みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

腐敗性政治的猥褻物――映画「絞殺」と天皇制についてのちっぽけな戯れごと

 

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 たったいま、聖なる睾丸を露出したまま、おれはモニターのまえでものを書く。最近はずっと映画と作劇の指南書を眺め、じぶんの至らなさをおもい知るだけだ。きのうは映画「絞殺」を観た。開成高校生殺人事件をネタにした新藤兼人作品だった。乙羽信子と西村晃主演。教育映画のような作風。会話・対話・発言の描写が非常にぎこちない。たとえば近所の連中(殿山泰司、草野大悟、初井言栄ほか)が科白をいう際、互いの発言が影響し合う、共振し合うというところがなく、ただ準備された科白を順番に読んでるだけにしか見えない。またほとんど無駄といっていい、裸体や、性描写が延々とつづき、うんざりさせられる。伏線の張り方も充分でない。実際の事件で、少年による暴力の動機づけが乏しいためか、フィクションで少年と少女の恋を挿入してる。たぶん、近親相姦の場面も虚構だろう。クレジットを観て、やや驚いたのは少年少女がともに新人で、役名がそのまま芸名であったというところだ。少年のほうはいまも現役の俳優らしい。多用されるスローモーション、そして時系列の入れ替え。正直疲れる、かったるい映画だった。新藤作品とは相性がよくないみたいだ。乙羽信子の息子の怒りに忍従しながら、それも過保護でお節介な母性で以て、息子を包容しようとするさまはなんともいじましかったし、息子が暴走して、仏壇を破壊するさまは、実際におれが仏壇を木椅子で破壊した27歳の夏の夜が懐いだされて、なんとも居心地がわるかった。

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