みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

過去と現実


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 おれはかの女の、懐かしい歌声を聴く。BONNIE PINKの「過去と現実」だ。冷たい声が室に閃く。ここは'22年のこの神戸で、おれは過去に書いたいくつかの掌篇小説に眼をやっていた。なにもかもがだめだった。きのうは無呼吸症に悩まされ、それが酒のせいで悪化しているということを知って禁酒していた。それと父から仕事の依頼があって、その先払いがきょう入るといって待ったが、金は入らなかった。そして印刷屋に任せていた音楽ジャケットを見る、以前につくってもらったものとはちがい、裁断もされてもない、ひどい出来だった。とても使いものにならない。それらのことで、ひどく打ちのめされ、禁酒をやぶって呑んでしまっていたからだ。掌篇はろくに物語を語っていなかったし、描写も状況設定もあまりに杜撰極まるものだった。おれはいつも急いてしまい、肝心なところを書き逃がすばかりで、いつもいつも師匠には「小説とはてっていして説明なんだよ」と鞭打たれてしまっていた。そして書いたばかりの代物もろくすっぽ推敲や校正もしないままに書き散らしていってしまっていた。室の黒黴が臭う、10月の夜にこうやって綴るのはすべて過ぎ去ってしまった時間についての考察ばかりだ。いったい、どれほどの時間がおれの頭上を飛び去っていったのか? 37にもなっておれはひとを傷つけてしまったうえに、それをまた物語にしてしまう。こんなできそこないの冗談ばりに生活は進み。やがてはその生命を終える。

