みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

過去と現実


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 おれはかの女の、懐かしい歌声を聴く。BONNIE PINKの「過去と現実」だ。冷たい声が室に閃く。ここは'22年のこの神戸で、おれは過去に書いたいくつかの掌篇小説に眼をやっていた。なにもかもがだめだった。きのうは無呼吸症に悩まされ、それが酒のせいで悪化しているということを知って禁酒していた。それと父から仕事の依頼があって、その先払いがきょう入るといって待ったが、金は入らなかった。そして印刷屋に任せていた音楽ジャケットを見る、以前につくってもらったものとはちがい、裁断もされてもない、ひどい出来だった。とても使いものにならない。それらのことで、ひどく打ちのめされ、禁酒をやぶって呑んでしまっていたからだ。掌篇はろくに物語を語っていなかったし、描写も状況設定もあまりに杜撰極まるものだった。おれはいつも急いてしまい、肝心なところを書き逃がすばかりで、いつもいつも師匠には「小説とはてっていして説明なんだよ」と鞭打たれてしまっていた。そして書いたばかりの代物もろくすっぽ推敲や校正もしないままに書き散らしていってしまっていた。室の黒黴が臭う、10月の夜にこうやって綴るのはすべて過ぎ去ってしまった時間についての考察ばかりだ。いったい、どれほどの時間がおれの頭上を飛び去っていったのか? 37にもなっておれはひとを傷つけてしまったうえに、それをまた物語にしてしまう。こんなできそこないの冗談ばりに生活は進み。やがてはその生命を終える。

