みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

腐敗性政治的猥褻物――映画「絞殺」と天皇制についてのちっぽけな戯れごと

 

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 たったいま、聖なる睾丸を露出したまま、おれはモニターのまえでものを書く。最近はずっと映画と作劇の指南書を眺め、じぶんの至らなさをおもい知るだけだ。きのうは映画「絞殺」を観た。開成高校生殺人事件をネタにした新藤兼人作品だった。乙羽信子西村晃主演。教育映画のような作風。会話・対話・発言の描写が非常にぎこちない。たとえば近所の連中(殿山泰司草野大悟初井言栄ほか)が科白をいう際、互いの発言が影響し合う、共振し合うというところがなく、ただ準備された科白を順番に読んでるだけにしか見えない。またほとんど無駄といっていい、裸体や、性描写が延々とつづき、うんざりさせられる。伏線の張り方も充分でない。実際の事件で、少年による暴力の動機づけが乏しいためか、フィクションで少年と少女の恋を挿入してる。たぶん、近親相姦の場面も虚構だろう。クレジットを観て、やや驚いたのは少年少女がともに新人で、役名がそのまま芸名であったというところだ。少年のほうはいまも現役の俳優らしい。多用されるスローモーション、そして時系列の入れ替え。正直疲れる、かったるい映画だった。新藤作品とは相性がよくないみたいだ。乙羽信子の息子の怒りに忍従しながら、それも過保護でお節介な母性で以て、息子を包容しようとするさまはなんともいじましかったし、息子が暴走して、仏壇を破壊するさまは、実際におれが仏壇を木椅子で破壊した27歳の夏の夜が懐いだされて、なんとも居心地がわるかった。
 おれはほとんど母性を知らず、暴走する父権の十字砲火のなかで生きてきたから、父も母も信用に足る存在じゃなかった。もちろん、手厚い庇護のなかに鎮座し給う姉や妹たちも、そして自身すら信用には値いしなかった。なにしろ、酔っ払いの畜生で、酒のためなら、どんなに残忍な振る舞いも平気でやる男だったからだ。最近はずっと掌篇を書きながら、ロバート・マッキーの本を眺め、ダイアローグとストーリーについてずっと験されてる。きょう投稿した掌篇はまったくウケなかった。正直、なにをどうやればいいのかもわからない。またべつの映画を観ながら、物語るという行為について考えなくてはならないだろう。それはつねに自身の内なるパターナリズムを冒涜し、破壊することだ。おれはおれに満足できない。まだまだ磔刑が必要なのだろう。室を暗くして他人のつくりあげた夢を上映することになる。まあ、そうはいっても、それは理想のうえで、現実では時間の空費が目立ってる。なにもしない。ただ空想に身を任せる時間の多さ。過古の失敗、未来への不安、俗事への関心にふりまわされ、大したこともできずに眠ってしまうことのほうが遙かに多い。いったい、なにをやってるんだ、おれは。
 じぶんの身の振り方が、立ち位置が定まってないからこそ、あの映画に於ける決定論な生き死にに苛立ってしまう。最初からなにもかもが決まってて、それにむかって突進する人物たち。あらかじめ決められた悲劇を進むことの愚かしさ、そしてひとつの美学さえ持たないという点に於いて、あの映画とネタモトの事件とは通底してるように見えてならない。ただかれらとおれを分かつものは家に対する態度にあるようにおもう。おれは早くからの家出主義者だったし、じぶんの内なる世界とともに、逃げることで生き延びてきた人種だからだ。家族というものを早いうちから見限ってしまってたから、あんなことにはならずに済んだといえる。おれは肉親たちがどこでどうしてるのかも知らない。結婚したとか、子供がいるとか、そんなこともだ。数年まえ、分籍届をだすときに家族の氏名と現住所の書いた書類を役人が持って来た。でも、おれは見なかった。
 教室にしろ、家庭にしろ、狭い、限られた空間のなかで多数が生きていくには限度がある。どんなやさしい動物だって狭いところでは共喰いや疎外が始まる。他者の領域を土足で踏み歩かない、自身も他者の領域を侵さないという、およそ最低限の流儀を保つことは容易いことじゃないということだ。もちろん、すべての人間におれみたいな逃げ道があるわけじゃない。人間性を破壊されるまで踏み荒らされるものもいれば、判断力を失って、ビルから飛び降りるやつだっている。だから、これは生存者の愚痴に過ぎない。ただいえるのは近親憎悪に陥るまえにその場所から、離れるべきだということだけだ。

