みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

ソクラテスというポン引き〈'18/nov〉

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   *


ホチーチェルイバってなんのことかな──ブローティガン「ディキンソンのロシア語」


   *

 

 リュックもギターも奪われた。トートだけ持ってわたしは男の室からでてきた。恐怖とともに。財布と電話はある。そいつはいった、おれから逃げるなら荷物は渡さない!──どうしてあんな男に捕まってしまったのか。そればかり考えながら薄暗い高架下を歩いていた。眼のまえを老人が歩いてる、かれはいきなり声をかけてきた。名刺を渡し、仕事があるって。でもかれはわたしが未成年なのに気づいたようで名刺を返してくれといった。なんだか急に怖くなってわたしは駈けだした。そしてハンバーガー屋に入ってジュースを呑む。どんな仕事だったのか。たぶん性風俗やAVだ。ろくでもない。もっといやな眼に合うはずだ。たとえわたしが成人で、家出人でなかったとしても。わたしは残り少ない手持ちをどうしようかとおもいながら、夜まで過ごした。男の室にもどるしかないかも知れない。でもそれは口惜しかった。あんなやつのためにまた尽くすなんて。
 最初はそうじゃなかったのに、2週間のあいだに男は変わってしまった。脅しなんかあたりまえだった。おまえを通報してやる、それが口癖になった。そいつと出会ったのは新宿の路上で、ギターを弾き語ってるときだ。はじめはやさしかったし、上京してすぐだったからついてってしまった。わたしはあの男と引き合わせた運を呪い、行き場のないことを呪った。翌朝、あの老人に電話することにした。福祉やなんかに頼っても実家に帰されるだけだ。それならなにか仕事の口があればいい。未成年でもできる仕事、とにかくそれがいる。わたしは夕暮れまで我慢した。かれが怖かったから。大きな躯に大きな眼、顎や首を被う白い髭。もちろん、まっとうなひとには見えない。でもほかにできることはない。もしだめだったら男の室にもどるしかない。
  もしもし、あの、きのう出会ったものですが。
   どなたです──どこで会いましたか?
  高架下です。
   ああ、きみか。わるいが未成年は相手にできない。
  とにかく仕事と泊まれる場所を探してるんです。
   そうはいっても、無理なんだ。
   勘弁してもらいたい。
  いま荷物も男に奪われてどうしようもないんです。
   つまりきみは男に棄てられたのか?
  いいえ、棄てたんです。
   一般の仕事ならできるんだね?
 わたしたちは会うことになった。指定された喫茶店でふたり坐ってあれこれと身の上話をした。わたしは17歳であること、両親とのわるい関係、夜間高校のこと、音楽のことを話す。親からの虐待はいわなかった。どうして定時制にいったのかもいわなかった。
   きみの親にはどういって来た?
  いいえ、なにもいいませんでした。
   そいつは危ないな。
   たとえ中卒向けの仕事でも親の承諾はいる。
   まずは親に電話、高校の退学、それから中学の卒業証明だ。
  とりあえず、きょう泊めてくれますか?
   1日だけならどうにかなるだろうけど、
   まあ、そのあとは知り合いに頼んでみるよ。
  知り合いですか。
   安心してくれ、女のひとだよ。
 そうしてわたしはかれの室にあがった。中野にあるアパートだ。3階の片隅にかれの室がある。家具はすべて木製で統一され、椅子には手織りのクッションがあった。ベッドのうえには本がいくつもあり、本棚もいっぱいだ。老人はあしたの昼に電話するといい、蒸鶏と胡瓜のサラダを喰うと、床へ蒲団を引いて横になった。ベッドは使ってくれといい、本を片手に仰向けになった。本には「苦渋の三段論法」と題がある。いったいなんの本だろう?──わたしもわずかな手持ちでパンを買ってベッドのうえで食べた。いったいこのさき、どうなるんだろう。この老人は信用できるのか。そういえばまだわたしは名乗ってもないし、かれのなまえも憶えてない。名刺を見ると、紺野甚一とある。一息吐き、わたしは眠った。

 

   *

 

