みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

夏の間奏曲

 

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 モリッシーのごと花束をふりまわせ夏盛りぬときの庵に


 待つひともなくて広場に佇める地上のひとよわれも寂しい


 蝶服記ひとり観るなり眼病のおもいでなどはわれになかれど


 ものもらいおもいにふける金色のゆうぐれなどはここにはあらじ


 いちじつの終わり来たれり天使らの顔が見えない光りつよくて


 森閑のなかを歩めり 普遍とはぼくのうちなる羅針盤かな


 恋路なき生活つづく水差しのなかに金魚のまぼろしを見つ


 ふかみどりつづくよすがよ晴天の二宮神社きょうも存りたり


 かげろうもほどけてしまう晩夏には一輪挿しがよく似合うなり


 水と水出会うところで波白むレイ・カーヴァーの詩集をひらく


 やがてみな夜のほどろにたどり着く熾き火のような魂しいたちよ


 はいどぅ はいどぅ 馬はみなうつくしくひとは醜い馬の市にて


 けれどもまたかち合うだろう 他者という入れ物にただもてあそばれて 
 

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〇歌論のためのノート

 行為としての詠み(2)/詩は主張ではないと田村隆一がいっていたが、おなじように短歌もそうではないか。どうにも新聞短歌などを見ると、主張に隷属した三十一音が散見される。短歌を詠むという行為はひとつ幻視であって、ふたつには日常の異化であり、三つにはおそらく叙情であろう。短歌的叙情が論理的思考力を無力化するという主張を過去に聞いたこともある。しかし、それは短歌的叙情に問題や欠落あるのではなく、それを詠む側の想像力の欠如にあるものとわたしは考える。ひとが詠むという行為にむかうとき、まず問われるべきは詠みが自他ともにどういった影響を与えるかという想像力の問題であって、決して短歌的叙情でない。読む対象を設定しつつ、それにふさわしい歌を詠むということが肝要におもわれる。読み手との関係性の発展をめざした行為をつづけてゆきたいとおもう。