みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

ニンフたちの晩餐

 
   *

 ロバート・フロストに目をやりながらも、湊谷夢吉の唄を聴きながらも、森夫は退屈し切っていた。やれることがあまりない、ほとんどない。手の施しようのない人生を冬が横切っていく。表の公園は静かで、たぶんだれもいない。アパートの3階からはラブ・ホテルの灯りと電飾とが煌々と窓越しに光って、道々をゆく若い男女のささやきだけが時折に聞えて来る。ついさっきまで書いていた手紙が、かつて書いた詩と、書きだしがおなじだということに気づいて、少しだけ驚いた。手紙はあした、あきる野市へ送るつもりだった。そこにはかれの恩師がいて、かれの作品を評価してくれる。作家はいつも葉書に、ことこまかな批評を書いて送ってくれた。来年にはかれの撰で、詩集をだすつもりだった。それでも森夫の心は淋しかった。だれもそばに親しい友人も、恋人もなく、異土の暮らしを送っていると、幾度もなにもかもに倦んでしまう、厭いてしまう。すべてをうっちゃって、逃げだしたくもなる。庭木が風にゆられて、枝葉が窓を擦った。やるせなさに打たれて、森夫はフロストを抛りだして、万年床の世話になった。きょうは疲れた。訪問看護の連中が来ていたし、他人に見られることになれない森夫は苦心して、会話をした。会いたいひととは会えず、会いたくもないひとびとと会わなくてはならないということが苦しい。
 この1週間というもの、過古の同級生たちに連絡をとった。SNSで探しまわり、知っているなまえにリクエストを送った。そしてかれはいいふらした、かつての初恋のことを。みんなが笑った。でも、肝心なかの女は共通の友だちがなければリクエストが送れなかったし、つくってから送っても、かの女からの反応はない。森夫はわるい酒をやめられなかった。もう10年以上も酒にすがっていた。そして29になったいま、孤立者であることの焦り、悔しさ、怒り、妬みが、森夫にもっと呑めよと唆す。13年もまえのかの女のおもかげを懐い、ただただかの女からの返信を待った。でも待っていられるほど、かれの状態はよくなかった。けっきょくかの女にメッセージを送った。 
 《小学校と中学校で同級生だった楢崎です。いまさらですが、增村さんのことが好きでした。高校生のころも、絵を描いてるときも、文学をやってるときも、作曲を学んでるときも、卒業して、建築現場を転々としたときも、アルコール依存症で病院に入れられたときですら、あなたのことがあたまを離れなかった。でも、ぼくはもう人生に草臥れてしまったし、もうなにもかもを終わりにしてしまおうと考えています。ぼくが死ぬのはあなたのせいじゃない。ただぼく自身の問題です》。
 しばらくして返信があった。一瞬森夫は信じられなかった。メッセージをひらいた。
 《いろいろと苦労されていたようですね。私のこと、おもっててくれてありがとう! 勇気がでたよ!》
 ふたたびメッセージが来た。
 《でも、私には19歳で自殺した同級生がいます。働きながら好きな美術の道へ進んだ矢先、事故で死んだひともいます。奥さんと子供さんを残して若くして亡くなられた方もいます。わたしは命を粗末にするひとはきらいです》
 森夫は、とまどって弁解を並べた。そんなつもりじゃないとか、どうかしてたとか、それでも飽き足らず、かれは綴った。救いようのない託けを酔いにまかせて送ってしまった。
 《きみは吉田とか牧なんかを友だちにしてるじゃないか。かれらはおれを虐めてた。あんなひとの存在を粗末する連中とはつき合うんだね。正直、ショックだよ》
 送った瞬間、なにもかもが崩れ落ちてしまった。
 《あなたの記憶にある私は今でも中学生の私なんですね。彼らだって同じだけの年をとり大人になって過去の自分を恥じることもあるだろうし、私だって思い出したくない過去などたくさんあります。そんなことを言うと、あなたにしたら、どうせたいしたことないのだろうと思うかもしれないが、あなたにとってはたいしたことなくても私にとっては大したコトなんだよね。価値観は人それぞれ。人との距離の取り方も人それぞれ。ただ今の私に言えることは、正直、あなたに対して少し戸惑いがあると言うこと。それは好きとか嫌いとか軽蔑するとかそんなコトではなくて、私なんかがあなたの人生を左右してしまうことになって良いのかと言う戸惑いの方が大きい。自分に責任は持てても人のコトまで責任を持てるほど出来た人間でもそんな器の人間ではないと思うから》。
 それきり、增村友季子から返信はなかった。かの女の辞が棘となってかれの身体中に突き刺さる。汗まみれになって、森夫はなんどもメッセージを送った。返信はない。やがて心は荒みきって、かれはかつてじぶんを攻撃した、あらゆる人間に仕返しをした。「おまえはおれを虐めてただろう? おれの心はまだ癒えちゃいないんだ」といい、されたことを列挙した。ものを盗られたり、隠されたり、癩菌扱いを受けたり、ふいに背中を革ベルトで鞭打たれたり、通すがりに悪口をいわれたり、席を離されたり、便所で撲られたりを。かれを苛めた女たちはたやすく謝って、そして男たちはかれを一切相手にしなかった。せっかく友人として迎え入れてくれたひとびとにも、森夫は容赦ない辞を繰り返し、タイムラインに憎悪を垂れ流した。ひとびとはみな、かれをきらって去っていき、かれはまたしてもひとりになった。だれもかれを心配などしなかったし、かれの変わりようを気にかけて、助言すようとする人間もいなかった。かれはじぶんがはじめから求められていないことに気づき、不眠症の夜々、港まで歩いて過ごした。繋留船のまえで植え込みの縁に坐り、釣り人や、ランナーたちを眺め、朝が来るまで、毎日のように通った。
 あたらしい年になって、3月に詩集を出した。ほとんどが恩師の紹介で売れていった。住所を調べて增村友季子にも送った。反応はない。夏になって、知人からアコースティックギターを貰った。はじめて歌ものをつくるようになった。曲ができれば、すぐにデモを録音した。しつこくかの女のことを歌にした。やがて秋になって、ライブにもでるようになった。参加費の安いイベントで2曲ずつ歌う。いつか、かの女が森夫を見いだしてくれるのを祈りながら、ライブハウスの門扉に立った。もちろん、そんなことは叶うわけがないと、かれ自身わかってもいた。それでもどこかでかの女のことを懐いながら、かれは舞台にあがった。

