みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

犬を裁け〈'18/oct〉

f:id:mitzho84:20190619200105j:plain

 

   *

 

 おれたち、淡い夢のように糞をたれ齢をとっていくか!──中上哲夫「旅へ!」

 

    *

 

7月12日

 

 固茹で卵を3つ喰う。パプリカをまぶして。午前はずっとひとりでリハーサル。今回、ビザールを持っていくことにした。いつものチューニング。画材を鞄につめる。大阪、京都、仙台、青森をまわる予定だ。まったくはじめてのことでこわばってしまう。昼餉に鮭をオーヴンで焼き、エリンギとほうれん草を和えものにする。あとは玄米茶漬けのみ。だれもいない室で、あとはずっと読書する。シャブリゾ「ウサギは野を駈ける」、藤原新也アメリカ日記」、北井一夫「流れ雲旅」など。夕餉、サラダ。カット野菜にオリーブ、茗荷、蒸鶏、セロリ、湯に通したシメジ、クルトン。ドレッシングはレモン果汁、生姜、林檎酢、オリーブ油、青紫蘇を混ぜて。茶を啜りながら地図と経路を印刷した。
 その夜、電話。妹が死んだ。わたしは親にも妹たちにもいっさいじぶんのことも連絡先も教えていない。かの女たちもわたしに教えない。だのにこれだ。どうせ手を切った福祉の連中だろう。せっかく分籍もし、手を切った父の声。ぶっかこうで、そして亢奮している。夕暮れ、阪神沿線の知らない町でかの女は癲癇をぶりかえして転び、つづく貨物車によって自転車ごと轢かれていた。きのうなのか、きょうなのかもわからない。妹とはもう10年も会っていなかった。どこに棲み、なにをやっていたかすら知らない。母が6年まえにいったように《家族は他人のはじまり》でしかない。胸糞がわるい。こんなときに通夜だの、葬儀だの、ばからしい。くそったれ。

 

7月13日

 

 午后、十三まで。駐車場になかなか空きがない。わたしはきのうの電話について考えてしまう。準備終えていちどおもてへ。客引きの若いのが目障りだ。かわすのも面倒になる。妹が死んだ、と口にだしてみた。おもうところはなにひとつない。かの女はわたしを怨んでいたかも知れない。小さいころは八つ当たりをしたものだ。父からの理不尽に怒って、叩いたり、蹴ったり。ふいにかの女に子供がいるかどうかが気にかかった。その考えはすぐに引っ込む。会場そばの停留場で裸の老夫が一心に屈伸運動をしているからだ。もはや、どうだっていいじゃないか。たかがもと妹だ。かの女は死に、おれが生きてるんだから。──わたしはそうおもうと軽くなって、腹拵えに鰊蕎麦を喰った。山椒と茗荷をたっぷり。
 そして夜。舞台はわるかない。持ってきたVOXアンプの具合がわるく、マーシャルを借りる。あとでスタッフに見てもらう。前半、ドラムに合わせてドローイング、後半、朗読とギター。つぎの京都まで直行する。滝田は録音を聴きながら、だめだしをやる。聴いてやるもんかだ。途上の駐車場で眠る。 
 滝田と知り合ったのは2年まえだ。かれがわたしの個展に来て、作品を気に入ってくれた。わたしの絵や写真を激賞して、ライブに案内された。かれのドラム・スタイルが気に入った。そのときはフロアを多用し、スネアのピッチはやや高めで、金属のような音がしていた。かれはその夜、女シンガーソングライターのサポートをやっていた。終わったあと、わたしは楽屋にいった。わたしはじぶんのデモテープを渡し、握手して別れた。そのあと、詩の朗読会にでたときには、かれはわたしと組むことに決めていたらしい。客席からかれが手をふった。わたしは読み終えて壇上を降りて握手した。そして一緒に酒を呑んでテープの感想を聴いた。かれはわたしが出会ってきた、どのひとよりも熱く語った。少しばかり面喰らったけれど、われわれはリハーサルに入る約束をして、それぞれ帰途に就いた。ただかれにはすでに音楽のキャリアがあったが、わたしにはほとんどなにもなかった。はじめてのリハーサル、わたしは不安だった。けれどもそれはすぐになくなった。かれはわたしのテンポに合わせてくれていたし、わたしも耳に入ってくる音がまちがっていないのを合点したからだ。わたしは雑仕事をしながらリハーサルを重ね、舞台にあがった。かれも何度か喰いつめそうになったとき、一緒に雑仕事をやった。かれは気まぐれでなにを考えているのかわからないときもある。仕事を途中でやめるときもあれば、何時間もねばってやるときもあった。わたしにも波があるし、かれにもあるというだけだ。それでも衝突はわずかで、愉しくやっている。

 

7月14日

 

 朝餉、車内でつくる。砕いた胡桃をキューカンバー・サンドイッチにまぶす。そして林檎黒酢、目玉焼き。滝田は弁当屋へいった。昼になってわれわれはコーヒー・スタンドへいった。セットリストを書き直す。小さな少年が大きなクラブサンドに苦戦中。微苦笑する。もちろんのこと、妹のことですまない気持ちにもなったりはする。けれどもやはり10年は長すぎた、とおもう。そのあいだにおれは34になり、かの女は32で、来月で33だった。憐憫に浸るには遅すぎる。けっきょくはなにも儀式らしいことはしない。そのままソフトをかぶって舞台に立った。なにかがちがう、いいや、なにもかもが、いつものままだった。かつて映画のなかで《血はもっとも排他的なつながりだ》といったのはだれだったか。おもいだせない。ともかくわたしはその血の冷たさをずっと噛みしめてきた。もういいじゃないか。もう憎しみ合うのは。どうせおたがいさまというものだ。

 

   *

 