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 あれは去年の11月の暮れだった、文藝同人をやっている青年がこちらに訪ねて来た。おれより7つも若い。片手にはホワイトホースをさげてだ。かれとはもう6年もまえに出逢っていて、ネット上の文藝仲間のひとりだった。まえに2度もかれに泊めてもらった。東京は中野の四畳半でかれは暮らし、そして1冊の本をだしていた。正直、おれはかれの文章が「使いものにならない」とおもった。観念的で、なにをいっているのかがわからない文章がつづいていて、かれのいうように「国語教師みたい」な評をした。そしてかれと著作を交換して、おれはおれの旅をつづけたのだ。青森の三沢、そして新潟の美佐島へと。
  おれには話せることがなかった。だからかれに話をさせた。かれの海外体験を聴きつづけた。一見して育ちのいい、国立大生のようなかれはじぶんの麻薬体験について語り始めた。まったくおれにとって魅力のある話題である。
   LSD、ホテルでやったんですよ。
  なにか見えたの?──おれはそいつを期待したんだ。
   いいえ、なにも。たまに床の木目が顔に見えたりするだけで。あとは眠れなくなるだけの薬ですよ。翌朝、「ベッドが硬くて眠れなかった」っていって、ボーイと喧嘩したんです。あんまりおもしろくなかったですね。
  へーっ、じゃあ、すると大麻は?
 かれは一瞬、顔を明るくさせて微笑む。
 「いいですよ」──大麻やったあとに、みんなでゲームをするんです。映画観たあと、それぞれクイズをだすんです。「あそこがどうだったか」とか、「あそこでだれがなにをいったか」って。 
  それがおもしろいの?
   ええ、おもしろいですよ。
  その感覚、わからないなあ。
 かれは日本でも大麻をたびたび使うらしく、そのことを嬉々として話す。入手経路はどこなんだろう。おれだってやってみたかったんだ。早いこと、政府がかわって解禁されるのをおれは心の底から願っているひとりの莫迦だった。
   Twitterですよ。
  やっぱ、ヤサイって書くの?
 「ええ」──それで各駅停車で千葉の田舎の駅までいってプッシャーと会うんです。プッシャーってわかります? 最近、連絡つかないんで、もしかしたら捕まったのかも。
 そこで、おれはおれの話をした。何年もまえに留置場で、相室のやつが大麻をじぶんで育てていると話した。そしてじぶんで育てると愛情が湧くなどと告白したことを。
 かれはまるでまさに草をヤッているみたいに話す。室の灯りに照らされた顔がだんだんと赤みを帯びてゆくのがわかった。
   栽培してるひとっていちばん偉いんですよ。でも、だれにも明かせないからすごい孤独なんですよ。
  あいつは孤独には見えなかったがね。
 それからも、かれの話がつづいた。親の金でインドにいったとか、そこでの事情がどうだとか、あるいは沖縄での現状をおれにいって聴かせた。なんとも愉しそうだったのを憶えている。しかし、かれはいったいなにを書いているのか。あれはただの概念もどきではないのか、いったい、これからなにを産みだそうというのかが気になる。
   沖縄は、米軍から直接入って来るんで、ヤク中だらけなんですよ。沖縄のひと、みんなやってますよ。これからタイに友だちといく予定なんです。
 なんだか金を持った蛮族たちの群れが想像できるような気分がした。みんながみんなきれいな身なりをして、天使の安息日に火をつけるさまが見える。
  大麻にもいろんな品種があるらしいけど、タイの大麻は?
   最高です!
 ワッハッハッハ!! ──おれたちは哄笑を叩きだす。そのから、おれは廊下にでた。注文した荷物が届いてた。それを持って室に這入り、凾をあけた。米焼酎の『吟醸しろ』だった。Amazonのポイントで買った。金がないときはアンケートのポイントを遣い、酒を買うのが常套手段なんだ。
  おれが用意した酒だよ、やってくれ。
   ええ、これっすか?
 呑むと、かれは一口飲んで噎せてしまった。そして顔を歪め、これはだめだとつぶやいた。かれの室に焼酎があったから注文したのに、かれにはだめだったらしい。
  わるかったな。
   いえ、いいんです。
 麻薬ばなしもやがて尽きてしまった。おれは沈黙がきらいだった。だれだって苦手かも知れない。他者とそいつを共有するのは特別に。
  いま、なに書いてる?
   いまですか? 
   いや、ようやく日記を書きはじめたところで。
 なんだって、なにも作品を書いていないのかとおもった。あれだけの話があって、それをエッセイにもしていないなんて、おれには信じられなかったんだ。
  さっきまでの話、それこそ小説にすべきじゃないの?
   いや、あれは、その……。
 やがてほんとうの沈黙が訪れた。もはや夜だった。生田町の暗がりに子供の声が遠ざかる。やがて若者たちの声が近づく。
   そとでなにか食べませんか?
 おれたちは外套をまとってそとへでた。地下鉄で街に降りて、飲食街のほうぼうを歩き廻った。サンキタ通りはきれいに改装されたものの、客引きの鬱陶しさは変わらなかった。品のない顔がおれたちを囲んだ。けっきょく、かれの望みで南京町へむかった。そこも客引きは最低品だった。1軒撰んだ。かれは北京ダックを注文した。ふたりで喰う。つぎはスープだ。最期にパイカルを呑んだ。興味を惹かれてかれも呑んだ。そしてかれが会計を済ませ、そとへでる。もちろんぜんぶ、かれの奢りだった。おれは作品を与え、ひとびとはおれに酒や喰いものを与えるんだ。西安門のまえで、ふたりベンチに坐りながら夜景を見た。もう20時だった。たった半時間で、あたりは暗くなり、数人の若者たちが屯している。
   このへんの店って、閉まるの早いですね。
  ああ、あまり人気はないんだよ。
 ふたりして阪急の駅までいった。改装された広場は一見見てくれがよかったものの、物陰に隠れた酔漢たちが嘔吐していた。ベンチも庇もコンクリートの味気ないできもので、ところどころに罅がある。できたとたんに穢れている。まったく、ろくでもないものをつくりやがったんだ。
   ナカタさん、また来てくださいよ、
   いまは室もきれいにして寝られるようにしてますから。
 寒風のなかで涼しい顔をしたかれが去る。手をふってみた。かれは気づかない。やがておれも帰って、残った酒をしたたかに呑む。じぶんのなかでなにかが芽生えるのを感じてしまい、それをそのまま書く。そして、この顛末を掌篇としてものしてすぐだった。かれから絶縁されてしまった。迂闊だったのはたしかだ。かれはおれに掌篇を消すように告げた。「これは不味いです。消したほうがいいです」。しかし、その伝言に気づいたときはもう遅かったんだ。かれはSNSのアカウントをみんな削除して消えてしまった。申し訳なくはおもう。もうかかわることもない。けれども、おれたちは作家なんだ。かつてジイドがいったように作家は餓えた獅子と子羊とをつくりだす。そしてかれ自身が獲物を捕らえるけものとなって、走りだしてしまうのだと。

