みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

倉庫街のタンゴ(2013)

                                 ベルが耳をつん裂くようにけたたましく十秒ほど鳴って、止まる。
                                                                         サミュエル・ベケット『しあわせな日々』

 

          *

    照明器具
    入出庫作業
    在庫整理
    ピッキング
    派遣からの正社員登用アリ──求人広告

           *


 かれにとっていまいましい月曜日の、早い時間というのにもかかわらず、子供が誘拐された。仕事にでられず、さんざあたりを走りまわって、いやな汗をうんとかきながら気も狂いそうになる。だれだってそうなるに決まってる。そうでないというやつがいるのなら、かれはそいつのつらにくそのまじったクリームパイを投げてやるだろう。
週明けには入荷量が限度を超える。しかも一月だ。手いっぱいというところ、さんざ時間というやつに追いまわされ、ついに通報しようとした矢先だった。犯人がわかった。かれの妻だった女だ。子供の母親だ。かれにとって月曜日はいつもなにかが毀されて、それをまともみてしまうもの。
  もしもし。
   はい。どうかなさいましたか。
  うちの子供の様子がおかしいんです。それでいちど病院へと。
   出勤できそうですか?
  ええ大丈夫です。
  午后からむかいますので。
  すいません。
   次からは気をつけてください。
 離れたい、別れたいといいだしたのは女のほうだ。家事もやらず、子供に関心ももたない。パートタイムの仕事には執心で、昼も夜も遣い果たし、みてくれのいいやろうを捕まえていった。元ストライカーのスポーツ気狂いと。夜の試合が好みで、そのほか大勢らとやじを飛ばすのをなりよりの快楽としているらしい。かれはそのやろうをいちどだけみたことがある。いつかの月曜日、近所のスーパーマーケットにでかけていったときだった。深夜、終夜営業のその屋でベーコン、卵、香料、ライム、ウォトカをそろえていると、酒の売り場をふたりが立っていた。でもかれはなにもいわなかった、──いえなかった。かれにしてみれば、ずっとばかたれ女のことが好きだった。ぜんぶかれが惚れてはじまったまちがいに過ぎない。かれにとってはあのばかたれ女が、かれのお姫さまだった。とても大事なものはずだった。かの女はきれいだったし、多くのやつらに抱かれてたことは知ってても赦すことができた。機嫌がわるいとき、かれはどうにかかの女を慰めようと手を尽くした。
 かの女も少しづつであるが、かれのわるくないところもみてくれた。だのにそれが出産でおかしくなっていった。はじめはたんに産後の体調がよろしくないんだろうっておもってた。でもちがう。とにかくよそよそしい。せっかくの子供にも興味がないみたいだった。どうなってたのかはいまもわからない。でもいまじゃどうだっていい。
 いいたいのは、かの女にはあきらかに悪意があったってことだ。かれのような安物の労働者を朝からひっかきまわすなんていかれてる。狂ってる。まったくで、たらめでなんの意味があるのかもわからない。どうすりゃいいっておもった。でもとにかく遅刻の連絡をしたあとで、さらに欠勤の連絡を入れた。正后はとっくに過ぎていた。ばかげていることだとはわかっている。でもいかなきゃならなかったのだ。あの女のところへ。──いってどうなるというのか。
 もちろんあの女がいかにくそったれかを子供のまえで明かしてさっさと立ち去ることができればいい。かれは詩を書いていた。言い回しには自信があるはずだった。称賛するひとびともいる。でもほとんど女なのがかれには不満だった。男色というのではない、ただそれまで女に受けた屈辱であたまがどうかしている。まるで賛辞を送られても、拍手の仕方がへただといって責めているようなもんだ。だれともわかりあえはしない、ひとはひとを遠ざけるためにいる、かれにとって結婚がそいった考えを甦らせた。それまでは少しだけでも通じあえるのがあるだろうという、あやふやさのうちで暮らして来た。だというのに手を触れあったもののためになにもかもが瓦解していく、瓦解している。なにをどうすればいいのかがわからない。子供が連れ去られた。それでもいまはもう顔が冷たくなっていた。通勤経路を大きくはずれ、駅がみえてきた。車を走らせ、女の家にむかう。私鉄付近のアパートメント。そこへ入っていくまえ、とりあえず知り合いに電話をかけた。
  なあ、
  これから女に──元妻へ一発かまそうとおもってるんだ。
   離婚したんだろ?
   関係ないじゃないか?
  聞いてくれよ、
  朝っぱからやつは子供を攫いやがった。おかげに仕事に穴だ。
   わるいけど、
   おれは働いてないんだよ。
   ほかのやつに電話してくれって。
  おまえしかいなかったんだよ。
   ちょっとしたいやがらせってわけだ。
  ところでおまえの女はどうしてる?
   おれのか?
   なんの問題もないね。
 通話をあきらめてゆくっりと扉のまえに来た。なかからいそがしい子供たちの声、かの女が叱る声がしてる。若い元妻、そして中年のやろう。三回ノックしてようやく女がでてきた。子供は、娘はもちろんかれをみて喜んでくれた。ひと安心ってふうだ。もう二年育ててきたのだ。あの女よりもおれのほうが親としてなってるはずだ。肩をいからせてみて、まるでちからの入らないのを覚った。暖房の効いた室で下着みたいなかっこうでかの女がかれを見あげ、ゆっくりとなかに招いた。なにもない起こってはないんだ、かの女のうちではいつもどおりの一日が歩いてく。かれは居間で腰を降ろすとき、あたりを見渡した。くだらない装飾でいっぱい、ものが溢れ、そこらじゅうに転がってた。
   なにか用なの?
  なにか用だって?
 かの女は長椅子にだらしなくなって、かれのほうはみない。子供は、娘はお気に入りのおもちゃをかれに教えてあげる。少女のかたちをした人形、その笑みがとても白々しいものに映り、声がつまる、舌がとても渇く。
  どういう意味だ。
   その通りの意味よ、
   あなたばかなの?
 ながいあいだなにもいえなかった。どうにかして舌や歯を震わせてると娘がかれの胸に顔を埋め、それでやっといえた。
  誘拐は犯罪だよ。
   じぶんの子供を連れていってなにが犯罪よ?
 娘の手がかれの肩を掴んだ。まだまだ、なにもはじまってはいないというのに対話は、もう終わりかけている。かれは抗おうとして、
  ふざけやがって。聞け。
 うまいぐあいに相手の悪意を指摘しようとした。なんども車のなかでかっこのいい科白を練習していた。直前にいったコンビニエンス・ストアでも店員相手にだって、空想のなか、なにかことばでやっつける練習をしていたのだ。でも実際にむかいあったらなにもいえなかった。まえとおなじようにかの女をお姫さま扱いしてるじぶんがいる。
  いきなり連れていかれたら、こっちだって困惑するじゃないか。
   でもお母さまには伝えてあるわ。
  うそはやめろ、
  あけっぱなしだった、裏口が。
   それはそっちの問題。
  仕事さぼってまでここに来たんだよ。
   それもそっちの問題。
  お願いだ、
  少しはおれのことも考えて欲しい。
   それもそっちの問題。
  卵を突き落とすようなまねはやめてくれ。
   なにそれ?
  ハンプティ・ダンプティ、卵男。
   どういう意味?
  だからマザーグースは好きじゃないんだ。
   わたしことはどうなの?
  わからない。
   まだあたしに気があるの?
  わからないよ。
   わたしはあんたのその、文学者きどりがきらい、いまもそれでむかむかしてるの、もう終わったのを蒸し返さないでくれる?
   ねえ?──聞えてる?──なら答えて!
   あんたはいっつも黙ってるばかっり、ほかのひとからいわれなきゃ動けないもしない、
   できそこないのあほ!──それでぬけぬけと好きだとか愛してるとかいってて恥ずかしいとおもわないの?
   コウガンムチってあんたみたいなやつのことをいうってわかった。
   少なくてもそれだけはよくわかった、
   はっきりと。
   ねえ、知ってる?──塵は塵箱に入れるの。
   お解り?──ねえ、ねえって!──ちゃんと喋ってよ!
 科白につまった役者みたいにその場に立ったまま、かれはおもった。こいつには勝てないんだ。まったく、あんなくそったれだというのに。ぴっちりとした服がそそる。長い脚にも。なんでこんな気分になっちまうんだ? なにもいえずに立ちつくしてると、かの女が微笑んだ。ずっとまえ、婚前の日のようだった。おれはまだ惚れてるのか?──けっきょくみてくれが好きなだけだったんだ。ほかにはなにもないのに愛していると勘ちがいしてたんだ。
 そんとき、男の声がした。それだけでも充分、巨きくて荒っぽい。
    いい加減にしてくれ、朝は寝てたいんだよ、ヌケサクども。
    時計みてみろよ、ばかたれ、おれの室だぞ!
 寝室からやろうはやってきた。身の丈のある、ちょっとしたパンサー戦車。それでも12ヤードを3秒で飛び越えそうな足が、胴体部分から生えてた。蹴られでもしたらどうなってしまうだろう。壁といっしょに再婚するはめか、テーブルのうえで散乱か、ともかくやっつけるなんてむりなもので、かれには時計をみるしかない。
  いま12時35分です。
 声がでた。女が笑う。男は笑わない、長椅子にかけ、珈琲を呑みはじめる。ぜったいにこいつとやりあうべきなんだ、倒すべきなんだ、辱めてしまうんだ。かれの中身が回転しながら、
  子供を連れて帰る、おれのすることはそれだけだ。
 けっきょく逃げを打った。男はテーブルの雑誌入れから紙束をひっこ抜いてうえに投げた。ゴールがひとつ決まった。大きな顔が丘のようにかれのうえにある。
    知ってっか?
    おまえの血なんか入ってない。
  あの、──冗談はやめて欲しいですね。困ります。
    おれの児だ、わかったか?
 ようやく男が笑った。突き刺さって抜けなくなるような声を聴きながら、かれも笑ってみせた。むりくりつくった表情は痛む。かれは紙を眺め、唇ちを閉じた。鑑定結果やなんからしい。それがなんだっていう? まるきり将来を契ってくれるものみたいにそんなものを投げやがって。ゴールはそこなんかじゃないはずだ。だのにますますかれの声はつまり、つまりは古便所だ。フィールドからはずされ、予備隊にも入れない役立たずのやろう。もうどうだっていい、こんな連中と話なんかできやしない、──いや、まだなにかが。
   もう帰ってよ。
