虜に教授してもらっていた。若いというか、幼いやくざ者も何人かいて、かれらとは朝になると出会すことになっていた。蒲団を片づけ、洗面所で歯を磨き、顔を洗うときに、そして喫煙にでるときに。だれも芦田以外に話す相手はない。おれはやつの服を見た。自慢げになって着ている服には漫画『ワンピース』のキャラクターがプリントしてあった。そんなものいい大人が着るものかとおもった。でも、ヤンキーたちほど、ああいったものが好きで、仲間を尊重するじぶんというものに酔っているのである。噫。
 やがてみんな房に戻ると、やくざ話に花が咲く。山健組のことがたびたび話題にあがった。ひとりの男が饒舌に語る。そのときだった。左隣の監房から荒々しい声が聞えて来た。
   さっきから山健のこと、とやかくいうてるけど素人にそんなこというてええとおもてるんですか?
   うちら、なにも遊びでやってるんやないんや、口出しせんといてもらえますかぁ。
 さっきまで饒舌だった男は狼狽してわびる。
    えらいすみません、
    いえね、山健のひとたちってすごいなぁって。           
      そやったら、なんで失礼なものいいすんねん。
        いえいえ、そんなつもりはないです。
      だったら黙っててもらえますか!
       はい、黙ってます。
 しかし男は亢奮状態にありやがて、檻を撲って喚きだした。警官たちが雪崩れ込む。口喧嘩が始める。警官たちは最初冷静だったものの、男の激しさに耐えかねたのか、最後には怒声をあげてしまっていた。やがて男は別室へと連行された。みんな無言だった。あたりに静寂が立ちこめる。口火を切ったのは芦田だった。
      おれ、大麻育ててるんですよ。
 若いやくざにいってるようだった。でも、なんでいきなり敬語になるのかはわからなかった。声からしてあきらかに芦田よりも年下におもえたからだ。
    あー、それはあぶないで。
    ヤサイやったら買うたほうがええよ。
    大阪でも5千で買えるから。        
 あとは大麻談義だ。芦田は妙にへりくだった態度で話をつづけた。おれは小せえやつだなとおもうだけだった。やがて夜になってひとりの少年が眠れないと喚きだした。やって来た警官に眠剤をだすようにいった。そのとき、だれかが「うるせえ」と呟いた。少年は怒って、
      いま、いうたんだれや!
      おい、侮辱罪やぞ、捕まえろ!
      捕まえろ!
 そうほざき始めた。この糞ガキにおれは怒鳴りたくなったが、やめておいた。翌日、またも取り調べ、おなじことを繰り返す。そして翌週、送検された。おれは検察官のまえでうろたえたという口ぶりで、じぶんはパニック障害だといった。かれは笑みを頌え、「それじゃあ、いちど精神鑑定に送ろう」といった。警察署に帰ると、刑事たちに訊かれた。
      入院するなら、どこがええ?
    垂水病院か、光風病院です。
 監房の廊下を歩く。芦田が不安そうにこちらを見る。
      どやった?
    精神鑑定に持ち込んだよ。
 数日後、車に乗せられて谷上にいった。光風病院だ。建物のまえに立っている男がおれに話しかける。
      ぼくのこと憶えてる?
  傷害事件のときに留置場配置だった中島という男だった。いまは昇進して刑事らしい。われわれは病院の裏口から小さな室に入った。ひとりの女医とひとりの看護婦がいた。おれは早口で捲し立てた。しかし、女医は「まずはアルコールをやめるべきですね」とだけいった。帰りの車で中島氏は、
   まえに葺合にいたときは大人しかったのに、きょうはよう喋ったな。──といった。
  むかし、大衆劇団にいたので。  
      そやったんか。
 それからまた丹波にもどった。芦田が警官に泣きついていた。──「ここでたらおれ、殺されるかも知れん。どうしたらええんやろ」と。どうやら組織による制裁が待っているらしかった。これじゃあ、200万は無理なようだ。房にもどると、西脇の男はいなくなっていた。やつについては少し腹の立つことがあった。やつに中国人だとおもわれたことだ。日本人だというと、「国籍は日本ってこと?」などともいわれた。まあ、いまや昔だ。数日経っておれは改めて調書をとらされた。泥酔してなんどもおなじところをいったりきたりしたこと、券売機に5千を入れたが、もどって来なかったこと、気がつけば公園にいて、カップルがおれのポケットから金を盗んでいったこと、気づけばタクシーに乗っていたこと。しかし、該当する公園は存在しないと告げられた。
      垂水病院に入院するなら釈放する。
    わかりました。
 長い道中、刑事たちの説教を聞きながら過ごした。老刑事がいった。──「病院をでたら、おれに電話くれ」と。やがて病院に着く。医者は高慢な野郎で、おれの話をことごく妄想だと決めつけた。親父が呼ばれた。直接会うことはなかった。カルテに書かれた病名は、〈自閉症スペクトラム〉だった。以前にもこの病院には入院歴があった。錯乱して送り込まれたんだ。馴染みの看護人がおれに近づく。おれは医者の発言を心外だと訴えた。病人の顔ぶれに変わりはなかった。まるで一生、そこで暮らすかのように存在していた。おれはたった4日でそこをでた。退院するとき、ひとりの男が冷たい眼差しでいった。──「2度と来るなよ」。
 退院してから区役所にいった。生活保護の再開の手続きだ。けれども1週間はかかるという。三枝という冷血女がいった。もう金がなかったし、喰いものもない。おれは刑事に電話した。取りつく島もない。あれからどうやって生活を立て直したのかをいまはもう懐いだせない。芦田はけっきょく連絡を寄越さなかったし、やつの生死もわからない。それでも、おれはなんとか生きている。そして書いている。あまりにも多すぎる、罪や咎。狂いだした時計が真夜中に蒸発するまで、おれはただただ眠って過ごした。気づくと、扉が開いている。そのむこうには砂漠があって、吹き荒れる風がとめどなく、おれの心から焔を奪い去ってしまう。こんな感情に気づくまえに逃げだすべきだったんだ。なにしろ、この光景には出口がない。逆噴射する機体、取り残された翼が3回転半を跳ぶ。だれもいなかったはずの迷宮で、発見された事件には『ベイシティ・ブルース』というなまえだけがそっくり剥奪されていたんだもの。できるだけ速く、おれは歩く。歩道橋に立って、砂丘を走るタクシーにむかって叫んでいた。

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