 ぼくはソクラテスと渾名されている。そしてもうずっとまえから過ぎ去ったものについて考えている。たとえば女たちや、友人たちについてだ。きのう訪ねて来た、女の子のためにぼくは昔の恋人へ電話を掛ける。大倉花純のことはもう昔になってしまった。かの女と結ばれることはなかったし、いまでは酒場に来る客のひとりでしかない。みんなぼくのことを風貌のせいで、ソクラテスと渾名している。同業者や、中間業者はみんなそうだ。ほっといてくれ。ぼくにはかれのような機知はない。ぼくは鰥夫暮らしをしながら、ポルノにでる娘や性風俗にかかわりたいという娘たちに仕事を紹介している。そのほかの場合、多くを撮影現場の雑役をしながらやっている。スカウトは規制が厳しくなってほとんど都内ではできなくなった。若いやつらはそのへんを潜りぬける方法も持っているが、わたしは出遅れてしまった。いまはもうほとんどまとまった金にありつけない。
 そういえばぼくはまだあの娘のなまえすら訊いてないじゃないか!──まったくスカウトマン、失格だ。かの女にぼくが声をかけると、素直に教えてくれた。岸本佐代子という。ぼくは電話を握りしめたまましばらく黙っていた。かの女は本をとって読んでいる。ブローティガンの「西瓜糖の日々」だった。
  もしもし、甚一だよ。
   めずらしいわね、電話とは。
  ちょいときみに頼みがあるんだ。──ぼくは掻い摘まんで情況を話した。
   ずいぶんと厄介ごとねえ。
   あんた、ロリコンの気でもあるの?
  そうじゃない、仕事を世話して欲しいんだ。
  もちろん、まっとうな仕事だ。
   どんな娘?
  シンガー・ソングライターを目指してるらしい。
  不良じゃない、品がある。
  どうやら家に問題があるらしい。
  だから親と連絡をとってもらいたいんだ、中学の卒業証明もいるし。
   わかった、ほかならぬあんたの頼みだからね。
   でもそれだったらうちの店で働いたほうがいいんじゃない?
  いや、いくらなんでもバーには早すぎる。──いついけばいいかな?
今夜でもかまわないよ。
 そういうわけでぼくらはでかけた。途中、佐代子に花純とのことを話したりしながら長いあいだ列車にゆられた。かの女はセミロングの黒髪に薄青いワンピースを着ている。手足が長い。トートバッグはオフ・ホワイトでなにかのロゴが入っている。不安そうにぼくの顔を見たり、車窓を見たり、あまり落ち着きがない。膝は硬く閉じられ、手元はわずかに震えていた。──花純のことなら心配はない。そういってあとはふたりとも黙った。やがて駅を降りると、花純が迎えに来ていた。──やあ、どうもありがとう。
   あなたが佐代子さんね。
  ぼくじゃないのはたしかだ。
   冗談がきついのね。
    よろしくお願いします。──佐代子は頭をさげた。
  じゃあ、まず話をしようか?
   わたしの家までいきましょう。
 ぼくらは花純の家にあがって一息吐いた。事情はすべて話した。かの女はまず親と話すべきだといった。落ち着かない佐代子に番号を訊き、電話を掛ける。出たのは母親らしい。花純は穏やかな声で現状を話した。──それからちょっとして佐代子に電話を替わった。そして話し終え、今度はぼくに替わった。母親は佐代子が手に負えないといい、すべて任せるから、よろしくといった。なんていう母親だとぼくはおもった。花純もそうらしい。みな棘のある顔で切れた受話器を見つめる。──けっきょく花純が保護者になった。数日後、高校退学の書類、中学の卒業証明が届いた。佐代子はいった。母親はじぶんを厄介払いしたいんだと。

 

   *

 

 がらす色をしてる鉄塔に
 もたれひとりぼっち
 ぼくはいる
 西瓜糖の世界の果てに

 なだめすかす鳥の声よ
 だれもくだらないと
 吐き捨てる
 西瓜糖の世界の果てに
 ぼくはいま立っている

  アイデスはぼくのなかに
  アイデスはない
  インボイルを近づけて
  走りだす
  走りだす

 いつかぼくはきみにいった
 太陽について語った
 きみもいる
 西瓜糖の世界の果てに

 輝いてるマーガレット
 林檎の木で首くくる
 ひとりだけ
 西瓜糖の世界の果てに
 ぼくはいま立っている
 
  インボイルはぼくのなかに
  インボイルはない
  アイデスを近づけて
  走りだす
  走りだす 
 
   *

 