 牛になるべきか、それとも麒麟になるべきかとわたしはつぶやく。犬のほうがいいのかも知れないとも。心の澱がいつまでも溜まったままのような気がしている。楽屋は、もうわれわれしかいない。ハイネケンをやりながら機材を片づける。少しばかり酔っていたのかも知れない。滝田は満足そうだった。たしかに音響もドラミングもよかった。かれは女の子たちに接吻してまわった。わたしはといえば、はじまったばかりのどさ周りが、巡業がこのまま調子よくつづけばいいとおもっているだけだ。巡業は初めてだった。この2年のあいだずっと、わたしはやつとともに共犯を重ねて来た。だというのにいまだ互いを深く解したという手応えに飢えていた。わたしはずっとひとりでやって来て、あまりにもひとりに慣れすぎてしまっていた。やつはよく笑い、よく喋った。わたしとは正反対にだ。じりじりと身を焦がす暑さがどこまでもひろがってる。京都の夏である。文学なんざけつ喰らえ。
 タオルを首にかけて裏口からスネアとビザールを運びだし、シトロエンのバンに積む。銀色。月が若い夜を照らしていた。もう4千キロは走ったろう。つぎは仙台のアート・スペースだ。しばらく道をいったあと、スタンドに寄った。車輌の総点検だ。汚れきったモーター・オイルの臭いがする。カリバチが屑入れや電灯を飛び回っている。わたしが炭酸水を呑みながら作業を見ていると、店員のひとりがにやりと笑いかけた。うす気味がわるい笑い。軽蔑の籠もった眼と口。店の隣にオートバイが1台停められてある。黒と黄色のホンダだ。あしたに備え、これから宿だ。滝田はハンドルの感触を確かめ、素早く車道へでてった。流れは浅い。それからたった5キロほどだった。車が動力を急に失い、かれは路肩に寄せた。イグニッションを繋いでもエンジンは動かない。夏の夜にはなんともどぎつい出来事にちがいない。最先はよくない。
   ちくしょう!──点検したばっかじゃねえかよ。
 滝田が悪態をつき、ハンドルを叩く。
  なんだ?
   見ての通り。エンストだ。うごかない。
  とりあえず歩いてもどろう。あのスタンドまで。──べつのスタンドがあればいいのにとおもった。しかしこの通りにはなにもない。せいぜい軒を閉めた商店が半世紀もまえから建っているままなのだ。ため息をつきながら、ハザード・ランプをつけ、わたしはさきに降りた。滝田も降りてわたしを見た。不安と嫌悪の入り混じったまなざしで。
   さっきのスタンドまでか?
  ほかにどこがあるんだ。
   新大陸か?
   それとも開拓地か?
 わたしたちはもどった。コンビニエンス・ストアすらないさみしい通りだ。外灯だって満足にない。スタンドではすでに閉店の準備中だった。わたしはあのにやりと笑った店員に声をかけた。軽蔑を含んだ笑いが蘇って来たようだ。そんなことはどうだっていい。
   なんです?
  さっきの車ですよ。──急にエンコしちまった。──やはり、かれは笑った。わたしは憎々しげにその顔を見つめた。それでどうなることでもあるまいがだ。汗が吹きだし、顔から首へ、背中から踝へと落ちる。
   なにかまちがった操作でも?
  いいえ、ただ走ってただけです。
   ただ走ってた?
  ええ。──沈黙が立ちはだかった。男はわたしたちを品定めするように見較べる。
   それでどうしろというんですか?──沽券を貶されたようにやつはいった。わたしは怒りを堪えて応えた。
  JAFでも呼んでもらいたいんです。
   ああ、それだったら──。店員はうしろをむいた。ボスらしい男がこっちを見てる。青い上っ張りにベージュのスラックス姿、腹の肉がベルトのうえから突きだしている。どうしようもないでぶだった。顔面まで脂肪に埋まっている。わたしはそいつのほうをなるべく見ないようにした。あまりに不愉快で、あまりに現実だったからだ。それから金髪の若者が洗車場から歩いてきた。
   近くに知り合いの修理工場があるんで、そこにいってもらえればいいですよ。──安いし。
 店員はスタンドの裏手へ急ぎながらいった。金髪も一緒についていく。
   レッカー車、すぐだしますね。
 やがておもてに黄色いレッカー車が来た。わたしたちはそれに乗って、車をとめたところまでいった。店員は工具箱を降ろし、電極を伸ばす。──とりあえずジャンプスタートしてみましょうか?──バッテリーに電気を送る。イグニッションを繋ぐ。なにも起らない。
    だめですね。──うんともすんともだ。
 けっきょく店員ふたりで車を牽引することになった。金髪が電話を持っていった。──まず、あの親父に連絡つけねえとな。──もうこんな時間ですし、作業はあしたになるでしょうね。──あとレッカー代、運搬費は前払いで。
  ああ、そうですか。──わたしは領収書も忘れ、3万も払ってしまった。近くという辞(ことば)の定義がどんなものかは知らない。しかしレッカーは1時間半はかけて、あきらかに隣の県までいき、その最果ての町を過ぎようとしてる。わたしの不安を煽るように滝田がいった。ずいぶん長く走るんだなあ。もう町も過ぎたし、なにもない。──たしかにその通りだった。引き返して宿を見つけるまでいったいどれだけかかるだろうかと胸算用しつづける。やがて重い鉄扉が見え、そこでレッカーは停まった。金髪のやろうが呼びだしを押す。しばらくして大男がでてきた。かれは怒っていた。
    こんな時間にたたき起しやがって!
 そんな口の効き方をされる謂れはなかった。夜はまだ8時だ。くだらないテレビでくだらないものに熱中していたのかも知れない。ともかくわれわれには車のことは急務だ。レッカーと一緒にガレージのまえに降ろした。リフトで車を作業場まで運んだ。降りてくると、まっすぐおれを見、顔をゆがめた。
    いったいどんな乗り方してんだ、木偶の坊。
  ただ走ってただけだ、ウドの大木。
    ただ走ってた?──どういう意味だ?
   点検と給油して、スタンドをでて、すぐだったんだよ。
    ラジエターの水でも抜いたんじゃないのか?
  そんなことしていったいなんの意味になるんだろう?
    おれの知ったことか!
 男は車を工場のなかに入れ、ライトをつけた。駐車場にならぶ毀れた車輌。リフトや油圧ジャッキ。作業台の端にハマーだかのバンパーがある。廃油の臭い。従業員のひとりが、ボンネットを磨いている。音はない。庇のなか、高い天井の下で、車は並んでいる。照らされたバンのそばに女がひとりこちらを見ている。薄い寝間着姿はなかなかのものだった。わたしは滝田の肘を小突いて耳打ちした。かれは笑いながら気づかないぐらいに小さく手をふった。けれども女は手を振り返した。われわれは声を殺して笑った。扇風機が気休めに働いている。やがて預り証を受け取った。わたしたちは機材を降ろし、礼をいってでた。レッカー車がちょうど過ぎ去っていくところだった。滝田が腕をふりまわし、怒りを表明する。わたしはもう疲れきってどうでもよくなっていた。少しばかり強い酒を呑んでから、水を浴びたかった。隣には廃部品の販売所があった。高いフェンスが囲い、山積みになった部品が大きなテント地に覆われていた。
   なんてやつらだ、おいてきぼりかよ。
  どうなってるんだ?
   おれにもわからん、とりあえず宿を探そう。いや、そのまえにタクシーだ!──なんとか電話で現在地を調べ、そこから車を呼んだ。どうやらわれわれは京都の北から南下して、そのまま大阪の南の果てに来てるらしい。どういうことだ。だれかがゲームを考えていたとしかいいようのないありさまだ。けっきょくわたしたちはその中心街で宿をとった。
   どうおもうよ、やつら?
  やつらって?
   スタンドの連中に、修理屋さ。
  商売する気さえ感じなかったな。
   それだよ、まるで追いはぎだ。
 われわれはいったいどこにむかっているのか、その道が正しいのか、まったくわからないままだった。わたしはずっと表現で生きることを考えていた。父の打擲と母の無関心、ありきたりな物語だ。ともかく身や魂しいの安全を確かにできるところを求めて、20代のほとんどをさまよいに費やした。10代のはじめは絵描きになろうとしていた。けれども画材を棄てられ、文藝に走った。それもまた検閲され、つぎは音楽だった。ギターを買うために郵便局で働いた。まだ郵政事業が民営化されるまえであり、自爆営業も、投身自殺者もだしてないころだ。わたしは心情的な弱さを美化し、歌に変えた。それはささやかな抵抗だった。
 けれどもやがてわたしは酒に溺れ、なにもかもなしくずしに喪っていった。気づいたときにはギターもオーディオ装置も父がぶっつぶしたあとだった。高校をでると、自由を求めて放浪した。いくら金がないときでも、無賃乗車で旅をつづけた。いまだってひとつのところに安心できない。これはひどい後遺症だった。ようやく室を手に入れたとき、わたしはすでに20代も終わりのほうだった。かつてのように仕事に就くのも、病んでしまった心が阻んだ。カウンセリングと入退院のあと、短期労働者として量販店に入った。ようやく福祉の闇から顔をだせるようになった。かれらの口癖は「待って」だった。なにをやるにも金はいる。働くのにだってそうだ。半月待って、靴を買い、もう半月待って、スラックスを買う。さらに半月待ってシャツを買う。さらに待って予備のシャツを買う。そうこうするうちに季節は変わり、わたしはまた齢を喰う。なんというものごとの鈍さか。面接すらしてもらえず、わたしはほとんど挫けてしまい、B型作業所で卑屈な日日を過した。そんなときだった。カフェでひらいた無料の個展で、やつとであった。滝田淳平。やつに誘われるままライブに立ち、ギターを弾いた。いまでもわたしたちにとっての奇跡だと呼んでいる。
 はじめての舞台では甘ったるい歌ばかりやっていた。そこから音楽はエモやジャズを通過し、もっともっとおかしくなった。詩だけを読むときもあるし、絵を描くときもある、滝田のドラムとブルースハープがそいつを支えてくれている。わたしはようやく救われた気がした。けれどもわたしたちは一部のコンピレーションを除いてスタジオには入らなかった。どこかで怯れていたのだろう、ライブで培ったものを台無しにするかも知れないって。でもわたしは隠れて録音費用を貯めている。不安定な創作と労働の収入でだ。ほとんどの仕事は灘浜や深江浜にあった。倉庫作業だ。出荷準備や検品、あるいは郵便局で臨時の仕分けなんかをしている。わたしは今月のはじめに34になった。人間というものが時間に対していかに非力かをまたしてもおもいださせる。敗北しつづけるしかないということも。最近、眠りはぐっと浅くなり、みじかくなった。頭が痛いほどの睡眠不足のなか、どうしても眼が醒めてしまう。からだを休め、恢復させることがどうしたものか、まったくできていない。ちくしょう、おれはまたしても自制なんか吹っ飛んでしまっている。

 

   *

 

 未来についての、
 臆病なほどの展望
 型抜きされたクッキーほどのささやかな幸運のもとで
 確かめ合う、ぼくらの骨格

 水中ポンプをきみはいくつ買うつもり?
 浜辺の大きな岩のうえで天体図を書いてるきみ

 もはや現れないだろう、
 幸運のもとで
 展望は驟雨しつづける、夏


   *

 

 ホテルについて荷物を解いた。旧式の冷房がうるさい。天井は低く、圧迫感を感じる。車は、あした仕上がると聞いている。いったいなにがわるかったのか、それを訊きそびれてしまっていた。しまった。あとでどんな請求が来るのか、わかったものではない。そんなことを考えながら、室のなかを歩き回った。隣から男女の争いが聞えれる。男には分がない。手で鍵を弄びながら壁の絵画や、漂白されたシーツを嗅いだ。これでよし。なにもない。罅のある、合成皮革のソファで雨乞いの踊りを踊っていると、だれかがノックしている。苦情かも知れない。アフリカの黒い部族たちをひとり、またひとりと耳の穴から追い払いながら、わたしはドアをあけた。暗黒大陸に素早く光りが走る。滝田だった。やつはうなだれている。
   なあ、映画と夕飯にいかねえか?
  頼むよ、疲れてんだ。
   まだ9時だぜ?──それにここには酒もないと来る。
  わかったよ、ちょっと待っててくれ。
 わたしは脱いだ服をまた着ながら廊下に出、1階まで降りた。滝田はロビーの喫煙所で莨を吸っていた。わたしは手をふった。やつは気づいていう。──まずは飯だ。──でもそれはレストランでもカフェでもなく、バーガー・キングだった。ハイネケンを啜りながら、アボガド・ワッパーを喰う。ゲップをする。なにも知らないふりをする。でも知ってしまったものを忘れるのはむずかしい。幸運なひとびととちがって。客はみな大人しく、たまにビールを呑むわたしたちを不潔なもののように見た。滝田はもう2本めだ。
   ひどい旅になりそうだ。
  いい旅があったか?
   おれのなかにはあるぜ?
 「そのまま仕舞っておいてくれよな」──わたしは少し気が立っていた。どうしたものか、相棒が憎らしくおもえた。滝田は、平気だった。身を翻すと、笑いかけた。
   おまえはそうやって孤独に耐える、──それもいいだろう。
   でもおれは孤独を愉しんでるんだ。
 実際、やつはそうなんだろう。わたしはそれを愉しめるほどには要領よくはなかっただけの話だ。孤独に甘えているわけでも、すがっているわけでもない。ただただ耐える以外に道が見つけられないだけだ。
   わかるか?
  わかるよ、おまえは陽気なやろうさ、おれはそうじゃないってことだろ?
 滝田は首をふった。
   ちがうな。
 わたしはやつの背中を突っついた。
  なにが?
   もう少しでわかるさ。
 ホテルをでて、しばらく歩いた。映画館にたどり着いたとき、おれは呑みすぎていた。しょんべんをし、ジュースを流し込む。そこはミニ・シアターだった。わたしたちは東欧かどっかの映画を観た。ちいさなラウンジでふたりの女の子が話をしてる。滝田は目ざとかった。
   わるくなかったよな?
  ああ、そうだ。
 わたしが返事をするころにはもうかの女たちに近づいていた。なんてやろうだ。
 「やあ、ふたりづれ?」──ええ。
   わるくない映画だったよな?
    そうね。でも脇役がでしゃばりすぎだし、照明も暗すぎる。そこはちょっとね。──でも、主人公の表現は素晴らしかった。
   映画はよく観るの?
    ええ。
   なら話は早い、おれたち映画音楽をやってるんだ。
    すごい!
   いっぱい奢るよ。      
映画音楽だって?──自主制作映画にからんだだけじゃないか!──わたしはやつの対話能力に驚きながら、バーにいき、それから4人でホテルに入った。映画の話でだいぶ弾んだらしい。かの女たちのひとりは、ヒトミという青いスカートの子で、もうひとりはキミエという乳白色のスカートを穿いていた。上着はふたりとも黒のジャケットだ。
   どうだい?──一緒に寝ない?
    なにもしない?
   しないしない、したこともない。
    ほんとうに?
   くどいなー、おい榮(エイ)、ビール買ってきてくれ。──滝田は憂さを晴らしたかったんだろう。わたしはなにもいわずにビールを買いにいった。廊下を歩き、ふたりが室に入っていく。
    酔わせて犯すの?
   いいや、でもそのかわり手品をしてやるさ。
 あんまり滝田がキミエに執心だったから、おれとヒトミはスーパーへいって非加熱ビールを買った。ハートランドビール。それを人数分買ってもどる。わたしは滝田の室に2本、ヒトミは呑まないというから、じぶんのためだけに2本、室に置いた。さっそく蓋をあけ、呑む。ベッドは清潔だった。それだけが取り柄だ。ヒトミはみじかい髪をかきあげながら話し始める。切れ長の眼が印象的だった。
   いつか、「ゴールキーパーの不安」ってドイツ映画を観た、──知ってる?
  ああ、観たことはないけどね。──まえにいちど借りたことがあった。残念ながら盤面の疵で正しく再生されなかった。
   それでね、ゴールキーパーの男が映画館で出会った女を連れ込んで殺すの。それでなにごともなく旅をつづけるのよ。
   あなたはそんなひとじゃないよね?
 ヒトミがまじめな顔でいう。いったいなにを考えているんだ?──ひとくち呑んでわたしは答える。
  生憎、ぼくはゴールキーパーじゃないよ。
   じゃあ、なにもの?
 そのときひどく戸惑ってしまった。音楽も絵も写真も半端だし、文藝はもっとお粗末なものだったからだ。収入は底辺労働と表現活動の折半で、どうにか生きているぐらいの人間でしかない。わたしはけっきょく曖昧に笑い、ベッドに横たわった。ヒトミはジャケットだけを脱ぐと、わたしの隣で横になった。女っ気はもうずっとなかった。かの女たちはみな通り過ぎ、捨て科白をいった。──《あなたは心を見せないひと》だとか、《あなたはなにも打ち明けようとしない》とか、そんなことをいってみんながみんないなくなってしまった。もう少しなんとかできたかも知れない。けれどもいったいなにが?──わたしはただうそを吐かなかっただけ、そしてほんとうのこともいわなかっただけだ。わたしはどうしたことか、ほんとうの声を聴かれるのが怖かった。いまはそれほどでもない。女が愛おしいときもあれば、安らぎが恐ろしいときもある。寵を喪うか、瓦解するか。分不相応な情況になると、それがどんなに幸運で、幸福だろうとも逃げだしたくなるときもある。わたしは気にしないふりを装う。そして知らず知らず、逃避や背信行為に身を委ねてしまうときがある。わたしはそのとき、なるべく高いところを目指して昇っていくことにしている。より困難なところへいけば、恐ろしさを忘れさせてくれるとおもっているからだ。というわけでわたしはかの女と肌をくっつけた。
   さわらないで。
  ごめんよ──わたしは離れた。
   旅してるの?
  ああ、演奏旅行だ。
   どこまで。
  これから仙台、そして青森。
   東京は?
  まえにいちどいったんだ、でも今回ははずした。
   どうして?
  どうしてだろう?──ぼくにもわからない。今度のルートはドラムの滝田が考えたんだ。やつにとっては残しておきたいメイン料理なのかも知れない。──きみたちはどっから来たんだ?
 「わたしたちもずっと旅をしてて、この町ははじめて。次は東京にいくの」──榮さんだっけ?──あなたは東京でどこが好き?──ぼくは東京のことをよく知らないんだ、話題になるような町や店にもいかないし、おもいでらしいものがあるとすれば立川と神田と中野と、あとは新宿高架下。
 「高架下?」──なにそれ?
  そこで20のとき、ホームレスたちの世話になったときがあって。ぼくはそのとき路上で暮らしてたんだ。みじかいあいだだけど。助けられたよ。──わたしはかの女に昔の話をした。かれらのくれた喰いものこと、酒のことを。それから20代の放浪生活について語った。かの女は静かに聴き、たまに小さく笑った。いつしか眠っていた。     

