みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

天体妄想(1)


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 Don't call me "past". ('cause) I wanna live to "now"

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 夢の断片にいくつかの扉があり、黒人の運転手は窓から垂れた腕で、車体を叩きながら急発進する。女は慌てて、札束を外套に包んで車を追いかける。ハマナスの唄が消える地点まで走り、ついに男を捕まえる。男は女がじぶんを彫琢された鰯に変えてしまうという危険を感じて耳の坑から22口径で2発発砲し、女は死ぬ。これで24歳のアジア人女性は死亡する。事件はベイ・シティのカントリー・アヴェニューで、2815年15月、当時はさほど騒がれておらず、当時の検察の調査でも、2021年には合法だったとされている。しかし、最初の報道から2年、アジア人女性の家族が修飾詞との混合をめぐって警察とマックスヘッドルームの制作者、そしてこの文章の語り手を提訴し、賠償を求めている。
 だがイタリア人の下着屋は、仮想空間を駆使していない。どうせ違法文民で、下着販売だと、5年はかるく収監されるから、イタリア人にできないことが、アジア人にできないわけはないのだ。
 コーヒーの原材料としてコオロギが期待されているという短いニュースのあとに、バスタブでキッシンジャーの伝記を読むギンズバーグの下半身が彫琢された。犯人は移民管理局の情報部員で、その動機は「朝食にポークチョップをだされたことの報復だ」という。かれには栄養が必要だった。おれは手で慰めた。もう、どうだっていい。

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 Twitterに於ける、ある投稿に触発されておもいつきを並べてみた。もちろん、語法の模写に過ぎない。おれの詩は「サービス精神に欠ける」と森忠明がいった。まさしく、その通りだった。じぶんの気持ちいい言葉をただただ垂れ流しているに留まっている。どうしても淋しい夜、おれはこうやって、じぶんを再魔界化してくれるだろう、辞をねだって、裏切られて、落ちてしまうんだ。たとえば、幼稚園のとき、おれは脱走が好きだった。みんな裏切って驚嘆させようとした。しかし、得たものは母親の失望でしかなかった。耐えられないほどおれは集団がきらいだった。いまもきらいだ。数の増大は陶酔に過ぎないとボードレールがどっかでいっている。まさに然りだ。そのことについて議論をするつもりはない。ただ増大から逃れたものが至るものがなんなのかをおれは識りたいとおもっている。
 絶えざる怠惰の引力、そのなかで芽吹くものは何者なのかを検証せずには、人生を解き明かす方法を、皮膚ではなく、ロジックに依存して解き明かさねばならないという現実にぶつかってしまうからだ。わたしはもう37で、できることはそんなに多くない。もちろん、歳を得てこそ可能なことも多いが、まずは時間の無為さに震えてしまう。
 アメリカ人は多くの現在を背負い込み過ぎている。だから公正を否定してでも黒人を擁護する。でも、いまのところアジア人には眼もくれない。タイムラインを流れるニュースやコメントは、分断を当然と見做したり、否定するかで、将来的なビジョンを提供したりしない。朝餉のシリアルとおなじビートで物事は語られ、そして忘れられるということだ。娯楽作品はしばしば白人と黒人の立場を逆転させることが正義のようにふるまうが、スーパーマンを黒人にしたところで、スーパーマンを誕生し、存在たらしめた時代についての考察をみずから放棄しているとしか、おれにはおもえないんだ。ほんとうに可能なのはお互いの正義の拠出を時代性を前提に認め合い、それを克服しようとする意志だけだ。でも、たぶんそれが可能なのはまだ生まれてもいない子供たちによってだけのことだろう。なにかも遅すぎるぶんに早すぎるんだ。おれにはそうおもえてならない。もちろん、差別を助長しようとか、情況を煽ろうとか、アジア人は武装するべきとか、そういったことじゃない。これは魂しいの問題だ。
 キリスト的神が不感症に陥っているなか、イスラム的神が世界にテロと文化的軋轢以外のなにを及ぼすのか、おれにはわからない。近代を経験しなかった宗派が、いかに現代と折り合いをつけるのかを見るのは、数百年もあとかも知れないし、たぶんおれは生きてないだろう。なにも悲観主義になりたいといわけでなく、ひとつの文化を怨恨で焼き尽くしてしまうまえにできることがあるのかを胸に問うだけだ。おれはいま「悪魔の詩」の訳者について読んでいる。かれがどうして、それを訳したかについての本だ。詩という文学形式が生々しさを以て生きる世界では、「ポエマー」などという野次が情況をごまかし、諷刺のつもりになっただけのこの国とを分かつ生命線のようなものを読み取ろうとおれはしている。戒律が法律を越えうることが非現実的でないいま、宗教を阿片と比喩したといころで、戯れにしかならないということを識らねばならないし、見えない、不特定多数の、危険物を抱える人間と渡り合わなければならない現実に、否が応でも直面しなければならないのだ。それを単純に歴史の繰り返しと呼んでも、社会的な、地理的な、脅威であることを認めなければなにも動かない。もはや異分子への反発ではなく、これは同居する社会の、価値観との理解の是非がテーゼだからだ。
 でも、これはおれの語ることじゃない。おれはもっと語る価値のあることある。排除アートの行方や、おきざられた、閉じ込められたものの生命について、そして未来を渇望しながら、きょうに飢える同胞たちへのまなざしが、言動が、待っている。少しでも孤立を救う手段をおのれのなかに胎教する手段を内在しながら、作品を、あきらめずに声をあげることをいま為すことがほとんどなんだ。

