みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

SEALDsと居酒屋甲子園と感動ポルノ


 3年まえのある夜だった。わたしは瘋癲病院にいた。通算7回めである。本を読んでいた。ロバート・キヨサキのベストセラー本だ。「貧乏父さん、金持ち父さん」である。大した本じゃない。テレビはうるさく、くだらないし、書くこともなく、ただ読んでいた。そこへテレビを観ていた初老のデブが声をかけて来た。──本読むの?──ええ。──大卒?──いいえ。──やつはそれきりなにもいわずにテレビにもどった。いったい、なにがいいたいんだ?──大量に産みだされる大卒=学士という資格にもはや価値などあるのだろうか。わたしは腹立ち紛れに大学論をおもいながら本を読んでいた。痛ましいことに教室や塾にいき、講師や教授のまえでしか学ぶということができない人種はたしかにいる。そしてそれが当然であり、そこから逸脱したものを平然と侮蔑するものもいるのだ。ただそれだけのことである。なにがいいたいのかといえば、なにもいいたくはない。
 ただ当代の漂流物としておもうのは、大量生産のおなじ顔がどんな階層でも幅を効かせているということである。いまやアウトサイダーとインサイダーを見分けることはできない。ポン中らしい髭面の若者にも、わたしが大卒ではないというや、「うそでしょ?」などとうすら笑いで返された。あるいは22歳のとき、自動車学校で「大卒以外とは話もしたくない」という男に出会したこともある。まったくばからしい話じゃないか。色眼鏡をかけたがる、戯けた大立て者たち。いまの大学すべてに入学と卒業の価値があるのか、わたしには疑問だ。人口比に於いて増えすぎているし、いまでは程度のひくい入学者のためにテーマパーク化したり、一般教養や礼儀作法を教えているという記事もある。なによりも不満なのは高等教育を受けながら議論や批評のひとつもできない抜け作が多いということだ。大卒の資格は決して倫理的模範になり得ていないことについてほとんどのひとは無智であるといっていい。しかもその資格はこの国に於いては更新されずに朽ちていくだけなのだ。それを如実に顕現させたのは昨今の学生運動だろう。われわれがなにひとつ進歩していないということを解らせてくれる現象だ。
 SEALDsとかAEQUITASとか、とにかくいろんななまえが乱舞したものだが、横文字で表せればなにものであるかのように感じているだけかも知れない。では「未来のための公共」はどうだろう。これもおかしななまえだ。いったい公共とはなにを指すのだろうか。公共心か、公共性か。いまひとつイメージが湧かない。それはかれらの曖昧な論理に随行しているようにも感じられる。かれらかの女らには批評能力も自己分析能力もあるようには見えない。あるのは情緒であって、それ以上には止揚しない。とあるレーベルがかれらかの女らのドキュメタリー映画「わたしたちの自由について」を販売していたが、その惹句や予告篇はまるで「一夏のおもいで」とでも形容するしかないようなものだった。反戦反核も反改憲もあらゆるものが過古でしかないのである。議論や定義づけを識らず、また批判精神もない。外部から突っ込まれれば口汚く開き直るだけ。それで以て高等教育の最中にいるのだから、救いようがない。
 数年まえ、「家賃を下げろ」というデモの記事を見た。デモが行われたのは新宿である。知性があるとはとてもおもえない。わたしの若い知人は中野駅のそばに棲んでいるが、共同便所、風呂なし、四畳半を2万で暮らしている。さすがにそれは極端な話だが、探せばあるのだ。それに生活保護だってある。もちろん、困窮にある学生にはそれなりの手当てがあって然るべきとはおもう。しかしそれを新宿の街頭で叫んだところでなににもならない。ただのガス抜きで終わるのが眼に見えている。せめて「緊縮財政反対」や「通貨発行権を国に」を叫んで財務省日本銀行なんかを囲ったほうがよかったのではないか。