      過去に生きる多くのひとは
      現実を信じないひと

 おれだって、そんな人間のひとりなのだろう。でも、少なくともおれが作家がどういう人種かを知っていた。多くのひとのなかで、たったひとり獲物を狙うけものなんだと。おれはいまこうして散文をつづっていて正直、うれしい。おれにはまだ書けることがあるからだ。たとえ人間として最低品だとしても、作家として飛べればいい。かれには非情さがなかった。かれにだってチャンスはあった。おれを蹴りあげることが充分に可能だった。だのにかれはおれを狩らなかった。人間が好ましいことと、作家として好ましいことはちがう。
 そうしていま、おれは階下に降りていって、郵便受けを見る。おれの読者が、庇護者がひとり、死んだという報せだった。共通の知人からだった。かの女の死を報せるつもりだったが、電話が繋がらなかったと。たしかに電話は変わっていた。でも、早く知ったところで現実は変わりはしない。かの女もまた好ましい人間だった。善性をもった文藝仲間のひとりだった。かの女がいった、おれへの賛辞がみなむなしく散ってしまう。明滅して消失する。もしかしたら、おれに存るのはスカスカの、安っぽい人間性で、作家ですらないのかも知れない。そして何者かに追われる獲物みたいに、山麓バイパスを南下してゆく車たちの警笛に囲まれながら、たったひとりで坂道をくだるしかなかった。そしてたどり着くところにはただ海だけが存在していたんだ。

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Let go

Let go

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ペーパー・ナイフの冒険

 

