みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

フットサルの現象学


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   *

 バー・ロウライフでの勤務時間は17時から24時だった。バーテン見習いとして年末から雇われ、凄まじい勢いで客をさばいた。仕事はきつかったが、物流倉庫のきつさとはちがい、多くの刺激があった。12月は客で溢れかえった店のなかを右へ左へ歩き回った。年内業務が終わったその日、森夫はほかの店員たちとともに正月の予定について話した。
 「むかしの同級生に会うんです」──しかし、かれと相手とはまったく交流がない。5年まえのクラス会で一緒だっただけだ。小学校では2年と6年、中学校では2年時におなじだったが、大したつながりもない。ただ一時、相手は森夫の描く漫画の読者だったし、家へ遊びにいったこともあった。でも1度だけだ。ある夜、一方的に電話をかけ、会うことになっただけだった。じぶんが求められていないという事実をかれは受け入れることができてなかった。長い失業時代がかれになにを与えたのかは知らない。けれども、鰥夫の寂しい暮らしのなかでかれの内奥が少しずつ毀れていたのはたしかだ。かつての失恋で、自棄になったかれはさまざまなひとびとを罵り、苛んだ。いまではだれもかれを相手にするものはなかった。ひろいインターネットの海のなかでも、かれは友人さえなく、憎悪の詩を書いてばら撒いていた。同級生たちはみなかれがきらいなのだ。だのにまだ、かれはかれらに未練があった。かの女らに未練があった。たったひとりだけ残った女友達──それだって疎遠だ──を介して、どうにかこうにか、ひとり捕まえたというわけだった。
 森夫は給金をオーナーからいただくと、冬の神戸を歩いて帰った。わざとらしい幸福感、かりそめの充実とともに正月2日、かれは新神戸から谷上線で田尾寺駅に降りた。真っ白い息をしながら、ロータリーを歩く。黒いタクシーのゴキブリたちのうしろ、青いスズキのなかで浪越彬が待っていた。しばらく、どう声をかけていいものかがわからないでいた。つづまりながらサイドグラスを小突いて、じぶんの存在を報せた。
   おぅ、ひさしぶりやな。
  ああ、あけましてだね。
 車に乗り込んだ。話す話題も見つからないなかで車道が流れ、車列のなかにスズキが喰い込む。なんとなく女友達のことを話した。
  小川夏美から聞いてるだろ?
   ああ、フラれたんだってな。
   斉藤さんに。
 森夫の顔が青ざめる。かの女のことは初恋だった。SNSでコンタクトをとってみたものの、森夫の社会性のなさが招いた、対話の破綻によってすべてが灰と化した。かれのおもいつめた勝手な感情、それを表現した悲観的な文章がかの女の心を不快にさせた。かの女による1年間の沈黙、そのあいだ森夫は耐えられず、ひとびとを攻撃しつづけた。それがかの女を切り裂き、そして失望させた。募る嫌悪感の果て、かの女はいった、──「ひとを傷つけるひとはきらい!」と。そしてブロックだ。それから数日して酔った森夫はひとを撲った。男の鼻を砕いた。執行猶予3年半である。もう4年まえのことだった。逮捕のことは、小川夏美にはいわなかった。だれにもいえなかった。やがて車は西宮は北六甲台にゆく。
   ところで小川さんは元気?
  ああ、でもちょっと問題があってな。
   なんや?
  結婚した相手に隠し子があったらしい。
   えーっ、そらひどいな。
  ひとはわからないものだよ。
  まさか同級生にそんなことが起こるなんて。──まあ、そやね。
 丘をあがった車が住宅地を走る。そして家に着く。森夫が降りる。車が車庫に入る。浪越が降りて来るのを待つ。いったい、これからなんの話題があるというのだろうかと訝った。
      森夫、免許持ってんの?
    持ってる。
    でも、軽トラしか運転できないよ。
     それでもええやん。
 ほんとうは3年もまえに失効しているのをかれは隠した。恥ずかしいおもいはしたくなかった。べつに事故を起こしたわけでも、違反点数をあげたわけでもなく、かれは友人との決別を切っ掛けにみずから免許を棄てたのだ。犯罪逃亡の逃がし役にされたのが、かれの自尊心を傷つけたからだ。いや、傷つけられたと思い込んだからだ。かれはすっかり後悔していた。
   あがろうよ。
  ああ、ありがとう。
 家はおなじ敷地に2軒あった。そのうち、あたらしいほうに入る。小学生のときにはなかったものだ。リビングルームのテレビのまえでふたり坐る。お節の残りを浪越が勧めてくれた。森夫は海老をいくつか喰った。そしてテレビのサッカー試合を観る。おもしろくもなともない。かれはいままでにスポーツには興味はなかった。ただスポーツもののポルノは好きだ。やがて浪越がいった。
      母が挨拶したいって。
    ああ、そうだね。
 立ちあがって戸口に立つ。現れた貌に会釈する。──楢崎くん、お久しぶりやね。かっこよくなって。──どうもありがとうございます。──ふたりしてリビングにもどる。それから浪越がテレビゲームを持って来た。一緒にやろうという。しかしゲームは接続できなかった。しかたなく将棋を指した。森夫はルールがわからない。教えてもらいながら3度やった。時間がどんどん鈍くなってゆく。話すこともなかった。森夫はもらったビールを嘗めながらテレビの試合を観た。
      ちょっとでかけへんか?
    ああ、そうだね。
 ふたりして近所を歩いた。スーパーマーケットはなくなり宅地になっていた。小学校のまえには家がならぶ。かつて空き地はみんな家々で埋まっていた。歩きながら話したをした。ひと気はまったくない、静かなところだった。
