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春の昼下がりのことだ。通学路で突然にいわれたんだ、あのくそ学校のやつらから。理由なんかわからない。たぶん、おれそのもののが珍しかったんだろう。いつもおれは標的になってた。
おまえ、キッショいねん。
なんでおまえみたいのがおるねん?
はよぅ、死んだらどないや?
殺してもらうとこ、教えたろか?
幼稚園で一緒だった、佐々木たちがいう。おれはやつらにペン軸をむけた。いつも漫画用に持ってたカブラペンだ。
あぶないやろ。
ええがかげんせぇんと痛いめに遭うで。
おお、遭わせろよ。──いますぐにな!
なんでおれたちに逆らうねん?
おれにおまえらが逆らうから。
おまえ、親にいんのか?
さあな、憶えがないな。
いますぐに死ねや。
裁判にかけろよ。
おれはいった。そういっておれはじぶんを守った。そんな日が長くつづいた。だけど、ペーパー・ナイフ、それがおれの冒険だった。おれの中学校は評判がすこぶるひどい悪所で、くそだめそのものだった。はじめは悪口をいわれ、ぶ厚い唇を侮辱されただけだったが、やがて上級生に撲られ、不条理を学ぶ教科書さながらの体になり変わった。たしかにおれは善良ではない、けれど、ただの変わりものだったはずだ。いったい、あの学校をだれが悪の臥所に変えたのかはわからなかったし、いまでもわからない。数名のかわい子ちゃんを除いて、学校はひでえ檻だった。逃げられない場所だった。だってどこにもいっても家父長主義の十字砲火がおれを追撃したからだ。父は権力にものをいわせて、おれの存在を脅かした。成績表を見るたびに奴さんは激しく怒かった。そして深夜過ぎまで説教が待ってた。不合理が家でも学校でもつづき、それによって舗装された運命がおれのまえにずっとずっとつづいてた。
夏休みを迎えるまえの7月14日、担任の国語教師がおれに声をかけた。狐のような顔をした、過干渉な年増女でおれはなにかとかの女によって、恥ずかしい眼に遭ってた。
夏休み、みんなで旅行にいくんやけど、どない?
はあ、──考えておきます。
その話を聞いた母はおれの諒解もとらずにサインしてしまった。まったく、ろくでもない親を持ったものである。当日、集合したのは札付きのヤンキー少々、根暗、いじめられっ子諸氏だった。かの女から見れば、じぶんだってその仲間ということになる。なんとも苦々しい気分になった。貸切のバスでどっかの海岸へいった。狭くてボロい民宿に入れられ、テレビのない室でおれは絵を描こうと藻掻いたものだ。やがて夕方になり、食事が終わり、その狭い室で、おれはほかの連中とは離れて、ちがうところにいた。やつらとは一緒になりたくなかった。品のないヤンキーがきらいだった。いまだってそうだ。窓の景色には生彩がなく、茂みで澱んで見えた。
おい、こっちに来ぇへんのかぃ?
え?
おまえにいってるんや、おまえハミゴか?
ハミゴ?
そう、ハミゴやんか、おまえ。
未開人の辞はおれにはわからない。嘲笑が聞える。暗がりのなかで嗤う、面皰だらけの醜い顔が見える。そのとき、おれは立ちあがってやつらのところにいくしかなかった。いまだったらハミゴでもなんでもいいのだけど。だれが好き好んで卑しい連中と一緒でなくてはならないのか。女子はみな1階で、男が2階だった。ただその女子たちにしたって醜女ぞろいだ。そして教師たちはもっとランクの高い宿に泊まってテレビや酒に興じてるらしい。なんという欺瞞なんだ。おれは嘔き気がした。胸くそがわるくなる。それでも蒲団を並べた。男同士で寝るなんて金輪際勘弁してくれ。
翌朝、海へでかけた。おれは水色の腕時計をしてた。片山というちびの双子のひとりがそれを見つけて「貸せ」といった。品のない、苦しみを知らない口で。本心いやだったけど貸した。おれは泳ぐ。はなれ小島にむかって遠泳した。途中で溺れそうになったものの、だれも助けなかった。悲鳴する。小島の男たちがおれを眺める。なんとか島に着いた。男たちがいった、「おれたちに近づくな」と。岩場を1周すると、やることがなくなった。またしてもあの距離を? けっきょくは泳ぐしかない。おれはもとの海岸までもどった。水からあがって岩場を歩くと、おれの時計が毀されてた。おれは柔道教師に告げ口して、解決させた。あとはずっと旅が終わるのを待った。
