みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

学歴というもの──マミー石田を再考する

 


  そういう享楽的な諸君の姿を見ていると胸糞が悪くなります!──セリーヌ「死体派」


 かつてマミー石田という男がネット上にいた。おもに「高卒者」を嘲笑するためにアジビラまがいの投稿を繰り返していた。かれには追従者もあったし、かれのサイトには共犯者もいた。かれらはどこにいったのか。当時わたしは夜学の高校生で、じぶんが高卒者になってしまうことをひどく怯れた。もちろんかれらの影響によってだ。わたしは担任に勧められるまま、無名大学を受験した。3万円の受験料。なまえさえ書けば受かるという噂。けれどもわたしは落ち、いまではその大学もなくなってしまっている。石田は自称MITだったが、やがて東京大学であることが露見した。かれはひどくうろたえたらしい。かれのサイトには高卒者を嘲笑する小咄などもあった。たしかこうだ、──2台の自動車事故が起きる。警官がそれぞれの学歴を訊く。いっぽうは大卒、もういっぽうは高卒。警官は高卒者のみを勾留した。──まったくおもしろくはない。ただただ書き手の復讐心が稚拙に表現されているだけである。いやしくも高学歴を盾にユーモアをやるのであれば、最低でもモンティ・パイソンの作品は知っておくべきだろう。
 かれの主張は要約すれば「いまどき勉強のできないものさえFラン大学に通っているというのに、高校しかでていないものは頭に欠陥があるか、障碍があるとしかいえない」というものだった。ひとびとの俗物根性を煽るにはもってこいの主張である。ところが、ここにはふたつの疑問がある。大量生産された大卒という資格がいったいなにをもたらしたか、ということ。経済的な背景や発達障碍などの問題が見過ごされていることだ。かれはひどく不公平な見地に立ってものを見ている。そして知性と向上心といったものを学歴というひとつの基準でしか考えておらず、けっきょくはじぶんの気に喰わないものをいかに嘲弄するかが、主張の目的になっている。
 そしていま、はっきりとおもうのは知性や教養は学歴とは関係ないということだ。かれが学資と労力をかけ、東大に入ったのはたしからしいが、かれは品のない、そしてこじつけでしかない妄言を垂れ流すことしか、喜びがないのだ。おそらくかれの発言をいちばん真に受けたのは、かれの非難する高卒者のひとびとであろう。かれと同等か、それ以上の人間の共感を呼んだとはおもえない。かれとその共犯者が教養やユーモアを持たず、ひたすら下品な笑いをしていたのは、けっきょく日本の教育制度が、暗記を重視し、考えさせる、疑うということを教えて来なかったことにあるのではないか。だからこそ最高学府という場所で思考停止に陥り、そのさきの展望が皆無という情況を産んだのではないか。しかもこれはかれのようなネットミームの特殊例ではない。実際に大学以後、いっさい学ばずに老いていくだけの人間は多いだろう。社会にでてから学ぶということが、この国ではあまりに不寛容にしか受け止められていない。更新されない知識は古びていくだけなのである。かれの言動にショックを受けたものとしてわたしは書いている。ルサンチマンを学歴によって正当化することはできない。「わるいのはおれじゃない!」と喚いたところで情況はかわらない。当然のことである。かれのサイトには掲示板もあって随分意見を戦わせたらしいが、けっきょく自己の価値観の絶対化と、他人への侮蔑しか目的がなかった。相手が大卒であっても、つねに東大(文系は除外)やMIT未満は人間として値しないといったふうな応えだった。まったく不毛の一語に尽きるというわけだった。
 そしていま匿名掲示板で流行ってる言説は「高卒で地方公務員になったほうがへたな大学にいくよりも得」というものである。
 石田の主張から約16年ほど経って登場したのがこれだ。わたしはもうすでに公務員になる年齢を過ぎてしまってるのでどうしようもないが、理解はできる。ここには学歴で満足することなく、そのさきの人生を射程に入れているからだ。スノビズムにはちがいないとはいえだ。面壁九年といえばいいのか、ものを書き、読みつづけるなかでようやく本質がわずかに見えて来たようにおもう。石田がどう就職し、自己の不平不満や憎悪をいかに解決したか、しなかったのか、そんなことは想像する気にもなれない。どうだっていいことだ。しかし目的と手段をとりちがえた学歴論や、学習法のベストセラーがいかに多いか、そしてあいかわらず教育は一辺倒で、学びの多様性なんかどこにもない。国語は「作者の心情」をいい、英語は学習指導要領と学閥のために歪められ、体育は危険行為を強制し、数学なんかはわたしにはさっぱりだ。わたしはいずれ学習障碍を克服するために学習をはじめるだろう。ただしじぶんに合った学習法を試行錯誤しながらである。これはわたしの人生だ、あなたのではない。ひとを類型でしか認識できない想像力のなさ、人生の流れを手前勝手に定義づけするおろかさ、常識という幻想に囚われた果ての愚行、──もうやめようじゃないか、そんな相互監視な人生は。少なくともわたしは降りる、石田やその子孫たちを振り切って。かれをおもうとき、わたしは祖母殺しの朝倉泉少年を連想してしまう。じぶんの環境や、自身の至らなさを他者に着せることで、現実と理想とのあいだを埋めようとして死んだ少年の姿にどうにもかれがダブって仕方がないのだ。学歴がない人生は不幸だ、だが学歴を求める人生のほうが、もっと不幸である、という方程式も成立するのではないかとおもえて来てならないのである。かれには学力があった。だが知性はなかった。ユーモアも、みずからの対義も、そして客観性も、肉体的交歓も、半ダースほどのちっぽけな詩学も。

 
 最後に余談をふたつ、映画監督の黒木和雄は脚本を書いてきた松田優作にむかって「高卒ごときに脚本が書けるか!」と罵倒したという。これは伝聞に過ぎない。しかしほんとうならばかれが晩年に監督した原爆云々の、反戦云々の人間ドラマなどぺらぺらのお飾りでしかなく、権威に笠を着た、俗物根性の発露でしかないのではないか。加えて松田は伊丹十三をきらってた。なんだか同族嫌悪のような気がする。「魚眼レンズのように端っこの人物がぼやけてる」と松田は伊丹映画「お葬式」についていうが、「人間の証明」のような人物説明(描写ではない)ありきの作や、「蘇る金狼」のように動機不在のアクションありきの作に出演するところが、おれにはよくわからない。「陽炎座」や「家族ゲーム」は比類なき傑作だったが。
 もうひとつ、むかしに「真剣10代しゃべり場」という番組があった。あれもまた俗物根性を刺激するための装置であった。議題はいつも「10代は~すべき!」だ。いい加減ほっておいれてくれ、わたしの人生はわたしが決めるんだ、外野どもよ。かれらの人間性?──おれの人間性?──まあ、いずれにせよ、どうだっていいことだ。

 

追記:

この文章を書いてからすっかりじぶんの人生と折り合いがついてしまった。学歴なんておれにはいらねえ。どうだっていい。

学歴フィルター (小学館新書)

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非学歴エリート

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