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 春の昼下がりのことだ。通学路で突然にいわれたんだ、あのくそ学校のやつらから。理由なんかわからない。たぶん、おれそのもののが珍しかったんだろう。いつもおれは標的になってた。
   おまえ、キッショいねん。
   なんでおまえみたいのがおるねん?
   はよぅ、死んだらどないや?
   殺してもらうとこ、教えたろか?
 幼稚園で一緒だった、佐々木たちがいう。おれはやつらにペン軸をむけた。いつも漫画用に持ってたカブラペンだ。
   あぶないやろ。
   ええがかげんせぇんと痛いめに遭うで。
  おお、遭わせろよ。──いますぐにな!
   なんでおれたちに逆らうねん?
  おれにおまえらが逆らうから。
   おまえ、親にいんのか?
  さあな、憶えがないな。
   いますぐに死ねや。
  裁判にかけろよ。
 おれはいった。そういっておれはじぶんを守った。そんな日が長くつづいた。だけど、ペーパー・ナイフ、それがおれの冒険だった。おれの中学校は評判がすこぶるひどい悪所で、くそだめそのものだった。はじめは悪口をいわれ、ぶ厚い唇を侮辱されただけだったが、やがて上級生に撲られ、不条理を学ぶ教科書さながらの体になり変わった。たしかにおれは善良ではない、けれど、ただの変わりものだったはずだ。いったい、あの学校をだれが悪の臥所に変えたのかはわからなかったし、いまでもわからない。数名のかわい子ちゃんを除いて、学校はひでえ檻だった。逃げられない場所だった。だってどこにもいっても家父長主義の十字砲火がおれを追撃したからだ。父は権力にものをいわせて、おれの存在を脅かした。成績表を見るたびに奴さんは激しく怒かった。そして深夜過ぎまで説教が待ってた。不合理が家でも学校でもつづき、それによって舗装された運命がおれのまえにずっとずっとつづいてた。
 夏休みを迎えるまえの7月14日、担任の国語教師がおれに声をかけた。狐のような顔をした、過干渉な年増女でおれはなにかとかの女によって、恥ずかしい眼に遭ってた。
      夏休み、みんなで旅行にいくんやけど、どない?
    はあ、──考えておきます。
 その話を聞いた母はおれの諒解もとらずにサインしてしまった。まったく、ろくでもない親を持ったものである。当日、集合したのは札付きのヤンキー少々、根暗、いじめられっ子諸氏だった。かの女から見れば、じぶんだってその仲間ということになる。なんとも苦々しい気分になった。貸切のバスでどっかの海岸へいった。狭くてボロい民宿に入れられ、テレビのない室でおれは絵を描こうと藻掻いたものだ。やがて夕方になり、食事が終わり、その狭い室で、おれはほかの連中とは離れて、ちがうところにいた。やつらとは一緒になりたくなかった。品のないヤンキーがきらいだった。いまだってそうだ。窓の景色には生彩がなく、茂みで澱んで見えた。
      おい、こっちに来ぇへんのかぃ?
    え?
      おまえにいってるんや、おまえハミゴか?
    ハミゴ?
      そう、ハミゴやんか、おまえ。
 未開人の辞はおれにはわからない。嘲笑が聞える。暗がりのなかで嗤う、面皰だらけの醜い顔が見える。そのとき、おれは立ちあがってやつらのところにいくしかなかった。いまだったらハミゴでもなんでもいいのだけど。だれが好き好んで卑しい連中と一緒でなくてはならないのか。女子はみな1階で、男が2階だった。ただその女子たちにしたって醜女ぞろいだ。そして教師たちはもっとランクの高い宿に泊まってテレビや酒に興じてるらしい。なんという欺瞞なんだ。おれは嘔き気がした。胸くそがわるくなる。それでも蒲団を並べた。男同士で寝るなんて金輪際勘弁してくれ。
 翌朝、海へでかけた。おれは水色の腕時計をしてた。片山というちびの双子のひとりがそれを見つけて「貸せ」といった。品のない、苦しみを知らない口で。本心いやだったけど貸した。おれは泳ぐ。はなれ小島にむかって遠泳した。途中で溺れそうになったものの、だれも助けなかった。悲鳴する。小島の男たちがおれを眺める。なんとか島に着いた。男たちがいった、「おれたちに近づくな」と。岩場を1周すると、やることがなくなった。またしてもあの距離を? けっきょくは泳ぐしかない。おれはもとの海岸までもどった。水からあがって岩場を歩くと、おれの時計が毀されてた。おれは柔道教師に告げ口して、解決させた。あとはずっと旅が終わるのを待った。
 帰りのバスが、サービスエリアで停まった。土産物屋まえでだ。おれは財布を忘れてしまい、なにも買えない。それでも店に入ろうとした。事情を知ってる、片山のどちらかがおれにいう、──「金ないやつは店に入るな」と。おれは無視して入った。見るべきものはなにもなかった。帰ったら金を本に遣おうとおもい、バスに乗り込む。やつらの嬌声がおれの脳髄を刺激した。もちろんのこと、わるい意味に於いてである。