 みえない蠅を払って片腕をあげた。つづまりながらふたりに語りはじめていた。でもそれだってどうにもできやしない。   
  でも、考えてもみてくれって。ほんとうのおれの児じゃなくたって、
  2年も暮らしてきてる。
  それじゃ、もうおれの子ってことでいいだろ?
  もちろん戸籍にだってそうなってるんだから。
  なのにどうして?
 正直にいってもう答えなんか欲しくもなかった。けつくらえだ。もうどうでもよかった。とにかく仕事がある。もういいやっておもった。子供づくりなんて不幸の培養だ。子供をつくるのは最悪の行いだ、そうルーマニアの狼狂もいっていたっけ。
 娘はまだかれのそばにいる。なにかいっているがなにをいっているのかはわからない。人形を戦闘機のようにふりまわし、上昇と下降でぶるぶるしながら朝日の浴みている。それでも薄昏く、日当たりはあまりよくない。逆光のうちでかれは自身の顔を匿った。たやすいことじゃないか! すぐにこっからでていけばいい。それでまた品番との決闘やなんかにもどれれば、少しくらい癒されるものがあるのかも知れない。
   わたしにとっていま子供が必要なの。
   あなたはそうじゃない。
   あなたにとってわたしがお嬢さまでも、
   あなたはただの倉庫作業員よ。
  ちがう、
  おれは詩人だ!
  おれはまだ二十四だ、
  未来がある。
   それがなんだっていうの?
   わたしだって二十五。
  黙ってくれ、
  アバズレさん。
   ばっかじゃないの。
   とっとと仕事にもどれば?
   首になりたくないでしょう?
 仕事はたしかに必要だ。──おれみたいな人間はけっきょくだれかに雇われ、命令されてなけりゃ喰っていかれないのだ。わかるだろ? だれかが使ってくれなけりゃ、生きていけないんだ。おれにはなんの才能もひらめきもない。神の啓示なんて受けてない。そもそもおれにとっての神なんかいない。神はいたところでつねにどっかの共同体の味方でしかない。おれの生活に機能なんかしてない。頼むからおれから職をとり上げないでくれ、お願いだ。派遣のアルバイトで入って、ようやく正雇用になったのだ。照明会社の下請け倉庫。いやな上司。あいつはいつだって他人の陰口ばっかりいってるし、つまらないジョークにひとをつき合わす。どこにでもいるんだ、こういった手合いは。つねにだれかを虚仮にしてないとじぶんを保てないくそったれがだ。たしかにおれは追いつけない。朝っぱからの入庫で、棚づけにてまどってる。どこにどの製品があるかなんて把握しきれてない。でもあの倉庫だってでたらめだ。どかどか品は入ってくるのに置く場所はない、ロット確かめて順番そろえるのだってひと苦労じゃないか。残業がばかみたいにつづく。娘にはもう表情がなかった。
  バイバイ。
 かれはそのまま家へ帰ってきた。運転が荒い。車庫へとつづく傾斜に自動車を後退させる。勢いがつきすぎた。悲鳴が耳を射る。母が飛びだしてくるなり、大声をあげた。猫を轢いたのだ。まだ息はあった。車から降りて確かめる、はらわたを口から漏らした猫が空をじっと見てた。なんてこった。母が家から飛びだしてきて、タイヤの下にあるものを見つけた。掴みかからんばかりだ。──ちくしょう。
   あんた、猫を殺したのよ!
  なんでちゃんと家のなかにおかないんだよ。
   うるさい!
   あんたは猫殺しのろくでなしだよ。
   子供を奪われたはらいせにこんなことしなくたっていいじゃないの!
  子供は関係ない。
  ただの注意不足だよ。
   なにいってんのよ、あの児の面倒だってあたしにまかせっきりだったくせに!
   あんたはいつもそうよ、被害者ぶりがうまいだけの息子よ!──いつになったら大人になるの!
 なにも言い返せない。かの女はまちがってない。車庫に隠しておいた酒壜をとってひきかえすと、車に乗って走り去った。近所の連中がみな顔をそろえて死んだ猫について話してる。失せやがれってんだ、くそったれのダニども。猫を殺したって、なんどもなんどもなんども、なんどもだ。──あいつら全員、始末したい。ひとりひとりに似合った塵箱を与えて、なかに入ってもらって、あとは廃棄場への旅行。──ありきたりの毒を吐いて酒を呑んだ。道はほとんどからっぽだった。対向車も後続車もない。ほとんど見えないくらいのところに先行車のかげがうっすらとしてる。 
 かれは走り回った。酒を呑みまくった。気がついたときには安全地帯で停まったまま、眠りこけてしまってた。こういうとき、警官たちはすばやい。おとなしすぎるかれにとまどいながら、連れ去ってった。
 身元引受人に母と友人がやってきた。どちらもかれの顔を一切見なかった。なにもいうことだってない。ただそのまま家に帰ってきた。とうに仕事は失って、もう月曜日の、過剰な入荷に耐える必要もない。かれは電話をかけてみた。元妻にだ。
  お姫さま、
  聞いてくれ。
   豚箱じゃなかったの?
  もうでたところさ。
  なかなかいいところだ、
  おすすめしとく。
  おれをくそみそにしてくれて、
  ありがとう。これから女を買いにいくよ。
  おれ好みの、愛くるしいバイタの女の子を探しにな。
   いますぐに死ね。
 切られてしまった。どうせそんなものだろうとひとりごちた。無免許のまま自動車をだすと、有り金といっしょに走りだした。できるだけ、遠くの辺鄙な場所がよかった。山麓バイパスを越え、燈りの失せた通りをいく。もう七時を過ぎていた。とりあえず車を小売店の駐車場におき、ウィスキーの水割りを買う。
    暖めますか?
 一瞬ホット・ウィスキーにでもしてくれるのかとおもった。ただのいいまちがいだ。それを呑みながら倉庫街にむかって歩いてった。もうどこも終業してて防犯燈があちこちでまたたいているのがわかるくらいだった。なんだってこんなことになるのだろう。
 黝いなかをゆっくりと歩いた。犬のようにつきまとう自身のかげが、かれをよりいっそう不安にさせた。もうなにもない。かげなんかなければいいのにな。道はやがて真っ黒い倉庫街にきてた。ここでひと休みしよう。かれが莨を咥えて、吹きはじめたかぜと、それにつづく塵のなかに眼を細めたときだった。音がした。土嚢のくずれるような、ゆるやかで重みのあるやつだ。マッチ箱を握ったまんま、そのほうへむかっていく。わずかな燈しがみえる。フェンスでかこった小さな建屋。その裏口のまえで肉体がくずれてた。その隣で立っている女はうつむけて、そのやろうをみつめてる。かれは一呼吸おいて莨に火をつける。それでなるたけ静かに歩みを入れた。若い女だ。そんでわるくないおもざし。きれいだとおもった。白くていい服を着てる。でもそれは返り血がちりばめられ、そのまま着てるのはあやうい。もしかしたら威嚇のつもりだったのかも知れない。やるつもりもなかったのかも知れない。かれは声をかけた。
  寒いだろ?──送るよ。
 女はかれをみた。ながいあいだなにもできなかった。
   あれは?
 さっきまで生きてたらしいのを指さす。
  あれか?
  生ごみなんかほっておけよ。
 ふたりは歩きだした。男の車までなにもいわずただ歩いた。コンビニエンス・ストアで葡萄酒とウィスキーを買い、乗り込む。女の浴びた返り血がひどく、男は上着をかの女に貸した。どこへいくあてもなかったが、とりあえず加速させ、夜の狭い通りをいった。──服を買ったほうがいい。
   それより聞かないの?
   わたしのやったこと。
  おれだってやってきたばかりさ。  
 女は口を噤んでしまった。かれはいったことを後悔した。なんの慰めにもなりはしなかった。ほかのやり方がいるのだ。──おれはわが家の猫を、轢き殺しちまったんだ。──たかが猫じゃないの。──ふいにかれはなにかがはじけ飛ぶのを感じていた。ステアリングを撲りつけ、まえを向いたまま呶鳴りつける。猫より人間が偉いなんてだれが決めたんだ!──おれは認めない!──かの女が憐れんでいるのがわかった。かれはじぶんの激昂を打ち消そうと、笑いをつくり、左手でじぶんの頬を軽く叩いた。ただむなしいだけなんだ。
 「いままで多くのやつらとかかわってきたはずなのに、なにひとつ残ってはいないんだよ。おれを知ってるやつなんかいない。相手にもされない。町のなかにいながら、まるっきりロビンソン・クルーソーだ」
   ロビンソン?──ああ無人島で暮らしてたやつさ。よく知らないけど。
 どこかの、できれば遠くの安宿にでもありつければいいとおもってた。けれどかの女の姿はよくない。かれは作業用具店にいって黒いジャージーを買った。こいつを着るといい。後部座席でかの女が着替える。かれは無性に音楽が聞きたくなり、ラジオをつけた。ばかげた歌ばかり。なにも聴けるものがない。
 (最低だ、音楽なんてやってない、がらくたの山だ)。
 (だれがいったいこんなものを──好む?)。
 ふたりとも黙ったまんまでいた。ひと殺しと酔っぱらいのカップル。もしかすればおれも殺されるかも知れない。かれは余分な加速をつけ、なにごとかを撥ねつけるかのように走らせた。かの女はきれいだ。しかしそれだけですべてが救われるわけじゃない。それはかれもわかってる、毀れかかったラジオのようにノイズをちりばめ、不安定にうちなる声が話しをしてる──どっかで降ろしてしまおう──かの女と仲良くなりたい──わかってやれるふりなんかしたくない──逃げろ、逃げろ、逃げろ──気にするな、そのうち──ただもうやっちまったこと──打ち明けたい──打ち明けられたい──逃すな!──喰っちまえ!
 二時間経って、ようやく話しをした。なんということもない話しをだ。近所の景色、昨晩の料理、買いものの順路、いま食べたいもの、過古に欲しかったもの、職場のひとびと、好ましいやつ、わるいやつ、醜いやつ、どの声にも血はまじってない。まじらなかった。かの女はいった、あるとき車の具合がわるく、いくらひねってもかからなかった。あんまり急いでいたものでフロントをあけ、エンジンと放熱器を蹴っ飛ばした。するとかかったのだ、エンジンがだ。──わたしはいつもついてない、でも際になってからやっと調子がでるんです。
  なるほど。
  おれもそのひとつかな。
   いえ、まだわからないですね。
 かれはふいにおもい浮かべる。ひとはつまらないことで自栽すれば、つまらないことでひとを殺すことも、猫を轢き殺すことだってあるというだけのこと。そして喪われたものがどんなものであれ、夥しいその多くはニュースにすらならないってだけのこと。喪ったもののためにしてやれることがあるなら、教えて欲しいものだ。そんなものがないにしろ、つくりかえることならたぶん、できる。かれは、──いやおれはそんなふうなことを考えながらかの女の血まみれの衣をみてた。もうじき午后十時と半分。もうなにも考えてはいけないんだ。くり返しになってしまうだけ。交通のない車道には自身の喪失を錯覚させる。
 走らせてる車が砕けちる、という感触
 お月さまは顔の砕けた聖母像にみえた、という一瞬。


