みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

ニューキャッスルの与太者たち──生きづらさの情報開示請求(3)

 

f:id:mitzho84:20200204165235j:plain

 

   ○愛着障碍と承認欲求
 
 新幹線無差別殺人についての記事を読んだ。かれがいかに居場所のない、愛情の憶えのない人間かがわかる。そして浮浪者になろうとしたり、自殺しようとしたり、少年院に入ろうとしたり、この世のそとへでようと足掻きつづけていたことを知る。かれの撰んだ結末は最悪にせよ、その人生にはいくらか理解するところがある。
 だが読み終えておもったのはかれの想像力の貧困さだった。日本の刑務所に人権意識が守られているという妄信、そこへたどり着くための行動は、ほかのなにもより優先されるべきだという思考、警官から暴行されて猶、最終的には国が、刑務所が助けてくれるという甘さである。おれはこの件についてあまりロマンチックには考えたくはない。それでもかれの来歴を見ていると、胸を突くものがある。

 

www.dailyshincho.jp

 

 おれもこの世界が厭だった。いまだってそうだ。家庭も社会もおれの存在を疎外するばかりでなにも与えないどころか、奪っていく。母はおれをほとんど注視しなかったし、言葉もかけなかった。父権の暴風雨のなかで、たったひとりおれは取り残され、家の仕事に縛られ、あるいは父の発する科白──おまえなんか、人間やめてルンペンになれ!──など、始終罵倒を浴びせられ、かれが怒ったときには室のものを破壊されるなどのことごとが多かった。おれは父の影響で、幼いときから暴力的で、姉妹がなにかちょっかいをだせば、倍にしてやり返した。母は「おまえは父親にそっくりだ」といい、おれを姉妹からもじぶんからも遠ざけた。そんなおれが学校でうまくやれるわけもなく、中学3年以降は不登校になり、夜の公園や森のなかで過ごして来た。
 姉妹たちはどの場面でも優遇されていた。家の仕事など一切なかった。いつも小ぎれいにして、おれを黙殺するか、嘲っていた。母ともかの女らとも、まともに話をしたことがない。おれにはなにも共有する情報も、感情もなかった。おれは精神病院に入りたかった。なんどか試みたものの、不発に終わり、社会へでた。最初の就職を、研修中に辞して東京へでた。童話作家の弟子になった。だからといって喰えるわけじゃない。棲むところが得られず、けっきょく実家に帰った。それからは坊主になろうとしたり、日雇い派遣をやったりで、とにかく未来の見えないところにいた。次第に過古のルサンチマンがすべてを包むようになった。おれをいじめていたやつらや、恋した女たち、傲慢な教師たち、肉親を怨み、攻撃心を募らせた。
 多くのものは無知である。弱者=じぶんより下位にいるとする人間がどんな作用によってスイッチが入り、犯罪へと走るのかを知ろうともしない。たまたまおれには入らず、かれに入ったのかも知れない。あるいは心理的逃避によって回避されたのかも知れない。とにかくおれはひとを殺さなかった。だがそんなことは偶然である。かれには「天啓」があり、おれにはなかっただけのことだ。心情を寄せる気がなくとも、それだけははっきりしている。

 おれは電話口で、SNSで、ひとびとを罵った。だが、けっきょくいちばん痛い眼に遭ったのはおれ自身だった。友人と称する相手はいなくなった。おれはだれとも心から親しくなれない。それでもおれは作品といっていいのか、とにかく文章を書き綴っている。しかしそれは孤立と不安の反動でしかないようにおもわれる。
 数年まえに岡田尊司「愛着傷害 子ども時代を引きずる人々」を読んだ。するとおれがやらかしたこと、悩んでいたこと、それらがみな子供時代の疵のせいだということがわかった。同時に発刊時に読んでいれば、数多くの対人トラブルを起さずに済んでいた、ということもわかった。そして、けっきょくおれは「愛情乞食(伊丹十三)」に過ぎないということだ。この辞は映画「大病人」のなかで外科医師の男が、病人の男をしかりつける場面で放つ辞である。
 だれでもいいから、きずを塞いで欲しいがために他人の愛情を欲しがる。ただその行為に決着はつかない。いつまでもつづく現実と併走し、やがて人生を袋小路に追い込む。おれは充たされないおもいを表現に変換しつづけるだけだ。過古に心が引き千切られたままで、その苦しみに耐えられずにものを書く。そんなものは淋しいだけだと、無意味であると、どこかでわかってはいるが、どうすることもできない。おれのつくったものはみな愛着障碍と承認欲求の為せる業でしかない。心のもっとも寒い場所で、愛のない家庭環境や、荒んだ青年時代が痛みを訴えている。助けを求めている。
 おれはいまでも拘っている。じぶんがなぜこうなってしまったのかを。だから、こうして書きつづけている。しかしいつまでも、じぶんを語るわけにはいかない。おれが、おれが、おれが、──は、もう厭きてきた。ただ親父を撲ったときの、あの瞬間のひらめき、そいつをもういちど見てみたいものだね。

 この文章には、なんの教訓も、解決策もない。ただニューキャッスルを手にした、酔っ払いの、与太者たち同様、おれにも人生を愉しむ権利はあるだろうって、はなしなんだよ。いまだ、認められない作家もどきとしておれがいえるのはこれだけだ。いまのところ。

 

 おわり