みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

仮面ライダーBlack Sunと悪についての考察(23/03加筆)


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 安倍元首相の狙撃が起きてから、『仮面ライダーBLACK SUN』が配信された。監督は白石和彌。わたしはかれの作品を『凶悪』しか観ていない。たまたま題材との相性がよかったのか、原作がよかったのか、なかなかの作品におもえた。いっぽう、足立正生は『REVOLUTION+1』という題名で狙撃事件を映画化した。──未見。──両者とも若松武門下の人間だ。どちらも安倍をモチーフにした人物が殺害される。
 この作品について、もはや重箱の隅を突くようなマネはしたくないから、総論として書く。そういった些細なところを論じたいひとは5chを見ればいい。このドラマにはあまりに悪が氾濫している、というよりも悪しか描かれない。ほんとうなら正義を描くための特撮ヒーローが、正義もヒーローも描かずに、悪とスカムのような人間たちしか描写できず、多くのパートでは現実世界の政治や社会問題が稚拙な写し絵のごとく描かれるのみだ。

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化石の時代

 

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 愛されてゐしやとおもう牧羊の眼のひとついま裏返る


 流されて種子の絶滅見送れば秋の色さえ透き通るかな


 足許を漂う季節いつかまた看板ひとつ降ろされてゐる


 涙とは海の暗喩か岩場にて蟹の死骸を見つむる午後よ


 さらばさらばよ石くれの硬さをおもうわれの郷愁


 暗がりの道で迷子にならぬようきみの手を引く幽霊の声


 時にまたひとり裁かれながら立つ図書館まえの駅の群衆


 チョコレートバー淋しく齧る午后の陽よいまだなにも了解せず


 秋の水光れるなかを走り来て憂いを語る少年もゐる


 ジューサーのなかの果肉が踊りだす夜勤終わりの朝の食卓


 声ならばここにあるぞといいかえす夜の隧道終わりが見えず


 塩を甞める いつかの海をおもいたる寂しさばかりわれに与うる


 ああ、いつも≪城よ 季節よ≫と口にする秋のさむさがなんだかやさしい


 歯痛とて季節の比喩か朝時にわれを慰むわれの手のひら


 猫すらもゐない公園 遊具らのかげが鋭く光るゆうぐれ


 ひとびとの顔うらがえる陽のなかでいまだだれかを欲る一瞬よ


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ビートルジュースの喇叭呑み


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 おもえばあのときはひどく酔っていた。──もちろん、そんなことはいいわけにならない。──けれども道中ずっと呑んでいたのはたしかだった。──おれは過去から逃れようとする一匹の鼡でしかない。──そしてかの女は遠くの土地で、きっとおれを軽蔑しているだろうとおもった。──でも、──かの女こそがわが藝術のミューズであり、──ファム・ファタールなんだ。──かの女がおれを拒絶したからこそ、──おれは詩をより多く書いたし、曲も書けた。──もしも、──もしもかの女がおれに好意的で、「いい友達でいましょう」などといわれていたら、──おれはいまごろ骨抜きになってなにも書けなかったにちがいない。──かの女の意思がどうであれ、──かの女がおれのイメージの原点であったことはあきらかな事実だった・・・・・・。
 おれはあの日は朝から酔っていた。そして列車に乗った。神戸線から福知山線へ。尼崎から西宮名塩へ。そこでバスに乗って、北六甲台を目指す。西宮のやぼったい雲の許、どうしたものか、手前の養老院のまえで降りてしまった。酔ったまま、養老院で道を訊く。女たちがやさしく教えてくれて、おれはまたバスに乗った。バスが丘の上をゆく。おれは停車ボタンを押した。降りたおれをバスが追い越す。小さな砂塵が舞い上がる。そのなかを進み、理髪店のまえで停まった。そしてドアをあけた。テレビで見たことのある男がいた。福知山の事故で母を失った男だ。いまでは理髪店の主をしていた。
  こんにちは、ナカタといいますが、
  いまさらながらお悔やみをいいに来たんです。
 男は戸惑った顔でおれを見た。当然のことながらだ。
    小学生のころ、この店で髪を切ってもらってたんです、それで。
      そうでしたか。
    いちどあなたのお母さまに剃ってもらってるとき、
    動かないでといわれたのに、動いてしまって、
    切ってしまったこともありました。
    あのひとはとてもやさしいひとだと記憶に残っています。
      それはありがとうございます。
 かれは引き攣った顔で答えた。おれはまわれ右ででて、北六甲台小学校にむかう。おれはずっと成人記念に呼ばれなかったのを怨んでいた。ほんとうなら、そこでかの女──佑衣子とも再会できたはずなのに。おれは担任を怨んだ。佑衣子との接点を破壊した男を。小学校の終わりちかく、かの女がおれにくれた、自己紹介のカードにおれは悪ふざけの替え歌を書き、そいつをやつが取り上げたんだ。そして「だれにもらったのか」を執拗に問い糾した。やがておれはかの女だといい、やつは、──浜崎はかの女を教卓に呼びつけた。おれの眼のまえで、かの女がなにかいわれている。でも聞き取れない。恥ずかしさと怒りでいっぱいになったおれはけっきょくいない存在にされてしまった。おれのカードだけが棄てられてしまったんだ。