 

7月15日

 

 翌朝、ノックで起された。6時だった。寝かせて欲しい時間だ。ドアの向こうには滝田がいるのはわかってる。でも、おれは応えなかった。ヒトミはいなくなっていた。またひとり失った。ひとは人生をおもてあますと奇蹟のようなものについて考えたりする。あるいは偶然の招いたなれの果てについて。そういった、答えのでないものに惹き込まれてしまう。わたしの場合、どうして20代の大半をどぶへ叩き込み、物理的な居場所を手に入れられなかったのか、なぜあのとき、23のとき、直接雇用を断ってまで放浪にでてしまったのかを考える。もし滝田と出会わなかったら、いまもまだ創作をつづけられていたかをおもう。数時間。さて、そろそろ、くそ人生だ。くそ時間にくそ朝。くそ小便をしてわたしはくそ廊下へでた。やつの室へいった。──どうしたんだ、あんな時間に。
   おれの電話がないんだ。──やつは戸口で力なくいった。
  女の子は?
   いない。──とりあえず、おまえのほうはどうなんだ?
  こっちも帰ったらしい。──よくない事態が起っているのがわかる。わたしは不安のなかで唇をそっと噛んだ。──電話は?──わたしは慌てて室を探った。上着のポケット、ズボンのポケット、枕の下、クローゼットのなか、あらゆるところを掻き回したがなにもない。──くそ、おれのもない。──やられた!
 「とりあえず車を取りに行こう。預り証は?」──なんだって?──なにが起きているのか、まったくわからない。おなじように掻き回したが預り証もない。──見当たらない。──じゃあ、どうするんだ?──わたしはベッドの端に坐って考えた。かの女たちがやったのはまちがいない。けれどなんのために、なんの意図があって、あんなことをしたのかがまったくの埒外だ。
   くそ、工場のなまえすら憶えてねえ。
  たしかフジモト・モータースだった。
   じゃあ、さっそくいこう。──わたしたちはふたたびタクシーで修理工場まで急いだ。わたしはきのういった滝田の科白をどうしたものか、反芻していた。──きのうの答えはなんだったんだ?
   なんのことだ?
  ほら、孤独が云々ての。──やつはかぶりをふった。
   もういいだろう?
   おれだって忘れちまったよ。
 どういうわけか、かつてわたしの友人だったやつの自裁をおもいだした。やつは少なくともわたしのように孤独ではなかった。ひろく友人を持っていた。やつがおれの絵をオフィスに飾りたいといいだした。個展をやろうといいだした。わたしは快諾した。ポスター・デザインもし、展示案もやつのいうとおりにだした。しかし当日なってみれば、わたしのアイデアは採用されず、資料用のデッサンやクロッキーが告知のチラシとして、下手な字を書かれ、張りだされてあった。わたしはすっかり失望した。夜になってやつは通行止めにあった。いつもの道が工事で使えなかったのだ。それをやつは侮辱と見做し、警備員に掴みかかった。そして警察を呼ばれた途端、逃げを打った。わたしに車を運転させ、おれは無免許だと嘯いた。
 わたしは翌朝、アパートに帰ってすべてをぶちまけた。やつは警察と警備員の両方に責められ、数日後手首を切ってしまった。かれの弟、母、父がわたしの室に押しかけた。かれらはわたしを訴えると喚いた。やってみろとわたしはいった。何日も電話が鳴りつづけた。着信拒否をしてそれが収まると、今度は内容証明が来た。地方裁判所からも通達が来た。けっきょく事態を解決するために1年はかかった。立ち直るにはもっと時間がかかった。精神病棟をうろつき、医者や心理士と話し、あるいはまったく無関係なひとびとに語って聞かせたりもした。おれが死ねばいいんだろう、そうおもって薬を呑んだこともあった。でもおれはここまで来られたんだ。
 これは滝田と出会うよりもずっとまえのことだ。やつは知らない。わたしはじぶんの父から「おまえは友だちを警察に売ったんだぞ!」というありがたい詞を戴いた。タクシーの車窓のなかで、死んだやつも、その弟も、母も、姉も、わたしの父も、かれらの顔がひとつづつ消えていき、やがて目的地に着いた。

 

   *

 

 どうしても欲しいものが見つからないとき、
 かわりのなにかで補えないとき、
 草色のわるあがき、
 測量士の補正が終わらない、
 夏
 たったいちどきりの出会いを乗り過ごし、
 ぼくはただ、
 おどけてみせるだけ
 
 きみがどこにいるのか、
 ぼくは知らない
 いつか見た公衆電話のなかで
 きっといまも20年まえとおなじように
 夜通し、行き場もなく本を読んでるにちがいない

 

   *

 