                                                      *


 モーテル・シックスは高速の出口からすぐのところにあった。あたりは山と河しかない。眼につくような燈し火もなく、狭い平地にねじこまれるように建てられた、函どもの集団でしかない。血まみれ衣を後部座席の裏へ匿った。車はどうしようもなかったから、そのまんま。でもできるだけ従業員専用に近づけて停めるしかなかった。煤けた安宿のくせに料金はかなりいった。ふざけんなっておもった。そうこうしてうちにふたりのあいだで劇的なるものが失せていこうとしてるのがわかった。どうしようとかと考えてたとき、かの女がいった。
   ベッドカバーをはずして。
   そのまま坐らないで。
  どうして?
   きたないからに決まってるでしょ。
  わるい。
  はじめて知ったよ。
   やめて、
   謝らないで、
   お願いだから。 
 かの女を怖がらせないようにうなずいて風呂をたしかめた。石鹸もタオルもなにもない。寝台へひっかえしておれはそいつを告げた。おれはフロントへ降りてった。はじめに従業員がいったのは、おれは謙虚にやっているということだった。おれたちには聞いた憶えなどなかったが、はじめから石鹸もタオルも別売りだった。こうしたばかげたことについてまぢめに考えてたら、きっとなにもかもがおしまいだろう、そう見当をつけて口答えはしなかった。ふたり分のを払い、受け取ってエレベータに乗りこんだ。死んだ虫の臭いで充たされた箱のなかで、おれはおもった、こっちだって謙虚にやっているということをだ。
  どうだったの?
  ひどいもんだ。金をとられたよ。
   まあ、しかたないよね。
   それより、
   これからどうしたらいいの?
 すぐにはわからないだろうと答えた。笑ってみせた。意味のこもってない笑み。かの女も追従するように笑い、ふたりで蒲団のうえになった。
   こんなの無理してる。
  そうかもな。
   あなたと好い仲になれそうにない。
  わかってるよ。
 何時間も黙ったまんまだった。そのうちかの語りが詩のように唇ちからでる。かの女のはこんなのだった。
 「ちいさいころから、自動車にあこがれがあった。うちにはなかったから、あれに乗れるんなら、もうこんな家なんか棄てて、どこでもいけるのにっておもってた。近所の叢にいつも、いつも錆びついた乗用車が棄てられてあったの。もしなおすことができたら、すぐに乗っていって知らない町へいくのにって。でも知らないところなんてこの国じゃ、たかが知れてるもんね。つまらない、知っていることも、知らないことも、おなじように。でもとにかく車に乗れるようになってから、人生っていうのがよくなったようにおもった。家はでられたし、いやなひとたちとも離れられた。でもおかしい、車窓を流れる景色ったら、そこもあべこべで、きたなくって、なんにも求めるものがないし。量販店、パチンコ、サラ金、コンビニ、スーパー、あとなにがある?」
  安っぽい教会と政治屋どもさ。
  そして普通みたいで普通じゃないところ。
   どこにあるの?──いったことある?
  まだない。──本のなかだけだね。
 湯に浸かって数分も経つと眠気が充ちてきた。ふたりともたがいの邪魔にならないよう、姿勢を整えて眠った。次の朝がどんなものになってるかを考えもしないで、ただ眠った。高速道路が静かに唄う。ほかの室にはおろらく柩しかないだろう。明け方、カーテンを通して薄い冬の陽が通る。そのときかの女がおれの手を握った。こっちはなにもいわず、退去の支度をはじめた。
 そとへでてはじめてやったのは、あの衣の処分だ。まえに使ってたライター用の油が鞄にあったのだ。駐車場からおれひとりで雑木林に入り、石でつくった囲いのなかでちょっとづつ燃やした。しまいに灰や燃え滓を土のなかに埋め、もどった。
  不安なら様子、見てくれば?──いや、いい。
   あなたのすることだし。
   ありがとう。
  じゃあ、出発かな?
   そのとおり。
 とりあえずは都市部へむかうことにした。一般道か、高速かで迷ったけど、ゆっくりいくことにした。高速は夜だけでいい。いや、どっちのほうがいいのか。おれにはわからない。特別あてがあるわけじゃなかったから、地図すら手元にはなかった。さっそくそいつを買ったものの、どこがどんな道か想像もつかない。地図の読み方すら知らないことを覚った。するとかの女がうまい具合に解読してくれた。運転は交代でやった。なかなかいいものだった。かの女がたとえかりそめでも健やかにみえたし、びっくりするくらいに大きく笑うこともあった。たびたびスーパーマーケットやなんやで休息をとるとき、おれたちは珈琲と甘いものを摂った。
   まずまずの感じ。
  想像以上だよ。
 アイスクリームが食べたいとかの女がいった。暖房の効いたフードコートを探しだし、かの女はチョコミントを、おれはラムレーズンを喰った。ちいさいころ、それが好きだった。アイスを口するのは十年ぶりだ。
  この味が好きだったんだよ。
   わたしはたまに食べてる。
   この味がいまだって好き。
 おれたちは自動車にもどって買いものをしまった。まだ金には余裕が利く。かの女もまた早いうち──殺しをやるまえに金を降ろし終えてた。次の夜になるまでおれが車を繰る。ただ無難に見えるよう、走った。見通しのわるいところはできるだけ避け、明るいところを流れていく。雨が次第にふりはじめた。そこでふたりは車を駐車場へ停め、安い宿に入った。もう暮れどきだ。なにもできそうにないくらい雨はひどくなるばかり。
 そこのマットレスには窪みがあった。おれはフロントに苦情を入れ、室を変えさせた。湯にはふたりともに浸かった。こんなことをするのははじめてだった。妻だった女だってこんなことはさせてくれない。寝台にしなだれ、ジン・トニックを含んだ。
   ねえ──キスしない?
  いいね。でもどうして。
   気分だから。
  わかるよ。でもくたびれてんだ。
   たかがキスなのに。
  ああ種類にもよるがキス一回で林檎一個ぶんの栄養が喪われるらしい。
   それ、たしかなの?
  もちろん。
 たったいまおもいついた。たぶん神からの啓示。
   わたしのこときらい?
  どういったらいいのかな。
  好きになれそうだよ。
   じゃあ、まだお預け?
   だからあなたは棄てられるの。
 おれは寒かった。外気が窓枠から漏れだしてる。そいつが気にかかってしょうがなかた。でもどうにもできない。とりあえずかの女の胸のしたへ手を当てて、片方で首筋を撫でてみた。どうしたいいものか、わからなかったけれど、口づけだけ、これだけはできた。ほんとうは髪も撫でてみたかった。脚もだ。なにもかもに触れてみたい。でもできなかった。やわらかな壁にかこまれて息もうまくはならない。──少し訊いていい?──なに?
   あなたは、その、あまり顔だってよくないけど、
   どうしてそんなにやさしくできるの?
  やさしいんじゃない、弱いんだよ。
  それに同類たちと馴れあったりしなかったから。
  それでも恨みつらみをだしてしまうこともあった。
   あなたのこと好きになれそう。
   あいつったら──わたしが刺したやつなんかいつも撲って、
   罵ってきたもの。
  おれのわるいところは──なんでも従ってしまうことさ。
  美しいとおもったもんにはどうしても。
 なんでも従ったのがいまのこのありさまなんだから。でもそれをかの女にいってどうなるというのか。はにかんだつもりで口を噤み、眠ってしまった。かの女が襲いかかってくる。うれしいとおもった。かなしいともった。どちらともいえない、形容のできないものがこみあげてきた。半睡のまんま、おれも両腕をかの女に捧げ、おれに跨らせてた。そしてかの女をうえにして交わった。上半身がゆれるたび、ふたりとも呻いた。
 力学と時間の作用だ。あるいは実感と想像の効果なのかも知れない。ラジオの鳴らず交響曲のなかで壁は閉じられた。ふたりして達することができた。すべてに、あらゆる、ありきたりのものへの感謝が湧いてきたから、かの女を抱きしめながら祝杯をあげた。ビールを壜のまんま呑んでたら、窓が鳴り、かぜが入ってきた。それすらも愛おしい。なにを話したのかは憶えてないけどふたりともよく笑ったものだ。おれは詩を暗誦した。ブコウスキーでいちばん好きな「ロサンジェルス・カウンティー・ミュージアムは今日も雨だった」をだ。ふざけた声色で「消えうせろさもないと/警備員を呼ぶぞ」っておどけてみせた。かの女もなにか芸をやったとおもう、たしか歌をやったんだ。
   わたし無理してる。
  なに?──あなたと、そういう仲にはなりたくない。
   だってそんなけっきょくお情けでしょ。──その通りだ。
 翌日は早くから車に乗った。市をみっつ過ぎたところで休みになった。もう昼だった。朝飯抜きできたからふたりともへたばってうごけなくなってた。大きなマーケットでおれはスパゲッティを食べ、かの女はハンバーガーにかぶりつく。
   ねえ──ホテル代もったいなくない?
  でもしょうがないさ。
 「ねえ車のなかで眠らない?」──いま一月だぞ。それに怪しまれちまう。──寝袋やら毛布を買って、そいうのがよくいるところに移るのよ。──まあ、ためしにやってみるのもいいかもね。──じゃあ、キャンプ用品のコーナーを見てくるね。
 かの女がさきに喰い終って立ちあがった。おれはゆっくりと喰い、炭酸水を咽へ流した。それからキャンプ用品へむかうとかの女はもう目当てのものをみつけてた。登山用のものだった。ふたり分にすればけっこうな値段だが、このままホテルに泊まりつづけることを考えればわるくないとおもった。カードで支払い、つぎはかの女の服を買った。冬ものの一切だった。
   もっと早く買いたかった。
  すまない。それどころじゃなかったから。
   あなたもなにかいるんじゃないの?
  おれはいいよ。きみこそまだいるんじゃない?
   ありがとう。
   でももう大丈夫。
 走って町をいくつか越えた。たしかに味のない景色だ。量販店、パチンコ、サラ金、コンビニ、スーパー、カラオケ、中古車センター、そして空き店舗が目立ってる。もはやだれも立ち入ることのない場所がどこの町でも増えているのがわかった。草と苔の装飾は緑の恐怖だ。おれは幼いころにみたものをおもいだす。叢のなかに放置された貯水タンクや、水泳場なんかをだ。いまはもうなくなってしまったが、ああいった喪失の塊りにあこがれてたときもあったっけ。でもいまはそうじゃない。
 ふたたび休息がやってきた。おたのしみのはじまりだ。おれはノートを買って小説のようなものや、いままでのことを簡易にして記してみた。

