みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

文章における美意識、あるいはそのほかに対しての射精(2011)

 

ひさしぶりに現代詩フォーラムを見て


  特に意味はないが、この文章を元同級生ハセガワ・マイに捧ぐ
  ほんの少しのおふざけと息抜きのために
  あるいは悪文の手本にどうぞ


 ちくしょうめ。雨がやんでしまった。雨のリズムを糧にしてものを書いていたというのにだ。そのために短篇が四本も澱んでしまった。またしても遠いところに来てしまったようだ。これではなにもできない。わたしは筆をとめ、息を吐く。げろを吐くように吐く。雨はなし、金もなし。
 というわけで気晴らしにこれを書き始める。ひどい文章とは読まないまでもわかるものだ。それはたいてい入り口たる題名からしてでたらめで見栄えがわるい。本文を見れば行わけはおざなりで、段落もまともにつけられていおらず、文頭をひとますあけることもしなければ、最悪の場合は時制さえ混乱している。作品にひとをひきづりこもうとする努力が見当たらない。それらはなにかの意図によって起こされたまちがいではなく、かれらの自然によって書き上げられた愚さなのだ。
 わたしはこういった文章を見るといぶかる。まったく、どうしてかれらはこういった、注意の欠けた、視覚なしの自動車運転をやらかしてしまうのだろうかと。おそらくかれらには書く内容をもっていないうえに、書かずにいる方法がわからないのだ。とにかくなにかを誇示したいがためにやらかす。陰部をあらわにしてよろこぶ、哀れな不審者にそっくりだ。あるとき、なにかの手違いが生じて、かれらのひとりが警察車輛に乗ることがあったとしても、わたしはちっとも驚かない。もしも小ぎれいな室のなかで暖房装置に身をゆだね、とろけていられるなら、もしもビデオゲームという電気式のおしゃぶりに心を癒していられるなら、それなりの給料でそれなりの晩餐を摂れるなら、それで満足ではないのか。なぜに内容以前にスタイルのない代物を垂れ流して羞ぢないのか。一度御教授願いたいものだ。わたしは毒舌のレッスンや卒業試験をしているのではない。これはただの事実の勧告である。──ちくしょうめ、雨よ降れ。

 少なくとも十年位まえにはここにだって、まあまあ読める詩や、散文──それも批評があったはずなのだが、もはやなんの残滓も見えない。あるのは個人ブログですら、その掲載を憚るような放言やつぶやき、歌詞と詩の区別もつかないざれごとや、あるいは他人を煽り立て、並び替え、色分けしたいがための二項対立愛好家の書いた、アジびらしかない。そして妙な筆名。格好つけているのか、ふざけているのか、わたしにはわからない。確かめる気にもなれない。高等教育が役に立ってないことはわかる。
 わたしのはどうだ? わたしがいちばん低俗で、穢らわしいともいえるだろうか。自虐は快楽にもなる。しかしそんなことは卑怯な予防線である。批判や罵倒は受けるためにあるのだ。決してかわすためではない。いってみればこれは芸術なのだ。残念ながら、かれらとの比較にはならない。犬のくそと宝石ほどは離れていないが、石ころぐらいの価値はある。あたりまえだ。──ちくしょうめ。
 退屈できないといったカポーティの気持ちが少しわかるような気がする。いくらつまらない書きものを見てもそれなりに得るところはありものだ。しかしここはあまりにひどすぎる。なにもない、まったくの空欄だ。ただただ余剰に過ぎるというわけである。過古のことは知らないが、詩とは文芸とは余剰そのものである。退屈なひとたちの、退屈な御遊戯になっている。無料で読めるものは地球を包むほどもあるが、愉快なものはほとんどない。夢は失せ、馬はくそをひりだすというところだ。こんな言い回しも一種の浪費だ。わたしは文学がいいともいわない。あれは必須ポストを入手したひとの、新しい雑巾に過ぎない。
 わたしにとって理想の読みものは五感を刺激し、風景を感じさせるものである。窓に当たる光りの具合や、通りを吹く風、ごみ棄て場の臭気や、歩くひとびとの額の皺、手のひらに死んだ虫の屍骸、深夜に聞えて来るサイレン、火事の温かな匂い、腐りかけた甘い桃だ。字面が絵画を感じさせ、音感が音楽を感じさせるもの、それが文芸作品だ。見た目も音もそなわっていないものを読まされるのはかんべん願いたい。自分にとってよいものを読もう。なまえを挙げればブコウスキーとファンテ親子、織田作之助梅崎春生なんかはいい。いつ読んでも疲れない。何度でも刺さってくる鉤だ。あるときは精肉工場の牛の気分で、またあるときは兵士の気分で、そのまたあるときには競馬狂の気分で、アル中の気分で。奮い立たせてくれる。
 もういい、この話しはめんどうだ。おわりだ。次。──ちくしょうめ。

 少年少女の自殺の話しを耳にするたびに思うのは、かれらがなぜあたまのなかにもうひとつの世界をつくらなかったのかということだ。みずからの魂しいを守るための逃げ場をつくらなかったのか。もっともわたしの場合、はじめから空想の世界が実包されていたし、たいした痛みも感じていなかったが。
 魂しいや身を焼かれることが日常となっているものがいるいっぽうで、ある特定の人間をくそ桶に見立てるなか、友人とか仲間というものをつくり、笑いあっているものもいる。学校で職場で精神病院でわたしもそういった人間にやられた。
 そういった連中には魂しいなどというものは装備されていない。かれらにはおそらく
旧いオペレーション・プログラムが書き込まれているのだろう。windows 3.1、いや旧すぎるな、せいぜいのところ、二千年といったところか。Service Packや自動更新はなし。ウイルスは放置。連中を殺すことはできない。人間でないものは殺せない。それらは破壊されるしかない。しかし破壊や殺人がなにかにつながるということはない。それはまったくおぞましい臭気と群集と錯覚を産むだけだ。新聞や情報番組とやらをちらりと見てみるがいい、かれらはひとになにかがわかった気にさせることで儲けている。
 対抗できる手段はひとつだけだ。みずからつくりあげたあたまのなかの世界を、現実にある世界へ見せつけてやることだ。

 わたしは文学自体をきらってはいないし、放り投げるつもりもない。また文学的になることを怖れることもない。たがわたしは文学をやるつもりはない。通俗でいたい。売れるもの、おもしろいもの、笑えるものを書きたい。芸道化したものからは離れたい。だから、心あるだれかよ、おれの作品を採用してくれ。おれは城戸礼につづく通俗作家で、宮澤賢治につづく童貞作家でもあるんだからな。
 わたしは負けることよりも勝つほうが断然好きなのだ。いまだかつで為しえたことはない。しかしぜったいにやってやる。死後とか輪廻とか永劫回帰といった、御戯言はくそくらえだ。死んだら終わり、あとは無というほうが、前者よりも夢と希望に充ちていて、気持ちがいい。そろそろ、わたしはネットの書き散らしをやめて戦う場所を見つけるとしよう。
 夜が明けてきた。なにをいいたいのか、わたしにもさっぱり見当がつかない。書くことがなくなった。今こそ、寺山修司の言に従って物語を中断しようではないか。え、どうだい? とりあえず、美花ぬりぇのグラビアでぬこう。


   うッ