みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

小説のあいまに

 

                                                                                            名も知らない少女に


 秋も深まりをみせている。いまだ蚊の残党をみることもあるが、いなくなってきていることはたしかだった。鈴虫がようやく現れ、おもてにかすかな歌を供す。わたしはそれに耳を傾けてみた――こんなふうにたまにはきれいな書きかたをしてみる。わたしはきれいなこころのもち主ではない。穢らわしい、うすよごれたもののひとりに数えられる。あるひとによくいわれたものだ、あんたは酒でだめになった、下品になったと。しかしそれはちがう。誤解だ。公園で寝たり、イエローハットのごみ置き場で寝たり、呑まず喰わずで飯場をめざすようなことが、ものすごくみじめでくだらないことが、多すぎたためだ。それにどうもわたしは幼児体験から脱出できないでいるらしい。というのもわたしはすべてのものごとに晩稲なまぬけもので、しょっちゅう学窓たちの標的にされ、くそ桶にされ、悪意の放出先になっていたから、いつかじぶんが強くなって、やりかえしてやりたいという妄執にこの齢になっても濡れているのだ。みじめなものである。
 避難所はそろそろいっぱいになる。浮浪者の数が統計200人という、ここ兵庫県でさえ、せまい施設がひとつきりだ。その名も更生自立相談所。だがそこでは更生の手助けも自立の支援もそれらについての相談もしてはくれない。ただ1晩泊めてくれるだけだ。ましなところはといえば、毛布がしょんべん臭くなく、寝台の出来もまあまあで、8時まで眠れ、食パンをくれるところだ。そこは大阪のとちがうだ。わたしはろくでもない行動ばかりとって、この数年ろくに書くことをしなかったし、本も読んでことなかった。ただたまにちゃちな詩を書きつづり、インターネット上の暗闇に投げ込んできただけだ。金がなくて詩誌に送れなかった。いまも。
 よし、うすよごれたものを書こう。地震があったとき、わたしは天下茶屋の天牛堺書店で古本をみていた。そこにはけっこう掘り出しものがある。みているとふいにからだに定まりがなくなり、重く、ゆっくりとしたゆさぶりがつつみこんだ。わたしは病気に罹ったのかと思った。なにか脳にでっかい危険が起きたのかと思った。次第に周囲のひとびとの顔から、これは自分だけのことではないとわかった。それから酒害教室に出向いた。まあ、地震のことなどどうでもいい。おれには関係ない。あまりに遠い出来事だ。
 それからしばらく経ったある日、本屋でわたしは現代詩手帖をみた。買ったことは過古に2回のみである。後悔の種だ。震災の特集を組んでいた。でかでかと。以前にもかれらは四川大地震の特集を組んでいた。ふだんは詩の先端をきどり、決して情緒には動かされないぞときどっているひとびとが、人間味のない、しかし濡れた書きものを披露していた。おそまつなかぎりである。かれらは災害のときぐらいしか、社会についてしゃしゃりでてくることができないのだ。この高価な雑誌を毎月、万引きもせずに手に入れている人間がどれくらいいるのだろうか。どうせならばおなじ棚においてあるミステリ・マガジンを買い、新訳の短篇を読んだほうが栄養になるのではないか? そう思わずにはいられない。まあ、こんなものごとも時間の浪費だ。するとしばらく経って今度は佐々木幹郎が中原中也の詩を引き合いにだして、災害ネタをやりだした。中也の詩に復興への福音が聞えたんだとさ。笑えない旗振り役だ。
 べつにわたしは情緒や感傷や精神の慰撫が根絶されるべきものだといわない。実際に被害に遭っている市井のひとびとがなにものかに救いを求めるのをわるいことだというつもりもない。しかし詩人や文化人と称する、数々の名のある山師の皆さまがたが、特定の出来事を種にして自分の露出に利用したり、また状況を歪めようとしているのはいただけない。情緒によって塗抹してしまうのは見るに堪えない。
 被災者たちの個人的な精神的活動は許されるべきだが、まだほとんどなにも片づいていないうちにプロに属する作家たちが、いたずらに言の葉を玩び、情緒に酔っていて、しかもそれで金を得ている。もの書く人間なら、こんなときこそ醒めているべきだろう。醒めて歌え。甘いロンドを奏でるなら、少なくともあと2年は口を噤むべきだ。しかしああいった手合いはどれもこれも黙っている方法がわからないのだ。詩情以外のことにはほとんど盲しいているからだ。おれはかれらのものをもともと読まない。かれらはあほであるが、それはおれがまた種類のちがったあほに過ぎないということだ。
 地震は起きた。それはしかたがない。自然現象というものだ。くそがでるのと変わりはない。問題はそいつにひとびとがどう動くか、その1点に限られている。それにじっくり眼を凝らすことだ。でもそれはおれの役目ではない。当然ながらおれは作家ではないし、ある筋の情報によれば人間ですらないという。おお、神々よ!――楽しいことはいろいろある。道端にも、路地裏にも、公園の横になれない長椅子にも、落ちている新聞にも、拾った腐りかけの果物にも、脂で汚れた老人たちの指にも、おれをつけ狙うおかま野郎どものうしろ姿にも。
 とにかくおれは小説を書こう。詩だけしか書かない人間はほっておく。おれは人間や風景を感じさせるものを読みたい。甘ったるい、情緒に濡れたものも問題だが、わざわざ高い銭を払って、プログラムやスクリプトが産みだしたような作文を読まされるのはうんざりである。おれはなにに対しても怒ってなどいない。ただうんざりだ。現代詩手帖に掲載された作品(投稿欄も含めて)を眺めると、ある光景が浮かんでくる。そのうち現代詩生成のフリーソフトが現れて、かれらの書いたものを軽々と追い抜く光景がだ。きっと数々のくだらない賞だって総なめだ。