     月曜日はきらい。
     子供がいなくなるし、
     入庫は追いかけてくる。
     どこにも逃げ込む場所ないとすればだ、
     わたし自身が喪われてしまえばいい。
     なにも取り戻せなくなって、
     わたしは猫をひき殺した。
     無免許の旅がそこからはじまったのだ。
     つれあいのかの女がたったひとりで、
     わたしを受け入れてくれる。
     そこで覚ったものだ、
     生きるのに家なんかいらないと。

 詩のようだ。でもおかまいなし。夕飯を終夜営業のレストランで済ました。それから塒になりそうな場所を求めた。ふたりで事前にポイントを調べておいたが、なかなか似合いの場所が見つからなかった。次第にやきもきしてきて、割り込みのやろうに警笛を叩き込んだりもした。かの女の好きなマーラーの3番をかけながら、ようやく探し当てたのは夜も10時まえだった。ふたりで後部にうつって抱き合った。温いキスだ。ふたりして毛布のなかで笑った。外気は容赦なしだ。おれたちはウォトカを呑んだ。かの女は湯割り、こちらは生で。
 「いつも考えてるんだけど、子供のときから、どうしてわたしって世界と馴染めないのって」──世界はまだまだ必要なんだ、おれたちみたいな犠牲者を。──世界?──ほかの、ふつうのひとびとじゃなくて。──ああ世界が人類をつくったり、喰いつくしたりしてるよ。──救われる方法ないの?──べつの世界をつくってこの世界へぶっつけやることさ、おそらく。──どうすればいい?──芸術家にでもなるしかないよなあ。──あなたは書くんでしょ?──でもただのちゃちな詩とか絵とかだ。どうにかできるもんじゃない。でもいつかはな、いつかは。──わたしも書きたい。どうしたらいい?──まずあこがれの作品をみつけるんだ。それに近づきたいっておもえるやつと。それから書きまくる。そしてじぶんのスタイルをみつけるんだ。──みつけたの?──まだだよ。
 おれたちと同類のやつらが何台も停まってる。目立つことはなかった。零時になっておれたちは眠った。助手席に寝袋と毛布を敷き、なかにくるまった。ニット帽がおもいのほか、役立った。それにアイ・キャップもだ。
 襲撃があったのは午前2時ぐらいだったとおもう。まずまえの車がやられた。窓を叩き毀され、中身がひきずりだされる。人間とその持ちもの。金やそれにかわりそうなものが抜き取られ、居住者には罰がくだされる。握りぐあいのいい鉄パイプらしかった。おれは寝袋を脱がなくてはならなかった。でも半分眠っているようなところでうごくのはたやすくはない。毛布をはがすとかの女のうえに放り投げた。もうじきこっちに来る。やつらはなにもいわない。
  起きろ!
  起きてくれ!
 かの女にむかって叫んだ。眼醒めない。どうにか寝袋を脱ぐ、運転席に移ってエンジンをかけた。燈しが追いはぎどもを照らす。いろめきたち、どうにも手のつけようがない連中。火を吹かんばかりに呶声をあげてる。まえに進みたい、うしろにさがりたい。すっかりかこまれてた。へたに痛めつけてどうなるものか。そのとき、女が叫んだ。──ひき殺すのよ! でなきゃやられる!
 ギアをロウに入れ、踏み込んだ。跳ねる車体がまえのふたりに喰いこむ。おれはひとの肉や骨やはらわたの音によってからっぽだ。うしろにいたひとりがおれを引きずり出そうとする。おれはガソリンタンクをあけ、もの入れにあったふるい莨とマッチをとった。男が、青年がドアを蹴りあげながら喚く。おれはおもてにでた。なにかわめいてる、聴き取れない。
  わるかったよ。
  好きなように撲ってくれ。
  そのまえに莨が吸いたいんだ!
 もくろみはずれだ。鉄パイプが肩に喰いこむ。衝撃でなにも考えられなくなった。力は大してこもってなかった。おそらく少しおびえがあったのだ。でも身体中をやられてた。ひとたび地面に伏してから、やっとのことでおれは給油孔に手をやった。莨に火を燈し、ゆっくり相手にみせつける。どうにか笑いながら、しかし脅えきって汗に覆われてた。
  ここでみんな一緒に死のうよ。
 青年に伝えた。かれはなにもいわず失せた。
   大丈夫なの?
  とにかく逃げよう。
  きみが運転してくれ。
   あたりまえだって。 
 打撲が痛む。それをやわらげるためにも酒は必要だった。ウォトカをがぶりとかりながら車窓をみた。高架道路のしただ。なにもない空間にフェンスが立ってる。ルンペン防止用の柵だ。保険証ならまだあるが事件化されるわけにはいかない。終夜営業の薬屋を探して、要るものをそろえた。
  すまない。これじゃあ、眠れそうにないな。
  どっかで泊まるしかなさそうだ。
   でもあれすんでよかった。
   だれも死んでなさそうだし。
  そのとおりだ。
 なるたけよごれた宿に泊まった。おれは寝台に釘づけになってひたすら呻いた。鎮痛剤はまるで効かなかったから、またも酒を使って慰めた。かの女がからだのいたるところに口づけしてくれてる。勃たなかった。吹っ飛ばされた気分がした。
   わたしの贖罪。
  やめろよ、そんな考え。さらに生きづらくなるだけさ。
   でも逃げ切れるとおもってるの?
  おもいたい。きみがいいならずっと。
   守ってくれた。
  あたりまえだ。
 しだいにかの女も酒に口つけはじめた。携帯ラジオで音楽をかけた。ふるい録音のピアノ曲が鳴る。傷に効きそうな音だとおもった。そしてまた一杯やった。そしてまた1杯。ようやく眠ることができた。朝になって湯浴みした。痛みを堪えながら歯を磨き、髭を剃っていたら、かの女がいった。
   やっぱり病院に。
  どういったら?
   転んだっていえば?
   それでいいじゃない?
 その通りにした。かの女を妻ということにして。全身の打撲だ。手当てと薬を受け取っておれたちはすぐにその町をはなれた。ようやく金曜日、週末だ。それからはただ静養に努めた。天井の隅にでっかい蜘蛛の巣があったのを憶えてる。やっつける力もなかった。ただやつらがどうやって糸をだし、獲物を狙うかを観察させられただけだ。そうして土曜日、そうして日曜日。夜に昼かまわず、かの女が看てくれてた。どうにか身体が楽になってきたころ、かの女が酒壜をたずさえてドアから入ってきた。
   どう?──ましになったよ。  
   ほら燃料。
  これはどうも。
   さ、呑もう。
  うごけるようになったらさ、競馬場にでもいこうぜ。──博打なんかいちどもやったことがないのにそういった。数字が苦手なんだ。でも競馬中継でみた馬たちはどれもよかった。まちがなく品がある。
  人間なんかより馬たちは美しいからな。
   女ったらしのくせになにほざいてんの?──都合のいいときだけ、人間ぎらい。
  その通りさ。まったくそのまんま。
   ねえ、わたしが別れたいっていったらどうすんの?
  好きにすればいいよ。
   わたしが捕まってもいい?
