みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

より良い生活なんかじゃなかった


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 HPのPCが毀れた。予兆はあった。突然の再起動、そして「オペレーティング システムの選択」という青い画面。ネットサーフィンを愉しんでいた午後、急に思い立って、まえに使っていた富士通をだして、コードを差し替え、電源を入れる。しかし起動しない、画面は黒いままだ。諦めて元にもどして、HPを起動しようとした。お馴染みのロゴのあと、画面はビジーモードへ、そして再起動、そしてビジーモード、そして再起動の繰り返し。焦っていろいろ設定を弄くったり、電源を切ったり、入れたりするうちにOSの再インストールさえできないようになっていた。最近はずっと酒浸りだったし、もちろんのこと、文なし。¥18103も酒代に消えている。修理にだす金はない。多めに睡眠薬を嚥む。そして横になった。柩のように横になった。
 翌る日、また富士通に切り替えた。するとどうか。鈍いながらもそいつは動きだした。来月、修理するまでこいつで活動することにした。でも、データが大丈夫かはわからない。C:の画像フォルダは口惜しいが、D:の創作物のすべてとポルノのすべてがなくなったら、おれの人生は暗転だ。泣きっ面に蜂である。もう引きこもるしかなくなってしまう。
 正直、人生について失望でしかない。純真さを奪われた。おれは惨めだ。いまだに8年まえの失恋の衝撃が残っている。おれはなにかにつけてかの女のなまえを懐いだす。そして口にする。そしておれからはなれていった同級生たち、おれを見限ったやつら、おれを虚仮にしたやつらを懐いだす。職場の、知的階級の低いひとたちや、そんなひとたちに学ばされたじぶんの姿を追憶のスクリーンに投影する。おれの頭蓋の幻灯機が回転する。それでも野心があるから、なんとかやれている。でも、データが完全に喪われたとすれば、かつて列車内で作品を喪ったヘミングウェイ以上に、打ちのめされてしまうだろう。
 純真さを奪い去ったやつらを見返したい。おれを嗤ったやつらに、おれ以上の屈辱を味わって頂きたい。蟹味噌ソースとともに。是非ともこのおれという才能がすべてのダニをダメージしたい。学校にも仕事にもトコトン、打ちのめされて来た。人間というものにトコトン、厭気が差した。見逃した映画についておもう。クローネンバーグの「クラッシュ 4K 無修正版」だ。一旦、アルコールが入ると先のことなんざ考えられない。じぶんを滅多打ちにする。まるでじぶんが他人されて来たことを再現するようにおれは厭味な男になり、暴力的になる。復讐を夢想し、何万もの悪罵を走らせる。舌は災いのもと、酒は災いの根だということを知らなくてはなるまい。
 最近ずっと男性学についての本ばかり読んでいた。ほとんどは流し読みだが。男が女性たちに歩み寄る術を教えている。あるいは中年男の生き方について説いている。「男らしさ」を否定する本もある。――では、いったい、女は女のままでいいだろうかともおもう。まあ、いまは考えたくない。やぶれた蒲団のうえで、本を読むとき、おれの思考はまたしても過去に縛られている。まるで、おれ自身を半分、そこに忘れて来たように。でも、実際そうなのだ。おれの頭は不登校の1999年で止まっている。そのまま凍結されて心とからだを半分喪ったようなものなのだ。だから、いつもそこに意識がいってしまう。だれも好きで不登校になんかならない。多くのひとのそれのように愉しくふるまうことができたら、なんとよかったことか。だが、おれは冴えないながらも創作をやる人間で、不本意ながら歌人だ。書いて作品に昇華する以外に進む方法はない。
 このところ、心を挫かれることばかりである。師匠・森忠明はおれに「ブログをやめないと商業出版をしている弟子を紹介しない」と迫って、おれからとうとう、このブログを取りあげてしまった。立場の弱さを知っていて、それだ。おれは、この場所があるからこそ、正気を保って来たし、狂ってしまわないように心を調律できた。それがだめだというんだ。最新の詩集には「横文字趣味がかんべんしてくれ」、「ブランショのように沈黙したいというのか、しっかりしろ」とあった。ああ、このひとにおれの詩はもはや求められていないのだなとわかった。おれがなにをどう描こうがそそらないということだ。あとはかれの仰せの通りに歌誌とやらのために新作短歌や歌論を書かねばならない。頭がおもくなる。歌誌ができ、ハイティーン歌集ができたら、おれは新天地へ赴くつもりだ。いつまでもだれかの弟子でいるわけにはいかない。もっともっと心に無頼を抱きたいものだ。渡哲也=藤川五郎がドスを抜く、そして敵めがけて突っ込むとき、おれのなかのもっとも抑圧された心が勃起する。不死身のなにかのように言葉とイメージが踊る。海辺の回転木馬が冬の雨に打たれて、大人たちが手をかざす。子供たちが鷗のまねをしながら、水際を走り抜けるとき、おれはおれのドスを確かめながら、ゆっくりと飛翔し、そして燃えあがるのだ。

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