帰りのバスが、サービスエリアで停まった。土産物屋まえでだ。おれは財布を忘れてしまい、なにも買えない。それでも店に入ろうとした。事情を知ってる、片山のどちらかがおれにいう、──「金ないやつは店に入るな」と。おれは無視して入った。見るべきものはなにもなかった。帰ったら金を本に遣おうとおもい、バスに乗り込む。やつらの嬌声がおれの脳髄を刺激した。もちろんのこと、わるい意味に於いてである。
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夏の課外旅行をきっかけにおれは河内という痘痕づらやら、片山にしつこく狙われるようになった。べつにおれがなにか仕掛けたわけじゃないが、なにか隙があるたびにおれはやつらのおもちゃにされた。河内はしつこかった。運動会でもわざわざ列をはなれておれに蹴りを入れた。片山ひとりには図書室でもろに撲られもした。まるで力石に初の一撃を喰らったジョーのような気分だった。そしてやつらのボスだった山田創には便所に連れ込まれて2発も喰らった。おれはただ歩いてて、足がやつにぶつかっただけだし、もちろん謝った。それでもやつらの安っぽい自尊心はだれかを攻撃せずにはいられないんだ。おれは屈辱で教室で泣いてしまった。おなじ小学校だった槇田太一郎や福島亜希が、無表情で眺めてた。くそったれめが。ひとの痛みのわからないやつはどこにでもいるんだ。それでもおれは黙ってやつらの餌食になった。それしか生きる道がないからだ。
でも、おれの傷はたやすくは癒えなかった。父も母も学校という場所を盲信するだけの阿呆で、そいつを崇拝するだけの能力だけしかない。学校なんざケツでも喰らえだ。おれはやつらがきらいだ。苦しみを与えるだけの存在に奉仕することはできない。くそったれだ、すべての同級生ども。おれを救わなかった教師たちもけつ喰らえだ。秋のあいだずっと、おれはたったひとりの復讐をおもって、爆弾づくりを夢想してた。花火の火薬をつかうとか、黒色火薬を自作するとか、ナイフを買うだとか、そんなおもいだけがおれを生に駆り立ててた。どうしてひとはひとを殺すのだろう。毒ワイン事件や、金属バット事件のルポタージュを読みながら、なぜひとりのひとが孤立して殺人事件に散ってしまうのかを考えた。なぜこの人生は生きづらいのか、なぜおれには友人がひとりもいないのかをずっと考えた。
しばらくして地域清掃をやらされたとき、おれは友人とはいいがたい堂ノ元と一緒にされた。屈辱だった。植村も松本も友人同士と一緒だった。やつらは嗤った。だのにおれはおれのようにまぬけな堂ノ元とともに長くて、勾配のきつい坂をいったり来たりさせられたんだ。こんなことってないよな、だけどあったんだ。そして松本とといういじめっこが、「おれんちにゲームがある」といいだした。もちろん、おれだけが誘われなかった。死にやがれ。名塩クリーンハイツの大馬鹿者め。
その冬、おれは山田たちに包囲されてしまった。この発端はじぶんでもよくわからない。おれはやつらの下駄箱を探り、靴を切り裂いたり、とにかく陰湿なことをやってた。それからしばらくして山田がおれにいった。
いろいろ、すまんかったな。
え?──ああ、おれもわるかったよ。
それから数日して、クラスメイトの谷がおれを呼びつけた。ちょうど教室の掃除をしてるところだった。
山田たちがおまえを呼んでる、いったほうがええ。
やつらがどうだっていうんだよ?
とにかく呼んでこいいわれたんや。
おまえが来ぇへんかったらおれが撲られる!
ちびの谷はしつこかった。おれは無視した。終いにはやつも焦っておれの悪口を叫び、どうにかおれを廊下にだそうと必死になってしまってた。
ミツホのアホ!
バカ!
教室からでろ!
あまりにも憐れだったから、廊下にでた。山田に河内、片山がいた。オカマ野郎が勢揃い。教室のみんながおれを観察した。「謝れよ」と山田がいった。
なにに謝る?