  好きにすればいい。
   なんともおもわない?
  おもうことはあるだろう。
  たとえばベッドについてさ。
   それってどういう意味?
 「ここにベッドがある、ふたりして寝ころんでる、窪んだ蒲団、ふたりのあいだをつなぐ空域、そんなのがなにもかもなくなっちまう、おれはどうしていいのかわからなくなる。どうしようもなくなる」
   勝手にしろってこと?
  そうじゃない。
   じゃあなに?──できるかぎり助けになりたい、でもきみがいやがるかも知れない。──かの女のおもざしが苛立ちでふくれあがっていくのがわかった。でもおれにはどうしたらいいのか、わからない。
  むりしておれのそばにいてくれなくたっていいんだって意味だ。
  おれもきみもここにいるべきじゃない、たぶん。
   じぶんからわたしを連れていって、その都合のいい言い草はなに?
  そのとおり。まったくきみのいうとおり。
   また「そのとおり」──いい加減にしてよ!
   いつになったらまぢめに話してくれるの?──わたしの話しも聴いてよ。
 夜になっておれは途上で手にした本をひらく。題は「幻化」といった。なんとなくひとや町やらが幻しになってしまう話しなのかとおもってた。でも舞台にあがったのは患いのうちにある男で、飛行機から漏れる黒い油が虫にみえると語ってた。かの女はもはや苛立ってなかった。寛いで長椅子によこたわってた。チョコレートと漫画を愉しみながら話しかけてきた。機嫌もわるくないらしい。──ねえ、ふたりでマフラーまかない?
 趣味じゃないよ。
  そうじゃなくて、ふたりでぶらさがる勇気があるかって訊いてるの。
 ないよ。
 さみしかっただけなんだ。──わたしはちがう。──いままでで最高の笑顔。そしてとうとう月曜が来た。ホテルを出発して高架のもとを走る。なにもない。量販店、量販店、パチンコ屋、パチンコ屋、サラ金屋、サラ金屋、コンビニエンス・ストア、スーパーマーケット、ちっこい診療所、標識、標識、広告、広告、広告、看板、看板、看板、看板、看板、幟、幟、幟、幟、眼についたもののぜんぶがうんざりさせてくれてる。どこまでいってもおなじものが繰り返された。なんの変奏もなく、おなじものがつづく。まるっきりヴェクサシオン、癪の種じゃないか。どっかで急ブレーキをやらかし、むちゃな回転や方向転換をやらかしたりして、なにもかもをぶちのめしたくなっちまう。──裏がある女なら相手にしてくれるっておもってるんでしょ?
  いや。
   うそはやめて。
   正直になって。
  実際してくれたじゃないか?
  特別製だ、きみは。
   ばかにしてるの?──きみはどうなんだ?
   醜男をからかうのって愉しい。
  もっとからかってかってよ。
  おれは欲しがりの子供なんだよ。
   どうかしてる。
  ひと殺しをからかうのって愉しいよ。──かの女の顔からなにかが喪われた、かの女のいっさいからも喪われた。いっちまった。かの女はいま、卵女なんだ。だのにどうしてこんなことをやらかすんだ。席を倒してかの女は眼をつむった。しばらくなにもいわなくなった。──やめよ、もう。
  その通りですね、──お嬢さま。──ようやく都市部が見えてきた。ずっと遠回りしながらここまで来たんだ。なにかいいこともあるだろうとおもいながら大通りにむかって右折した。
 「ちいさい頃さ、こんなころがあった。小学1年のとき、図書館で、3人のお姉さんたちに──たぶん六年生だろうな。たっぷり遊んでもらって、すんごくうれしかった。それからかの女らがいったんだ、「あそこみせてくれ」って。恥ずかしくてできなかった。それはしょうがないとおもう。でもそのあとにおれはやらかしてちまったんだ。いちばんきらいな担任の男にたれこんだんだ。遠くほうでかの女らが、さっきまでおれを愉しませてくれた女の子たちが咎められてる、辱められてる。でもなにもできないんだ。いまだって後悔してる。ただ悔やんでるんだ。なんてわるいことをしたんだと。いまだっておもう」
   そんな話し、なんになんの?──くだらない。
   まるで仔犬みたいに身をすくめ、女に愛や同情を求めてるだけ。
   べらべらとじぶんをしらせたがる。
   でもあなたはわるくない。
   つまらないやつだけど。
   そんなことよりアイスクリームが食べたい。
   いますぐ。
 冬場にアイスクリーム屋を探した。小さな店はいやだった。でっかいモールをみつけて入った。最上にちかい階でまたもチョコミントとラムレーズンを甞めた。食べ終わるとかの女はバスルームへ。おれはふたたび「幻化」をひらいた。「兜をかぶっているのが常人で、今のおれの場合は兜を脱ぎ捨てた状態じゃないのか」──主人公がいってた。おれはどうなんだろう。兜ははずれてるのか。もう妻も子供も過古だ。それがわるいことにはおもえない。
20分経った。かの女は来ない。来ないだろうとあたりをつけながら、そこらへんを歩き回った。いきなりかの女への愛おしいものが追いかけてきた。店内放送は使えない。おれもあっちも犯罪者にちがいなかった。3時間と半分経ってた。生のアホウドリが売ってあった。大男のような女が叫んでる。
    アホウドリ、
    アホウドリ!
    アホウドリはいかが!
     どんな味がするの?
    海鳥の味に決まってるでしょ!
    ばかめ。
    アホウドリ!
 おれは酒屋のまえに来てた。もうどうだっていいんだ。ウォトカとバーボン、炭酸水とれもん果汁を買って車にもどる。駐車場からできるだけ早くでて大通りへでた。町から逃れたかったから、反対側をいって高架のもとから安宿をめざした。数日分払いこんだ。
 通りを歩いた。安い食堂だった。テレビの音がうるさく、客だってやかましい。トラック運転手たちの寄り合い。寄り合いはなによりもきらいだ。あれから2日経ってた。水曜日。宿屋と酒屋と安宿をまわって過ごした。火口のまわりを歩いて生きるか死ぬかには、遠いものがあった。呑むしかない。でもここじゃだけだ。ひとりになってしか呑めない。ふいに顔あげた。テレビのなかにかの女がいる。夕餉をすまして酒屋にいった。老人がひとり店のまえの歩道で震えてた。中毒と疾患のさなかにあるのだろう。かれがいった。──呑みたい、でも死にたくはないんだよ。もっともな悩みだ、おれだって呑めなくなれば死しかおもいつかない。ほかに気をまぎらわせるものはある。ただあまり役に経たないということだ。
  ビールでもどうです?
   わるかないね。
   でも余計なお世話だ、よしてくれ。
 店に入って寝酒用のスコッチを買ってでた。ご老体はまだ震えたまんま立ってた。こちらあちらで顔をみつめた。やがて老木がいった。──やっぱり奢ってくれないか。羞ぢ知らずはわかってる。
  銘柄は?──なんだっていい。でも第三のビールなんてやめて欲しい。
   そのスコッチ、わけてくれないか?
  かまいませんよ。寝酒用ですし。