 《指導者が戦略も方法も持たない反体制の運動は、大衆をいら立たせるだけだ》──かつて寺山修司は自伝的エッセイ「悲しき口笛」のなかで語っている。おなじように「デモじゃ世の中は変わらない」とも。そして政治が変革しうるのはほんの部分であって、家出や大学解体の可能性を岸上大作に話したといい、かれの死について《そこには甘えがって、ほんもののニヒリズムに欠けていた》としている。デモは所詮、自己完結したぺらぺらのロマンでしかない。数の増大とその陶酔感、そして派手でパフォーマンスとかりそめの結束感、そういったものに骨抜きにされてしまうひとびとには社会を変えることなど、ましてやじぶんを変えることもできないだろう。わたしにはかれらと「居酒屋甲子園」の区別がつかない。それはけっきょく感動やら情緒やらの押し売りであって、もはや政治でもなんでもないのだ。依頼心を以てして運動や既成の政治屋どもに将来を仮託しているに過ぎない。内田樹にしろ、詩人の谷内修三にしろ、立場を持った「大人」たちが若者の情動をさも実存のある運動と呼んでいるのは、あまりに情けないことである。かれらは文学の辞と政治の辞のちがいがわからないどころか、情緒と論理の区別すらついていないのではないのか。そうおもわずにはいられない。かれらがやっているのは所謂「感動ポルノ」であり、ひとの心のすきまを狙った賤しい商売でしかない。たしかに大勢が集まってひとつの声を成すのは気分がいいだろう。けれどもその先がない。野党連合もけっきょく意見形成のための議論をせず、ただただ時流と雰囲気だけで終わった。学生たちも情動が意見に先行しており、おなじように議論を避け、行為だけが残ってしまった。
 既成の権威を払いのけて議論を尽くし、声をあげるというのならわかる。しかし、かれらかの女らは組織や
集団のなかに紛れてしまい、議論どころか肉声さえも匿ってしまった。そして対抗馬が次々と自壊するなか、安倍政権だけがいまも健在でありつづけ、さらなる緊縮と増税が待っている。国会中継はまるでフェイントだらけのラフ・プレイに見えてしまう。反則もないかわりに鮮やかなK・Oやカウンターすら拝むことはできない。まるであらかじめ筋が決まっているようにしか見えない。わたしは以前、「日本語には対等という概念が存在しない」というような言説を見たことがある。「おまえは下、おれは上」、その構造に沿ってものが語られ、過ぎ去っていく。こうした言語学的問題を意識において話せる人間がいなければ、これからもずっと情緒の垂れ流しは終わらないだろう。
 そういえば数ヶ月まえ、わたしは「ザ・議論」という小林よしのり井上達夫の対談を読んだ。小林の口絵で大きくミス・リードされているが、基本として井上がカウンターを打ち、それを小林が避けようとするだけの本だった。小林は天皇制やAKBの話になると嬰退的かつロマンチシズムに濡れてしまうくせに、天皇制やAKBやパチンコが批判の的になると、それを嬰退的なもの、あるいは奇麗事ととして片づけてしまう悪癖がある。いわば情緒を情緒で排撃しているのだ。わたしからすれば天皇制もAKBもパチンコも、ひとの心の弱みにつけ込んでいる悪しき被造物、悪しき商法に他ならない。神聖なるもの、熱中できるのものを求めるのはいい。しかし、そのために天皇家から基本的人権を奪い、少女たちに危険と背徳を負わせ、射幸心を煽り、精神的・経済的畸形を大量生産することにわたしは与しない、否をいう。そのためには議論が必要であるし、大学というものの解体を含めて可能性を探ることだ。
 つい先日のこと、わたしは作業所にむかって廊下を歩いていた。ある扉にこう書かれてあった、「介護甲子園」──これほど強烈な皮肉がほかにあるだろうか。苦味を舌にとどめ、わたしは作業に入った。またもドラッグストアの商品画像置き換えのために。

 

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