 木陰にしばらく立って涼んだ。草色の扉。夏の陽光をあびて叫びだしそうなペンキ──ぼくを塗り直してよ!──修理工場に着いてわたしがブザーを鳴らした。でてきたのは、痩せた小男だ。きのうの大男はどこにいるのか、なんとなく眼を走らせた。──きのう、車を預けた野崎ですが。──痩せた男は、きっぱりといった。
    その車ならふたりの女の子が取りに来たよ、代理だってさ。──なんだ、そのつらは?
 かの女たちにまちがいなかった。いったいなんのためにわたしたちを狙う?──夏の陽光のなかをただ突っ立って考える。答えはどこにもない。車がないのなら、いったいどうやって動けばいいんだ。滝田は怒りと不安で震えている。
  あんた、きのうの夜のとちがうな。担当者に変わってくれ。──薄汚いやろうだった。わたしにできたのは眼を逸らすことだけだ。
    なにいってんだ?──おれはその担当者だ。
    きのうの晩は閉めてたよ。
   うそをいうなよ。
   おれは気が立ってるんだ。  
  ともかくかの女のたちのなまえぐらい控えてるよな?
  受領サインがあるはずだ。でなきゃ身分証のコピーとか。
    どうしたんだ、いったい?
 「車を盗られたんだ」──あのメス犬め。──男は要領得ないという顔をしている。陽射しがもろに当たっている。逆光ぎみの男の顔をわたしはしばらく眺めていた。むかつくような草の臭いがする。男がやっと声をだした。   
 「受領書ならあるが、名字だけだぞ?」──ああ、なんでもいい。証拠になるものがいる。──わたしは藁にも縋るおもいだった。男はちいさな建屋のなかへ入っていった。青いトタンの壁が工場の外側を覆っている。事務所と呼べばいいのか、小屋がひとつある。スピーカーと監視カメラもある。滝田を振り返る。やつは力を喪った眼で、足許を見ていた。──これが受領書だ。
 ちいさく薄い紙に乱雑な文字が並んでいる。
   それにしても故障の原因はなんだったんだ?
 もどって来た男に滝田が訊く。
 「簡単なことだ、ガソリンがそっくり抜き取られてたんだよ」──わけがわからなかった。つまりここへ車を誘導するためにぜんぶ仕組んだってことなのか、たったガソリン代と検査料金とレッカー代のために?──京都から遠くはなれて?──滝田は拳をかためて受領書を叩いた。なにもでやしない。女たちはいったいなにものだったんだ、ただの映画好きでもない。わたしたちは最寄りの警察署まで急いだ。簡便な調書をとられ、長い状況説明もした。ガソリン・スタンドからきょうの修理屋まで。受領書も見せた。しかし若くておろかしい警官はすべてをたやすく退けてしまった。待合室に坐っていると声がした。
 「この案件じゃあ、盗難届も告訴状もだせないよ」。──カウンターから横柄な声がする。いったいなにが起っているんだ。わたしは書類の不備を探した。どこにも見当たらなかった。──おなじようなことが全国レベルで起きてる、もっと詳しく書いてくれなきゃ。
  じゃあ、どうすればいい?
    とりあえず、そのふたりをここに連れ来て欲しいね。
    男女のあいだの出来事だろ?
  でも、かの女たちのなまえしかわからない。それに男女のなかとはいえない。
    いったい、どういう関係だ?
 「きのう、映画館で知り合って一晩」──そいつは自己責任だ。──警官は無表情を決め、滝田の声を遮った。どういったいいものか、わからない。どういえばうごいてもらえるのかもわからない。わたしたちはもういちど事実を繰り返した。警官はやはりそれを遮って、荒唐無稽だといった。──そんな話ではうごけない、とも。滝田がカウンターを叩いた。警官もそして多くのひとも権威を担保に入れなければ話をすることもできない。上が、下がのくり返し。だからけっきょく鸚鵡返しでなにもかも終わってしまう。とても対話になり得ない。くそ、なんてろくでもない言語なんだ、日本語ってやつは。
   ふざけるなよ、
   盗難車輌の調べぐらいできるはずだ。
   男女のなには関係ねえだろ?
 「ごろつきどもが」──警官がいった。侮蔑しきった眼差しで、吐き捨てるように。われわれは怒りでいっぱいだった。
   なんだって?
 「ごろつきだといったんだ、わけのわからん生業をしてふらついてる、──滓だ」
   このやろう!
 わたしたちは1時間ほど押し問答をつづけた。上司を呼べとか、どうして盗難届がだせないか、理由を説明しろといった。でもだめだ。どうやらここは警察署ではないらしい。──おれは警官を見つめながらいった。少なくともここには、バッヂにふさわしい人間はいない。──ひきあげよう。コンクリートの階段を降りながら、答えを探そうとした。けれどもそういったときは決まって品切れときてる。こんな不条理があっていいのか。いったいだれが赦しているのか。そいつを突き止められたならとおもった。滝田は怒りのあまり、顔がしろくなり、拳をかためてじぶんの胸を叩いた。
   いったい、なにが起ってるんだ?
  おれにだってわからねえよ。
   どうする、これから?
  列車でいこう、それしかない。──巡業はまだはじまったばかりなのだ。──車のことはまたちゃんとしたところで話そう。もしかしたら弁護士に相談したほうがいいかも知れない。ただただ時間を空費してホテルにもどった。といっても、もっと安い宿に変えた。旅草が余ってるわけじゃない。タクシーを2度も使った。もちろん精神もくたくただった。泊まる室はひとつだけ。きのうようにはいかなかった。わたしは簡易ベッドに坐った。滝田は競馬新聞をひらき、ベッドで腹這いになって読んでいる。
   マキアナ・フォールが本命なんだと。
 いままでろくに勝ったこともないくせにいった。せいぜいのところ、7千だ。本命の対抗馬になりそうなやつを見繕ってから、賭ける馬を決めるといっていた。わたしにはどうでもいいことだ。
  で、おまえはどれに賭ける?
 「シオマキオーだな。前走の長距離こそ冴えないが、短距離なら勝てる。騎手もわるくない。前走、前前走ともにゼロヨンだ」──わたしは相手にしたくなかった。さっきのことでおかしくなっていたからだ。わたしもなにかに逃避したい、そうおもいながらもいった。──そんなこと、やってる場合か?
   ほかになにを考えろって?──高橋恭司の初期作品についてか。
  やめろよ、そんないいかた。おまえらしくない。
   おれたちは、ばか女とくそ警察に手を噛まれ、踏みつけにされた、それをおまえはどう捉えるんだよ?
  災難さ──それ以外のなにものでもない。災難だ。──おもてでビールを呑もうじゃないか。
 われわれは酒場で黙ったまま呑んだ。やつもおれもブランデーやスコッチを、ビールをチェイサーに呑んだ。宿に帰って、スーパーマーケットで買った、茹で卵、サラダチキン、柔麺のサラダを平らげる。べつに買った、クレソンを添えて。あとはウィルキンソンの炭酸を呑みながら、軽い腹筋運動をして湯浴み。そしてこの日記を書いている、というわけだ。

 

7月16日

 

 わたしが音楽を試み始めたのは12のときだった。母のクラシックギターを抱え、単音で「イエスタデイ・ワンス・モア」を耳コピした。それにも飽きてつぎはテレコによるフィールドレコーディングだ。それをPCに取り込んで、逆再生したり、速度をあげたり、さげたり、切り取って別の音源にミックスすることも多かった。やがて曲の輪郭ができあがり、5曲つくった。高校時代、そいつを同級生に聴かせたこともあった。やがて作曲ソフトを手に入れると、MIDI音源を頼りに楽譜を書くようになった。けれどもわたしはだんだんと家にいられなくなった。父の暴力に耐えきれず、町をさまよった。楽器をふたたび手にしたのは29。わたしはギターで歌ものをつくり、デモを録った。そいつが現在にまで繋がっている。おれはいびつな楽器を抱いて曲を弾こうとする夢を観た。たしかradioheadのThere Thereだったかも知れない。つまづきながら服を着て、退室の支度をした。
 やつは宿酔いだった。それでもいかなくてはならない。ドアごとやつのあたまをノックしつづけた。やつの職場放棄には困ったものだ。かつて一緒にビルの掃除にいったとき、やつは黙って消え、気づいたときには1階で漫然と煙を吐きだしていた。そんなことをおもいながら、わたしは叫ぶ。
  おい、時間だぞ!
 自由でいることはなかなか骨の折れることだった。巡業のたびに仕事を喪うし、作品をかたちにするためにスタジオに籠る必要がある。働いてはいたけれど、労働倫理のようなものはとっくにどっかへやってしまった。わたしは群れに馴染めなかったし、いまもそうだ。半端仕事をやりくりしながら、いかに少ない稼ぎで飛べるか、そればっかりだ。どっかで一発逆転を期待していた。もちろん、そんなものはないとわかっていながら、裏切られるとわかっていながら。深夜の手当をもらい、自身をごまかしながら、どうにか、こうにか日を暮らしている。演奏先で揉めごとになることも、頻繁ではないけれどあった。だからといって折角の自由をいまさら手放す気にはなれなかった。この旅が終わったらレコードをだそう。音源の配信もやろう。わたしはそう考えながらノックをつづけた。
 予定よりも30分過ぎてやつはでてきた。眼の下に隈をつくり、酒臭い息を吐きながら。駅までの途上、迎い酒を呑み、ホームを目指した。暑さはどんどん高まっていく。わたしはひょっとしてしがみついているだけなのかも知れない。この旅を終わりにするべきかも知れない。そうおもいながら駅まで歩いた。だってそうだろう、おまえ。こんなにも揉めごとの多いじゃないか。おれは降りる。もうどいつもこいつも勝手にしてくれ。なんとか安全なところへ行きたかった。おまえがどうおもうのかは知ったことじゃない。

 

   *

 

 深夜のサービス・エリアでひとりぼっちにされた靴が主の帰還を待ってる
 そうとも、かつてぼくが迷子になったみたいにいまはきみが迷子なんだ
 ガソリンの揺れる、タンクのなかのやさしみや、まじないの原理で
 たったいちどだけぼくはきみに会ったことがある
 行方不明者のビラのなかでいちどきり
 幼いきみの顔をこの世界へ
 永遠に残されるべきものへと変えて、
 フィルム・タンクごと遠くへ投げてしまうんだ
 そうすればいつか長い夏休みの果てで
 ほんとうのきみ自身に会える
 
 かつてぼくはセロリを食べたことがなかった
 どんなものかも知らなかった
 いま大人になってセロリやオリーブの味を知ると
 知らないということがどれほどの不運であったのを知る
 夜のハイウェイで失われた氏族たちを数えるみたいにトラックに乗って
 子供靴の主を探す
 母親が狂ったようにきみのなまえを呼び、
 ぼくはまたしても
 夕餉には間に合わない

 

   *

 