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 ちょっとした散文、「学歴というもの──マミー石田を再考する」を書いたのはもう'18年のことになる。いまだに閲覧数のトップだ。なにがひとを惹きつけるのかはわからない。ただいえるのは、おれがあれを書いてから、おれのなかで学歴の話がどうだっていいことに変わってしまったことだ。つまりはじぶんの人生に折り合いついてしまったことだ。初稿を書いたときは、迷いがあった。こんなものを書いて反発がないかと。実際はだれも気に留めなかった。だれもコメントなんかしなかったし、炎上も当然なかった。それはおれの痴聖の為せる業かも知れない。
 個人的には学歴について「あったほうがいい」とおもう立場だ。ただマミー石田のように他者への邪推を視界に入れてしまうのはたぶん、じぶんの人生に納得がいっていないからだろう。だからこそ、他人を攻撃するためのサイトや、言辞が必要だったんだ。好いようにいえば、まだ他人に愛着があるのだろう。おれはそういったものから、すっかり離脱してしまったし、じぶんを含めた人間がくそったれやろうで、救いがたい存在だとわりきっているから、数日まえに見た記事のように《学歴がないから女ができない》とか《学歴があるのにスーパーでパートしている》とか、そういった他人のどうでもいい問題にからめられずに済んでいるとうことだ。まあ、自由意志という語ほど怪しいものはないし、だれだって育成歴と関係性のなかでつくられてしまった自己について不平をいう権利はあるとおもっている。他人を害さなければ、それは赦されたっていいだろう。おれだっていいたいことはいってきた。
 ただ怨み節で完結してしまっている人間に対してできることがないってのが厄介だ。自身の学歴に対して、不平をいわれても他人にできることはない。おれはセロリを喰え──(未知のものを喰え)というだろうし、ほかの人間はほかのことをいうだけだ。かれらかの女らにできることはまるでない。学歴はスタートでしかないし、おれのような人間には必要ない。スタートがまちがいなら、やり直すか、開き直るかするがいい、ほかがだめなら、ほかを補うしかない。ともかく、おれは学歴をめぐる話題には答えがでているから、近寄らなくなった。
 このごろ、悩ましいのはせいぜい、非定型発達者とシリアルキラーを混同した言説くらいだ。まあ、それだって、蝗のゲップみたいなもので近くにいなければどうってことはない。

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 05/08

 2時過ぎて手淫。またもだ。それから3時過ぎて床に就く。二度寝して10時過ぎに起きる。朝餉。11時を過ぎるころには強烈な眠気でフォール・アウト。眠る。姉殺しの夢を見る。実に些細な描写がつづく、どうしようもない夢だった。親兄弟がおれの室に越して来るところからはじまって、車での家族旅行。院卒の姉の変貌と狂気。最後は松阪牛とともに焼かれる姉。歪なエリート意識に固執し、それを手放せないなかで死んでった。殺したおれをみながねぎらう。警官さえもがだ。服にかかった灰を室で落とす。母も「あれはもうだめだった、殺してくれてよかった」という。おれは「そうだね」と肯きながら心のなかでは「そりゃ、たいそうな投資をしたからな。定時制卒のおれとはちがう」と突き放す。
 小説のネタになるかも知れないが、ひと殺しの話を私小説にように書く気にはなれなかった。少なくとも、おれはひとを殺すほどの愚か者ではなかった。愚かにはちがいはないが。これは設定を変えて、「無限回廊」などの事件サイトのように淡々と書いたほうがいい。ただ1行、《便所の昏い廊下や、椿の樹にとまった夜光虫がなんだか、ひどく大きな意味を持っているかのような気がして瞑目した》という一節は入れたい。妹の視点で書くのもいい。あるいは架空の継子のそれでもいい。とにかく、現実に固有なものから離陸したい。
 気づけば、もう14時だった。図書館へいったほうがいい。郵便が来てる。森先生からだった。やはり詩はウケない。でもけっきょくは電話してしまった。ポンティの引用をして詩を批判される。そのあと、おれのかつての詩には「皮膚感覚があった」といわれる。「テーマを絞れ」といわれ、終いには「エロスを描け」といわれる。「薔薇の香りで女性器の香りを包め」といわれる。終わって15時半に外出。図書館へ。不要不急の本ばかりを借りた。帰って酒を呑み、いくらかの随想に耽る。よし、今月は「エロス」をテーマに小詩集を編もうとおもった。それもきみはおれを人非人のようにいいふらすだろうか。

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 わたくしごとなればセロリ青しといいこれを䈭める暮らしの手帖


 ゆく春に語るものなし倖せな大人でいたいという欲望よ


 夢ならば天使の頭蓋抱えつつ燃ゆる七月藍く塗りたし


 願いすらなく索漠のうえをゆく一言居士のような心臓


 花月のみどりの化石 愁いとは花のしずくにかざす銀河か


 贋詩人・カマキリ・海賊・テロリズム・みなまぼろし砂丘へ集う


 西部劇のポスター枯れる魚影がひとの姿を借りる色彩


 「ユカコ」すら代名詞となりぬ夜のかたわれ足りぬ木々のさまよい

 
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