 息がしづらいマスクや帽子をかぶり、防塵服というのか、真っ白い服を着た。それからローラーで全身を擦り、エア・シャワーを浴びる。6台のレーンがあって、そこに主婦たちが働いてる。男たちはわずかだ。レーンの位置が低すぎて腰がつらそうだ。ほかの男たちは食材のバットを運んだり、保冷室や発送口で働いてる。そっちのほうが楽かも知れないとおもったけど、それなりに力がいるんだろう。わたしは具をつめるほうに回された。使い捨ての手袋をはめ、アルコール消毒液をかける。手が気持ちわるい。そして1種類ずつ、具材の位置を確かめ、まずひと見本をつくる。それをみんなで確かめてからレーンを動かし、作業が始まる。箱は次々に流れて来る。あまりにも早く感じる。具材や箱がなくなれば作業を中断して、ほかのレーンに移る。おばさんたちのなかには嫌みをやたらいうひともいれば、フォローしてくれるひともいる。弁当はコンビニで売ってるような空腹を満たすだけのものではなく、「飛騨牛弁当」とか「すき焼き弁当」かなんかだ。
 休憩になってわたしは本を読む。ブローティガンだ。よくわからない、おかしな世界についての小説だ。わたしは最年少で、みなが声をかけて来る。中退したとはいわなかった。あくまで定時制の生徒で通した。なんにも訊かれたくはない。でもそれはどうしようもなかった。単純労働はまるで頭の千切れかかった鶏みたいだ。考える力を失う、でも考えなくちゃならない。残業を2時間やった。無理してやらなくてもいいといわれたけど、どうしても早く楽器や服が欲しかった。1日の作業が終わると、脚が痛く、まともに歩けなかった。そのままバスで花純さんの家に帰った。
 けっきょく2ヵ月経ってやめることになった。なにもかも限界だった。わたしは花純さんの勧めでバーに勤めることにした。給料がでるまでやめちゃだめとかの女はいった。わたしは2回のお金で充分だった。安物のギターを買って曲をつくりはじめた。しばらくしてバーの仕事が始まった。わたしは掃除や飲みものの補充、接客をやった。夕方、出勤すると前日の洗いものを片づけ、小型冷蔵庫にジンジャーエールシュウェップスウィルキンソンソーダ、コロナ・ビール、トニックなんかを補充し、酒壜を拭いてまわった。勤務は夕方の5時から夜の12時までだ。店にはふたりのバーテンダーがいて、ひとりは森山哲夫という30の男で、もうひとりは河西椿という20後半の女のひとだ。客の大半がかの女目当てでくるという。あるとき、森山さんが声をかけて来た。
岸本さん、音楽やってるんだって?
  ええ。
   どんな音楽が好きなの?
  ロシアン・レッドや、ジェット・ジョンソンとか、シャルロット・ゲンスブールが。
   シャルロットはおれも知ってるよ。
   デモ音源とかあるんなら聴きたいな。
  今度、録音して持って来ますよ。
 わたしはその月末、安いスタジオで録音した。いまのところ3曲だけ。それでも森山さんは気に入ってくれて嬉しかった。数日経って河西さんがわたしにいった。──あのひとに気をつけて、すぐに女の子に手をだすんだから。──それでもわたしは特に気に掛けないまま、かれの室に遊びにいった。かれの室には本棚と楽器が並んでる。CDやレコードも豊富だ。書物は音楽をはじめ、文学や映画関連のもいっぱいだった。エレキギターアコースティックギター、それとMIDIキーボードもあった。
   たしか未成年だったね?
  はい。
   どっか来たの?
  神戸からです。でも、ずっと山奥です。
   親と喧嘩でもしたの?
  別に。──わたしははぐらかした。
   音源、よかったよ。おれも仲間に入れてくれたらなっておもうよ。
  そうおもってくれてうれしいです。
  わたし、バンドってやったこともなくて。
  いつもひとりで弾いてるので。
   ならよかった、一緒にやろうよ。
   知り合いのドラムやベースも呼ぶからさ。
 そんないきがかりでわたしはかれと組むことになった。その翌日、かれはさっそく音楽仲間を紹介してくれた。店に来たかれらはデュワーズのロックを呑みながら、デモの感想をいってくれた。声も曲もいいって。わたしは森山さんにプロデュースをお願いした。店が終わって帰る支度をしていたら、河西さんがこっちに来た。なんだか怒り顔をしてる。黙ったままわたしたちは眼を合わせた。
   どういうつもりなの、あんた。
   森山さんについて忠告したのに。
  でもなんの問題もなさそうでしたよ。
   そんなことじゃないの、かれの室にいったでしょ?
  はい。
   妙な関係になってないでしょうね?
  ただ音楽のことについて話しただけですよ。
   もし、そうじゃなかったら、ただじゃおかないから。
 帰ってわたしは花純さんに話した。なんて不条理な話、黙ってられなかったからだ。花純さんは以前、ふたりがつきあってたことを明かした。そして森山さんと会うのは無茶だ、音楽だってそうだといった。でもわたしにはこれはチャンスだったし、そうそうあきらめるわけにはいかない。すぐにかれに電話してきょうのことを話した。
   おれはつきあってなんかいないよ、
   おれはあのころ新米だったし、店のほうが大事だとおもってかの女に話したんだ。
   つきあえないって。
 事情はわかった。けっきょくかの女の身勝手なふるまいじゃない、そうおもってわたしは翌日からも音楽のためにかれと話した。べつにかれとつきあいたいなんておもってない。バンドをやりたいだけなんだ。そうはいってもわたしたちを見る河西さんの眼は厳しかった。時折、花純さんが現れて注意することもあった。なにも問題になることなんかないってかの女にもいったのにだ。わたしは週末、ライブが控えてたし、その打ち合わせもかねてかれとそとで会うことになってる。わたしは素知らぬ顔で店をでて、かれとその知人たちと、かれの室で話した。わたしのオリジナルとカバー曲で20分保たせる。練習は真昼にやる。わたしは奪われたリュックとギターの話をした。一緒に取りもどしにいって欲しいと森山さんに頼んだ。──あしたの練習のついでにいこう。──かれはいった。──翌日、リハーサル・スタジオへいくまえにあいつの室にいった。電話もしたし、居留守でもない。男はみすぼらしい格好をして玄関に立った。
  ギターとリュック、返してもらいに来ました。
   その男はだれだ?
  仕事と音楽の仲間です。
 「いますぐ警察を呼んでもいいんだぞ」──かれが男を睨みつける。男はわたしに対しての威勢のよさはどっかに消え、いちど室のなかへもどり、ギターとリュックを取って来た。ずいぶんあっさりじゃない。べつの男が現れたとたん、怯えた猿みたいに奪ったものを返すなんて。ばからしい男。わたしはそうおもいながら、リハーサルにいった。ベース、鍵盤、ドラムの3人と、ギターの森山さん。簡単なコード譜をもとにアレンジをする。そして2時間練習した。
──これならいける!──そうおもった。みんな手応えを感じ、週末にむけて舵を切った。ようやくスタートだ。ハイトーンの弾きやすい、小ぶりなギターを持ってわたしは唄を歌った。仕事が終わってからかれとふたりで室に入った。森山さんはアレンジについて語り、わたしはそのまま夜を明かした。そして翌日も、仕事のあとはおなじだった。わたしはかれに習ってガンボ・スープをつくった。エスニックなものがかれは好きなんだ。そとでは雨がつよく降ってる。1階で大きな音がした。かれは気になって降りてった。そして悲鳴がした。わたしが降りていくと、頭から血を流すかれがいた。横たわって眼を閉じてる。たぶん転んだ拍子に郵便受けにぶつけたんだろう。そこに河西椿が立ってた。慌てて追いかけるもだめだった。救急車を呼び、待った。かれは眼を少しあけていった。──椿のことはいうな。
 ライブはけっきょく代役を立てるしかなかった。それでもうまくいってデモも売れた。メンバーはみな成功を信じて、森山さんの回復を待った。週明けにバーにいくと、河西は平気な顔でいた。わたしはモスコミュールやジントニックジンライムの作り方を憶えた。マドラーの回し方もだ。人差し指と中指だけで氷を回転させ、グラスを冷やす。わたしは手伝いが大方済んだとき、森山さんのことで河西椿を責めた。かの女はせせら笑い、とぼけた。
  いいわけはやめてください、
  森山さんはいったんです、──椿のことはいうなって。
 かの女は手洗いに駈けこんだ。やがてすすり泣く声がした。このことがあってから花純さんはあたらしいバーテンダーを探し始めた。わたしにもほかの仕事を探せといい、どうにもならなかった。森山さんは復帰するもすぐに引き継ぎだ。わたしは花純さんの家からでていくようにいわれ、森山さんと同棲を始めた。べつにかれのことを好きになったわけじゃない。
 わたしはなんとはなしに母をおもいだしてた。夫を喪い、精神を病み、やがて回復して再婚した女のことを。去年、家に入ってきた男は父の友人だといった。父はバーテンダーだった。車好きで、わたしが6歳、ようやく死がわかりはじめたとき、それを柩に変えてしまった。母は仕事を探して出奔した。わたしは父方、母方、両方の祖父母に預けられて育った。やがて小学校6年でひどい不登校になった。怒った母がわたしを罵り、ものを毀すからだ。わたしは情緒不安定でひとぎらいになってた。13歳のとき、音楽が心を静めてくれるのを知った。15歳でギターを手にし、17歳、はじめてひとまえで歌った。それからのわたしはずっと音楽とともに生きてきた。でもバーがだめになって、またも単純労働が待ってるとおもえば、ひどく憂鬱だ。わたしはまたしてもソクラテスのところへいくべきかも知れない。かれの頑健さ、心の広さに縋ってしまうべきなのか。迷いながら電話を握りしめた。もうじき朝になる。