 いつかの夜、おれは小学校に電話をかけ、浜崎をだせとわめき散らした。いまとなってはどうだっていい。それでもそのまま校舎に入って、職員室にいった。校長らしい小男がせっせとマスを掻いていた。剥きだしになった男根が凋れた茄子みたいだ。
    これは失礼。
      あなたは?
    卒業生で、作家です。
      サッカー?
 まあ、そんなところです。
      なんのようですか?
 吊りズボンを直しながら小男がいった。ほかの教師たちはみな授業中だ。やつはなにごともなかったかのようにこちらへむかって来た。
    ‘97年の卒業なんですが、浜崎先生っていまどうしてます。
      あの方なら、数年まえに亡くなりましたよ。
      九州で。
    あ、──そうですか。
    わたし、タイムカプセルの掘り起こしに呼ばれなくて、
    心配してたんですよ。
 やつはなにもいわなかった。おれはまたもまわれ右だ。ほかにいくところもなかったから、寺島京成の家にいってやろうとおもった。やつはおれから借りた子門真人のレコードを疵物にして返して来た塵野郎だった。やつの家のまえには車が3つも駐まっていた。やつを叩きのめしたい気分だったが、できなかった、呼び鈴も鳴らさずに歩いてゆくと、村上佑衣子の家があった。ここには1年まえにも浪越彬と通ったことがあった。あれから1年、まったく早いものだった。あれから数ヶ月でバー・ロウライフの仕事は辞め、夜勤の倉庫で金をつくり、東京や青森、新潟へいったんだ。けれども、いつだってかの女のことが頭にあった。どうやっても忘れられないものがおれのなかにあった。まさに軛のようにかの女についてのおもいや、記憶がおれを縛りつけている。こんなにも溢れるおもいをどうすることもできなかったからおもわず、呼び鈴を鳴らしてしまった。酔って莫迦をやっているのは明らかだった。
  もしもし、佑衣子さんの同級生のものですが。
   佑衣子はいませんよ、わたしはかの女の祖母です。  
  それでもいいんです。
  かの女に謝りたいことがあるんです。
 あとは訳がわからなくなった。玄関のまえで土下座をしたり、挙げ句には怒声をあげた。「みんなして、おれのことを莫迦にしてんだろう」とかなんとか、正直にいえばまったく憶えてない。もったいないことに。憶えていればもっと書くことがあったのに。やがて近所らしい太った男がやって来た。
   うるさい!
    黙れ、おれは佑衣子にいってるんだ!
      佑衣子はおらへんのや!
      警察呼ぶぞ!
    おお、呼べよ!
 パトカーがすぐにやって来た。酔いどれたおれは黙って乗り込んだ。警官どもはおれのアルコールに気づきもしない。車は有馬警察署ではなく、西宮警察にむかって走る。ずいぶんと遠い道程だ。やがて警察署に着いた。おれの始末がストーカー規制法に反すると決定されても、ずっと軟禁された。おれはなんどもジューズを呑んだ。ビートルジュースが飲みたかった。ところがどの自販機にもそれがないと来る。まったく泣ける話になりそうだった。おれは犯行理由を、「むかし、かの女にいじめられてた、謝って欲しかった」といった。なんともお粗末だ。──おれは過去から逃れようとする一匹の鼡でしかない。噫。──そしてかの女は遠くの土地で、きっとおれを軽蔑しているだろうとおもった。──でも、──かの女こそがわが藝術のミューズであり、──ファム・ファタールなんだ。──かの女がおれを拒絶したからこそ、──おれは詩をより多く書いたし、曲も書けた。警官どもは怒るでも叱るでもなく、おれと一緒にテーブルを囲み、なにもいわないでいた。犯罪の臭いがどうしたものか、しなかった。これまでいろんなことでサツに捕まって来たものの、いまのはどうしてか、ずいぶんとのんびりしてしまっていた。弛緩した場面がひたすらつづく映画、緊張を失った芝居のごとく、人生がつづいてゆく。
 夜も更けてから、お偉い方がいった、──「きみを家まで送る」と。なんとも贅沢な処遇だった。だって、とてもこの警察署から家まではもどれなかたから。若いのと、老いたのとがおれを高速まで使って送った。帰り際、若い警官がいった。──「きみは作家なんだって? 本はでてるの?」と。
    キンドルでだしてますよ。
      じゃあ、チェックしておくね。
 最初から最後までおれが酔ってることに、だれも気づかなかった。おれは冷たい扉のむこうにある、わが室に入った。それからまた酒を買って、呑み直した。まったく、恥ずかしいかぎりだった。これでまた佑衣子には貸しができた。おれはもうかの女のことを書くまいとおもった。それでもそれからの4年のあいだ、いったい、どれだけかの女のことを書いてきたのか、わからない。この掌篇にしたってそうだ。おれのなかでひるがえる宇宙──それが佑衣子だった。燃えるような男の内奥を照らしてくれる幻想、少年性、そのものがかの女だった。繰り返すキックと、直線的なベースのリズム、南無阿弥陀仏を唱える方法、ありとあらゆる索莫のなかを現れては消える影、それもみんな佑衣子の仕込んだ罠だった。おれは辞のなかで瞑目する。それがかの女へのサインだ。
 はじめてきみを見てから、きみがずっと好きだ。きみの短い黒髪、そして膨らみ過ぎた乳房も、遠い静かな故郷の歌のように、なにもかもうそに染まってしまうまえに、もう1度、おれを罵ってくれ。ただそれだけの夢のような小説を描こうと疾駆する馬たちが、8番レースの終わりで、しみじみと落馬を起こそうと足掻くのだよ。