      あそこ、江河の家や。
    いったことあるよ。
    マッキントッシュがあったね。
      あいつ、姉さんいるんや。
    それは知らなかった。
   大山くんっておったやろ?
      頭、よかったんや。
    ああ、いつも英単語やってたなあ。
      あの長い階段のうえに家がある。
      いまはどうしてるのか、わからへん。
 ふたりは丘を降っていった。長い坂道を見下ろすと、森夫が高校生のときに努めていた、食堂があった。でも、いまでは中古車販売店に変わっていた。
    おれ、あそこでむかし働いてたんだよ。
      ああ、そうなん?
    おなじ中学の女子もなんにんかいたよ。
 やがてセブンイレブンにふたりは入った。なにも目的はないが、店内を物色する。森夫は耐えきれず、ワインを買った。──おい、呑むんか?──小壜だよ。──丘を登ってゆく。小学校の裏手に来る。そこにはかの女の家がある。
      いっぱい、転校してきたよな。
      毎年、転校生がおった。
      斉藤さんも5年のときに来たんやったな。
      ほら、かの女の家やで。
 森夫は恥ずかしかった。まるで失態を見せまいとする、芸人のように躰をちぢこませて歩いた。たしかにかの女の家だった。むかしにもなんどか、見にいった家だ。もとの道を帰るなか、不審げな眼差しで浪越は森夫を見た。
      なんで、森夫はおれんとこ来たん?
      おれら、それほど親しくもなかったやろ?
 見抜かれてしまっていた。森夫のさみしがりな行いが。なんとも気まずい。でも言葉がなかなかでない。それでも冬日の逆光のなかで応えるしかない。
      とにかく、だれかに会いたかったんだ。
        森夫は過去にこだわり過ぎやで。
 それは確かだった。正鵠を得ていた。森夫はなにもいえなくなっていた。やがて浪越のはなれで、ふたりはまたリビングルームのソファに坐った。画面のなかではまだサッカーがつづいていた。旗をふったサポーターがばかげた歌を唄っている。大合唱だ。くそだと森夫はおもった。
      ところで、おれ、いまフットサルやってんねん。
      そこでな、中学で一緒やった女の子がおるねんけど、
      その子が島あかねさんの友達やねん、
      それでその子が森夫ってどんなて訊いたんや。
      なんかあったんか?
 いいや、──と森夫はかぶりをふった。それでも顔はまた青ざめている。追いつめられた徒刑囚みたいに口をふるわせながらいった。
    かの女はむかしかわいかったから、
    フェイスブックでそれをいったんだ。
 「それだけか?」──と浪越はいった。それだけじゃなかった。映画にいこうとも誘ったんだ。しかも遠く神奈川にいるはずのかの女に。あまりにも愚かで、始末に追えない男だという事実をかれは知らない。
   人妻に手ぇだしたらあかんで。
    わかってるさ。
      ずっとバーテン仕事やるんか?
    やらないよ。おれは詩人だ。
    本をだしてる。
 そういって鞄のなかから本を取りだした。3年まえにだした初めての詩集だった。童話作家の森花行が序文を書いている。それだけが誇りだった。カントやニーチェフッサールドストエフスキーを読んだという浪越は一読するといった。──意味はわかる。でも、だれにむかって書いてるのかがわからない。──「読者だよ」とかれはいった。でも、かれに読者などいないのはどうやっても明らかだった。かれの文学はあまりにも自己装飾でしかない。そしていまいましいくらいにペテンだった。
      これをだれに読んでもらいたい?
    斉藤さんにだよ。
      斉藤さんは読まないよ。
 浪越がせせら笑う。これですべてが終わりだった。まるきりふたりの分断をなにかが嘲笑っているように森夫にはおもえた。ふたりが立ちあがる。扉をあける。ふたりして載った車を浪越がだす。そしてまた田尾寺の駅に送りだす。いきなり、「今年の夏、結婚するんや」と浪越がいった。──「おめでとう」と森夫は呟いた。それきりなにもいえなかった。ロータリーに降り立つと、もうあたりは暗い。
  またな

 その詞に応えられないまま駅の階段に立った。たかが社交辞令じゃないか。なにをいったってよかったろう。でも、もう会うことはない。絶対にない。すべてが虚妄のように見える。いったい、どうすればいいのかがわからない。おれはいったい、どう生きればいいのか。いったい、なんのために文学なんぞに縛られているのかがわからない。いままで書いてきたことの一切がまやかしのようだった。不定形の悪意が踊る幻想のリンボ、そして魂しいの不在が発見された路上で、夢想のなか、黒いエナメルのバニーガール衣装を着た女の子たちに、おれはただ陰部を狂わせて、無宗教の、呪文を唱えていた。インドのマントラみたいに無意味な言葉で、フットサルのクラブが永遠に呪われ、おれが救われるようにマシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、などと真夜中の大安亭市場は、業務スーパーで唱えつづけるんだ。マシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、きみは信じるかい? 自身を。

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聖なるマントラ

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