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 夏の課外旅行をきっかけにおれは河内という痘痕づらやら、片山にしつこく狙われるようになった。べつにおれがなにか仕掛けたわけじゃないが、なにか隙があるたびにおれはやつらのおもちゃにされた。河内はしつこかった。運動会でもわざわざ列をはなれておれに蹴りを入れた。片山ひとりには図書室でもろに撲られもした。まるで力石に初の一撃を喰らったジョーのような気分だった。そしてやつらのボスだった山田創には便所に連れ込まれて2発も喰らった。おれはただ歩いてて、足がやつにぶつかっただけだし、もちろん謝った。それでもやつらの安っぽい自尊心はだれかを攻撃せずにはいられないんだ。おれは屈辱で教室で泣いてしまった。おなじ小学校だった槇田太一郎や福島亜希が、無表情で眺めてた。くそったれめが。ひとの痛みのわからないやつはどこにでもいるんだ。それでもおれは黙ってやつらの餌食になった。それしか生きる道がないからだ。
 でも、おれの傷はたやすくは癒えなかった。父も母も学校という場所を盲信するだけの阿呆で、そいつを崇拝するだけの能力だけしかない。学校なんざケツでも喰らえだ。おれはやつらがきらいだ。苦しみを与えるだけの存在に奉仕することはできない。くそったれだ、すべての同級生ども。おれを救わなかった教師たちもけつ喰らえだ。秋のあいだずっと、おれはたったひとりの復讐をおもって、爆弾づくりを夢想してた。花火の火薬をつかうとか、黒色火薬を自作するとか、ナイフを買うだとか、そんなおもいだけがおれを生に駆り立ててた。どうしてひとはひとを殺すのだろう。毒ワイン事件や、金属バット事件のルポタージュを読みながら、なぜひとりのひとが孤立して殺人事件に散ってしまうのかを考えた。なぜこの人生は生きづらいのか、なぜおれには友人がひとりもいないのかをずっと考えた。
 しばらくして地域清掃をやらされたとき、おれは友人とはいいがたい堂ノ元と一緒にされた。屈辱だった。植村も松本も友人同士と一緒だった。やつらは嗤った。だのにおれはおれのようにまぬけな堂ノ元とともに長くて、勾配のきつい坂をいったり来たりさせられたんだ。こんなことってないよな、だけどあったんだ。そして松本とといういじめっこが、「おれんちにゲームがある」といいだした。もちろん、おれだけが誘われなかった。死にやがれ。名塩クリーンハイツの大馬鹿者め。
 その冬、おれは山田たちに包囲されてしまった。この発端はじぶんでもよくわからない。おれはやつらの下駄箱を探り、靴を切り裂いたり、とにかく陰湿なことをやってた。それからしばらくして山田がおれにいった。
      いろいろ、すまんかったな。
    え?──ああ、おれもわるかったよ。
 それから数日して、クラスメイトの谷がおれを呼びつけた。ちょうど教室の掃除をしてるところだった。
   山田たちがおまえを呼んでる、いったほうがええ。
    やつらがどうだっていうんだよ?
      とにかく呼んでこいいわれたんや。
      おまえが来ぇへんかったらおれが撲られる!
 ちびの谷はしつこかった。おれは無視した。終いにはやつも焦っておれの悪口を叫び、どうにかおれを廊下にだそうと必死になってしまってた。
      ミツホのアホ! 
      バカ! 
      教室からでろ!
 あまりにも憐れだったから、廊下にでた。山田に河内、片山がいた。オカマ野郎が勢揃い。教室のみんながおれを観察した。「謝れよ」と山田がいった。
    なにに謝る?
      なんでもええんや。
    おお、土下座してやるよ。
     なんでもええから謝れや。
     おまえ、おれを莫迦にしてるやろ。