 

   *

 

 蟷螂草、夏の匂い
 遠ざかる、給水塔
 いつかの話、きみがいう
 その場所はいずこ

 星ぞらを見る、たなぞこに
 止まらない、レコードよ
 夢見た話、ぼくがいう
 あの町はいずこ

  タイムマシーンがあれば
  あのころのきみに告ぐ
  タイムマシーンがなくて
  いまごろのきみに告ぐ
  ささやかな幸せは
  不幸せから

 金槌をふる、夏の夜
 去ってゆく、浜辺から
 いつものことさ、きみがいう
 だからどうしたの?

 絵はがきに夏の果て
 見も知らぬ、摩天楼
 ぼくはいつでも待っている
 この場所はいずこ

  タイムマシーンがあれば
  あのころのきみに告ぐ
  タイムマシーンがなくて
  いまごろのきみに告ぐ
  ささやかな幸せは
  不幸せから  

 

   *

 

 ぼくが眼を醒ますまえに電話が鳴っていた。手を展ばす。佐代子からだ。いったいなにがあったのか。ソクラテスにいったいなんの用があるのか。それは知ってる。花純からぜんぶ聴いてしまったあとだからだ。いったいどう応えたものだろう。もはやぼくにできることがあるのか。
  もしもし、紺野ですが。
   もしもし、岸本です。
   またお願いがあって電話しました。
  話は花純から聞いてるよ、どうしてバーなんかに。
   花純さんに勧められて。
  だからって追いだされることになるなんて。
  かの女はきみの保護者だったんだよ。
  ぼくには大したことはできない。
  もういちど花純にかけあってみよう。
   それはいやなんです。
   どうしても音楽をやりながらできる仕事が欲しいんです。
 ぼくもけっきょくはどうかしているのかも知れない。まず電話を切って連絡先を探した。そのなかにモデルの事務所があった。もしかしたらとおもい、オーディションの問い合わせを入れた。昼を過ぎてから連絡があった。あそこならまっとうな事務所かも知れない。そうおもいながら佐代子にも電話を入れ、応募の準備、つまり全身写真とバストアップの用意なんかをさせた。写真の仕上がりはなかなかだ。さっそく書類審査だ。合格が決まって、ぼくはかの女を事務所まで送りとどけた。面談も通り、所属が決まった。それからいくつかの企業とのオーディションがあった。幸いかの女には蓄えがあったし、音楽も売れつつあった。モデルにかかる費用をなんとか捻出しながら、ライブハウスにでたり、録音しにいったりした。たぶん、ぼくはお人好しなんだろう。ばかな髭を生やしながら、ばかな渾名をつけられても平然としている。かつてソクラテスについての本を読んだ。かれには著作がない。言語表現というものをかれは信じなかった。わたしもまた信じていない。あるのは行為だけだ。それだけが信じるに値する。本を書くのは他人だけでいい。
 ぼくの両親は美術教師と、地元新聞の事務員だった。戦時中はアカの烙印を畏れるあまり、戦争協力者として暮らし、戦後は左翼教育の先頭に立っていた。なんともくだらないこと、そんな親への反発にわたしは大学を辞め、自衛隊に入った。'68年のことだ。しかし'72年、訓練中にわざと足を折って除隊した。父の勧めで大学へ入り直した。しかし教育に失望し、6年も放浪した。そして窃盗で捕まり、ピンク映画のスタッフ、というよりも雑役人として暮らした。なんでもやった。舞台設営や、小道具、大道具の搬入や搬出、出演者の世話、花純と出会ったのも、そのころだ。かの女は化粧係だった。子供が流産してから、ぼくたちは会わなくなった。'84年からはポルノビデオの隆盛に伴ってスカウトマンになった。花純とようやく再会したときにはもうぼくは50を過ぎていた。どうしてぼくもっとかの女を大事におもってやれなかったのか。たぶんそれを償おうとして佐代子に手を差し延べているのだ。

