みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

天体妄想(2)

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映画「パリ、テキサス」シナリオ付写真集

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 あるひとから、稲垣足穂を読み直すようにいわれて読んでいる。あるひとというのはもちろんわが師、森忠明そのひとだ。今月、第2歌集・準備稿(上巻)を送ったものの、かれは一切評価しなかった。「また一からやりなおそう」といわれ、必読の書として挙げられたのが、足穂全集、和泉式部、熊楠だったわけだ。《竹内芳朗やポンティを勉強してじぶんの言語論を持つべき》、《足穂を読み込んで、足穂なら短歌をどうつくったか実践すべき》、《和泉式部奥の細道を読み直せ》、《姉や妹や父についてもっと掘り下げて書け》、《ディティールを描かないと読み手は納得しない》、《わかりやすいものを》、《辞をモノのように扱ってる》、《深みがない》、《厳密でなければらない》というのがかれの助言である。
 ところが足穂の本、「男性における道徳」、「僕のユリーカ」、「タルホ・フラグメント」、「稲垣足穂詩文集」を手にとってみたものの、あまりにもアカデミックで、おれについていけるものじゃなかった。仕方なく、「詩文集」のみ読むことにしたが、収録作の「詩の倫理」シリーズさえもおれにはどうも迫るものがない。だいたい詩を書かない、詩人を厭う人物の詩論など、いったいどう向き合えばいいのかがわからなかった。師匠がはじめて読んだおれの詩は「ぼくは退屈しない」というもので、足穂から影響を受けて書いたものだった。「上品な詩を書くひとですね」とかれはいった。たぶん、かれは憶えていない。文体摸倣ぐらいのものならできるかも知れないが、その神髄をわがものにするには、なによりも意志が欠けている。どうしたらいいのか、わからない。どうしたらいいのか、わからない。
 おれにとっていま重要なのは、じぶんを救済できる、祝祭できる作品であって、唯美主義などかまうものじゃない。「詩精神とは、宇宙的理念の獲得をためす、具体的なこころみのこと」と足穂はいう。おれにはまるで理解できない。「詩精神とは、それ自体かかる文化への反旗として出発する予言者でなければなるまい」と足穂はつづける。そして「存在に対する不安から死への直面、そして超越者の獲得、この二つのテーゼを踏まえて、この二者の彼岸に一つの新しい統合を創造し、一切の迷える今日の人類に稲妻の如き光を導入させんとする者のみが、今日から後の真実の詩人の名に値する」と結論づける。おれにはまったく手がでない。あくまで卑小な男を演じるおれには、かれのような大胆さはないし、言葉や概念について厳密に考えるには知能が及ばない。勉強不足──それもあるだろうが、天から授かったものに限界がある。でも、とにかくは1冊を通読して、わからないなりに答えをひりだすしかないようだ。──そうとも。

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 いまきみが擦った燐寸のせいでまた幾星霜の銀河は暮れる


 水がまた滴りだしたキリストのまねごとまま復活ならず


 マタタビの宙返りかな椅子を打つ家具職人の首の汗よ


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