                                                      *

 眼をあける。老人がひとりで呑んでた。おれは起き上がって便所にいった。まず1発目のしょんべん。かれは眠ってないようだった。湯にも浸かってない。腐臭が漂い。なにもかもがもの憂い。
   おはようさん。
  ずっと呑んでたんですか?
   いや、ちょっと口をつけただけだ。
  でも、減り具合が。──老人は笑いだした。ただの笑いじゃなかった。自身を笑い飛ばしてた。のんだくれで、うそつきなじぶんをだ。──おれはな、アル中さ。なんども膵臓をやって慢性。生きる道はどこにもないといっていい。──わたしだって似たようなものですよ。──いいや、おまえさんはちがう、天使が宿ってるからな。
 またもかれは笑った。おれは階下で罐ビールを買い、呑み始めた。喰うものはチーズとドイライソーの残りしかない。夢のなかで21のとき、夜行で都会へいったことをおもいだしてた。作家の弟子になりにいったものの、喰うあてなく、飯場で出会った友人にだまされた。友人? そもそもよくわからない。やつがおれにやさしかっただけで、それもほんとうのものだったかなんてわかりはしない。おれは贋ものか、本ものにしろ、やさしさというやつによわかった。いつだってだれかがじぶんのようなやろうを受け入れてくれるのをただ待ってた。深夜にこないバスを待つ哀れな田舎者に過ぎない。それでけつの穴を奪われかけた。
   どうだい、散歩にいかんか?
  まだぼーっとしていたい。
   じゃあ、おれひとりでいくよ。
 この老人もおれを罠にはめようというのか。どうだっていい。とことんはまるまでだ。午后になってから喰いにでた。ベーコン・エッグとトースト。そしてビール、そしてウィスキー。からだが温まり、冬日が美しく照らしてくれる。これ以上はないという気分だったが、かの女のことをおもえばつらかった。まるで仔犬みたいに身をすくめ、女に愛や同情を求めてるだけ、か。そのとおりだった。だから妻があった、血のつながってない娘があった、ハンガリーが、ボスニアがテヘランがあった。ともかく自身を支えるためには酒が必要になった。室にもどる。ご老体ももどってた。石のようにかたいパンを喰ってた。バターもなしでだ。それでも生命力に溢れてて、おれには耀かしくみえる。希望だ。
   若いの、呑みすぎるなよ。
  そのとおりですね。
 「そうやってわかったふりをするのがもっとも危険なんだ。巻きこまれてつぶされてしまう。プレス機みたいにな。昔しな、工場にいたんだ。あるときぼやっとしたやつがな、あたまからやられちまった。もちろん即死。まだやつは19になったばっかだった。そんでおれは20、怖くなってその2時間後にやめちまったね。それからは郵便屋。それにしたって、あたまをつぶされるなんてどんな気分なんだろうなあ。でも、おれもあんたもそうなりたくない、おれにはそうみえてる」
 おれは答えない。酒壜のしなやかな肢体を触りながらおもいにふけった。過ぎたものほどにおれを捕えたものはなかった。これを郷愁といっていいのか、わからない。かれどからだのうちに吹き込んできておさえようがない。昼下がりの空気いっぱいに植物の泣き声がしてる。窓辺に立って植え込みをみた。荒れてる。男主人はとうに妻をなくしてるらしかった。もうだれも鏝や如雨露をもたないのだ。なにもないのに、ないことが悲しい。両の手に顔を埋め、しばらくぜんぶをさえぎった。
   どうかしたか? 
 おれは答えない。黒いものがみえてきた。中空をひらめきながら舞ってる。そいつはどんどんおれたちの窓に近づいてきた。酒壜を咥えてぐっと液体を押しこむ。温くなってくる。どんどん温くだ。窓をあけてみた。日が沈みきって夜だった。町の燈しがしだいに濃くなって、ひとの声がしてくる。みな退屈と倦怠に乗ってやってきた密航者どもだ。金をいかに投げ棄てようと輪になってせめぎあうかれら、それを救うのは破滅と負債しかないだろう。壜がいっぽんからになった。湧き立った雲のこぶしがもうじき降りて来そうだ。──いつまでそうしてるんだ?
  さて夕食を食べましょう。
   おれはひとりでいいんだ。この汚らしい老体をひきずっていくなんざ怖ろしくてかなわんからな。
  汚いのはこっちだっておなじだよ。
   こんどは泣き落としか。たかが飯ぐらいひとりでいくよ。──おれは答えない。なにもいえず、じっと床の隅をみつめた。またしても蜘蛛の巣をみつけた。かわしいもんだ。近寄りたくはなかったが、なんだかじぶんにふさわしいような気がして、いきなり気分が高ぶった。でもなにもいわない。
   あんた、女に棄てられたんだろ?
  正解。
   わかるよ、それぐらい。
   でなきゃ、こんなじじいをひっぱりこんだりしないもんな。
   少なくともあんたはアレじゃない。
  まあね。
  でもあなたはおもしろいひとだ。
   いいとも、いこうじゃないか。
  どこに?
   夕食に決まってるだろ。
 それからかれと1週間ばかり過ごした。おれたちはすっかり仲良くなっていろいろなことを話しあった。初めての恋、女たち、男たち、けんか騒ぎ、盗み、買淫、放浪とそのあいまの仕事、なにもかもだ。おれたちはよく酒場にでかけるようになった。洋酒のあるところ、さまよい歩いてった。そこらへんではいえないようなこともしてかした。かれはしつこくおなじ話しをしてた。
 「ほんの、まだ若いころだった。おれは電報配達をやってたんだ。好い報せもあれば、わるいのもある。そんなことはわかってた、でもほんとうにひどいのもあった。ある夜、女の家にいったんだ。アパートの暗い廊下をたどっていってノックする。でも返事がない。もう2回してようやくでてきた。いい女だったよ。泣きはらした眼がおれを見あげた。印鑑もらって紙を渡すと、いきなり平手を女が喰らわすんだ。もちろん《なんで撲るんだ!》って訊いたんだ。すると恋人がほかの女と結婚しちまったんだと。じゃあ、おれがってんで、それからしばらくかの女の家から仕事にいった。でもなんでかは知らんが、かの女から逃げだしちまったんだ。もう半世紀以上経ってるのに考えるんだ。あいつと幸せになれたかもって。そんなわけないのにな」
 いつもおれは黙ったまんまかれのグラスへ注いでやった。ビールを、ウィスキーを、ウォトカにジンを。あるとき車で田舎道を走ってた。するとかれが苦しみだした。それがなんだったのかはわからない。膵液のせいか、肝臓か、脳みそか、それとも通風か。病院にいこうとおれがいう。かれが首をふって応える。──やめろてくれ!──もう閉じ込められるのはいやだ!──自由にさせろ!──自由に!──自由だ!──自由!
  自由たって死んだらそれもなくなるよ!──しばらくかれはなにもいわなくなった。やかましい電飾どもがおれたちを照らし、あざ笑ってる。胃がむかつき、飛びだしそうになりながら、ひとけのないところをめざす。    
   あんたは本気でそうおもってんのか?
  いや、わからない。
   死なんか祭りみたいなもんだろ!
   葬式なんざ芝居みたいなもんだろ!
   犬小屋を囲んだざれごと!
  ちがう!
   屠殺場を覘いてみるがいい、かれら牛や豚に較べりゃ、おれたちゃ運がくそみたいにいいぜ!
   そうだろう?
  ちがう!
   蟹のように歩けばきみだって、おれのように若返ることができる!
  ちがう!
   なにも残らずに死ぬのってのはいいもんだぜ!
  ちがう!
   おしまいの幸運なんだよ!──錯乱しながらかれがつぎつぎに叫んだ。もう憶えてもいないが、それもすばらしい文句だった。──ちがう! ちがう! ちがう!──そればっかり叫んでたうちに、やがて聞かれなくなって、まるで狂犬がちんちんするように静かになった。もうだめだ。呼吸がちいさくなっていってる。
 死んでいく男を乗せておれは突っ切った。かれにとって朝はもう来ない。でも夜の果てにはやってこられたんだ。なんとかいいおもいで死んでもらいたかった。なにもおもいつかない。公園をみつけて車を停めた。だれもいない。遊具がくすんだ色をして立ってる、並ばされてる。おれはベンチを探した。車にもどってかれに触れたとき、もう死んでるのがわかった。つめたい顔に脂汗が蔽ってた。そいつを毛布でぬぐい、襟を正してやる。これぐらいしかできないのがたまらなかった。
 かれをベンチに坐らせ、毛布をかけてやる。もうなにもいえなくなってる老人。そばに酒壜をおいて立ち去るほかはなかった。宿を退去して車のなかで眠った。まえとおなじようなことが起らないよう祷りながらだ。午前六時になってから出発した。どこへいくあてもなかった。ふたたび都市へとむかった。驚くほどたやすく嗚咽がやってきやがった。しゃくりあげ、涕の温さを感じながら、それでもあたまのなかは冷めたい。すべての叙述しながらステアをじっと握り、朝の国道を北に向かって流れる。なにもかもがまことに退屈だったにもかかわらず、おれはこのあいまを愉しんでいた。その途上、アイスクリームを食べにいった。正直食べたくはなかったけれど、どこかに弔いの気分がしのばせて喰った。そしてしらふのままで通りを歩き、ベンチをみつけた。仕切りのある鉄でできた長椅子。いくつかの断片とともになんだかわからないものを書いてた。涕を流すのにもとっくに飽きてしまったから。おれは詩を書いた。

                                                      *

        路上は充たされてた
        たとえば首のないやつや
        ギターのないギター弾きに
        塵と埃
        牡牛のように横たわって愛を求めるばかどもにとって
        広告燈はでっかい天使だ
        ひとびとを決して逃しはしない
        逃してはくれないんだ
        車をどこまで走らせようが追ってくるのがかれら
        正常さによって狂わされたものたちの終の棲家たち
        小さな函のなかで夜が熟み
        女がどこかへ
        男は取り残され
        乾草でいっぱいの
        厩舎をおもいうかべる
        求めてたものはどれも在りもしないものたち
        さあ、眼をつむって
        我慢なさい
        痛くしないから
        お姉さんが
        棘を抜いてくれるわ、きっと。  

                                                      *

 車を処分した。端金にもなりはしない。仕事を探して、港にちかい倉庫があたらしい職場になった。おれはひとを殺したもおなじだ。あの女もあの老人もいまはどうしてるだろう。そうおもいながら品番をみたり、伝票をたしかめたりしながら過ごした。
フロア主任がこちらに迫ってくる。
   おい、品番、まちがてるぞ。
  すみません。
   なんで途中で気がつかないんだ、個数四〇だぞ。
   こんなにも積みあげやがって。
  やりなおします。
   元通りにしておけよな。
 どこの倉庫も棚番なんてまがいものはない。つめこみすぎて始末がつけられなくなってる。でもこんなことはよくあることだ。おれはおなじ階でかわいい娘をみつけた。23歳で、宮崎からきたらしい。かの女の仕事を少しでも軽くしようとおもった。なにしろ、かの女は、週の2日からだを毀して休んでたから。木製パレットをハンドリフトにセットするとき、いつもかの女のパレットをもった。下心が仕事を押してくれてた。そのうちかの女が楽器をやってたことや、高校のあとにキャディーとして町に来たことなんかを知った。ごくごく普遍のうちでかの女をものにできたら、どんなにいいだろう。しかし、いっておくが、こんな考えたはひとりよがりの夢、見棄てられた望みだ。場所はみな、カール・ヨハン通りの夕暮れにみえる。みんなおれをみているような触りに襲われながら歩く。手に入れられるものはもはやない。上司がおれの書くものに興味をもった。おれは冗談めかしでいったんだ。文学をやってるって。休憩所のみんなが笑った。
   どんなものを書いてるんだ?──放浪や喰いちがいについてです。
   喰いちがい?──どういうこと?
  ええ、ひとや言葉のすれちがいです。
   書けたらみせてよ。
  いいですよ。──おそらくみせることはないだろう。葉巻を吹かし、一見すれば賢そうなつらで本をひろげる。それでもなんにもわっかってはない。ただ文字が眼のうちで流れてるだけだ。なにも感じられない、なにも、なにも、なにも。どっかの詩人がこう記してたっけ。