   *

 《ひとを傷つけるひとはきらい!》――12月の終わり、ライブを翌日に控えた土曜の夜にSNSを見た。友季子は1年ぶりにそう返信して、森夫をブロックしてしまっていた。顔面に打撃を喰らったようにかれは感じた。なにもできることがない。未来も将来も、ビジョンもなにもかもが破壊され、頭上を爆撃機が去ってしまう。ドラマではありふれた拒絶の場面だった。でも、森夫には演出家がへまをやらかしたようにしか見えない。それでも、いままで見てきたどんな悲しい結末の映画より、映画的だった。けっきょくライブは途中退場してしまった。泥酔して演奏はひどく、呂律もまわっていなかった。それからなんども、友季子と対話する手段を考えてみもした。第3者を通じて詫びを入れるとか、手紙を書くとか。けれども、なにをどう考えようにも立ちはだかる壁の厚さはどうにもならないようにおもえて、けっきょく森夫はなにもできなかった。けっきょくかれは精神病院の門を潜った。4ヶ月ものあいだ、入院生活を送った。6月半ばになって退院が決まった。それでも森夫の病理は癒やされなかったし、なにひとつ解決しなかった。ただ院内で知り合った10歳もうえの女に恋情を憶え、なんどか電話をしたりした。告白だってした。かるくあしらわれ、それでも本心は友季子のことでいっぱいだった。
 通院していた診療所をセンタープラザ心療内科に変えた。そこでなら、無料のカウンセリングが受けられたからだ。森夫はいままでのこと、生まれてからのすべてを話した。気分が軽くなった気がした。けれども、それだって一時のこと、夜になればまた友季子のことばかりが夢にでた。かの女への憾み、憬れ、怒り、それらが混じり合って、神経を駆けめぐる。森夫は遺影を撮ろうとおもい、写真家を探した。2万かかって、4枚の写真を撮影してもらった。自裁しようとおもい、バルーン・タイムを買った。それから頭に被るビニール袋や、その口を閉じるためのヘアバンドなんかを買った。それでも実行にはけっきょくできないでいた。気づけば37になっていた。遺影となるはずだったものは物入れに、バルーン・タイムはガスを抜いて棄ててしまった。いまは絵を仕事にして暮らすようになった。もはや以前のように友希子の夢で悩むことも、両親のことで悩むこともない。暮らし向きもわるくない。ようやくじぶんを受け入れてくれる世界を見つけたのだ。
 うち棄てられた納屋の暗がりで、かれは天井を見つめる。その虚空のなかに幻を見いだそうとするように、じっと直立していた。それほどおれはわるくない、ちっともわるくない、わるいのはむしろかの女のほうだ、――楢崎森夫はそう考えてみた。メッセージを黙殺しつづけた友希子、じぶんを見棄てた母や、そしてかれに無関心だった姉妹たち。わるいのはかの女らであって、じぶんはそれほどじゃない。暗がりのなかでそう結論づけてみた。やがて気分を変えて納屋をでた。山を降り、坂を下り、新幹線の高架を潜り、熊内町から生田町へ帰った。そしてアパートで一通の葉書を見つけた。パーティーの招待状だった。差出人のなまえはない、ただ場所は小学校だった。いったい、なんの催しなのか。室に入り、パーティーに見合う服を探した。できあいのスラックスとボタンダウンカッターシャツ、そしてブーツを見つけだして、身につけてみた。まあ、わるくはない。――そうおもって、森夫はいくことにした。いったい、なにが起こるのか、夢想しながら。