なんでもええんや。
おお、土下座してやるよ。
なんでもええから謝れや。
おまえ、おれを莫迦にしてるやろ。
まったく未開人の思考は理解できない。それに観衆も気に喰わない、いつもはきれいごとを嘔いてるやからだって、なにもいわなかった。生徒会立候補? クラス委員? まったくたわごとでしかない。まるでなにも起こってはないみたいだ。おれはただただ悪党のまえに立たされ、怯えてた。長い時間がたったギャラリーどもは平然としてた。あの、かわいいとおもってた和田真帆ですらも。そして捕食される小動物を見るようにおれを見る。福島亜希だけが、「先生を呼んで!」と声をあげる。それがおれには耐えがたかった。やがて暗くなる、終業後の教室。おれは「謝らない」といった。「土下座もしない」といった。やがて担任が来て、山田は悔しそうにおれの足を蹴った。なにもかもが終わって、一切助けなかった植村徹におれはいった。
やつらに復讐したい。
屈辱ではち切れそうだ。やつは顔色も変えず、ペーパー・ナイフを差しだした。──「これ、つかえ」って。おれはナイフを持った。やがて終礼だ。おれは、おれをやつらの眼前にだした、谷を狙って、その足を刺した。まるで感触がない、2度刺した。確かな痛みをやつは声にださなかった。ただ「痛い」とだけいった。おれは山田も刺すつもりだったけど、動揺してしまい、そのまま教師につれていかれてしまった。隣室じゃあ、血まみれになった谷が苦痛に呻いてた。担任の女教師である三宅は無表情だった。瀬川という体育教師は、「こんなやつがやったのか」と意外そうに漏らした。だれだって怒ればはなにをするのかがわかってないんだ。おれは隔離室にやられ、尋問が始まった。やがて母親が来た。「わたしのせいで」と泣きだした。母はまるで関係がない。むしろ父のほうに関係があったのに。それでも時間が経てば、みんなが冷静だった。母も教師も同級生もがだ。
みじかい説教のあと、家に帰された。父に報告した。やつは平然としてた。「刺した」のをなんともおもってない。そのままで眠り、おれには一瞥もない。やがて日が過ぎて、謹慎が終わった。同級生たちはおれを嗤った。そしてほかのばかどもや、知恵遅れみたいにおれを接した。なにもかもが漫画みたいに過ぎ去り、徹でさえなにもいわなくなったころ、やつは「ナイフのことはいわいでくれ」といいすてて体育館へと去ってった。やつは友達なんかじゃなかった。ただの通りすがりの幼なじみだ。そして上級校を目指しておれの姉や、吹奏楽部の寺尾麗奈や、吉村大介たちと一緒につるみ、おれを嘲笑い、そして山田だけが怨めしく眼をあけて、おれを鞄で叩いた。やつはなにもいわない。おれもなにもいわない。なにかいいたかったが、できない。そのときを境にして、だれもおれに攻撃することもなくなった。水島や今野とかいうヤンキーどもも去ってった。
おれは気に喰わなかった。もっと口実が欲しかった。ひとを傷つけるための口実が欲しくてならなかった。でも、もはやなかった。なにもかも終わったころだった。おれと谷は一緒にいた。おれはカッターの刃をがちがちいわせながらやつを怯えさせてた。
もう刺すなよ。
もうやめてくれよ。
おお、そうだな。
忘れるなよ。
もちろんだよ。
じゃあな。
ああ、じゃあな。
弱々しい声でいった。それからやつは転校した。そのときわかったんだけど、谷は孤児院の子で、むこうの計らいでいなくなったということだ。やつの友人だった長岡はしばらくおれを罵った。授業のあいまに大声をだすんだ。こちらも見ずに。それがおれにはつらかった。だれも反応しない。
ミツホ、キッショー!
ミツホ、死ねや!
やつの声がいまだに内奥を谺してる。おれにいえることは山口中学校はばかの砦だってことだ。もうずっとまえだった、幾年もしてから、おれはやつらに最初の詩集を送った。それはそのままで帰って来た。一筆もなく。電話をしたら、ずいぶんと慇懃な具合でいわれた、教師のなかに不賛成なやつがいたから返したと。礼を欠いた口で。非礼そのものの口ぶりで。おれは諦めて話を終えた。もし、おれのようなやつがいて、おれの詩を読んでくれたらとおもってた。それは叶わなかった。おれは涙に濡れた袖を払い、三宮の街をただただ徘徊したっけ。これがペーパー・ナイフの冒険ってやつだ。植村はいまもどっかで平気で暮らしてるし、あのナイフはもはや存在しないだろう。ただただ谷には申し訳ない。おれ以外のやつはだれも咎を憶えることなんかないんだよ。
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