 

   *

 

 星に願いを
 込めて
 眠りの
 なかで唄を
 口遊ずさむ

 頬の熱を
 唄の律に合わせ
 そっと眼を閉じる
 星々よ、光りをぼくに

 夜の果てを
 旅する
 ぼろを
 まとったひとよ
 赦しあえ

 昼の悔しさ
 きみの律、愛しい
 きっと見つめ合う
 星々よ、光りをぼくに


  どうしてこんなにも
  眩しくまわりだす?
  きみと見つめる星は

  だれかをおもいだす
  それはきみじゃない
  遠くなったおもいで

  いつかきっと忘れてる
  星々よ、光りをぼくらに

 

   *

 

 臙脂色のドレスを着て、わたしたちは歩き回った。あるいは青緑のパーカーを着て、わたしたちは歩き回った。なんどもおなじところをいったりきたり。あるいはポージングを微妙に変化させたり。駄目出しの声はスピーカーを通して聞えてくる。化粧室のなかで溜め息を吐き、早く終わって歌いたいとおもった。契約上の縛りに音楽活動はない。むしろそれを奨めてくれるのはありがたかった。仕事が終わればリハーサルにいき、曲をひとつずつ仕上げていく。インディーズ・レーベルとの契約も決まり、作品のための録音も控えてる。なんにせよ、わたしは幸運だ。それを忘れないように気をつけること。わたしのここでの名義はSaoだ。本名は音楽のときだけでいい。ほかのモデルたちに聞えないように電話をとってメールを確かめた。来月、レコーディングをはじめると森山さんが書いてた。モデルのスケジュールを確かめて、わたしはかれのところへ帰る。
   モデルの仕事はどう?
  うまくいきそう。
   レコーディングとの調整はうまくいく?
  ええ、もう話をしてるから。
   それはよかった。
 わたしは広告写真に撰ばれたことを話し、報酬をレコーディングの代金に加えたいといった。そうすることで居候の身分を少しでも軽くしたかったからだ。かれはそれに肯きながら、チキン・チリをつつく。ひと月経ってレコーディングになった。わたしたちはアルバム全9曲を録ることになってる。時間は15日のあいだ。モデルの仕事を抑えながら、1日1曲ずつ録っていく。スレートグレイの屋根のうえで鳥が鳴いてる。メロトロンと12弦ギター、アナログシンセを足し、ベーシック・トラックをつくっていく。レコーディングは真夜中までつづいた。疲れのなかでもギター兼プロデューサーの森山さんは明るかった。録音が無事に終わってささやかな打ち上げし、音源をレーベルに渡した。そしてアルバムの発売まえに東京、仙台、青森にツアーにでた。帰って来ると、もうわたしの広告写真は使われてて、なんだか急に恥ずかしくなった。それほど目立つ広告だった。撮影したのは室戸という写真家で24歳と若かった。それからしてしばらくわたしは室戸と再会した。企業でのオーディションだった。
   やあ、サヨさんだったね?
  はい。
 かれはわたし単独で写真集をつくりたがってた。帰り際、わたしに1冊の本と名刺を差しだした。本は「mooch on the moon」というかれの代表作であり、はじめての1冊らしい。
   このまえの仕事、評判いいんだよ。
  ありがとうございます。
   またいずれ一緒に仕事がしたいとおもってる、
   是非被写体になって欲しいんだ。
 かれはそういって去ってった。わたしは帰ってかれ──室戸繁の作品を見た。国内外の無人で荒涼とした土地を写した前半に、旅路で出会ったひとびと──それも労働者たち、警備員や自動車修理工、ウェイトレスなんかがなんの装飾もなく、仕事の休憩がてらといった姿で後半に写されてる。森山さんにもかれの作品を見せた。かれは賞賛し、レコ発ツアーに誘ってみてはどうかといった。わたしはさっそく室戸さんに電話した。──もちろん、いくよ!──次のツアーでは大阪、香川、福岡に決まった。わたしはなんとなく怖かった。大阪にもし親類や知人が来てたらとおもうと、いきなり臆病になった。大阪での初日、室戸さんは楽屋で写真を撮ってた。そのとき、入って来たんだ。小中学校時代の同級生が。あんたのことなんか憶えてない、そういいたかった。でも取り乱さないようにできるだけ静かに話した。相手はひたすらかつてのわたしがどうだったかをいった。気分がわるいってもんじゃない。
   まさか歌手やってるなんて凄いね。
  昔から音楽が好きだから。
   高校はどうしてるの?
  辞めたよ。
   え?
  辞めたの。──いずれ大検受けて大学へいくよ。
   そう、頑張ってね。
 わたしの無愛想な態度にかの女はさっさといなくなった。なんでわざわざ不登校のわたしにかまうんだろう。その無神経さに苛立ちながら、リハーサルに立った。緊張で声がうわずってしまう。でも本番ではなんともなく終わった。室戸さんのカメラがわたしを追ってるだけでよかった。香川、福岡も順調で、東京では写真集の仕事が待ってた。室戸さんをいちばん推したのはわたしだった。かれの「mooch on the moon」の魅力を語り、事務所のひとびとを説得したんだ。わたしは喜びのなかでかれの本をひらいた。かれは糊口を凌ぐためにモデルの撮影をやってるらしい。いつかかれが好きに撮れるようになって欲しい。いっぽう母から頼りが来た。最期に仕送りをお願いとあった。いままでさんざん好き勝手にしてきたくせにとおもって、棄ててしまった。そんなとき、偶然に紺野さんにあった。新宿界隈をぶらつく姿は哲学者みたいだ。
  ぼくはみんなにソクラテスと呼ばれてる。
   どうして?
  どうしたわけか、ぼくがかれに似てるんだそうだ。
  この髭とかね。
  みんなぼくをからかってるんだ。
   からかってるわけじゃないとおもう。
   たぶんみんな、紺野さんのことが気に入ってるんだとおもいます。
  少なくともかれには悪妻がいたよ。
  でも、ぼくは花純とむすばれなかった。
  いまでも悔やんでる、もっと大事にすべきだったって。
  ぼくは鰥夫暮らしが長いし、いまさらこの齢で結婚はむりだろう。
  悪妻でも妻にはちがいない。
 そういって紺野さんは笑ったけど、気まずくなって話の矛先を変えた。
   かれの妻は悪妻だっていわれるけど、ほんとにそうなんでしょうか。
   もしかしたらただのわるい噂だったかも知れない。
  そうかも知れない。それでも歴史は歴史なんだ。
それを覆すのは並大抵じゃない。
 わたしは喫茶店でコーヒーを呑みながらしばらく考えてから、紺野さんに中野まで送ってもらった。もう日暮れだ。わたしはむなしさを抱え、通りをずっと歩き、家へ帰った。