   *

 夜は、死んだものの臭いがする。白樫の植木のかげがまるで人間のように延びている。地上に昏く月がゆれ、その陽差しのなかで少女がひとり縄跳びをしている。いったい、なにが起こるのか。路上駐車の群れが坂の中腹までつづいている。やがて小学校の門扉が見える。どうしてわざわざ北六甲台までいかなくちゃならないのか。こんなところからは早く逃げたいと森夫はおもう。
 中空をからすが姦しい。ふいに路上を見る、使用済みのコンドームが落ちている。気分がわるい。森夫が門扉でぐずぐずしていると、停まってある車から、知らない男女が降りて来て、かれを見る。
 「どうしたんや、早ぅ、入れや」
 「いや、なんとなく気分が」
 「とりあえず、入ろうや」
 「ああ」
 肯いて入る。空気が一気にのし掛かるような感触がする。体育館まで案内されると、もう大勢のひとびとが談笑しているのが見える。森夫はじぶんの席を探す。てきとうに空いてる席に坐って、まわりを眺める。かれらかの女らはほとんど森夫が攻撃し、罵った相手とその連れあいだった。胸が痛む。それでも、ここまでやって来たんだ。それにもう何年もまえのことじゃないか。そんなことで脅えるなんて滑稽だ。――胸を撫で、呼吸を整える。紙コップに水を注いで、何杯か呑む。壇上ではかつての学級委員の、中村清美が立ってる。やがてマイクを持って喋りだす。
 「みなさん、――ようやく楢崎森夫くんが来たようです」
 まわりの人間が一斉に笑った。
 「かれはみんなを傷つけ、苛み、增村友希子さんにストーカー行為までしました。いまでは、どうやら藝術家と呼ばれてるらしいですが、わたしたちにとっては敵であり、鼻つまみ者には変わりません。きょうはこの席を以て、かれの糾弾を行います」
 かれの罪状が読み上げられる。かれのいった罵倒の辞が読みあげられる。森夫はうなだれながら聴いている。できることはなにもなかった。過古の因縁があるとはいえ、ひとを面罵したのは確かだったし、怨みを買うのもしかたない。それにストーカー行為も事実だった。3年もまえ、おれは泥酔の挙げ句、友希子の家に押しかけたのだ。かの女の家は学校の裏手にあった。――みんなが小さな悪魔みたいにおれを取り囲む。室温が上昇する。汗が蒸発して塩なる。ざらざらとした皮膚を蟹が這う。すべての女たちが、おれを掴みあげ、叩き、蹴りあげる。もうどうだっていい。なんとでもしておくれ。
 「この男をやっつけるのよ!」
 「こいつにどれだけのひとが苦しめられたことか!」
 「さあ、みんなさっさとぶち殺して!」
 男たちも声をあげた。
 「こいつはおれの息子を侮辱したんや! 許されへん!」
 「そうや、おれのこと、くそぶくろって嘲りやがった!」
 「こいつ、ひとりに美味いおもいさせてたまるか!」
 豚のようなキーキー声でやつらがおれを責め立てる。死んだ教師の幽霊たちが、うすら笑いを浮かべて鑑賞してる。情けもなにもない光景におれはまったくの素面で、なんの感情もなく、坐ってる。そろそろ首が痛くなって来る。おれの首から女どもの手を払い、その顔面に水をかける。立ちあがって、オードブルの乗ったテーブルをひっくり返し、そいつを掴んだまま、勢いに任せて身体を半回転させる。女たちをなぎ払ったあとで、次は男たちを片づける。花瓶に花を装填し、遊底を引く。そしてフル・オートにして幽霊諸共、ぶち殺す。近所だった澤村透も、おれをクラス会に呼んだ戸上松子も、よく知らない萩原苗子も、宮野や、浪立陀助も、まったく憎しみもないやつらをも撃つ。次は百合の花だ。抜群の花薬力で焼き払う。次は雛菊だ。ペキンパーの映画のようにばらばらになって崩れ落ちる人間たち。おれは最期に中村清美を殺す。やがてまわりは静かになった。おれは体育館をでて、門扉にむかって歩きだす。そのとき、どうしたわけか、增村友希子が姿を現す。
 「えっ?――生きてたん?」
 「そうらしいな」
 「どうして――、まさか、――」
 かの女は息を呑んだ。おれはまだ花瓶を持ったまんまだ。花はまだある。これさえあればかの女を好きなようにできるかも知れない。でも、おれは花瓶を棄てる。それは音を発てて割れ、破片が飛び散った。ああ、でもこうするべきなんだとおれはおもう。けれども、おれがかの女から眼を離す一瞬、友希子はバター・ナイフでおれの腹を刺す。刃が1回転して、やがて赤い前掛けのような血が下半身を濡らす。おれは膝を折ってくずれ、やがてなにかもが見えなくなる。それでもどうしたわけか、かの女をきらいになれないでいる・・・ ・・・。