 まったく未開人の思考は理解できない。それに観衆も気に喰わない、いつもはきれいごとを嘔いてるやからだって、なにもいわなかった。生徒会立候補? クラス委員? まったくたわごとでしかない。まるでなにも起こってはないみたいだ。おれはただただ悪党のまえに立たされ、怯えてた。長い時間がたったギャラリーどもは平然としてた。あの、かわいいとおもってた和田真帆ですらも。そして捕食される小動物を見るようにおれを見る。福島亜希だけが、「先生を呼んで!」と声をあげる。それがおれには耐えがたかった。やがて暗くなる、終業後の教室。おれは「謝らない」といった。「土下座もしない」といった。やがて担任が来て、山田は悔しそうにおれの足を蹴った。なにもかもが終わって、一切助けなかった植村徹におれはいった。
  やつらに復讐したい。
 屈辱ではち切れそうだ。やつは顔色も変えず、ペーパー・ナイフを差しだした。──「これ、つかえ」って。おれはナイフを持った。やがて終礼だ。おれは、おれをやつらの眼前にだした、谷を狙って、その足を刺した。まるで感触がない、2度刺した。確かな痛みをやつは声にださなかった。ただ「痛い」とだけいった。おれは山田も刺すつもりだったけど、動揺してしまい、そのまま教師につれていかれてしまった。隣室じゃあ、血まみれになった谷が苦痛に呻いてた。担任の女教師である三宅は無表情だった。瀬川という体育教師は、「こんなやつがやったのか」と意外そうに漏らした。だれだって怒ればはなにをするのかがわかってないんだ。おれは隔離室にやられ、尋問が始まった。やがて母親が来た。「わたしのせいで」と泣きだした。母はまるで関係がない。むしろ父のほうに関係があったのに。それでも時間が経てば、みんなが冷静だった。母も教師も同級生もがだ。
 みじかい説教のあと、家に帰された。父に報告した。やつは平然としてた。「刺した」のをなんともおもってない。そのままで眠り、おれには一瞥もない。やがて日が過ぎて、謹慎が終わった。同級生たちはおれを嗤った。そしてほかのばかどもや、知恵遅れみたいにおれを接した。なにもかもが漫画みたいに過ぎ去り、徹でさえなにもいわなくなったころ、やつは「ナイフのことはいわいでくれ」といいすてて体育館へと去ってった。やつは友達なんかじゃなかった。ただの通りすがりの幼なじみだ。そして上級校を目指しておれの姉や、吹奏楽部の寺尾麗奈や、吉村大介たちと一緒につるみ、おれを嘲笑い、そして山田だけが怨めしく眼をあけて、おれを鞄で叩いた。やつはなにもいわない。おれもなにもいわない。なにかいいたかったが、できない。そのときを境にして、だれもおれに攻撃することもなくなった。水島や今野とかいうヤンキーどもも去ってった。
 おれは気に喰わなかった。もっと口実が欲しかった。ひとを傷つけるための口実が欲しくてならなかった。でも、もはやなかった。なにもかも終わったころだった。おれと谷は一緒にいた。おれはカッターの刃をがちがちいわせながらやつを怯えさせてた。
   もう刺すなよ。
   もうやめてくれよ。
  おお、そうだな。
   忘れるなよ。
  もちろんだよ。
   じゃあな。
  ああ、じゃあな。
 弱々しい声でいった。それからやつは転校した。そのときわかったんだけど、谷は孤児院の子で、むこうの計らいでいなくなったということだ。やつの友人だった長岡はしばらくおれを罵った。授業のあいまに大声をだすんだ。こちらも見ずに。それがおれにはつらかった。だれも反応しない。
      ミツホ、キッショー!
      ミツホ、死ねや!
 やつの声がいまだに内奥を谺してる。おれにいえることは山口中学校はばかの砦だってことだ。もうずっとまえだった、幾年もしてから、おれはやつらに最初の詩集を送った。それはそのままで帰って来た。一筆もなく。電話をしたら、ずいぶんと慇懃な具合でいわれた、教師のなかに不賛成なやつがいたから返したと。礼を欠いた口で。非礼そのものの口ぶりで。おれは諦めて話を終えた。もし、おれのようなやつがいて、おれの詩を読んでくれたらとおもってた。それは叶わなかった。おれは涙に濡れた袖を払い、三宮の街をただただ徘徊したっけ。これがペーパー・ナイフの冒険ってやつだ。植村はいまもどっかで平気で暮らしてるし、あのナイフはもはや存在しないだろう。ただただ谷には申し訳ない。おれ以外のやつはだれも咎を憶えることなんかないんだよ。