 雲がひくく垂れ込めて、あたりを薄暗くさせている。列車に乗り込みながら、わたしは時間を見た。やつもだ。これからまたしても長い旅路が待ってる。新幹線でそのまま仙台までいくつもりだ。自由席。余裕はない。途中で巡業をやめて車探しに没入するか、家に帰ることも考えながら坐った。でもまだ、やつにいってない。じぶんでも迷いのなかにいるということだ。やがて雨が降り始めた。小雨から本降りになるのにそう時間はかからなかった。
   いまなら間に合うなよな?──滝田はまた新聞をひろげながらいった。
  ああ、心配いらん。──新聞のバサバサという音に苛立ちながら応えた。間に合って欲しくはない。
   雨、降りだしてる。
  そういえば馬はどうなった?
   きょうはあきらめるよ。あたまを冷やさなくちゃ。
  それがいい、おまえは気が立ってたもんな。
   だれだってそうなるさ。
 滝田は新聞を鞄に入れ、そのかわり手帖をだした。これまでのことを記録してる。そのとき、ドアのまえで立っていた女の子がこちらへやって来た。白いブラウスにスカートを穿いている。髪は肩までで、飾りものはなにもない。迷い込んできた猫のようでもある。わたしたちを見下ろしていった。──ここ、いいですか?
 「ほかにもあいてますよ」──楽器をかたづけるのは面倒だ。
 「まあ、坐ってよ」──やつはいつも女に甘い。そいつでどれほどひどい眼に会って来たか。けっきょく楽器を片づけるはめになった。やつはスネアを棚に乗せ、わたしはギターをまえに抱える。滝田はかの女に興味があるようだった。しばらくその挙動を観察したあと、声をかけた。
   なにか遭ったみたいだけれど?──かの女は傘も鞄もなく、濡れてさえいた。
    ええ、ちょっと。
   話したい?
    退屈でなければ。──素直そうな子だ。
   気にしないよ、おれたちは。
    これは友だちの話なんです。その子は両親に追われてて、いつも自立を阻まれるんです。
    どうして親がそんなにも子に拘るのかがわからない。溺愛も虐待もありませんが、とにかくそと世界にでたいといってました。──わたしにできることってないですか。
   かの女、つまりきみは親をどうおもってるんだい?
    これは友だちの──いいえ、わたしはただ離れたいんです。
    きょうは船と電車で逃げてるところです。わたしがおかしいんでしょうか?
   いや、きみは正常だよ。おれだって早く親から離れたくてたまらなかった。こいつだってそうだ。
     父は冷たい人間で、母は孤立するのを怯れてます。
     わたしはもうそんなかれらのところにいるのはいやなんです。いままで何度も連れ戻されました。どういしたらいいでしょう?
   きみ、いくつ?
     もうじき20歳です。
   ならもう大人だ。救済支援にはいった?
     いいえ、知りませんでした。
  駆け込み寺という手もあるよ。
 わたしたちはかつてひとりの青年を犯罪組織から匿ったことがあった。かれを発見したとき、かれは肋骨を折られ、全身きずだらけのまま所持金もなかった。それでもやつらはかれから金を絞ろうと追い込みをかけていたらしい。もちろん家族にも手配済みだった。わたしたちは施設の入所や、なまえや土地を変えて暮らす方法を教え、その手の機関に繋げた。もともとそっちの知識があるわけじゃなかった。ただ調べつづけた結果だ。どういうわけか、ひとはそういった生きる手段についてあまり調べようとしない。恐怖がそれを拒んでいるのか。何回か、かれから状況報告と感謝の便りが来ていた。けれどもたった1年で消息不明になった。もう殺されているのかも知れない。やがて到着し、われわれは安い宿を探した。雨が止んで生乾きの地面からいやな臭いが立ち上る。
 リカコを連れて滝田は歩き、ちいさなホテルに室をとった。やつはかの女の分まで払った。勝手にするがいいさ。わたしはもう罠はご免だった。女という罠がそこらじゅうを歩き回ってる。悍しいかぎりだった。風呂の湯を張ってなにも考えなくとも済むようにじっと蛇口や浴槽を眺める。時間が温水のなかでじっくりと溶ける。わたしにできるのは待つことだけだ。湯浴みしてから廊下へでた。ちょうど滝田もでていた。歩きながら懸念が口をついてでた。──あの女、シンドウ・リカコへの懸念が。廊下を歩いているとき、偶然滝田に出会した。わたしはいった。
  大丈夫なのか?
   いってるだろ?──おれはかの女を助けてやるって。
  とめた憶えはない、ただかの女との仲がどうとか、そんなことにはなるな。──そんなつもりはなかったけど、やつは怒った。
   おい、かの女と会っていったい何時間経ってるんだ?
   1年か、それとも3年か?──妙なこと、考えるなよ!
  わかった、わるかったよ。
  ともかく用心はしていて損はないってだけだ。
   あのふたりにみたいにか?
  そうはいわない、ただおれが危機感を感じるっていうだけだ。
   なら、余計な心配だ。
  わかった。じゃあな、おやすみ。
 わたしは室に入って横になった。腹が減っているが喰う気がしない。女は危険だ。でもそれをいったってしようがない。何事もないようにおもうだけだ。薄汚れたベッドカバーをとり、薄い蒲団にからだを突っ込んだ。片手にはビール壜。テレビはつけない。携帯ラジオでモダン・ジャズやボサ・ノヴァを聴いた。それからしばらくしてシャワーを浴びる。両の手で睾丸を包み込み、眼を閉じる。わるくなかった。
 しばらくして悲鳴がした。慌てて廊下にでる、血まみれの腕を抱えて、滝田が立っている。女はエレベータに飛び込み、そのまま去っていった。なにがあったのかもわからないまま、フロントと警察に電話をし、やつの手当を救急隊に任せた。警察はあいかわらずだった。男女同志のナニと決めつけて、ろくに調書も取らずに消え失せた。ひとりは下品な笑みを浮かべてなにがそんなに嬉しいのか、女ったらしと連呼した。滝田も馴れてきたのか、まるでなにも起きなかったかのように坐っている。そうとも、なにも起きなかったんだ。警察の態度はあきらかにそう表していた。かれらがバッヂのなかで偉そうにしてられるのは、けっきょくかれらがストーリーテラーであることの証しのひとつにちがいない。燃えるようなおもいで、かれの隣に坐った。スプリングがけつに刺さりそうだ。
   かの女、
   薬中なんじゃないか?
  なにがあった?
   突然、
   ナイフをだしておれの腕に突き立てたってわけだ。
   いっとくけどおれはなにもしてない。
   ただ坐って酒を呑んでただけさ。
   どうして、おれたちはこれほどまでに惨めな眼にあわなければならないんだ?
   悪意ですべてができてるんじゃないか、そうおもえるほどだ。
  くそ、いったいどこでナイフを?
   そのへんで買ったんだろ。
   いちどかの女はコンビニへいってでてったからな。
 わたしはなにもかもがいやになった。もう我慢ならない。巡業の中止をやつにいった。どうせやつの腕もしばらくはだめだろう。応急処置しかしていない。医者に見せるべきだ。わたしたちは救急車を呼んでから、夕涼みに階下へ降りた。なまえも知らないビールをひたすら呑んで無念さを味わった。やがて救急車が到着した。ストレッチャーを降ろし、ホテルに入る。まったくべつの男が連れられ、去っていった。いったいどういうことなんだ?
 そのときだ。リカコが連れ去られるのが見えた。ホテルまえ、車寄せに泊まった漆黒の冷蔵庫(ワンボツクスカー)へと押し込めれていく。かの女の両親とはおもえなかった。やることが派手すぎる。わたしは滝田と一緒に見ていた。やつとしてはもうどうでもいい女かも知れない。けれどもわたしはそうおもってはられない。走り去る車を追ってタクシーへ乗った。走ってきた滝田も乗る。冷蔵庫は速度をあげ、幾度も車線変更をくりかえす。かれらがどこへむかっているのかもわからないなか、道はやがて荒野へと入ってった。──降りてくれ、さわぎはごめんだ!──運転手がドアをあけた。わたしたちは去っていくタクシーと冷蔵庫のバックランプを見つめながら、その場へ坐った。けっきょくなにもできなかった。おれたちはあまりにも非力で、たったひとりの女ですらも救えない。夜風につつまれて嚔をした。やがてふたりとも立ち上がってホテルを目指した。そう遠くはない。2時間かけて宿にもどれた。機材も無事だった。サラダチキンと茹で卵を喰い、ガーリック・バタールを齧った。喰っているあいだ、ふたりともなにもいわないでいた。
 コーヒーを呑みながら、あしたの出演が最后だと、われわれは受けあった。これ以上の災禍が訪れないように禱った。なにものかへ禱った。それは神ではなかった。それは原子か、はたまた分子。あるいは超ひもだったかも知れない。わたしは横になって本をひらいた。森山大道が書いている。《光には影が、表には裏が、実には嘘がつきまとうごとく、またどんな人間の内奥(なか)にも心の場末があるように、街には悪所が必要なのだ。ざらざらひりひりと、またしみじみと、全きエタイの知れないラビリンス、さながら現代のバビロンである》と。いつか新宿で暴力沙汰に遭ったのを懐いだした。わたしは古雑誌売りの自称ヤクザに寝ているところを蹴られ、やつの足を蹴り返したのだ。やつはわたしを殺すといった。でも、半時間もしないうちに関心を消した。あの老チンピラに学ぶまでもなく、ひとは眼のまえの対象が、それ以上接触しないとわかれば関心を失う。いくら都市の悪所であっても多くのひとびとは眼のまえのものにほとんど関心を抱かない。実か、嘘かなんてどうだってかまわないのだ。ただ心の場末の、自己喚起された鑑賞のなかで日を戯れるだけである。おそらくわたしはもっともわるいルートを辿ったのだろう。
 わたしがなにを求めているのか、それが自身にもわからない。このままずっとふたりで音楽をやるのか。ひとりにもどって作家ごっこ、絵描きごっこでもしているかだ。まったくさきは見えなかった。あのふたりのことはこれ以上いってもしかたがない。では、シンドウリカコはどうだろう。かの女がふたりに語ったこと、それはぜんぶ嘘だったのか。ではあの車はなんだ?──もしかしたらかの女の親戚かなにかかも知れない。でも、そうでなかったら?──大きな事件に巻き込まれているかも知れない。でも、どうしたらいい?──そうおもったところで、できることはない。
 いまはただ安全に最終のライブに備えるだけだ。ほかにすることはない。わたしはケースからギターをだし、爪弾いてみた。なにを演奏するか、なにを朗読するかを考えた。カヴァー曲をひとつ入れたい。Joy Divisionの"Disorder"や、bloodthirsty butchersの「地獄のロッカー」あたりでも。はたまたサニーデイ・サービスの「空飛ぶサーカス」でも。まあ、いま考えることじゃない。ひとりごちてビール片手に滝田の室にいった。

 

   *


 旅が終わるとき、呼吸はどうなる?
   きみが死ぬとき、意識はどうなる?
 
 量子物理学によれば意識はひとつのエネルギー体で、
   生まれるまえにも死んだあとにも宇宙に残りつづける

 それはまるで終夜営業のファストフード店
   永遠に取り残されるみたいだ

 コーヒーや麦酒のおかわりもなく
   みずからのエネルギーによって宙づりにされつづける

 いつかぼくが死んだら、その餞にバーガーキングへいって欲しい
   ワッパーとハイネケンを頼んでくれ

 

   *

 

7月17日

 