                                                      *

 以前、つまらないテレビジョンに女の詩人がでていた。ふたりもだ。ある夜のおそい時間、いっぽうは「明日の視点」に、もういっぽうは「朝生」という一種のプロレス番組にだ。Hは台湾の詩人について語り、M(詩人兼社会学者だとよ)はなんだかはっきりしないことをいっていた。どちらの女詩人もなまえこそふざけているが、あとは普通だった。なにかおかしな挙動にでたり、突然歌いだすとか、未来を予言するとか、視聴者をゆびさし、おまえを****にしてやるともいわなかったし、カメラをぶちこわしたり、プログラム・プランナーを批判したりもしなかった。詩人でなくともいえることしかいわなかった。つまらない女どもだ。かの女たちはいったい、そのふざけきったなまえでなにを主張し、ひとにどういった態度をとってもらいたいのだろう。意味不明だ。おそらく退屈なことのほかにできることがないのだ。おのれが先鋭だと、芸術家だと勘違いした女の姿はまことに見苦しい。30ちかいルンペンで、2ヶ月もおなじ下着を履いているおれからしても、それはまことに哀れというほかはない。だが詩壇とかいう、いまひとつその存在がはっきりしない、顔の見えないものからすれば、このおれこそ無教養のふざけた人間なのだ。どこにも属していない人間はなにもいう権利などない。おれは属するということを小学校であきらめてしまった男だった。おれには仲間がいない。恋人がいない。こころのつながった相手というのがいない。べつに愛や恋は欲しくない。欲しいのはいくばくかの金と冷静さだけである。
 えーっと、なんの話しだっけ?――そうつまり、つまらない有名詩人についてだ!――おれは詩人をあたらしい道化役や活動家と考えてはいない。ただ少なくとも、かの女らの話しにはかの女らの固有のスタイルは微塵もなかった。これだけははっきり記憶している。もう何ヶ月もまえの話しである。あまり突っ込まないで欲しい。ひとついっておきたいのはかの女たちの再就職先である。役所がお勧めだ。生活保護課のケース・ワーカーになって、おれのようなルンペンを追い払うのがお似合いだ。一考することだ、黙って。
 こんなことを書いていいのだろうか?――だめに決まってる。このありさまではどこも引き受けてはくれない。小説を書くための柔軟体操にと思ったが、いささか楽しみすぎた。これでは執拗に臀部をつつく死を払いのけることはできそうにない。おれ自身のことを書くとすればきのう、拾った蜜柑を喰いながら歩いていたら、女学生に出くわした。なかなかいい娘だった。おれが同級生なら教室で悶絶しながら、ちら見しているだろう。声をかけてきたから、なるべく陽気に応えてやった。へらへらした笑いが癪にさわるが、それ以外はなんともない。わたしはかの女が差し出した箱を受け取った。
 「くれるのか?」――はい、どうぞ。使ってください。
 おれはなんだかわからずに礼をいった。かの女は小走りに駈けていき、友人の群れの溶けこんでいった。夕日の差しかかった上り坂である。おれは避難所をめざしながら、ゆっくりとその箱をひらいた。なかに入っていたのはあつあつの下着だった。惜しむらしくはそれにうんこがかかっていたことだ。おれは逡巡した。こいつを洗って使おうかと。もちろん、自涜にである。しかしあまりに臭すぎた。おれはあきらめてちかくにある学校の、郵便受けに入れた。まったくあの娘は官能と悪意の同居した、すばらしい娘だった。たいていの女には後者しか存在しない。欲しい。おれはいささかの身ぶるいを憶えながら、仮のねぐらへ入っていった。
 老人たちが娯楽番組を観ていた。お笑い芸人と称する中年男たちがわめきちらしていた。詩人は思った。どうしてかれらはいちように小汚くて、いちように格好つけていて、いちようにつまらないだろうかと。することなすこと、発想の根本が一緒だ。鞄をあけてセルビーの『ブルックリン最終出口』をだした。おもしろい本だ。しかし文章がくどい。冗長に感じる。読んでいてすぐに疲れてきた。まったくおれは熱意というものが欠如している。
 あすはどうなるのだろうか。もう2、3日生きられるだろうか。そろそろ飯場に逃げこもうか。いずれにしたところで袋小路は変わらない。とりあえず、この文章をいろんなところに送りまくろう。それにだれかが腹を立ててくれたら最高だ。窓のそとを車が通る。ここは半分地下になっているから、タイヤのあたりしか見えない。白い壁に白い床。おれは便所のほうを眺めた。そこらへんは薄暗がりになっている。まだ若い男がひとり立っていて、床にそっと小便をし始める。


                                                  おやすみ。

                                                      *