   *

 森夫は列車のなかにいた。どういうわけが下腹部に痛みを憶えた。なにがあったのか、どこにいっていたのかもわからない。ただ腹が痛む。列車は、福知山線を大阪へむかってる。やがて尼崎に着き、そこから神戸線に乗り換え、三宮へ帰った。時計を見た。16時半だった。いまからなら、診療所に間に合う。きょうはカウンセリングを受けて、たっぷり話をしようとおもった。センタープラザの7階で診察を待った。もう10年もまえに元町の神経科で見たことのある、パンク・ファッションの中年男がいた。あいかわず、鼻をぐずぐずさせて、落ち着きがない。どう見てもヤク中だ。1時間待ってカウンセリング室に入った。最近の心境を話した。
 「たしかに楢崎さんがいうように、じぶんを過小評価、あるいはわるい部分だけを拡大解釈していたというところはありますね。これからなるべく、じぶんを好くおもってくれないひとや、友好的ではないひととのかかわりを避けたほうがいいでしょう。楢崎さんはわるくないし、あなたの親御さんや同級生にされたことを、いつまでも拘泥するよりも、かれらがわるいんだとおもって、これからは好きに生きていければいいとおもいますよ。もちろん、ご自分の責任の持てる範囲でね」
 室に帰るともう18時だった。夕餉にフジッリを喰い、プロテインを呑んだ。描きかけの絵や、構想、これからの予定を確かめ、PCで日記を書いた。ふいに電話が鳴った。慌てて、とってみればなんだか騒がしい音がする。パーティーのようだ。だれかがなにかいっている。
 「すみません、だれですか?」
 「わたし、榎波詩織ですけど」
 小学校時代、おなじく絵を描いていた女だった。たったひとりだけ、いまでも親交のある同級生で、年賀状のやりとりもあった。
 「いま飲み会やってるんだけど来ない?」
 「だれと一緒なんだよ?」
 「櫨谷さんと、黒埜くんと、それから增村さん」
 一瞬、声がつまる。
 「やめとくよ」
 「えーっ、でもモリオは增村さんのことが」
 「いや、もういいんだ」
 「でも、好きなんじゃ?」
 「いいや、もう終わったよ」
 電話を切って、森夫はしばらく考えた。でも、いまではもうなにもかもが昔とはちがう。いまさら友希子に会っても、なにひとつ過古を取りもどすことも、あたらしい親交を結ぶこともできやしないだろう。そうおもって森夫はPCの電源を落とし、書きあがった下絵をベンガラで転写して、日本画風のイラストをいちまい描きはじめた。うまくいきそうだ。けっきょくおれも、じぶんのつくりだすモノのなかでしか生きられない。少なくとも、おれはそれを知っている。おれはわるくないし、かの女の仕打ちを、いつまでも拘泥するより、かの女がわるいんだとおもって、これからは好きに生きていければいいんだ。もちろん、てめえの責任の持てる範囲でだ。――森夫は仕事を終えて眠った。天井の蜘蛛がかれを狙っていることをかれはまだ知らないでいる。――気をつけろ。

   *

 

湊谷夢吉作品集 (1)

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