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フットサルの現象学


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 バー・ロウライフでの勤務時間は17時から24時だった。バーテン見習いとして年末から雇われ、凄まじい勢いで客をさばいた。仕事はきつかったが、物流倉庫のきつさとはちがい、多くの刺激があった。12月は客で溢れかえった店のなかを右へ左へ歩き回った。年内業務が終わったその日、森夫はほかの店員たちとともに正月の予定について話した。
 「むかしの同級生に会うんです」──しかし、かれと相手とはまったく交流がない。5年まえのクラス会で一緒だっただけだ。小学校では2年と6年、中学校では2年時におなじだったが、大したつながりもない。ただ一時、相手は森夫の描く漫画の読者だったし、家へ遊びにいったこともあった。でも1度だけだ。ある夜、一方的に電話をかけ、会うことになっただけだった。じぶんが求められていないという事実をかれは受け入れることができてなかった。長い失業時代がかれになにを与えたのかは知らない。けれども、鰥夫の寂しい暮らしのなかでかれの内奥が少しずつ毀れていたのはたしかだ。かつての失恋で、自棄になったかれはさまざまなひとびとを罵り、苛んだ。いまではだれもかれを相手にするものはなかった。ひろいインターネットの海のなかでも、かれは友人さえなく、憎悪の詩を書いてばら撒いていた。同級生たちはみなかれがきらいなのだ。だのにまだ、かれはかれらに未練があった。かの女らに未練があった。たったひとりだけ残った女友達──それだって疎遠だ──を介して、どうにかこうにか、ひとり捕まえたというわけだった。
 森夫は給金をオーナーからいただくと、冬の神戸を歩いて帰った。わざとらしい幸福感、かりそめの充実とともに正月2日、かれは新神戸から谷上線で田尾寺駅に降りた。真っ白い息をしながら、ロータリーを歩く。黒いタクシーのゴキブリたちのうしろ、青いスズキのなかで浪越彬が待っていた。しばらく、どう声をかけていいものかがわからないでいた。つづまりながらサイドグラスを小突いて、じぶんの存在を報せた。
   おぅ、ひさしぶりやな。
  ああ、あけましてだね。
 車に乗り込んだ。話す話題も見つからないなかで車道が流れ、車列のなかにスズキが喰い込む。なんとなく女友達のことを話した。
  小川夏美から聞いてるだろ?
   ああ、フラれたんだってな。
   斉藤さんに。
 森夫の顔が青ざめる。かの女のことは初恋だった。SNSでコンタクトをとってみたものの、森夫の社会性のなさが招いた、対話の破綻によってすべてが灰と化した。かれのおもいつめた勝手な感情、それを表現した悲観的な文章がかの女の心を不快にさせた。かの女による1年間の沈黙、そのあいだ森夫は耐えられず、ひとびとを攻撃しつづけた。それがかの女を切り裂き、そして失望させた。募る嫌悪感の果て、かの女はいった、──「ひとを傷つけるひとはきらい!」と。そしてブロックだ。それから数日して酔った森夫はひとを撲った。男の鼻を砕いた。執行猶予3年半である。もう4年まえのことだった。逮捕のことは、小川夏美にはいわなかった。だれにもいえなかった。やがて車は西宮は北六甲台にゆく。
   ところで小川さんは元気?
  ああ、でもちょっと問題があってな。
   なんや?
  結婚した相手に隠し子があったらしい。
   えーっ、そらひどいな。
  ひとはわからないものだよ。
  まさか同級生にそんなことが起こるなんて。──まあ、そやね。
 丘をあがった車が住宅地を走る。そして家に着く。森夫が降りる。車が車庫に入る。浪越が降りて来るのを待つ。いったい、これからなんの話題があるというのだろうかと訝った。
      森夫、免許持ってんの?
    持ってる。
    でも、軽トラしか運転できないよ。
     それでもええやん。
 ほんとうは3年もまえに失効しているのをかれは隠した。恥ずかしいおもいはしたくなかった。べつに事故を起こしたわけでも、違反点数をあげたわけでもなく、かれは友人との決別を切っ掛けにみずから免許を棄てたのだ。犯罪逃亡の逃がし役にされたのが、かれの自尊心を傷つけたからだ。いや、傷つけられたと思い込んだからだ。かれはすっかり後悔していた。
   あがろうよ。
  ああ、ありがとう。
 家はおなじ敷地に2軒あった。そのうち、あたらしいほうに入る。小学生のときにはなかったものだ。リビングルームのテレビのまえでふたり坐る。お節の残りを浪越が勧めてくれた。森夫は海老をいくつか喰った。そしてテレビのサッカー試合を観る。おもしろくもなともない。かれはいままでにスポーツには興味はなかった。ただスポーツもののポルノは好きだ。やがて浪越がいった。
      母が挨拶したいって。
    ああ、そうだね。
