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……というわけで、2冊めの歌集をだしました。書き溜めた歌をぜんぶ没にして、夏をテーマに書き下ろしです。たぶん、生きているうちにだすのは2冊だけかなと漠然とおもっています。あとは歌誌のためにつくるだけです。未刊行歌集というものを寺山に倣ってつくろうとしてましたが、2段組で200頁ぐらいあるので持て余しています。いまのところ歌誌以外のことは白紙。
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序文/森忠明
『古今和歌集』に、ただ一首収められた酒井人眞という男が、それだけで千年以上も名を残していることが羨ましくてならない。この『世界樹の断面』にも、ただ一首、〈暗黒理力〉の渾融によって千年は残りそうなのがある。それはどれか言わないでおこう。
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あとがき
祈りでは主に嘆願なんかできやしない
ジム・モリスン
5年まえに初めての歌集をだした。2年まえから歌誌『帆(han)』を主宰し、短歌についての考えを言語化して来た。わたしはそれまでの言語表現を短歌一本化するため、小説を片づけ、詩を片づけてきた。この歌集は歌人としてのわたしの第一歩だ。多くの方法から三十一文字を撰んだということの証のようなものだ。先月、刊行した最後の詩集『不適当詩劇』とおなじく、書き下ろしというかたちをとって、書きためた多くの歌篇を未収録のままにした。それはいつか編輯するとしても、この歌集こそがいまのじぶんの可能性を極めた1冊のつもりだ。
短歌をやっていてつくづくおもうのはもはやもどり道はないということだ。言葉の即時性、即効性という面で、短詩の伝統詩形を超えることはできない。散文表現はけっきょく現実原則の再現でしかないからだ。わたしはもうこの数年、ノンフィクションを除いて、そういったものが読めなくなった。じぶんのなかで散文家としての側面が失われたことで、その受容体も一緒になって消えてしまったようにおもえる。いささか寂しいが、それもしょうがない。わたしは短歌の律によって、現実原則から空想原則に梯子をかけようとおもっている。詩の作用とは此岸と彼岸を結ぶことである。寺山修司は〈リズムはつねに現在進行形である〉と書いている。読み手と書き手が共有し、且つ共謀するリズムによって一行の詩を完成させる、──これは再現でなく、生成なのだ。わたしが日常を祝祭化ができるのは定型詩文に於いてのみだ。
短歌という呪術を最大限に活かしたい。それは五・七・五・七・七を守るということではない。いまあるリズム、すなわち集団としての国家への挑戦であり、暗数としての声による発語である。わたしはただ見きわめたい、現実と、幻想の地平を。共感といったものにはまったく興味はない。わたしにあるのは変身への渇望である。一瞬のうちにひとりの運命すらも変えてしまう歌を求めている。祈りではだめだ。──「では、お見せしよう──変身!」。