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息が止む


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 ゆかしめよ時のはざまにそよぎつつ眠れぬ夜を戦う花と


 わがための夢にはあらじ秋口の河を流れる妬心の一語


 男歌かぞえる指に陽が刺さるゆうぐれどきのあこがれのなか


 けだしひとはうつろいながらうろ叩くやがて来たりぬ夢の涯まで


 つかのまの休息ありて汗ぬぐう拳闘士らのまなざしやさし


 かつて見し馬のまなこがわれを追う幻灯機にて広がれ荒野


 懐かしむあまたの過去が現実を襲い来るなり観衆妄想


 ふたたびなどなくてひとりのみずからを憾みてやまずもてあますとき


 帰るべき場所などあらず秋雨に文鳥一羽逃げてゆくなり


 まばたきが星の鋭き夜に冴えやがてひとつの物語となり


 雛壇の亡霊 われのかげを射る もしや姉の企みか


 いい娘だね いい娘だね いい娘だね また逢うための呪文を唱える

 
 蚊柱の在りし場所にてぶたくさの花粉が踊る 月曜の朝


 やがて来る使者のためにか懸垂のもっとも高いそらをも掴む


 菜の花の跡を腐れた葉が誘う だれかがぼくを見つけるまえに


 叶わぬとおもいながらもパーラーのラストオーダーまで祈る


 たとうならあかるき地獄 仮装者の最後のひとりいま眠りたり


 水がいま湧いていますよ 験すならおのれの神を呼びかけるべし


 陽だまりのなかで一瞬息が止む 秋の曲など耳に刺さって


 いくたびも仮面を変えて生きるのみ自己なきゆゑの人生ありて


 処女塚の由来は寂し 男とは愛しきものを殺すものなり


 ぬばたまの夜はしずかな街にすらネフラシアを幻視するかな


 ふるさとの歌を失う一瞬の旅のようだね人生なんか


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ゆれる潮


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 刈りがたしおもいもありぬ秋来る颱風過ぎてすがしい原っぱ


 みずいろの兎が跳ねる 妬心とはまだ見ぬきみにたじろぐ時間


 神さまがくれたクレヨンなどといいぼくを欺く女学生たち


 波たゆるいつかの秋がぎらぎらと迫り来るなり男の内部


 姿鏡あり浮かべてわれは宙を蹴る くれない坂の始まる場所で


 道もなき芒原にて星を見る 消滅を待つ一族として


 救いなどあらず流砂のかなしみをあつめて羨しともだちの指


 午後線のびっくり水が暴れだす手鍋のなかのぼくの革命


 おもわくもなくて秋草眺めやる地域猫すら不在の時間


 野焼きするわれらが野辺に莇咲くなべてこの世の滅びを讃え


 坂といえ降る足さえ確かさを失いながら消えゆくなか


 夜の河 みなが眠りに就くなかを流れて悼む夏の終わりぞ


 水汲みの汲み桶われるひざかりの木立ちのなかで爆発ののち


 ささがきの笹のみどりがきみを射る そんな妄想ばかりするおれ 


 ひとりゐることの刹那を逃れたくひとりの女われは幻視す


 ゆれる潮 国家略奪計画を夢想するわれの指に冷たい


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無題

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 子羊のような贄欲す朝ならばわれを吊るせと叫ぶ兄たち


 踏み切りに光りが滅ぶ列車来て遮られてしまうすべてが


 かつてまだ恋を知らないときにただもどりたいとはいえぬ残暑がつづく


 会わずして十年経ちしいもうとの貌など忘るつかのまの夢


 よるべなどなくてひとりのわれがゐる 高所恐怖のまったきふるえ


 なぜという声が欲しくて問いかける「詩」を書きためて歩く市街地


 まぼろしになれば他人の夢のごとわれを偽る理由はあらず


 ふさわしき家庭もあらぬ男とは切断されし枝の断面


 ほどかざる両の手ばかり秋の日の罰はきびしといえる幼少


 垂木折る舞台の無人確かめてわが罪ありぬ本日休演


 なにも知らぬふりをして語る九月の陽だまりに及ぶおもいでなぞを


 ことばたらず頭をさげる一瞬のかの女の貌にかげが落ち来る


 詩にあらず歌にもあらず一行を書きためてわが人生嗤う


 死がやがてわれを蝕むときをいまただ待てり ただ待てり


 かげろうの失せた街区をただ歩む われ生きるに値せず


   *