 

   *

 

 かすむ夕日のなかへ 
 旅はひらかれて
 もどる夜のなかへ 
 旅は閉じられる
 こんな気分じゃなかったはずだろう
 こんなところにどうしてるのだろう

 もどる路は眩み
 旅は早くなる
 急げ夜のなかへ
 旅は終わらない
 こんな感傷にまみれたくない
 こんなところで終わるものかと

  幼いときをただおもいだして
  くり返すものとだれかがいった
  そんなうそなんか
  ぼくは信じない
  あしたはどうして進んでいくのか


   *
   
 ぼくがかの女の広告を見たのはもう秋の最中だ。かの女とふたりの娘が写っていた。音楽の売りあげもいいらしく、レコード屋にはポスターが貼ってあった。でもぼくが聴くような歌じゃない。そんなことはどうだっていい。ただぼくのしたことが実を結んだのが嬉しかった。やがてかの女の写真集がでると聴いた。もうそんなところまで来たのかと驚きながら、ぼくはちまたを歩き、そしてもうスカウトやAVの雑用係なんかやめちまおうっておもっていた。もうそんなことにはうんざりでしかなかった。

 甘酸っぱい香りをさせて
 どうしてそんな顔をしてるの
 あなたはきっともっと彼方へ
 いきたいんでしょう
 いきたいんでしょう

 わたしがどうだか気にもしないで
 あなたはあなたの舟を漕ぐ
 あなたがどうだが気にもしないで
 わたしはわたしの本を編む
 
  そこでどうして立ち止まる
  もっともっと早く
  歩いてよ

  なぜにそうして悩んでる
  きっときっと早く
  走れるよ

 

   *

 