 立ちあがって戸口に立つ。現れた貌に会釈する。──楢崎くん、お久しぶりやね。かっこよくなって。──どうもありがとうございます。──ふたりしてリビングにもどる。それから浪越がテレビゲームを持って来た。一緒にやろうという。しかしゲームは接続できなかった。しかたなく将棋を指した。森夫はルールがわからない。教えてもらいながら3度やった。時間がどんどん鈍くなってゆく。話すこともなかった。森夫はもらったビールを嘗めながらテレビの試合を観た。
      ちょっとでかけへんか?
    ああ、そうだね。
 ふたりして近所を歩いた。スーパーマーケットはなくなり宅地になっていた。小学校のまえには家がならぶ。かつて空き地はみんな家々で埋まっていた。歩きながら話したをした。ひと気はまったくない、静かなところだった。
      あそこ、江河の家や。
    いったことあるよ。
    マッキントッシュがあったね。
      あいつ、姉さんいるんや。
    それは知らなかった。
   大山くんっておったやろ?
      頭、よかったんや。
    ああ、いつも英単語やってたなあ。
      あの長い階段のうえに家がある。
      いまはどうしてるのか、わからへん。
 ふたりは丘を降っていった。長い坂道を見下ろすと、森夫が高校生のときに努めていた、食堂があった。でも、いまでは中古車販売店に変わっていた。
    おれ、あそこでむかし働いてたんだよ。
      ああ、そうなん?
    おなじ中学の女子もなんにんかいたよ。
 やがてセブンイレブンにふたりは入った。なにも目的はないが、店内を物色する。森夫は耐えきれず、ワインを買った。──おい、呑むんか?──小壜だよ。──丘を登ってゆく。小学校の裏手に来る。そこにはかの女の家がある。
      いっぱい、転校してきたよな。
      毎年、転校生がおった。
      斉藤さんも5年のときに来たんやったな。
      ほら、かの女の家やで。
 森夫は恥ずかしかった。まるで失態を見せまいとする、芸人のように躰をちぢこませて歩いた。たしかにかの女の家だった。むかしにもなんどか、見にいった家だ。もとの道を帰るなか、不審げな眼差しで浪越は森夫を見た。
      なんで、森夫はおれんとこ来たん?
      おれら、それほど親しくもなかったやろ?
 見抜かれてしまっていた。森夫のさみしがりな行いが。なんとも気まずい。でも言葉がなかなかでない。それでも冬日の逆光のなかで応えるしかない。
      とにかく、だれかに会いたかったんだ。
        森夫は過去にこだわり過ぎやで。
 それは確かだった。正鵠を得ていた。森夫はなにもいえなくなっていた。やがて浪越のはなれで、ふたりはまたリビングルームのソファに坐った。画面のなかではまだサッカーがつづいていた。旗をふったサポーターがばかげた歌を唄っている。大合唱だ。くそだと森夫はおもった。
      ところで、おれ、いまフットサルやってんねん。
      そこでな、中学で一緒やった女の子がおるねんけど、
      その子が島あかねさんの友達やねん、
      それでその子が森夫ってどんなて訊いたんや。
      なんかあったんか?
 いいや、──と森夫はかぶりをふった。それでも顔はまた青ざめている。追いつめられた徒刑囚みたいに口をふるわせながらいった。
    かの女はむかしかわいかったから、
    フェイスブックでそれをいったんだ。
 「それだけか?」──と浪越はいった。それだけじゃなかった。映画にいこうとも誘ったんだ。しかも遠く神奈川にいるはずのかの女に。あまりにも愚かで、始末に追えない男だという事実をかれは知らない。
   人妻に手ぇだしたらあかんで。
    わかってるさ。
      ずっとバーテン仕事やるんか?
    やらないよ。おれは詩人だ。
    本をだしてる。
 そういって鞄のなかから本を取りだした。3年まえにだした初めての詩集だった。童話作家の森花行が序文を書いている。それだけが誇りだった。カントやニーチェフッサールドストエフスキーを読んだという浪越は一読するといった。──意味はわかる。でも、だれにむかって書いてるのかがわからない。──「読者だよ」とかれはいった。でも、かれに読者などいないのはどうやっても明らかだった。かれの文学はあまりにも自己装飾でしかない。そしていまいましいくらいにペテンだった。
      これをだれに読んでもらいたい?
    斉藤さんにだよ。
      斉藤さんは読まないよ。
 浪越がせせら笑う。これですべてが終わりだった。まるきりふたりの分断をなにかが嘲笑っているように森夫にはおもえた。ふたりが立ちあがる。扉をあける。ふたりして載った車を浪越がだす。そしてまた田尾寺の駅に送りだす。いきなり、「今年の夏、結婚するんや」と浪越がいった。──「おめでとう」と森夫は呟いた。それきりなにもいえなかった。ロータリーに降り立つと、もうあたりは暗い。
  またな