      星の
      きまっているものは
      ふりむかない

 終業後の薄くらい休憩室をぬけ、階下へ降りた。出庫口から飛び降りて長距離トラックの群れから出口にむかう。あの娘がさきを歩いてた。でもなにもしない。おれはもうそういったものからはできるだけ手を退けた。そのまま派遣の事務所へ赴き、その週の金をもらった。ささやかなるもの。封を隠しにねじこんで歩いた。ウォッカ・セヴンをいくらやってから、おれはストリップと売春宿にむかった。いきたくはない。しかしそういった喪失の塊りみたいなところで曝されてしまいたい欲求がおれをうごかした。はじめに踊り子たちを見、それから売春宿だ。パネルを眺めながらできるだけましなのを撰んだ。受付にいる女の子のほうが何倍もかわいかった。でもかの女とはできない。
 かつておれのことを聖母マリアよりも断然、マグダラのマリアのほうが愛してくれるだろうとおもってた。17のときだ。なにも信じてはなかったが、それはなかなか現実の味わいのある科白だった。でもそんなものは贋金に過ぎない。醜くてあたまのにぶい、そしてくだらないもろもろ。学校には近寄りたくもなかった。父がおそろしく、公園で夜を明かしてた。とてもうすのろで晩生の自身。しかもそれがいまだに解決されてない。いかがわしい深夜放送や、こっそり手に入れた、宝もののようなポルノ本だけがおれの救い主であった。かの女たちの笑みや肢体がどこかでおれを守ってくれてるような気がしたからだ。もっと幼いときには愛していたものがたしかにあった。おなじ齢いの女の子たち。しかし愛してるという事実のために遭った手痛いめ。ことが知れ渡って、とりまきにあざけられる、愛してたその子にも拒まれ、あとはまるっきり癩菌扱い。ほんの少しまえまでは愛しくて清しいその子が、ちかくを歩いただけでわざとらしく悲鳴をあげ、友だちといっしょになって避ける。とてもわるいことをしたのだ。まるでモーゼだった。波じゃない、ひとがわれる。
 ほかのよたものたちと待ちながらおもった。かつて美しかったもののためにやれることがあるなら、どうか教えて欲しいものだ。かつて美しさのあったものほど月日を過ぎづらいんだ。おれはきらわれもののくせにそういったものたちをすぐ崇めてきたんだ。果たしてそのつけに過ぎなかったのだ。なにもかもが。妻もひと殺しのかの女も。きっとおれがただしく声をかけてたらあんなことにはならなかったのに。もうなにもかもが終わってしまった。けっきょくおれにもかの女にも、じぶんを虐めるしか、じぶんを癒す方法がなかった。あらゆる夢にだまされて、胃も天井もひっくりかえる。
 つまらない女とつまらないことをやってから話しをしてでた。猫を殺してからもう三ヶ月が経ってる。でもだれかがおれを捕まえにくるということはなかった。警官ですらおれの戸口には立とうとしない。もし捕まったら、せめてかの女のために偽証してやりたい。なにがなんでもかの女のためになるのなら、そうするべきなのだ。かの女がおれよりもチョコミントを撰んだとしても。
 なんとなく結婚するまえ、つき合うまえのことをおもいだす。どっかのレコード屋でかの女に遇った。おれたちはそれぞれの高校生活について話したとおもう。そんとき、かの女がつき合ってる男のことをいいだした。ただの愚痴かとおもった。そいつはかの女とふたりっきりで歩くときでも、ほかの女たちを眼で追ってる、品定めしてるというのだ。ただの嫉妬かとおもった。そうじゃない、かの女はいい男をみんな掴まえてしまうにはどうしたらいいかを、その恋人の視線から探りあててたかったというのだ。
けっきょくちがったところから、その方法を得たというだけ。おれにとってかの女はみてくれのいい女で、あっちからすれば与えられないくせに求めてばかりいるあほうだったのだ。もっともっとやるべきことがあったのになんにもしてやれなかった。もしかすれば家庭を手にできたはずなのにだ。もしかすればかの女にとってのつかのまの愛がおれだったのかも知れない、そしておれにとっても。歓楽街を遁れてアパートメントへ帰る。できのわるい模型をおもわせる町だった。敷かれた道路のまえに食堂やガス・スタンドや、コビニエンス・ストアがおかれてる。倉庫街も似たようなものでそこらじゅうに函をばらまいたような味気のないところだった。またしてもいやなところにもどってきてしまったなとおもった。
 時間が余ってしまってるとき、かの女やじいさんのことを繰り返し書いた。詩にもしたし、絵にもした、短篇にもした。いま書いてるように。それをいろんなところにばらまいた。詩誌やインターネットの暗がりのなかへ。忘れることができなくとも、距離をおくことなら書くことで果たせるはずだ。でもそうもいかないようだった。手紙がきた。かの女からだ。からだを売って近く町にいるということだ。でもいきたいとはおもわなかった。それでも一週ぐらい経ったころ、店にいった。かの女は美しかった。毀されるのを芯から拒みきってた。それでもどこかくずれてる。狭い仕切りのなかでかの女がいった、
   店員でしか、客でしかないの。
   それを忘れちゃだめだから。
  むりだよ。
   むりじゃない。
  きみが手紙なんか書くからいけないんだ。
   わがままいわないで。
  忘れないでくれよ。
   いわないでって。
  そうでなければこんなところに来ないよ。
   そうだよね。
   でも、どうしてもみて欲しいの、わたしを。
  病的だよ。
   軽蔑する?
  いいや、でもどうしてこんなところで会わなくちゃいけないんだ。
   みて欲しいの。
 「みたくなんかない。かなしいよ。もっときみのことを気づかってたら、こんなことにはならずに済んだのにな。
  どうしたらよかったんだ。きみのあとにもひとに出会ったよ。でもみんな消えていくんだ。どこにも書かないまま喪っていくものがあるんだ。たまに気狂いになって町をさまようことがある。でもじぶんをどう痛めつけたところで救いになんかならなかった。ただあとで恥ずかしいおもいにつぶされるだけ」──しばらく黙ったまんまでいた。遠くから救急車の狂騒が聞えてくる。それはおれたちを助けてくれるものではない。甘ったれた言い回しが唇ちをつく。あと十分で終了だ。金はもう払ってある。でも延長なんかくそくらえ。──ねえ、アイス食べにいかない?──え?──チョコミントとラムレーズン。
  いいよ。
  それなら。
   じゃあ、どこで会おうか?
 落ちあうときとところを決め、終了3分まえにでた。通りをうるさい連中が群れになって過ぎていく。そしてまたパチンコ、サラ金、コンビニエンス・ストア、標識、広告、看板、看板、幟。ルンペン、酔漢、賭博師、女たらし、そして多くのなにものでもないひとびと、雇われてやがては首なるべくがんばってるひとびと。おれは詩人だ。でもそれはうそくそだ。ほんとうはただの使い棄てに過ぎない。なんと滑稽なことだ。このままどう生きたところでやり直せはしないのだ。おなじような半端な仕事がおれを待ってる。倉庫か、工場か、夜警だ。さもなくばモニター監視といったところだ。いずれにせよ、ほんとうに自身の生を生きるのならば、どこかで断ち切る必要がある。でもなにを断ち切ればいいのかがまだみえてない。
 土曜日の夜、ふたりしてスーパーマーケットに来た。活気のあるふうをしてるだけでなにもかもがからっぽだった。春になったというのに陽気なのはマネキン人形たちだけだ。もしかするとかの女たちこそ、本ものでおれたちが贋ものなのかも知れなかった。
  さっそくアイスクリームを注文した。
   ひさしぶりだね、こうしてるの。
  ああ。
   うれしくない?
  うれしいよ。
  ただあいだがあいてるから、
  たぶん気おくれしてるんだとおもうよ。
  やっぱりすてきだし、きみは。
   ひと殺しでも?──いいよ。
  偽証でもなんでもするよ。
   うそはよくない。
   よくないよ。
  うそじゃないよ。
  きみがおれじゃないだけさ。
   マザーグースは好きじゃない。
   それだけはいっしょだね。
   卵同士でじゃ、仲よくできない、けっきょく。
 静かになった。ほとんど話すことがないのに気がついたのだ。おれはフラスコをだしてヘヴンヒルをやりだしてしまってた。おれは昔、言葉も文字も憶えられなかった。話すこともままならなかった。だから言語に対して執着しすぎてしまってる。なんとかかの女をひきつける科白が欲しかった。でもヘヴンヒルは与えてはくれなかった。かの女から顔がなくなって翳だけが残される。病的なのはおれのほうだ。かの女の手が、指が、おれの首に、おれの頬に触れ、おれが翳に閉じ込められていった。なにも見えなくなるまえにそうしてもかの女に口づけしたくなった。けれどそんなこと、あちらは望んではいないのだろう。それでもおれはした。かの女の冷たい眼差しが遠くを走る。
   もうやめましょうよ。
   なんの意味だってないもの。
  ちがうよ。
  おれはまたまえのようにしたいんだ。
   あのあてのない旅をまたやりたいって?
   あたまがどうかしてる。
   だってあなたもわたしもちっともよくならなかったし、
   もうふたりともだめになってしまった。
  なにか方法はないかな?
  いっしょに暮らすとか?
   なにいってるの?
  なにって?
   なにを寝ぼけたこといってんの?
   もうだめだって。
   だっておたがいがおたがいの犠牲者になるのが、
   あんまりにもよく見えるもの。
  よくわからないな。
   わかってるくせに。
   こういうときこそ「そのとおり」っていえばいいのよ。
   やっぱり、あんたのこと好きじゃない。
 アイスクリームを食べ終えてかの女は去った。おれはなにもいわずに残りものを突きながら時間を過ごした。つめたいものが零れ落ちるのがわかった。かの女は売春宿からいなくなってた。またしても月曜日。おれは階段をくだっておもてに抜けた。日は傾き、通りがさわがしくなってくる。いくつもの群れがそれぞれの屋から流れでて、またちがう群れが入っていく。かれらが求めるものがおれをむかつかせた。でもおれだっておなじようなものだ。照りだした月や、光りだした星々が電飾にかき消されそうになりながら昇ってる。出口も入り口もない場所には、近づくか離れるしかない。子供たちがやおらにかけだして大人たちをからかっていく。小さな路次に入り、見えなくなりそうな古い道へでた。道祖神がいる。手入れはされてないらしかった。
    おい、
    あんただよ。
 うしろから声がした。細長い男がこっちを睨んでた。両の手を隠しに突っ込んだまんま直立してる。まるで垂直の錘だ。
  なんか用か?
     おまえだろ、
     あの女、
     逃がしたのは!
  知らねえよ、
  馬づら。
  競馬場にいけ。
     なめてんのか、
     おまえ、
     おれのうしろにだれがいるか知ってんのか?
  だれも見えないがね。
     このやろう!
 やつがゆっくりむかってきた。たった1発受けただけでおれは道祖神にくずれ落ち、われてしまった。どうしたらいい? 教えてくれよ、なあ。やつの靴がおれの首もとに喰いつき、息ができない。噫、どうしたらいい? 教えてくれよ、なあ。おれは払いのけようとして両の手をふりまわした。でも払えない。どうしたらいい? 教えてくれよ、なあ。
     おまえはだれだ?
     だれなんだ?
     なまえは?
    なまえなんかない、
    客だ、
    ただの、
    客。──やつはちょっと後退しておれを見下ろした。顔がみえない。逆光だ。
     今度このへんをうろついてみろ、
     ただじゃおかねえ。
     あれはあそこでいちばんだったんだ。
 アパートメントに帰って短篇を書けるよう練習をした。みじかい文章の塊りをつくっては棄て、つくっては破いた。ノートの半分が塵になった。いったいわたしにも手に入れられるものはなにか、おそらく安手でのタオルにちがいない。みずからを慰めて床に就き、きのうの夢をおもいだそうとした。それが眠るための儀式。窓のそとでは連れ込み宿の電飾が輝き、男ども女どもの声がした。かの女がどうしても欲しかった。いまさらながら、そうおもって、眠って。