 愉しくてしかたがなかった。おれはひさしぶりにおれ自身でいられたし、かの女のことを異国のひとみたいに撮ることもできた。さまざまな衣装を着せてひとり遊びのように跳びまわるかの女はうつくしかった。かの女の音楽とおなじくらいうつくしかった。無名の新人に予算はでない。撮影の最終日、おれが撰んだのは昭和記念公園だった。かつて基地跡の芝生にかの女を横たわらせて撮った。真っ白いワンピースと青いジャケット。冬の迫るなか、こんな色はでたらめかも知れない。でもおれはかの女自身が撰んだ服を着せてみただけだ。おれのやったことはただの道草だ。表紙のデザインでは少し揉めた。おれは青地の壁紙に文字を書き、裏表紙は公園で横たわった佐代子だった。来年の冬にだす本だ。暖色にしてくれといわれたが突っぱねた。これはアイドルの写真集じゃない。あくまでおれと佐代子のそれなのだ。おれたちは打ち上げのあと、おれの室に入った。べつにその気はない。事務所にはいけすかない探偵だっているし、おれにとってかの女は幼すぎた。
  家にはもう帰らないの?
   ええ。
   親の金も盗んで来たし。
  おれも家には早くでたからな。
  とにかく父親と仲がわるかった。
  早く家をでて自由になりたかった。
  とても過干渉でね。
   わたしのところは母に問題があって。
   怒ると罵ったり、ものを毀したりした。
   いつも怯えてて学校でも劣等感の塊だった。
   それから音楽に出会って、それが救いになった。
   あの写真集、「mooch」はいつできたの?
  21歳のときだった。
有り金かきあつめて飛行機に乗ったんだ。
  とても不安だったよ。
  いまにも落ちそうでね。
  それでアメリカ、イギリス、欧州を1年ちかく旅した。
  帰ってきてまずは写真冊子をつくって売った、それに絵葉書も。
   あの題名はどんな意味?
  「月をぶらつく」ってところかな。
  ダン・ファンテの小説に「MOOCH」というのがあってそこから採ったんだ。
 かの女が上着を脱いだ。そのままシャツも脱いで胸を手で隠す。ぼくは写真に撮った。かの女はさらにベルトをはずし、スラックスのボタンに指をかけ、挑発するようにポーズをとった。片腕は胸を隠したままだ。ぼくは写真を撮りつづけた。かの女がうしろになる。うつくしい背中。さらに床に転がってからだを捩る。おれはかの女のうえでシャッターを切る。最期にかの女はスラックスを脱ぎ、ベッドに横になる。その横顔をアップで撮ってぼくらは交わり、眠った。

 

   *

 

 置き忘れたチョコレートのように
 融けていつか腐ってしまうもの
 秋の真昼、望みも持たずに
 きみのことをただ待っている

 ガラス色の、風車
 ドン・キホーテはいない
 秋の真昼、そっと
 口づけを

 いつか忘れたメモ帳みたいに
 朽ちていつか文字も消えていく
 あきらめばかり書き綴ったまんま
 きみの言葉きょうもおもいだす

 遠くに去る、向日葵は
 夏の日々を凋れさす
 夜の星くず、そっと
 さよならを

  わたしが見たきみの姿は
  融けだしてもう見えない
  いつかひとり浮かべる舟は
  曳航されて異国をさまよう

 置き忘れたチョコレートのように
 融けていつか腐ってしまうもの
 秋の真昼、望みも持たずに
 きみのことをただ待っている

 ガラス色の、風車
 ドン・キホーテはいない
 秋の真昼、そっと
      口づけを 

 