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 あれは去年の11月の暮れだった、文藝同人をやっている青年がこちらに訪ねて来た。おれより7つも若い。片手にはホワイトホースをさげてだ。かれとはもう6年もまえに出逢っていて、ネット上の文藝仲間のひとりだった。まえに2度もかれに泊めてもらった。東京は中野の四畳半でかれは暮らし、そして1冊の本をだしていた。正直、おれはかれの文章が「使いものにならない」とおもった。観念的で、なにをいっているのかがわからない文章がつづいていて、かれのいうように「国語教師みたい」な評をした。そしてかれと著作を交換して、おれはおれの旅をつづけたのだ。青森の三沢、そして新潟の美佐島へと。
  おれには話せることがなかった。だからかれに話をさせた。かれの海外体験を聴きつづけた。一見して育ちのいい、国立大生のようなかれはじぶんの麻薬体験について語り始めた。まったくおれにとって魅力のある話題である。
   LSD、ホテルでやったんですよ。
  なにか見えたの?──おれはそいつを期待したんだ。
   いいえ、なにも。たまに床の木目が顔に見えたりするだけで。あとは眠れなくなるだけの薬ですよ。翌朝、「ベッドが硬くて眠れなかった」っていって、ボーイと喧嘩したんです。あんまりおもしろくなかったですね。
  へーっ、じゃあ、すると大麻は?
 かれは一瞬、顔を明るくさせて微笑む。
 「いいですよ」──大麻やったあとに、みんなでゲームをするんです。映画観たあと、それぞれクイズをだすんです。「あそこがどうだったか」とか、「あそこでだれがなにをいったか」って。 
  それがおもしろいの?
   ええ、おもしろいですよ。
  その感覚、わからないなあ。
 かれは日本でも大麻をたびたび使うらしく、そのことを嬉々として話す。入手経路はどこなんだろう。おれだってやってみたかったんだ。早いこと、政府がかわって解禁されるのをおれは心の底から願っているひとりの莫迦だった。
   Twitterですよ。
  やっぱ、ヤサイって書くの?
 「ええ」──それで各駅停車で千葉の田舎の駅までいってプッシャーと会うんです。プッシャーってわかります? 最近、連絡つかないんで、もしかしたら捕まったのかも。
 そこで、おれはおれの話をした。何年もまえに留置場で、相室のやつが大麻をじぶんで育てていると話した。そしてじぶんで育てると愛情が湧くなどと告白したことを。
 かれはまるでまさに草をヤッているみたいに話す。室の灯りに照らされた顔がだんだんと赤みを帯びてゆくのがわかった。
   栽培してるひとっていちばん偉いんですよ。でも、だれにも明かせないからすごい孤独なんですよ。
  あいつは孤独には見えなかったがね。
 それからも、かれの話がつづいた。親の金でインドにいったとか、そこでの事情がどうだとか、あるいは沖縄での現状をおれにいって聴かせた。なんとも愉しそうだったのを憶えている。しかし、かれはいったいなにを書いているのか。あれはただの概念もどきではないのか、いったい、これからなにを産みだそうというのかが気になる。
   沖縄は、米軍から直接入って来るんで、ヤク中だらけなんですよ。沖縄のひと、みんなやってますよ。これからタイに友だちといく予定なんです。
 なんだか金を持った蛮族たちの群れが想像できるような気分がした。みんながみんなきれいな身なりをして、天使の安息日に火をつけるさまが見える。
  大麻にもいろんな品種があるらしいけど、タイの大麻は?
   最高です!
 ワッハッハッハ!! ──おれたちは哄笑を叩きだす。そのから、おれは廊下にでた。注文した荷物が届いてた。それを持って室に這入り、凾をあけた。米焼酎の『吟醸しろ』だった。Amazonのポイントで買った。金がないときはアンケートのポイントを遣い、酒を買うのが常套手段なんだ。
  おれが用意した酒だよ、やってくれ。
   ええ、これっすか?
 呑むと、かれは一口飲んで噎せてしまった。そして顔を歪め、これはだめだとつぶやいた。かれの室に焼酎があったから注文したのに、かれにはだめだったらしい。
  わるかったな。
   いえ、いいんです。
 麻薬ばなしもやがて尽きてしまった。おれは沈黙がきらいだった。だれだって苦手かも知れない。他者とそいつを共有するのは特別に。
  いま、なに書いてる?
   いまですか? 
   いや、ようやく日記を書きはじめたところで。
 なんだって、なにも作品を書いていないのかとおもった。あれだけの話があって、それをエッセイにもしていないなんて、おれには信じられなかったんだ。
  さっきまでの話、それこそ小説にすべきじゃないの?
   いや、あれは、その……。
 やがてほんとうの沈黙が訪れた。もはや夜だった。生田町の暗がりに子供の声が遠ざかる。やがて若者たちの声が近づく。
   そとでなにか食べませんか?
 おれたちは外套をまとってそとへでた。地下鉄で街に降りて、飲食街のほうぼうを歩き廻った。サンキタ通りはきれいに改装されたものの、客引きの鬱陶しさは変わらなかった。品のない顔がおれたちを囲んだ。けっきょく、かれの望みで南京町へむかった。そこも客引きは最低品だった。1軒撰んだ。かれは北京ダックを注文した。ふたりで喰う。つぎはスープだ。最期にパイカルを呑んだ。興味を惹かれてかれも呑んだ。そしてかれが会計を済ませ、そとへでる。もちろんぜんぶ、かれの奢りだった。おれは作品を与え、ひとびとはおれに酒や喰いものを与えるんだ。西安門のまえで、ふたりベンチに坐りながら夜景を見た。もう20時だった。たった半時間で、あたりは暗くなり、数人の若者たちが屯している。
   このへんの店って、閉まるの早いですね。
  ああ、あまり人気はないんだよ。
 ふたりして阪急の駅までいった。改装された広場は一見見てくれがよかったものの、物陰に隠れた酔漢たちが嘔吐していた。ベンチも庇もコンクリートの味気ないできもので、ところどころに罅がある。できたとたんに穢れている。まったく、ろくでもないものをつくりやがったんだ。
   ナカタさん、また来てくださいよ、
   いまは室もきれいにして寝られるようにしてますから。
 寒風のなかで涼しい顔をしたかれが去る。手をふってみた。かれは気づかない。やがておれも帰って、残った酒をしたたかに呑む。じぶんのなかでなにかが芽生えるのを感じてしまい、それをそのまま書く。そして、この顛末を掌篇としてものしてすぐだった。かれから絶縁されてしまった。迂闊だったのはたしかだ。かれはおれに掌篇を消すように告げた。「これは不味いです。消したほうがいいです」。しかし、その伝言に気づいたときはもう遅かったんだ。かれはSNSのアカウントをみんな削除して消えてしまった。申し訳なくはおもう。もうかかわることもない。けれども、おれたちは作家なんだ。かつてジイドがいったように作家は餓えた獅子と子羊とをつくりだす。そしてかれ自身が獲物を捕らえるけものとなって、走りだしてしまうのだと。

      過去に生きる多くのひとは
      現実を信じないひと

 おれだって、そんな人間のひとりなのだろう。でも、少なくともおれが作家がどういう人種かを知っていた。多くのひとのなかで、たったひとり獲物を狙うけものなんだと。おれはいまこうして散文をつづっていて正直、うれしい。おれにはまだ書けることがあるからだ。たとえ人間として最低品だとしても、作家として飛べればいい。かれには非情さがなかった。かれにだってチャンスはあった。おれを蹴りあげることが充分に可能だった。だのにかれはおれを狩らなかった。人間が好ましいことと、作家として好ましいことはちがう。
 そうしていま、おれは階下に降りていって、郵便受けを見る。おれの読者が、庇護者がひとり、死んだという報せだった。共通の知人からだった。かの女の死を報せるつもりだったが、電話が繋がらなかったと。たしかに電話は変わっていた。でも、早く知ったところで現実は変わりはしない。かの女もまた好ましい人間だった。善性をもった文藝仲間のひとりだった。かの女がいった、おれへの賛辞がみなむなしく散ってしまう。明滅して消失する。もしかしたら、おれに存るのはスカスカの、安っぽい人間性で、作家ですらないのかも知れない。そして何者かに追われる獲物みたいに、山麓バイパスを南下してゆく車たちの警笛に囲まれながら、たったひとりで坂道をくだるしかなかった。そしてたどり着くところにはただ海だけが存在していたんだ。

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