 朝餉に茹で卵、即席のスープ、それだけ。昼はふたりして立ち喰い蕎麦で済ませた。真夏の夜というのにその晩は冷え切っていた。アート・スペースからほかの会場へ巡業中止をアナウンスしてもらい、ドラムを組んだ。きょうはまったくギターを弾く気になれない。半分は詩の朗読に当てることにした。プロジェクターで写真や水彩画を投影してもらい、右腕のいかれたドラマーとともにショーをはじめた。パトロンはまだいない。ポートフォリオがテーブル席や、入場者の手にある。いろんな作品の匂いがする。油絵の具、水彩、マット、石膏、木工、粘土、墨、革、艶消しの画面保護スプレー、ワニス、膠やなんか。最后にわたしがギターを握るとみな飛び回ったり、跳ねたり、発情期の兎みたいだった。そのときドラムセットがゆっくりと崩れかけ、ちいさな女の子がそれを確かめようとしたのか、一等高く跳ねた。滝田は倒れ掛かるバスやタムを蹴飛ばしてひたすらフロアとスネアを、ハイハットを鳴らしつづけた。──終わりだ。作品を何人かが買っていった。〆て3万円ほど。
   おれたちの評判に疵でもつかないか?──やつは倒れたドラムを見ながらビールを啜った。
  評判なんかねえだろ?
   そいつもそうだな。
 オーナーの女が最后のやつを褒め、ビールをくれた。さっさと飲み干して帰りの支度だ。そとにでると夜風が気持ちよかった。わたしはサニーデイ・サービスの「八月の息子」をハミングしかけた、そのせつなだ。わたしたちの車が駐車場に停まってある。どうなっているんだ、いったい!──滝田が走った。運転席の男が笑いかける。うしろには女たちもいる。
    わたしたち、ずっとあんたたちを追ってた。
    どうするのか見ものだったの。
 「この淫売め。薄汚いけつごと消えろ!」──滝田はドアをあけようとした。開かない。鍵がかかっている。おれは男に注視しながら、裏手にまわった。助手席にバットがある。やる気充分らしい。女たちがけたたましく笑う。わたしはフロントから写真を撮った。
 「あーあ、こんなことで怒っちゃって」──ヒトミがいった。せっかく返してあげようとおもったのにね。──けらけら笑いながらキミエが相槌を打った。──残念でしたあ!
 不意を突いてドアがひらき、男が降りてきた。憶えてるのは黄色いシャツ。木のバットがそのうしろから現れた。わたしたちは走った。アートスペースの裏口にむかって。でも扉はあかない。助けを求めて歩道へでた。バンが走りだし、われわれを追う。なんてことだ。やがて地下水道への入り口を見つけた。ひどい臭気のなか、ふたりで水のうえを駈ける。そのさきにひとりの老夫が立っている。どういうつもりなんだ?──ともかく助けがいる。そうおもって、すがりつこうとした。
   追われてるんだ、助けて欲しい!
    むだだよ。
 素気ない辞だ。わたしはかれをよけてさらに走った。滝田があとにつづく。やがて道は終わり、壁が見えた。うしろからゆっくりと足音がする。黄色いシャツだ。木のバットだ。わたしたちは立ち竦み、敵が来るのを待った。どうしてなんだ、どうしておれたちの車を奪い、おれたちを追っかけるんだ!──滝田が声をあげた。男はなにも答えない。けっきょく身動きのとれないまま、打擲され、気を喪った。壁に沿ってからだがくずれ落ちる。
 長い夢のなかでわたしはひとりバスに揺られている。ほかにはだれもいない。やがて運転手が飛び降りて、わたしは慌ててハンドルを掴み、ブレーキを踏む。その感触は緩い。スピードは落ちない。やがて車はばらばらになって地面に転がる。わたしは為す術もない。

 

7月19日

 

 気づいたとき、わたしもやつも手錠をかけられ、トラ箱にいた。木のベッドに蒲団、むきだしの便器がひとつ。わたしもやつも警官が通るたびに声をかけた。返事はない。手錠には輪っかに歯があって、それがいつまでも喰い込んで来る。たぶん5時間ほど経ったころだ、刑事がわたしたちにいった。わたしたちは裸だった。刑事がちかづいて来ていった。白縁眼鏡の太っちょだ。
 「供述書と上申書、もう検察に送ったから」──どういうことだ?
   おまえたちの喋ったことはぜんぶ検察にあるということだ。
  なにも話しちゃいない、いままでずっと気を喪ってたんだ。
   うそはよくないよ、おまえさん。捺印も済んでる。
  それこそうそだ、供述書をだしてみろ!──恥ずかしい男だな、おまえは。もう送ったんだよ。──刑事は嘲り、立ち去ろうとした。
 「ならいったいなんの罪だ?」──そんなものはおれたちが考えることだ、おまえじゃない!
   ただいえるのはだな、おまえが麒麟になるのも、牛になるのも、おれたち次第ということだ。
   まあ、サツ調べ、がんばりな。
   うそは吐くなよ。
   ぜんぶやりましたでいいんだから。
 やがて若い警官が服を持ってきた。血がついてる。機材もだ。弁当を喰ったあと、わたしたちは水色のワゴンに乗せられた。手錠に腰紐、なぜこんなことになるのか。腹が立った。あの女たちと出会わなけりゃ、あのスタンドにいかなければ。車はいくつかの町を過ぎた。仙台から北上してただただ走った。やがて夜になり、渡された握り飯を喰った。麦茶を呑んだ。いつまでもたどり着く気配はない。このままでは青森までいってもおかしくはない。警官たちは無言だった。こちらがひとことでも発しようものなら、警棒で威嚇した。やがて終夜営業のガス・スタンドに入った。給油を終え、走りだしてしばらくだった。車輌は激しく蛇行しはじめ、薄暗い倉庫街の一角で事故を起した。警官どもはみな息をしていない。血の臭いがひどい。でも腰紐にしばられ、手錠され、身動きはできない。それでも滝田は1日かけて腰縄を切り、手錠の鍵をみつけた。けれどもおれたちには逃げる場所がないようにおもえ、しばらく立ってた。遠くでりんご鉄道が走っている。だれもやって来ない。
 そのまま朝になり、昼になり、そしてまた夜になる。ブラック・ボックスのなかにいるようだ。もとの世界にはもどれそうにもない。どこまでいっても知らない土地が過ぎていくだけ。焦りと苛立ちのなか、まともに考えることもできない。もう疲れた。それでもけっきょくわれわれは歩きだした。そうするよりなかった。

 

   *

 

 世界はいまだ長い雨季にさえぎられて麦畑すら見えない
 聖典を拵えようと農具を借りてエレベータをあがる
 エレベータはどうして成層圏まであがらないのか
 農家ももはや雨の隠語だ
 あらゆるものが雨を表わしては消える
 きみはエリオットを呼び、廊下へでる
 ぼくはブクを探してポーターを呼ぶ
 やがてできあがった聖典で支配人を撲り殺し、
 みんなが雨になったあと、
 ゆっくりと自動車をだす
 けれどもここで誤算だ
 もはや自動車でさえも雨になり、
 ぼくでさえも雨でしかない
 長い雨季が終わるまで
 支配人は驟雨して
 やがて水の彫像と化し、
 雲になり、雨になり、やがて海や河になるのだ


   *

 

7月21日

 

 早朝、青森駅に立って長距離バスを待つ。帆立蕎麦を喰う。荷物を積み、まずは東京までもどった。それからふたたびバスに乗ってつぎは大阪までいく。滋賀のサービス・エリアで休憩し、そこらをぶらついた。暗がりのなかで白いものが浮かぶ。近づく。それは子供の靴だった。拾い上げてみた。そのとき、遠くから女の声がした。ほとんど悲鳴といっていいくらいの声で、だれかのなまえを呼んでいた。かの女が近づいて来る。わたしは靴を持ったまま、それを眺めた。──子供が、いなくなったんです!──母親の、ほとんどひとりごとのような話に耳を傾けた。わたしにはどうすることもできない。ただ靴を見せて、子供のかどうか聞いた。かの女は頷き、もっと暗いところへ歩いていった。やがて解体中の小屋のなかで子供を見つけた。わたしはバスにもどってなにもいわずに滝田の隣に坐った。他人の騒ぎにもじぶんたちの騒ぎにもうんざりだった。

 

7月22日

 

 朝、梅田で降りて駅へむかった。ちょうどスカイビルの根本から再開発中の空き地を抜け、ビルのあいだを歩く。低気圧が唸りをあげ、またも雨が降り始めた。しかたなく安い傘を買って、駅まで歩いた。そして神戸にむかう列車に乗った。もうだれも現れなかった。女たちも警官も、企みに充ちた男たちにも。三宮で降り、軽食屋でどうしようもなく味気のないカレーを喰ってから、地下鉄で丘をのぼる。
   弁護士の件、いつになる?
  あしたにするよ、きょうはもうだめだ。
   だろうな。
  警察の対応、録音しときゃよかった。
   安心しな、おれがやっておいた。
  じゃあ、任せるよ。
 安堵して息をついた。地下鉄をでて少し道を降る。わたしのアパートメントだ。わたしはそこで滝田と別れ、休むつもりだった。けれどもやつがしばらくして呼び鈴を鳴らした。──どうしたんだ?──むこうの駐車場におれたちの車がある!──ばかな!──坂をくだって駐車場にいった。たしかにわたしたちのシトロエンだ。そしてそのなかには女たちが血を流して倒れていた。──仲間割れか?──冤罪を覚悟で、救急車と警察を呼んだ。いったいなにがあったのか。
 滝田が莨を吹かし、助けを待った。ほんとうに助けになるのかはまだわからないまま。やがてサイレンがして車のなかからふたりをだした。救急隊が疵や脈を確かめる。死んではいない。つぎに警察だ。かれらを説得する自信はなかった。まず車が盗難に遭ったことすら受理されていないのだ。わたしたちがかの女らを攫い、撲りつけたといわれても反証のしようがない。われわれは葺合警察に連行され、調書をとらされることになった。いったいどの回数、おなじ話をしただろう。盗難届がだせなかったことをかれらは信じなかった。届けを拒否した警官たちはわれわれにすべてをおっ被せるとまではいかなかったが、男女の仲を強調し、個人間の揉めごとだといった。われわれは調書へのサインを断りつづけ、われわれの事実が正確に記述されるまで待った。終わったとき、20時を過ぎていた。腕が悪化して滝田はしばらく入院することになった。

 

7月28日~10月30日

 

 警察から電話があったのは1週間あとの午后だった。はじまろうとしている被害者聴取を目前にして、ふたりが消えたということだった。いったいなにが起ってるのか、わたしにはわからない。滝田はおれたちへの報復なんじゃないかといった。報復?──なにに対しての?──けっきょくひと月経ってもかの女たちの消息は掴めないままだった。自然とわたしたちへの取り調べもなくなり、車は検分を終えて帰って来た。なにもかもが無事だ。わたしも滝田もそれぞれの働きにでた。そしてわたしはレコーディングの計画を明かした。
   まだそのときじゃない。──滝田は、むつかしい顔でいった。
  いいや、おれたちは怖がってただけなんだ、やるんだよ、いま。
   金はどうする?
  おれが貯めてるんだ。
 やつは笑いだした。──じゃあ、さっそく曲をつくろうじゃないか!──リハーサル・スタジオで3曲、完成させた。宅録で4曲のデモを録った。それから2度のライブをやって、近所にあって、いちばん安いレコーディング・スタジオに入った。そして4日間、アルバムを録った。音源の加工やべつの場所で録った音の追加、最終的な編輯はわたしの室でやった。ある部分で質素であり、ある部分で野卑でありながら、即興性のある音楽に仕上がった。まがいものの実験音楽だ。その音源をあらゆるところへ送った。そして反応を待つ。どっか東部のレーベルが出してくれることになった。われわれは契約書を読み、疑問点があれば連絡を入れた。やがてレコードのプレスが終わった。最初の少数はどうしてもアナログで出したかった。そのつぎにコンパクト・ディスクになり、ネット配信へと繋いだ。今回の録音に詩の朗読は入れなかった。人間の声はライブでは映える。けれどレコードではお寒いとおもわれるかも知れない。そうおもって編輯の段階ですべてカットした。ふたたび、わたしたちはライブにでた。客の反応はあきらかにちがった。かつてのように見世物を期待するような眼はない。スタジオ作品がかれらの認識を変えてくれたようだった。それでもわたしたちは無名だった。
 入って来る仕事を撰んでいる場合ではなかった。アート・イヴェントの前座をしたり、また自主映画の音楽をやったり、あるいは詩朗読のバックしたり、そのときそのとき、ありつける仕事にはありつくしかなかった。やがて夏も終わり、われわれはあたらしいスタジオ作品に取り組むことになった。映画音楽と新曲のミニ・アルバムだ。新曲では歌を唄った。それまで私的にやっていたことを大っぴらにやる。ゲストにベース・オルガンを入れ、囁くように唄う。全6曲。あとは腕のいいミキサーと、話しながら作業を進めた。最終工程で音を足した。木の枝で、ドラムを叩き、プリペアドにしたギターでノイズ演奏を奏でる。かつて聴いたThe silencersというプリペアド・ジャズ・バンドからのイタダキだった。
 スタジオから帰ってみれば夜の9時を過ぎていた。冷蔵庫から鱈の切り身をだしてグリルで焼いた。岩塩をふってそのままかぶりつく。手酌で酒を呑み、気づいたときにはベッドのうえで水を求めていた。

