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毀れやすき殻のうちにて閉じこもる卵男のような少年
箒すら刑具おもわす蒼穹≪あおぞら≫に逆立つ藁の幾本を抜く
幻蝕のさなかの夜をおもいだすたとえば青いライトのなかで
街かたむきつつあり寝台のうえにおかれた上着が落ちる
菊よりも苦き涙よ零れ落ちやがてやさしい抜歯の時間
義務らしさつづくばかりか雷鳴を聴きながらひとり詩を書く真夏
葡萄咲く他人の庭よからみつく蔦をわしづかみにすれば夜
夏盛る空気人形一体が陽に焼かれつつおれを視るなり
萌ゆる草木彼方よりわれをいざなう声などなくて
詩に淫すこともなかれば八月の縊死の牡犬駈け廻るなり
ソフトボールする少女≪おとめ≫らがいて茫洋たるグラウンドにあふれり
死ぬためのこころがまえもままならず驟雨ののちの室外機啼く
こうていもていこうなりぬきな臭き戦のうわさ遠く聞えて
ながゆめのなかで見つけた幸運がバラスのように光り失う
だれに問うおのれの価値や死や望み「あるいは哀しみのアブサンを」待つ
こころなく木馬が奔る夏の夢 やがて色さえなくなるきみは
北野坂降りてひとりのバスに揺る未来になんぞ望みなどなく
cabaret london 滅後の愛をいつわりし女主人のヒールが高い
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〇歌論のためのノート
作歌の生理/作家がじぶんの声を見つけるためには、より多くの他者の声を知らねばならない。他者とのちがいを明らかにしないかぎり自覚的なじぶんを声を表現することなどできないからだ。声とはすなわち文体のことである。作家がじぶんの声にたどり着くまでには多かれ少なかれ時間がかかる。そしてそれを完成形までもっていくまでも、それなりの時間というものがかかるのだ。経験の現象学のなかでいかにじぶんを跳躍し、その跳躍を保つかが鍵になり得る。ところで作家が詩を掻き立てる場所や言葉に出会ったとき、その対象をどれだけじぶんの経験のなかに置き換えられるかが実際重要だったりする。仮面をつけるでもうそを吐くのでもなく、内的真実に寄り添って作品に仕立て上げるには指を使うしかない。眼でも頭でもなく、指を潰れるほどに使ってからが勝負だ。作歌の生理とは好悪の感情を超えたところから詩情を掻き立てられ、それをかたちにするまでのプロセスである。