みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

政治

 

f:id:mitzho84:20171110223125j:plain


  球根を赦すまじや花という禍のために野は濁れり

 

 

 ぼくはほとんど政治や歴史を手放して来た。それ自体組織ではないかとおもった。新聞はあいかわず見出しとしショットのレイアウトの産物であっても、思考の産物ではない。いかにかれらが考えてるかをかたちにしただけに過ぎない。でもだれも考えてなんかいない。だれが悪く、だれがいいもので、やってることは児童漫画とちっともかりはない。だれかを悪魔化かしたところでだれも救われないし、だれかを絶対の善にしたって、そいつはぼくたちを連れてってなどしてくれやしない。

 ぼくは政治や社会についてオニピオンよろしく書きたいとはおもわない。そうするべきとさえおもっていない。日本語がだめなんじゃない。社会が、ひとびとが、報道機関がことばの使い方、在り方についてひどく無関心でありつづけるまでぼくにいうことはなにもない。新聞記事をみてごらん。はでな見出しに、写真を貼りつけてしまえばもう完成した気になっている。考えたつもりでいる。ただあるのは自我と願望だけだ。だれがだしく、だれがまちがってる──そんな内容ばかりつづく。考えている気になってる読者はなににも気づいていない。かれらかの女は誤解しつづける。気の利いた引用文でページを埋めることもできるが、残念ながらいまは午前六時で、ぼくは不眠症だ。ぼくが望むのは温かいベッド、そして緊縮財政の終焉である。減税なんてむだなことだ。小銭をふところにしまうみたいに箪笥にしまってしまうだろいう。だがこうしたことはニュースにはならない。対立を呼ばない話題なんかにあいつらは興味なんぞないんだ。
 モリカケ(いったいなにが問題だったのか)、もと天下り官僚、コンクリート業者、みんなどっかに消えてしまった。あとにはただ憎悪だけが残され、そいつを焚きつけられたわれわれがまぬけだというだけである。印象と感情のカットアウトによって思考するということはできない。正しい情報と映像だけがわれわれに思考をさせてくれる。まさかきみのいない場所でほらを吹いたりなどしない。だからきみのその美しいスカートを眺めさせてくれよ。
 それでも幼いころには政治番組を見て怒ったものだった。目障りながきだった。家では産経新聞をとっていたし、わたしは小林よしのりの漫画を持っていた。かれらの問題は感情を事故補正するために時事があり、論理化の手立てがあったが、もはや中毒の域に達しているということだ。《怒りは力になる、しかし憎しみは停滞する》というようなことをジョン・ライドンはいっていた。だれもがもはや停滞していた。腑抜け呼ばわりを承知でいうが、かれらにはもうくその投げ合いしかできまい。
 わたしにできることは直端な感情や視座にとらわれず、できるだけ静かに語ることのだ。いつも通るセンター街の入り口で反基地運動の老人たちがわめっていた。かれらのようなひとびとから社会参画の機会を奪いたいとおもわない。ただあの進歩のなさ、主張の一方通行さはもしかすれば《社会の一人としてのわれらを忘れないでくれ》という悲しい叫びともおもわれないだろうか。一瞥をくれ、去っていくぼく。ぼくは政治や歴史を一度捉えなおしてみたい。教科書のそとあって新しい本を手にとること。《アベ政治を許さない》というがフレーズがむなしくひびくなか、ぼくはまっすぐな道の真ん中で歩みたいのだ。

 やがてレコードは壊れ、《アベ政治を許ささないを許ささないを許ささないを許ささないを許ささないを許ささないささささないいい》となっていく。

 憎悪と騒音のなかに眠る言葉をいかに目覚めさせるかが問題であるだろう。──ところできみの脚はどしてそんなに艶かしいんだ?

 

 

  

歴史とユートピア

歴史とユートピア

 

  

「悪くあれ! 」窒息ニッポン、自由に生きる思考法

「悪くあれ! 」窒息ニッポン、自由に生きる思考法