                                                      *

 どこから知ったのか父から手紙が来た。かれとはもう二年会っていない。元妻との一緒になってからだ。かれは家をでてた。長年母ともおれを含めて子ともうまくいってなかったのだ。じぶんで家を棄ててほかへ移った。暴君そのままのような父が去って、暴君そのままのような母ができあがった。だれでもかれでも怒りや憾みやみじめさほど大事なものはない。それこそが自身を突き動かしてくれるもとなのだ。父は会いたいといってきた。おれは会いたくはなかった。わざわざ知らない土地まで来て、過古に追いつかれてしまうほど滑稽なものなどないからだ。おれはいまでもかれのことを好きではないし、赦してもいないのだ。
 指定されたのは、あのスーパーマーケットだった。おれはマネキンたちをみた。かの女たちは知らん顔して立ってる。エレベータ・ホールのちかくで父は居心地のわるそうにしてた。身につけてるもの、すべてが擦り切れてた。おれは上階の安いレストランに誘った。ある種の情けのようなもので、ほんとうそんなことしたくない。かれが口火をきった。
   聞いたよ、
   おまえの子供のこと。
  だれから?
   おまえの母親からだ。
  会ったの?
   いやだれともだ。
   おまえの姉さんや妹たちとも。
  そりゃあ、そうだよな。
   ああ、きれわれものだ。
  でもおれの子供のことはもうあきらめてる。
   2年も育てたんだろ?
  ああ、でももういいんだ。
   あの女から電話があったぞ、
   施設に入れられたって。
  そういうことか。
  どっちがやった?
   どっちもらしい。
  でもいまさらおれは助けることもできないんだ。
   手続き上はどうなってる?
  さあ、おれもでていっちまったからな。
  でもいまさら養っていけないよ。
   おまえはなにをしてるんだ、いったい?
  倉庫だよ。
  アルバイトで。
   情けないな。生きる気もないというのか。
  そのとおりだよ。
  だめなやつはだめさ。
   いちどでもいい。会いにいってやれよ。
  どうかな。
  なにか、証明するもんがいるだろう。
  住民票か?
   そんなところだろう。
   ともかくいちど問い合わせてきてみろ。
 かれが紙片を渡してきた。ふたつ折りのをひらく。施設のなまえと住所、電話番号があった。おれの娘だった子供はそこにいるのだ、いま。
  わかったよ。
  いってみる。
  でも時間がないんだ。
  休んでたらすぐに首だ。
   自業自得ってもんだろ?
  そのとおりだ。
 地上階でわかれた。もう会うこともないかも知れない。ともかく次の金曜の夜に列車でいこう。あたらしいシャツとタイを買った。そして帰りぎわ、おれはフラスコを塵箱に棄て去った。もう呑む必要はない。室にもどり、施設に連絡をとった。口説くのにえらく舌がかかった。でも会えるのがわかった。金曜、仕事がふけてから、おれはロッカールームで着替え、そのまま駅にむかった。列車が来てひとびとが乗りこむ。おれもひとびととまったくおなじように歩き、そして乗った。3時間の距離。娘がどんな子だったかをおもいだそうとする。でもそのたびにかの女やじいさんや車からの景色がじゃまをしかけてきた。いったいおれはほんとうに父親だったのだろうか。施設にいってまずわかったのはふたりとも──つまり元妻も男もほったらかしだったということだった。時折かの女がペットにでもなったように遅くまで連れまわしてたということだった。娘はおれのことをまだ憶えてた。近寄ってきて笑ってくれる。それだけですっかり充たされてた。
   おとうちゃぁん。
   ひさしぶり。
   どうちたの?
   おばあちゃんは元気?
  元気だよ。
   おかあさんはねえ、
   あたしが好きじゃない。
  ひどいよなあ。
これプレゼントだよ。
   なに?
  本だよ。
  とにかくいろんな本を持ってきたんだ。
  読めなくってもいいから、
  ページをめくってみなさい。
 おれはページをぱらぱらとめくってみせた。かの女は手をぱちぱちと鳴らす。
   おとおちゃん、じょうず。
  いつでもできる、
きみにだってできるんだよ。
  そうすれば、
  いつか、いいことがあるからね。
 おれたちは絵を描いて遊んだ。そうして翌週の約束をつけて帰ったのだった。でも次の月曜、父から電話があった。女が娘を引き取っていったと。怒りにかられ、ダイアルした。女も高ぶってた。またしてもハンプティ・ダンプティだ。だからマザーグースはきらいだ。砕けたおれをだれがもとにもせるっていうんだ。
  どうしてる、
  あの子は?
   寝てる。
  そうじゃない、
  元気か?
   ちっとも懐かないのね。
   いらいらしてくる。
   どうしてか夫もでていったし、
   お金もないし。いるのよ、児童手当とあいつの障碍年金が!
  おれ、できることあるともう。
   あんたにかかわる資格なんてない。
  あるよ。
  おれの娘だからだ。
   あんたはしょせん他人なの!
   もうかけてこないで。
  待ってくれ!
   あたし好きにやる。
  愛してるよ、娘をいまも。
   勝手にすれば?──行政のくそったれがなにをいおうと、あたしは勝手にする。
 なにもいえないまま姫さまから切られてしまった。もうやりようがない。おれは寝台に坐り、時間をみた。午后八時十五分。近所の酒屋はまだあいてたから、上着をとっておもてにでた。あいもかわらず空疎な場所だ。なにもかもが爆撃されてしまえばいいのにとおもった。本心ではないにしろ、できるものならやっているだろう。上空の狭い空域をヘリコプターが飛ぶ。あんなものは機械式の蠅だ。なぜおれはやっつけられないんだろう。あいつらを。おれはやっつけたいんだ。電話が鳴る。知らない番号だった。でてみてすぐにわかった。うれしくてたまらず、声が上擦った。落ちつけ、落ち着くんだ。かの女のいうのをじっくり聴け!
   どうしてるの?
   あんな詩なんか書いて。
  子供がいたこと知ってる?
   知ってる、そっちから聴いた。
   で、どうしたの?
  ほったらかしでね、
  施設に入れられたんだ。
  このまえ会いにいった。
  次に会う約束もしたのに、
  でもあいつにまた獲られてしまった。
  もう会うこともできないかも知れない。
   会えるよ、いつか。
  遅すぎたんだ、おれって。 けっきょく独りよがりだ。
   もうやめて。そんなに責めないで。
  おれは、じぶんの痛みにしがみついてこれまでやってきたんだ。それだけだ。
   それだけじゃない。
 「できることはやったって。きみがなにをおもっていたかだって、なにを求めていたかだって、ちっともわかってないんだよ。知ろうとしなかった。でもがんばってくれてた。でも、わるいと、すまないとおもってる、いま」
   もう一回はじめる気はないの?──わたしたち。また会えるかも。
  わからない。でもほんとうにきみのことが好きだよ。
 「わたしも。いまではおもってる。あなたとおなじようにとにかくひどい眼に遭って、眼が醒めた。ひどく腫れた顔だけど。そんなのそのうち治ってしまう。でもあなたとのことはいますぐにどうにかしなきゃ。捕まるかも知れないけど、会いたい」
  会おう。あした、またあのスーパーで。
   チョコミント、ラムレーズンね。
  そうくるか、やっぱ。
   うん──でも、やっぱり、いまから会いたい。
  おもえばおかしなもんだよな。おたがいひどい眼に遭ってなければ会うこともなかったんだ。
 「わたし、いまも夢にみるの。あのときのこと。それまでのこと。やりなおせたらって、おもってる。でもできないもの。いまもこうして刑務所のそとから電話してる。かれには申し訳ない。まだ病院にいるらしいけど、わたしには花を贈るしかできなかった。くらいところをずっとさまよってた気してる。落ちた卵をわたしたちはどうにもできない。ふたりとも落ちた卵で、ばらばらの、ぐっちゃぐちゃ。笑えるよね?」──ああ。──裏切られたもの同士で、どうにかできることってない?──まだわからないな、会ってみないと。──そうだよね。──ちょっと待ってて、──なに? 
 そのとき、電話回線を通じてかれがかの女の手を握った。それでよかったんだ。すべてが充たされ、電話のむこうから警笛と回転燈が滑り込む。階しを駈ける馬のような男たち、そしてひとりの女がかの女のアパートメントをこじ開けようとしてた。
   じゃ、いくから。
   ちゃんと待ってて。
 通話がやみ、おもての通りを救急車が走っていく。なにもかもがはじまろうとしてる、かれはそう書きとめて、その紙きれを眺めた。しばらくのあいまとまったまんまでいながら、売り払った車のことをおもいだす。それは深緑で右側のドアに大きな疵があった。おそらくは妻だった女の、ささやかなるお遊戯だったのだとおもう。空気のすきまを縫ってむかって来るものを聴く。──車だ。おもえばおれの場合いつ自動車へのあこがれをもったのだろうか。そうだ、七つのときの夜だった。父が映画のテープを買って来たんだ。未来へと飛ぶアメリカの車、そいつを観てからだ。おれがあこがれをもったのは。どこまでも走っていきたかった。過古へも未来へも、ここにあるところでなければどこだってよかった。葉っぱをひきちぎるようにしてなにもかも手に入れてしまいたかった。でもかれにできるのはいつもまぬけなものばかり。アメリカ人たちはなんと自由なんだろうか。だってかれらは眼のまえをすぐ、過ぎ去っていくものにも夢を裏づけられるのに、かれにはじぶんの自転車すらなかったのだ。またしても感傷。
 そんなさなかにドアを叩くものがいた。かの女だ。すっ飛ばして来たのだ、きれぎれの息がかれのあたまを押さえつけ、ながい静まりをつくる。なにをいえばいいのか、さっぱりだよ。
   そとへ来て、どこにいくんだ?
   いいから、すぐにいるものもって来て。
 ろくな返事もできずにかれは支度をした。古物で買った鞄へなにもかもをつめて、夜へとでる、かの女が立ってた。そしてかれに──おれにあたらしい仲間をみせてくれた。そいつは二十年もさまよってた。いま緑色の顔をして立ってる。みなれないつら。きっと海のむこうから来たんだろう。シェヴィだ。おれはそいつを撫ぜてやる。かぜが吹いてきてフロントグリルがかたかた鳴った。ぼろいもんだ。かの女のほうに向きなおって、おれの手がかの女の肩に触れてる。どうしたらいい?
   もう、
   出発の時間。
   さあ、
   早く乗って、
   くだらないことは棄てましょ。
 つまるところ、その通りにした、ということなんだ、おれは。たぶんもうだいじょうぶ。うしろの窓から過ぎていくものたちを観ながら、かの女の歌声を聴いてた。ちいさくてかわいい、でもじょうぶで、つよいやつ。おれはフェルナンド・ペソアをつぶやく。──人生とは感嘆符にするか、疑問符にするか、ためらうことだって。