 

   *

 

 小麦色の秋よ
 その綴り方よ
 やがてざっくりと鎌に剪られ、
 失われていくものたちよ
 天井の滴りを数え
 バス・ルームへむかうぼくよ
 そしてアイオワの果てで荒野する何千人もの青年たちよ
 かれらの憂い、うごかせないままに死する天使たちの電気冷蔵庫よ
 わがままに歩き、貞淑に殺され、いまもって分解されない雷のなかで
 16番街は消費しつづける女たちの紙細工なのだ
 わかるか!
 たったいま秋は愛撫するおれたちを霧として町として岩として
 あらゆる経験が煩悶するあたらしい河のほとり
 いったいだれのためにぼくは秋になるのか
 いったいどれほどの秋がぼくに変身してきたというのだろうか
 やさしいお姉さん!──あなたはいつバス・ルームへむかうんだ
 そして潰瘍色のベッドのうえでいつあの男と交わろうというんだ?
 教えてくれ、
 そして否定してくれ
 町から町へ消える女たち、
 ボクシングのリングで饂飩を喰い、蕎麦を啜る、
 日本語がいかにいんちきかをぼく自身に教授してくれ
 秋、
 また秋
 そして秋
 やがて秋
 ふたたび秋
 どうやっても秋
 いついつまでも秋
 姫君のような秋
 ぼくは天国では眠れない
 ぼくはずっと地獄にいたい
 そこで火やぶりにされながら
 かつて愛してたものを憎みたい
 なにが未来だ、なにが将来だ
 そんなものはぜんぶ秋になっちまえ!
 天籟は枯れ、その飛沫は地を覆い、
 肥沃な土地を、痩せこけたぼくに寄越せ、──秋め!

 

    *

 

11月7日~11月9日

 

 秋も深まったころだ。わたしたちは巡業先の広島で、映画を観ていた。客はまばらだった。50年代から70年代にかけてのゴダールに焦点をあてた劇映画だった。退屈も退屈でわたしはカールスバーグを2本立てで呑み、滝田は何度も便所に立った。ようやく終わってロビーにでた。ふたりの女の子が坐っている。わたしは立ちすくんだ。ヒトミとキミエではなかった。わたしたちは中国、四国をまわって帰った。しばらく予定はない。滝田は紀行文を書き、わたしは歌ものに専念した。多くのひとびとと出会い、そしてまたひとりの世界へもどった。ヒトミとキミエのことがあって、はや5ヶ月が経っていた。そのあいだわたしはあのスタンドにもいってみた。蛻のからだった。夜。そとからひっきりなしにヴェトナム女の、癪に障る喋り声が聞えて来る。たまに男の声も入るが、そいつはひくくてみじかかった。ひとりでいることに我慢できないひとびとがいる、ただそれだけのことだ。けれども静かな夜が侵されるようで堪らない。そういえば、事故起こしたはずの警察のワゴンも、新聞には1行もない。死んだやつらがどう処理されたのか、識る術はない。あのとき逃げたわれわれを追うものもない。すべてはわからなくなってしまった。
 紀行文がうけて滝田には臨時収入が入った。やつの奢りで酒場へいった。わたしはイェーガー・マイスターのハーフ・ロックを呑み、やつはアイラ・モルトにした。多くの疑問についてもはや話すことはなかった。ただただこれからの音楽のことを話した。いかにあたらしい客を掴み、取り込むか。なにを無料にして、なにを有料にすべきか。なにを公開し、なにを公開しないか、そんなことを話したはずだ。わたしもやはり酔っていて結論にたどり着くことはなかった。やがて年があけた。わたしたちは台湾で演奏したあと、アメリカでの巡業が決まりかけていた。わたしが駐車場から車をだそうとしたときだ、黄色いシャツが立っていた。バットはない。
 「なにしに来たんだ?」──男は声を発てずに笑った。ちくしょう、こいつは狂っている。相手にすべきではない。わたしは車に乗り込み、エンジンを吹かした。男はちからいっぱい窓を叩く。いや、撲りつける。わたしは発車するか、ドアをあけるか、それとも警察を呼ぶか、撰ばなくてはならなかった。わたしは怒鳴った。──なんの用だ、いってみろ!──男は辞にならない唸り声をあげ、じっとわたしを見ている。知恵遅れなのかどうか、やつはなにかを伝えようとはしている。しかしこれではまえに進めない。わたしは電話をとって警察にかけた。果たして10分後、警官たちが駈けつけた。──そいつが女たちを撲った犯人だ、おれや滝田を撲ったのもそいつだ。やつはまったく事態がわからないかのようにあたりを見渡した。
 わたしが撮った写真がようやくにして役に立った。警官たちといっしょに取り調べに参加した。やつは身元を示すものをなにひとつ持ってなかった。かといって口もろくに効けやしない。しかしやつは名刺をいちまい持っていた。そいつはフジモト・モータースのものだった。さっそくフジモトに連絡がいった。そしてかれが行方不明になっている主人の甥だということがわかった。でもどうしてかれが娘ふたりと駐車場にいたのか、長距離を運転できたのかはわからなかった。運転そのものは娘たちかも知れない。けれどもかの女らの行方がわからない以上、捜査のしようもなかった。男は無免許で、フジモトの手伝いをやっていたらしい。
 甥は大阪へ帰された。わたしたちを撲ったという証言は、けっきょく受け入れられなかった。若い警官が「またなにかありましたら」といった。まるで、そのなにかを期待するかのような口ぶりだ。わたしは静かな怒りの熾きを湛え、家路につく。家のまえに滝田がいる。坂を上りながら、わたしはつぶやいていた、《憑かれしか、偽りしか、主なりしか》だとよ、おれに神なんかいらない。おれたちすべてに神なんかいらない。それとおなじようにやつらのバッヂの威光なんざ溝に叩き込んでしまえだ。──わたしがそんな怒りのなかにあったとき、電話が鳴る。父だ。前口上もなしにやつはいった、「おまえは葬儀にも来なかった!」──墓で謝れ、おまえがどれほど妹を傷つけたか忘れるな!──この不心得者!──それからずっと怒声を黙ってわたしは聴いた。かれが罵るすべてを聴いた。冗談じゃねえ。答えはたやすかった。
 「おまえのほうこそ忘れるな!」──おれの猫を殺し、おれの絵を焼き、おれの魂しいを苛みつづけたことをぜんぶだ、くそったれ!──しばらくずっと忘れていた感情や光景がわたしのうちでぜんぶ嘔きだされた。「たしかに妹を殺したのはおれだ!」──でもそれはおまえらがおれを勝手におまえらの生贄に撰んだ、その代償でしかないんだ!──とっととそのくそ女のことをけつにしまって寝てやがれ、明き盲!──そのまま電話を切ってしばらくはあはあと喘いだ。わたしはおもってもいないことをいった。親も親なら子も子だ。まさかおれが妹を殺したなんて、そんなはずはなかった。そんなことができるのはまさしく《憑かれしか、偽りしか、主なりし》だ。これは帰納法といっていいのか。いいわけがない。よくわからない。──ふと気がつく、滝田が青ざめた馬のようにわたしを見ていた。そうとも、わたしは、はじめてかれのまえで本性を曝けたのだ。

 

   *

 

 地平線のむこうで
 きみが待ってた
 さっきまでむこうに
 きみは待ってた
 どうしても触れたくて
 ナイフみたいに尖って
 どうしても話してたくて
 井戸みたいに深く

 それでももういない
 どこにもいない
 冷たい土から
 浮上して
 地平線を越えた

 もっとむこうまで
 きみが飛んでた
 さっきまでむこうで
 きみは飛んでた
 どうしても追いつけない
 麦みたいに熱い
 どうしても忘れない
 木戸みたいに青く

 だからもういない
 どこにもいない
 冷たい雲から
 落下して
 砕けちった

 

   *

 

11月13日~11月14日

 

