みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

社会的弱者を道具に自己正当化はできない。

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 はてなブログのプラットフォームに変更が加えられ、投稿についたブックマークが見やすくなった。ぜんぶで52ある。そのなかでもぶっちぎりなのは'17年に書いた『夏の諍い──山下晴代氏とのいざこざ』だった。なぜか? 4人もがブックマークしている。

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 この投稿は7月に起こったfacebook上での、氏とのやりとりを軸に語ったもので、ことの発端、両者の発言を掲載し、続篇『愛と人道の裏側で──ぞく・山下晴代に寄せて』に繋げている。

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 氏のネットでの言動を見るにどうにもかの女のなかには完全無欠の弱者というものが存在していて、その存在を考慮しない対象について牙を剝いているらしい。最初にわたしの投稿には〈貧しい国の路上生活者の若者〉と〈シリアなどの難民の子供たち〉が登場した。そのあともわたしが〈ロンヒンギャ〉を知らないという前提で煽り文句を書き込んだり、〈善意の人々〉とか、〈世間に何十万といる障害者の方〉とか、そういった存在がとにかく頻出していた。そしてそういった弱者を盾にとった攻撃手法がわたし以外の人間にも向けられていると知ったとき、わたしはゾッとしてしまった。「こいつは本気〈マジ〉だ」と。他者の言動を論い、人格を攻撃し、嘲笑的に弱者の存在を突きつけるのである。そのなかでもやはりかの女のお気に入りは海外の弱者で、正直国内の弱者なんか弱者ではないとおもっている。詩人のちんすこうりな氏に対してかの女は記憶が正しければ、「日本の貧困は世界的に見ても低い、だから売春をする女性は好きでやってるとしかおもえない、弱者ではない」などといっていた。
 当時、スクショでいろいろと証拠集めにかの女の発言を記録したものの、いまはデータがない。そしてTwitterにあげたはずの画像は削除されてしまっている。削除依頼されてしまったようだ。当時とちがっていまは侮辱罪がきびしいので、いまだったら罪に問われても文句はいえなかっただろうとおもう。時代が追いついてなかった。続篇の記事ではかの女の侮辱発言に「いいね」を入れる男たちについても言及して、そのなまえも記録しているが、かれらはいったいどういうつもりなのだろう。なんだかかの女を囲むオタサーそのもののように感じる。たしか、そのなかのひとりが、わたしの問いかけに「じぶんはただのいいねを押しただけの障碍者」と宣っていたが、それではまるでじぶんには判断力がないといっているに等しい。こういった機械的感性のものにできることはあるのか。
 疑問なのは弱者とはそもそも客観の辞なのか、主観の辞なのかということだ。じぶんを弱者と規定することの是非、他人が他人を弱者か否かを規定することの疑義がどうしても残る。妻の死を悲しみながら、料理を美味いという権利は果たして無効なのか、シリア難民や、アウシュヴィッツの生き残りよりも安寧な人生だから、じぶんの辛さを語ってはいけないのかということだ。本質としてじぶんが弱者側に立つという態度は一見ゆるがない慈善なように写る。しかし、それを根拠にして他者を攻撃することを正当化はできない。一ミリでもいい、ほんとうに弱者のことをおもうのなら、かれらがじぶんたちが攻撃材料として援用されることを喜ばないぐらいのことは慮って当然であるからだ。客観性もなく、想像力も欠如した人物、それが山下晴代である。ちなみに直近のかの女の標的はミス日本の椎野カロリーナ氏だ。

 ミス日本 | 山下晴代の「そして現代思想」

 氏曰く、《ウクライナから、5しゃいの時日本に来て、帰化して、りっぱな日本国籍です。でも、日本人になるには、壁があったから、ミスコンにでまちた。文句ある?……で、日本人として認められたんですか? ほんとうの差別は、美醜、年齢にあるかもねー……この娘さんの考え方は、どこか歪んでる? ミスコンを認めちゃって、それを利用してるんだから》という。言葉づかいにも語法にも品がなく、根底から侮辱と嘲笑にかかっている。ミスコンが時代錯誤というのはわたしもおもうところではあるが、終始このありさまなのだから救いがない。

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 X──どういうわけかブロック解除されている──のタイムラインを見ると、手料理の画像と、お世辞にも上手いとはいえない水彩画──母親のものらしい──が延々と並べられてある。そしてほとんどだれも見ていないのだ。ほんとうはかの女こそ絶対的に〈不幸なひと〉なのかも知れない。だれも読まない詩集を18冊もだしていて、そんなことにも当人は気づかないのである。これを意趣返しと呼ぶのならそれもいい。だからといって事実は変わらない。

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