みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

東京幻想

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 水の撥ねる音がする。暗い陸橋を高速バスで走りながら、ふと窓を見た。取り残されたみたいな丘のうえで、坐礁した海豚の群れが見える。でも、それは肩身を寄せ合って生きる建売住宅の群れだった。なんだか、さみしいものがこみあげた。バスは東京にいこうとしている。東京、――なんとも苦い地名だった。21のころ、あそこでどんなへまをやらかしたかを懐いだす。それも2度に渡っておれはあの土地にやって来たんだ。野心めいたものを持って。古い歌の文句みたいに《いけばいったでなんとかなるさ》とおもっていたのか、それともただ《ここではないどこか》を夢想していたのかはもうわからない。ただ5月に仕事をやめ、父から7万をひっぱって、東京にいった。おれは偉大な詩人になるべく、バスに乗ったんだ。おれはいまの師に押しかけ、弟子にしてもらい、そのあとはなんとか棲むところを探そうとした。でも、世間知らずのおれには賃貸物件の初期費用さえわからなかった。7万はホテル代で消えていった。やがて駅で眠ることになって、おれははじめてどうにもならないのを悟った。おれは諦めて帰った。東京で立身するだろうという幻想は、やっぱり幻想でしかなかった。それから2ヶ月経って、わるあがきみたいにしてまた東京に来た。とりあえず、という気分で、新宿高架下に坐った。ルンペンの老人が声をかけて来た。すぐに意気投合して、酒盛りをした。
  なにか仕事ないですか?
   シンナー売りとかどうか、でも、いまじゃあ警察がうるせえか。
   ホストなんかどうだ?――あんた、いい顔してるしなあ。
  倉庫とか、工場とかないですか?
   それならたくさんあるよ。
 新宿地下街で老人はおれを手配師に引き合わせた。ところが、その手配師はおれをほかの同業者に渡してしまった。行き先は八王子。駅から離れた住宅地に飯場はあった。木造の食堂に、大きなプレハブの2階建て。ひろい室にはなんの仕切りもなく、大人数が一緒になる。夏の暑さと相俟って、どうしようもなく、むさ苦しかった。おれはノートをひろげ、ただただなにかを書こうとした。でも、なにも書けない。あまりにも多くの眼がおれを見ていたからだ。けっきょく、2度めの東京もだめだった。飯場で知り合ったやくざを自称する男の口車に乗って、上野にいき、そこで金を巻きあげられて終わりだった。母に送金をねだり、夜行に乗って帰ってしまった。偉大なる詩人はそうやって、またも凡夫たる無職者に回帰したというわけだ。あれから、6年が経ち、おれは詩集を2冊、みずから出版して、わずかながらも金を得た。夏のあいだじゅうずっと、役所に隠れて、倉庫や弁当工場で夜勤をした。おれは生活保護を受けていたし、旅費を稼ぐのに、収入申告は邪魔だったからだ。9月、おれはふたたびバスに乗った。――水の撥ねる音がする。

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 川崎の重工業地帯を抜けた。夕暮れのなかを幾人かが降りた。やがて雲がのろくさく、流れていく空を追うみたいにしてバスは新宿へついた。バス・ターミナルに降り、バス・ターミナルから地階に降りた。新宿駅をめざして歩き、電話で知人たちに上京を伝えた。ふたりの男から反応が返って来た。ひとりはおなじ兵庫出身の詩人で、もうひとりは文藝同人をやってる青年だった。いっぽうは呑ませてやるといい、もうひとりは泊めてくれるという。そのとき、若い女が通りがりにおれにいった。――猫たちを戸棚からだして!
 なんのことだかは、わからない。女は去っていく。白い半袖、そして青いプリーツ・スカート。おれは方角を変えて歩き、コインロッカーに荷物を預けた。30分ほど経って、年上の詩人・古溝真一郎が現れた。かれと会うのは8年ぶりだ。そのとき、おれはたしかタワーレコードの2階にいたんだ。おれたちは挨拶も手短に居酒屋へいった。
  送った詩集、どうでした?
   まあ、予想通りに始まって、予想通りに終わるって感じかな。
 おれは落胆しながら酒を呑んだ。あと東京暮らしの利点を訊いた。
   どんなマイナーなことをやってても、おなじことをしてるひとびとと出会えるってとこかな。
  「手帖」なんか載ったことはありましたか?
   あったよ、――でもまあ、あそこに載るのはたまたま気の合う撰者いないとね。
 支払は割り勘だった。それから駅にもどって青年を待った。かれと会うのははじめてだった。ネット介して知り合った。喫茶店で話をしてから、かれの棲む中野へいく。ひとの群れがとんでもなく蠢いている。おれは所作のやりように手間取った。列車を降り、かれの室へむかう。そこは四畳半アパートだった。風呂はなし。便所は共同。室のなかにはPCすらない。机のうえになにやらテキスト類と、いっぽんの焼酎だけがあった。かれがどうやって文章を編輯したり、本にしてるのかはまったくわからない。かれの奢りで銭湯にいき、ふたりで酒を呑みながら、おれはかれの文章に意見した。可読性に欠けるなどといった。ほかのネット詩人についても言及したとおもう。よく憶えていない。かれが求めるので持っている詩集を1冊、あげた。蒲団もない室でそのまま、ふたり横になって眠った。――水の撥ねる音がする。

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 朝になっておれは室をでた。ネットカフェで原稿や、手紙を書き、印刷した。師である森忠明に電話した。かれに会うつもりでいたが、「いまはだれとも会いたくない、会いたくなったらこっちからいく」と断られてしまった。それなら仕方ないと、神田までいった。神保町で古本屋をまわった。あまり金に余裕があったわけじゃないから、ハヤカワ・ポケットミステリの専門店で、シャブリゾの「友よさらば」を買った。高校の修学旅行のときにいった、小宮書房にもいった。知り合ったばかりの、函館の若い詩人がかつてそこで働いてたらしい。
 おれはもはや東京で暮らすという考えは棄て去ってしまっていた。いまさら、ここに希望を見いだすにはあまりに歳をとりすぎていた。おれには新神戸の暮らししかなかった。地下鉄まで3分、スーパーマーケットまで3分、コンビニまで3分、市街地まで歩いて10分。室は11帖、板床、ワンルーム、家賃4万――申し分ない。たしかに身近に仲間も友人もいなかったけれど、これ以上、放浪するのはいやだった。放浪は20代で終わったんだ。30代はもっと実りあるものにしたい。それじゃなきゃ、生きている意味がない。
 おれはバスで東京を離れた。そして青森へ。それから新潟へ。そして大阪へ。梅田スカイビルから、再開発地区を抜け、大阪駅から三宮へ帰った。そうとも、いまさら東京にいく意義も理由もない。東京への欲望と幻想はすべて21のおれのなかで永遠に燃えつきてしまったからだ。
 あの旅から3年、小舟を漕ぐみたいにおれは言葉をつづる。荒れ地のなかでたったひとつ花を求めるみたいにおれは書く。やがて過ぎ去る夜、水あかりが天井で泳ぐ、おれは眠りから醒める。ああ、またおなじ場所にいるんだ。東京でもなく、ボルネオでもなく、透明な檻みたいだった北区の実家でもなく、この神戸市中央区生田町の安アパートに。うあまくやりおおせればいい。ともかく、現状こんなものだ。――水の撥ねる音がする。 
  
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