みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

きらわれもの

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  ●きらわれることについて

 

 そのときその場所でいちばんの女に惚れてきた。きれいな女どもはわたしに腹を立てていなくなった。男たちもまたわたしに嫌気を差して去っていった。数年まえのことだ。わたしはフェイスブック上で、自身の怒りと恋情をさらけだしてむちゃくちゃになった。かつての同級生たち全員にきらわれてしまった。どうしようもない。冷静になったいまでもそのことをおもい、どれほどじぶんが野卑だったかをおもう。だが、考えてみれば問題を起こさずともかれらかの女らとうまくやっていけたというわけであるまい。けっきょくうわべの付き合いを熟し、本音をいわず、ただただ卑屈になっていただけだという像が見えるのだ。もとからわたしは棲む世界がちがう。まともなものからはぐれてしまった迷子なのだ。わたしの書くものはわたしの異差から生まれてるといっていい。おまえなんかけつくらえ、である。
 わたしはようやく立ち直り、作品を書いている。しかしいまわたしの書くものを読むのはみんななにかしら書いているひとびとだ。ミュージシャンズ・ミュージシャンなら格好もつくだろうが、同業者とばかり馴れっているのは居心地がわるい。わたしはもっとそとへでる必要がある。ただどうしていいかはわからないのだが。今月は録音だ。とにかく曲を録って世に出すためにかたちをつくらなければならない。全9曲。しかし練習しているのはうち2曲だけだ。ほかは歌詞も忘れてる。4年もまえにつくったものだ、仕方がない。

 大抵の作家や詩人の人間性を許容することはたやすい。しかし作品となれば別だ。愚にもつかないといっていい。わたしは人間としてやさしくはなれるだろう。しかし書き手としてはまったく別だ。きぶっせいで、傲慢そのものだ。だからわたしは他人の作品に言及しないことした。相手が求めるのならともかく。このまえ「女の子のためのセックス」という詩集を評した。若い女の作品である。しかし褒めることばが見つからなかった。けっきょく立場があやふやなものを書き、その場を凌いだというわけだ。臆病なのである。かの女はさぞやおれをきらっているだろう。あたりまえだ。
 わたしにできることは最良の作品と出会い、それを歓迎することだ。それ以外の作品について時間を費やすべきではない。というわけである。べつにじぶんの作品にうぬぼれているというわけじゃない。だめな作品、だめなままで終わる作品、なにかが光ってる作品、光るだろう作品──それらのちがいくらいはわかるということだ。
 きらわれることは存外にわるくないことだ。みんなおれをほっていてくれる。なにをいおうとも、書こうともだ。だからわたしはかきつづける。短歌を80首、小説をいっぽん、そいて暇つぶしなこんな散文でさえも。たとえば休日に「遊ぼう」などといってくるものはないし、電話も、訪問者もない。もちろんそれらが淋しいときもある。そんなときはやわになったじぶんにふさわしいだろう作品を観る。セックス──おれにはわからない。それを楽しもうとすれば大枚がかかってしまう。わたしを愛してくれるひとなぞいないからだ。
 きのうからエル・ファニングの新作が上映されている。それを観るとしよう。小説へのおもいはもうしばらく熱くなるのを待っているしかないだろうから。


  ●きょうのめし

 

 チョリソーとブロッコリーを炒める。そこへトマトソースを投入。ローズマリーをまぶして食す。そしてあまったチョリソーを酢漬けに処す。 


  ●最近買ったもの

愛と笑いの夜

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SIMPLE SONGS

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Weatherhouse

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