みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

おれにだって死にたいときはあったし、うつろなときもある

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 頭に充電器をぶちこみたい気分だ。長篇小説はほとんど泥沼、入稿した端からまちがいが見つかる。けっきょく1万5千の損だ。それだけあれば椅子だって買えたというのに。きょうになってようやく最終稿。予算さえ赦せばもっと余裕のある文章をかけただろう。頁300くらいで。手頃な印刷所を探さねばならない。来月までの4日間、どう過すかだ。キングブラザーズの旧作を注文した。なんとか精神的な豊かさが欲しい。読書は、ジェムズ・サリス「コオロギの眼」を再読したところだ。あとスタージョン「輝く断片」、ボルヘス「詩という仕事」、バロウズ裸のランチ」、「雨月物語」を読んでる。いつも通り、選択肢が多すぎる。あるいは少なすぎる。おれに課せられたことの半分もできちゃない。課したのはだれか?──おれ自身だ。来月には小説と詩集をあたらしいところでテスト印刷したい。「製本直送」は便利だが、やはり高すぎる。1冊ごとの単価をどう抑えるか、それにかかってる。あるいは小ロットで刷れるところにかかってる。短篇集のほうは止まってる。ふるい作品を記憶を頼りに復元しただけだ。いままでとはちがった作風のものが書きたい。そのために本を読む。
 短歌のほうは、とにかく結果でないと話にならない。「研究」にしろ、「角川」にしろ、実を結ばなくてはならない。いまのおれができるいちばんの表現は短歌だ。あとのものは理解されるまでに半世紀はかかってしまうだろう。詩にしろ、小説にしろ。このまえ「手師の惜別」という題で、40首つくった。最近のように賞に合わせてではなく、ひと月に1篇は最低でもつくることにしょう。腕が鈍ってしまうから。森忠明は《寺山修司の影響が消え、中田満帆の歌になって来た》という。たしかに最近はずっと寺山短歌に触れてない。もっとべつの、短歌以外のものからの影響が多いのだろう。

 このblogもtwitterも、そのほかのSNSもみな、いまのおれにとっては食傷気味だ。おれのようなペストに近寄って来る人物がいるとして、かれらかの女らになにかを求めてもしかたないのかも知れない。ネット復旧のために負債を返し、──あと1万4千──溜まった電話料金もなんとかしなきゃならない。12万。むずかしいところだ。書評や映画評を書くなり、もっと生産的なものを書けばいいものを、その力がいまは湧いて来ない。細かい調べものもできないうえに沙汰止みごとで足許がいっぱいだ。他人のウケを狙ってもしょうがないが、永遠のマイナーとしてやっていくほかはないのか。情熱と方針を見失い、さまよってるばかり。人脈も実績もない以上、どうすることもできないのか。
 去る年、おれは自裁に失敗した。ヘリウムで死のうとしたが、ガスがあまりにも苦しく、かぶってる袋をやぶってしまった。30すぎると1年なんてすぐだ。気を取り直して生きることにしてる。まあ、なんとかなるさ。