 わたしはひとりでライブに立った。あたらしい歌は、滝田とでは合わせられないと考えたからだ。大阪南部のちいさなハコでやった。そのあと一旦ホテルで休んでから、映画館へいった。あのミニ・シアターだった。異国の、国境際の映像を眺めながらビールを呑み、ゲップした。下品な男がひとり迷い込んだという趣きだ。終わったあと、ちいさなロビーにかの女たちを見つけた。やはり酔ってしまっているのだろう、わたしは挨拶もせずに隣に坐った。
 「やあ、──どうしてた?」──かの女たちはうろたえ、そして身を寄せ合った。──あのあと、おれたちがどんな眼に遭って来たか、想像できるか?──車も電話も喪い、挙句にはバットだ。死んでたっておかしかない。きみたちには徳義も責任もその辞書にはないだろうが、これから警察にいって話してもらうくらい、かまわないだろう?
 「遊びだったの!」──ヒトミがいった。
 「いったいなんの遊びなんだ?」──わたしは返した。
 「ちょっと困らせたかっただけよ」──キミエがいった。
 「車がちょっとか、電話がちょっとか?」──いったいどういうからくりなんだ?──いったいどこであの男と知り合ったんだ?──さあ、いますぐに警察へいくんだ。おれは尋問のプロじゃないからな。
 「やめて!」──ヒトミが身を捩って立ちあがった。ハンドバックを振りまわす。キミエもあとに従う。
 「待て!」──わたしは追いかけて戸外へでた。ふたりは赤いニュー・ビートルに乗り込んで、エンジンをかけた。立ちはだかろうとわたしは走る。けれどもかの女たちは手のつけられない暴れ馬のようにアクセルを吹かした。わたしはタクシーを呼び止め、かの女たちを追った。町のはずれまで、港のほうまで追う。やがては行き止まりだ。
 そうおもって注視していると、ビートルはガードレールを越え、岸壁へ、海へ、転落していった。わたしは車を降り、ビートルが視界に入るまで歩いた。車体はまるで虫のようだ。腹を見せ、足をばたつかせ、進もうともがく。カブト虫そのものだ。ひしゃげたドアからいっぽん、女の腕が伸びている。もはや息もあるまい。わたしははじめていった、警察署へ電話をかけた。やがてサイレンが鳴り、車が1台来た。降りてきたあの警官が指揮を執って検分をはじめる。さらに救急車も来た。かの女たちを連れ去っていく。警官は岸壁を見下ろして一瞬笑った。
 「あんたは被害者でなく、加害者だね」──あの警官がいった。わたしはいった、
 「あなたが仰ったとおりにふたりを連れてきましたよ」
 「ごろつきのひと殺し、なにがあってふたりを追いつめた?」──事情はとっくに話した。
 「何度もいうがあのとき盗難届を受理してたら、かの女たちがあんな眼に遭うこともなかったんだ」──そこまでいっても警官は眠いことをいいつづける。制服とバッヂに守られて好き放題を捲し立てている。愚かしい。
 「あんたらは被害者でなく、加害者だよ。あんとき盗難を受理できるような理由なんかなかった、男女のなかでしかないのにどうやって警察沙汰にできる?」
 「車を盗られ、電話を盗まれてもか?──それも男女の関係のうちってわけか?」──わたしは死んだ女たちにもはや敵意を感じなかったし、憾みもない。ただこの物分りのひどい、警察官にも警察組織にもうんざりってわけだ。やつは黙ってたちあがる。そして後始末をべつの警官にまかせて、わたしを車に乗せた。けっきょく夜の11時、翌日の検分をひかえて帰ることになった。ひとりぼっちの室で、かの女たちのことをずっと考えていた。なぜあのとき、逃してやらなかったのかとも。いったい、なにが愉快であんなまねをしたのかとも考えた。答えはひとつもない。窓のそとから救急車のサイレンが聞える。さまざまな町の喧騒と溶け合い、やがて消えていくだけだった。わたしは窓辺に立って、なにもできないまま時間を過した。翌朝、6時まえに眼が醒めた。もっと眠っていたい。どうやっても眠れず、朝食を喰いにいった。コーヒー・ショップでクラブサンドを喰い、熱いコーヒーで流し込む。新聞のラックに手をやり、朝刊を見る。どこにもかの女たちのことはでていなかった。
 午前中に検分は終わった。映画館からビートルまでの動線、タクシー運転手の証言とレコーダーの記録、ガードレールとその手まえに残った急ブレーキの痕。ビートルは盗難車だ。そのなかにわたしたちの電話もあった。電池を抜き取られている。わたしの証言はなにひとつ重要でないようだ。例の警官は「つぎはおまえらの逮捕だ」といい、蔑みを隠さなかった。恥をかかされたとでもいいたげだ。制帽をかぶり直し、汗をぬぐった。小心者らしい、慌てた、細かい動作を繰り返す。わたしは滝田の連絡先を教え、その場から立ち去った。だれもなにもいわなかった。もしかしたら、はじめからわたしはいなかったのかも知れない。

 

   *

 

 女たちはどこへ去っていくのか、──これは積年の謎だった
 男たちはいずれも墓標となって立ちあがる
 けれどもかの女たちは亡霊にでもならないかぎり、
 姿を表すことなんかないんだ
 かつて真昼の叢でおなじ学校の女の子が倒れてた
 貧血だったらしい
 もしそのままなんの処置もされなければかの女も死んでたかも知れない
 だれにもその死を知られずにだ
 草花がかの女を永遠のものにしてたかも知れない

 きのうぼくはふたりの女を殺した
 ぼくはかの女たちを追いつめ、追いつめすぎてしまった
 赤いビートルがガードレールを超える、そして転落し、波打際で息絶える
 それがどういうことか、ぼくにはよくわかるんだ
 女たちだって墓標となって立ちあがり
 永遠にぼくを追いかけていくだろう 

 

   *

 

12月3日

 

 しばらくのあいだ、わたしはじぶんの室へ帰らなかった。安いホテルやドミトリーを転々としながら酒を呑んでいた。わるい酒だった。傷は癒えなかった。なにをしても、どこにいても。聞いた話によれば、かの女たちには両親すらいないという。ふたりきりずっと男を騙しながら暮らしていたとも聞いた。あの警官がいうことだ、信じるに値しない。わたしは夢のなかでやせ細った男の骸に触れた。それはかつて本で見た平沢貞通のものだった。棺のなかの老人。犯罪者として、死刑囚として、まっとうされた、その画家の人生についてしばらく考えるはめになった。なぜかれが犯人に撰ばれたのか。そこに国家間の取引はあったのか。事件の翌年に死んだ諏訪敬三郎という軍医、ほんとうの犯人にどんな意図があったのか?──ドミトリーの狭い寝床、ベニアでつくられた虫の塒だ。眼が醒めると、ひどい寝汗を掻いていた。茹で卵を喰い、インスタントのコーン・スープを呑んだ。夜まで町を歩き、わたしはひさしぶりに滝田に電話した。
 「いったい、どうしてた?」──ずっと連絡もなしで。──ふたりは死んだんだろ、大丈夫だ、おまわりはおれたちを捕まえる気はないだろうよ。──それより呑まないか?──ふたりで落ち合って古い酒場にいった。さんざ呑んだあと、わたしはやつをアパートへ誘った。やはり淋しかったんだろう。日本の冬はひとりでいるには寒すぎる。断っておくが、わたしはゲイじゃない。ただ感傷深いだけなのだ。わたしが新神戸まで帰ると、室にはヒトミとキミエがいた。かの女たちはずっと待っていたんだ。わたしがいないあいだもずっと。室にすっかり馴染んでいた。かの女たちはわたしのベッドのうえでわれわれを待っていたんだ。
 「見てみろよ」──わたしは滝田にうながした。やつもふたりを見た。心臓がやぶけるぐらいに驚きながらも、キミエの手をとった。かの女は微笑み、あいた手でやつの首に手をまわした。わたしもヒトミの手をとってかの女の肩を抱きしめた。──「ごめんなさい、わるかったのはわたしたちだから」──そういってわたしの唇に口づけをする。温かい吐息がわたしたちのあいだを漂っている。わたしは考える、いったいわたしはかの女たちを裁きたかったんだろうかと。どうしてあのとき、追いかけたりしたんだと、唇を噛んだ。
 「赦すよ」──でも、いったいなにがあったのか、教えて欲しい。──わたしはかの女の眼を見つめ、ベッドへ誘い込む。かの女の首筋をなぞり、そのまま胸に頬を当てた。かの女が導くようにしてわたしのあたまに両の手をまわした。そして一語一語を慈しむように語り始める。それはいままで演じたどんな情事よりも、迫っていた。
   わたしたち、ずっとふたりで逃げて来た。
   小学校からの仲で、両親もいなくなってて。
   施設からも逃げて、
   それでいつも復讐相手を探してた。
   だれでもよかった、ただお金さえあればいいって。
   いっぱいのひとを欺してきた。
   罪悪感はすぐになくなって、すごく愉快になれた。
   あのときもそう、でも時間がなかったし、財布も見つけられなかった。
   それにあんたたちは身体目当てでもなかったし、
   だから電話と車のやつ、盗んだの。
   ところがあの黄色いシャツのが現れて、
   かれはまともに喋れなかったけど、
   なにもかも見抜いてた、
   だから一緒に車に乗った。
   はじめて仲間ができたみたいで愉しかった。
   ほんのわずかなあいだ。
   あんたたちを追って車を走らせた、
   そして先回りしてた。
   ごめんなさい、どうしても赦して欲しい。
 「どうしてやつに撲られた?」
   たぶん、
   わたしたちが、
   かれから離れようとしたから。
   もしかしたら、
   病院まで追ってくるかも知れないっておもって、
   逃げた。
   それから、
   またいちからおなじことのくり返し。
   赤い車で旅をした。──わたしたちが死んで、あんた嬉しい?
 「ちっとも」──いちど目線を下げてから、かの女の顔を見、眼をつむった。わたしは麒麟でも馬でも犬でもなく、わたし自身になるしかなかった。滝田もカウチで抱き合い、愛撫をつづけている。わたしはベッドのうえでかの女と抱き合ったまま無言の対話をつづけた。赦してやれ、かの女たちがしたことなんか。──おれはもう充分、かの女たちを苛んだはずだ。もういい。それだけだ。でも、わたしはこうした出来事や感情をどう保存すればいいのかを知らなかった。いまいちばん必要なときだというのに。けれどいま手にないのならしかたがない。かの女のからだをさまよった。
   わたしたちを忘れないで、
   わたしたちを懐いだして。
 ふたりして眼を閉じ、唇をかさねた。眼を醒ましたとき、わたしと滝田は荒れ野のなかだった。道がわからない。そこにはヒトミもキミエもいない。アザミの花が咲いている。わたしたちは大声でかの女たちのなまえを呼んだ。呼びつづけた。夜の昏さのなかでわたしたちはさまよっている。河の流れが身近に聞える。遠くでだれかが立っている。ふたりとも急いで駈け寄った。バットが空を切る。黄色いシャツの知恵遅れだ。どうしてこんなところにいるのだろう。わたしたちはふたりでバットを奪った。そして滝田がやつの頭に降り下ろす。鈍い音がして、やつは倒れた。素早く指紋を拭い、やつのそばにバットを置く。そしてわたしが男の手に握らせる。ふたりしてずっと歩いた。宛もなく、道も知らず、やがてハイウェイの高架が見えて来た。霧のなかに建つそれは生きもののようだった。わたしたちはさらに歩いた。泥濘みに足を取られそうになる。赤や、黄色の土が、かぜに流されて岩層を築いている。歩く。公道へでるまでずっと、ずっと。やがて朝が来る。ひとかげが見えた。少年だ。キャップで顔まではわからない。黒い半ズボンにストライプと光沢の入ったジャージーを着ている。わたしは立ちどまった。わたしたちに手をふっている。──「早く!──みんなもう待ってるよ!」