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 時代と添い寝をするみたいなことは書きたくない。本来なら、そういったことは避ける。でも、きょうみたいに空振り三振を繰り返した夜にはなにか、ひとつふたつ書いてみようという気分になる。これから書くことはぜんぶ、でたらめの戯れごとでしかない。だから、もし街でおれを見かけても背後からスモモで襲撃したり、ババナを持って殺しに来るようなマネはやめて欲しい。もちろんのこと、パイナップルを満載した街宣車を寄越すのも論外だ。そうとも、おれはセルフ・ディフェンスについて語ってるんだ。
 まあ、どうでもいい話だが、河野太郎天皇制に言及して非難を浴びてる。少なくともおれが見たのは非難ばかりだった。見る場所をまちがえたのかも知れないが、ともかくそんなことがあった。おれの天皇や皇室についての考えは、ほとんど井上達夫がいってることとおなじ、というよりもそれに肯いただけといっていい。存在として否定しないが、制度として否定するという立ち場だ。いい加減に天皇という存在からの離乳が必要だろうし、皇室の人間に基本的人権を保証するべきだろう。おれは河野防衛相の発言に正直、なにも感じるところはないが、発言した当人しろ、それを非難するやつらにしろ、肯定するやつらにしろ、絶対的に欠けてるのはじぶんたちが語ってる対象が、血の通った、じぶんたちとおなじ人間たちであって、ブリーダーに繁殖されられる犬や猫ではないということだ。考えるのもおぞましい発言をおれは読んできた。正直、ゾッとするものが多かった。おいおい、おまえらは胸に手を置いて考えてみろ、死ぬほどイカレてるぜ。側室だとか、代理母とか、クローンとか、おれには狂ってるとしかおもえない。おれは右にも左も立ってない。いいたいのは一定の例外は除いて、ひとには心や魂しいがあって、そして感情やおもい、望みや夢があるということだ。天皇や皇族の話題におれが近寄りたくないのは、そういったものをはじめから存在してないみたいに書く連中が蝗のようにいるからだ。あー、くそっ、おれはこうやってまたしても泥舟に乗って沈んでしまうんだ。だけど、れおは助けてくれとはいわないぜ。
 天皇制なんてものは明治以来のたかだが、150年ぐらいもので、それは近代化と欧米列強に対抗する、求心力ための、幣に過ぎなかったわけだ、そして近代が終わったいまとなって、そんなものに和合するのはいかにもばからしいことにしかおもえない。昭和が終わった時点で、国体としてのそれなんてものは幻想でしかない。いい方を変えれば、舞台装置に過ぎない天皇制を令和の時代になってまで、拍手するのは実に滑稽にしかおれには見えないのだ。祝賀会だったかで、中年男のアイドル・グループがばかげた歌を披露してたけど、あれでいい加減、眼を醒ましたやつもいるんじゃないか、天皇なんてもはや、ぺらぺらのお飾りでしかないことを。物語るという行為はそうした古びた偶像たちを葬ってしまうぐらいがちょうどいい。天皇制というパターナリズム、想像力によって内なる造反と破壊を昇華される行為、その軌跡こそが作劇の鍵におもえてならないんだ。妄想狂?――そうかも知れない。なんとでもいえばいい。おれはこの遊戯をつづけるだろうし、世界はそんなことを気にしちゃない。映画が、小説が、ただの学校道徳の射程内に収まってしまわないためにも、破壊と再生との往復運動が必要なんだ。睾丸を露出しながら、おれはこんなことを書いてる。室の鏡のなかで、まぬけなものを大まじめに書く男がいる。それがおれだ。きょうはちょっと熱くなりすぎた。ちょっとだけ赦して欲しい。付言すると、愛知のアート・イベントで昭和天皇の写真を燃やした行為だとか、ただの誹謗におれは与しない。ただ戦前の瘋癲病院に存在した自称・天皇葦原金次郎や、天皇にまつわるパロディ、風刺、諧謔の類いは赦されるべきだ。むしろ、天皇を細分化し、みなそれぞれ、おのれのうちなる「マイ・天皇」を携帯するくらいの余裕とユーモアが、いまの時代にあって、ふさわしいのではないかとおもってる。
 ネットは所詮枕投げの世界だ。でも、ときには枕の衝撃で死ぬ人間がいることを忘れるべきじゃない。おれだって、あんただってそうだ。エールの木箱をあけながら、口笛を吹いてるところへ、鉛のつまった枕が降って来るかも知れない。てめえが投げてるかも知れないんだぜ、ったく。

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 そういえば、曽我部恵一が「戦争反対音頭」という歌を発表した。おれはまだ聴いてないが、おれは戦争で死ぬまえに経済で死ぬほうが早いんじゃないかとおもってる。もちろん、戦争には賛成しないが。映画のフィルムが終わって、場内に灯りがつく。その3分ぐらいてまえで、事切れてるかも知れないんだ。――じゃあな。

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