 その詞に応えられないまま駅の階段に立った。たかが社交辞令じゃないか。なにをいったってよかったろう。でも、もう会うことはない。絶対にない。すべてが虚妄のように見える。いったい、どうすればいいのかがわからない。おれはいったい、どう生きればいいのか。いったい、なんのために文学なんぞに縛られているのかがわからない。いままで書いてきたことの一切がまやかしのようだった。不定形の悪意が踊る幻想のリンボ、そして魂しいの不在が発見された路上で、夢想のなか、黒いエナメルのバニーガール衣装を着た女の子たちに、おれはただ陰部を狂わせて、無宗教の、呪文を唱えていた。インドのマントラみたいに無意味な言葉で、フットサルのクラブが永遠に呪われ、おれが救われるようにマシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、などと真夜中の大安亭市場は、業務スーパーで唱えつづけるんだ。マシントラド・マーヤ、マシントラド・マーヤ、きみは信じるかい? 自身を。

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 ゆうぞらへかえすことばもなかりかな一羽の鳥を放ちたるなら

 
 母が逝くそらのひろさももろくありとりかえしなどつかない彼方


 そしてまだ父まだ生きぬトーチカの暗き焔はやがて尽きぬる


 知らずにておけばよいとぞおいぬる父母の家庭も姉妹の過去も


 涙とて母の欺瞞に過ぎぬらな子供時代を葬るのみ


 花いちりんの憾みばかりがよいすがる父母の亡霊かならず語る


 姉が買う夫婦家計のまずしさが棄てた本籍には白々


 声濁る 母をも恋うるときもありわれの涙を嘲けらざれしも


 在りし日の母のゆうがおゆれるまで盥のなかの水をば汚す

 
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