   *
 
 音楽もモデルもうまくいってた。わたしは年あけの2月、写真集のサイン会をやった。レーベルの代表も駈けつけてくれた。でもひとは大して来なかった。宣伝も活動もまだ半端なものでしかなかった。数十人がいるだけで静かなものだった。代表はアルバムも持参し、一緒になって宣伝してくれた。事務所の社長はかれにきびしいまなざしをくれてた。なにが気に入らないんだろう。ひょっとするとじぶんの領地を荒らされてるとでもおもってるのかも知れない。イベントも終わりになってひとり、女の子が来た。わたしのアルバムを持ってだ。わたしはサインをした。本を買ってくれるかどうか、そんなことはわからない。ただおなじ10代の子が来てくれたのはうれしかった。そのとき、社長がいった。
   音楽とモデル、どっちをとるんだ?
  音楽です。
   それじゃあ、困るんだ。
   まじめに仕事をする気があるのかないのか、はっきりしてくれ。
  わたしにとってモデルは音楽をやるための生活の基盤です。
   それじゃあ、余計に困るんだよ、
   売れないインディー音楽に貢献してるほど閑じゃないんだよ。
 代表は困った顔で社長を見、口を挟んだ。
    べつに両立すればいいことじゃないですか。
   実際に両立できてるとはいえないんだよ。
    しかし契約にはそれを禁じた文言はありませんよ。
   そんなもの憲法とおなじだ、──解釈次第でどうにでもなる!
  社長はそういってでていった。代表は弁護士に相談して辞めたほうがいいといった。わたしももはややるつもりはなかった。繁との出会いだけでもう充分だとおもった。そして帰ってから契約解除通告書を森山さんと一緒につくった。それでどうなるのかはわからない。けっきょく、わたしは弁護士の回答よりも早くそれを送ってしまったからだ。ある晩、繁から電話があった。
   実は盗みに入られたんだ。
  じゃあ、あの写真は?
   いや実際に盗まれたものはないけど、もしデータがコピーされたりしたらとおもって。
  あの事務所の探偵かも知れない。
 わたしはなるべく冷静になって答えようとした。でもそのまま声がつまってでなくなった。あしたは事務所の契約更新日だった。それを見越して脅すつもりなのかも知れない。眠れない夜を過ごし、犬みたいに耳を澄ましてた。なにも聞えない。翌日、わたしは逃げずに事務所へいった。更新の席にはわたしが送った契約解除通告書があった。社長はそれを撫でながらいった。──サヨ以外のほかのみんなは席をはずしたほうがいい。残るなら自由に。──何人かが立ちあがった。それから社長は笑顔でいった。──更新でいいよな?──いいえ、もう辞めます。──勝手なことをいうなよ、サヨ。そんなことをするとどうなるか、いま見せてやる。──テレビ・モニターにわたしの裸体が映しだされた。同席のふたりの子が声をあげた。おびえてる。わたしも心臓がとまりそうだった。
   まだあるんだ、1枚だけじゃない。
 社長はリモコンをとって次々と裸体を見せた。
   きみは写真家と勝手につきあった、これは明白な事実だ。
  あんたのところの探偵でしょう、これを盗んだのは。
   きみがじぶんで蒔いた種だ、さて更新だ。
  いやです。──写真をばら蒔くなら勝手にすればいい!
 わたしは室を走りでた。うしろから社長の声が追いかけて来る。──待て!──サヨ、待ってくれ!──なにを今更待つというのだろう。ここまでやってまだわたしが靡くとでもおもってるのか。裸のわたし、あれは繁との作品なんだ!──そうおもいながらかれの室にいった。
   おれのところにも連絡が入った、
   いますぐ更新しないと写真を公開すると。
  いや、あんなやつに負けたくはない。
   でもきみが傷つくのをほっとけない。
 わたしはけっきょく更新しなかった。社長から延々と電話が来た。──おれにはケツもちのやくざがいるんだ!──それ以来とらなかった。そのあとネット上にわたしの写真がばら蒔かれてるとファンがいってくれた。もうなにもかも遅い。でもあんなやつに屈するくらいならと喰いしばった。森山さんからも電話が来た。「早まったまねをした、おれはメジャーに行きたいのに」といわれ、レーベルの代表からも「しばらく反省したほうがいい」と云われた。翌日にはもっとひどいことにスポーツ新聞やネットニュースが取りあげるはめになった。アルバムも写真集も勢いよく売れだした。でもマスコミも野次馬もしつこくつけ回して来た。室に入れないくらいだった。わたしはとうとう警察に電話した。繁の室に制服警官がふたり来た。わたしたちはただ黙ってるしかなかった。
   あなたがリベンジ・ポルノの被害者さんだね?
   で、あなたがその原因をつくったひとだね?
 ふたりしてパトカーに乗って警察署へ連れられた。わたしはあくまで任意で撮ってもらったといい、警官はといえば、そんなはずはないの一辺倒だった。かれはいまどうなってるのだろう。そうおもいながら質問に答えた。
   あなたは家出したといってるけど、捜査願いはないね。
   たったいまお母さんにも連絡したけど、どうもきみに興味がないらしい。
   東京にでていったいどこにいたの?
  まず最初は新宿で知り合った男の家に。
   次は?
  大倉花純さんっていうひとのところへ居候で。
 仕事は?
  弁当工場に、それから大倉さんのバーで。
   簡単に稼ぎたいのはわかるけど未成年でしょ?
  ええ。
   それからモデルの仕事?
  はい。
   だれかから紹介されて?
  いいえ、じぶんでいきました。
 わたしはいちども紺野さんのことをいわなかった。かれにはほかには換えられない恩があったし、もし出会わなければ仕事も音楽もできなかったろうとおもう。警官は花純さんや事務所の人間に連絡した。当然ながら後者はやったことを否定した。そして数時間でわたしは警察からだされた。でも繁は何時間待ってもでて来なかった。けっきょく拘留されてしまったんだ。わたしはそのまま私服の女性警官とともに新幹線で故郷に帰されることになった。わたしはかの女の好奇心をいたく刺激したらしく質問責めにあった。わたしはただうなずき、到着を待つ。
  室戸さんはいつ釈放されるんです。
   まずは10日拘留ね、そのあと延長にならなければでられる。
 新宿から新神戸へ、谷上から神戸電鉄に乗り換え、道場南口まで。駅にはパトカーが到着してて実家まで運ばれた。鹿の子台を上って住宅地へ。家のまえに立つ。警官がふたり、親を呼んだ。母と義父が出てくる。わたしはかれらを通り過ぎ、廊下の突き当たりまでいくと、階段を上ってじぶんの室へ入った。段ボールに荷物は入れられ、ベッドだけがそのままになってる。わたしはなにもせずに横になった。やがてだれかが階段を上って来る。母親だ。
   あんた、じぶんがそれだけ迷惑かけてるかわかってるの?
  さあね。
   いったいじぶんを何様だとおもってるの!
   盗んだお金、返しなさい!
  母さんだってさんざんわたしに迷惑かけて来たじゃない、罵って、暴れて、もの毀して!
  いい加減にしてよ!
 母はずるい。少しでもいい返せば相手が加害者みたいな顔をして去ってしまうんだから。かの女とは一方的にしか言葉がでない。どうしたらいいのかわからない。夕暮れになって階下へ降りた。義父がテレビを見てる。わたしのことは地上波で放送されたんだろうか。そういえば繁も森山さんも紺野さんもテレビを持ってない。ふいに義父がふりむいてわたしを見た。   きみはどういうつもりなんだ、
   財布から金は抜く、
   家出はする、
   スキャンダルを起こす。
   おれはきみの父親の友人なんだぞ、少しは敬意を払ったらどうなんだ! 
 こんな男と関わりたくはない。いままで何冊も心理学の本を読んでみたけれど、わたしの親というものへの不信感、承認欲求というものを解消するのはむりだった。母はずっとまえにわたしを心療内科に連れていき、心理テストや投薬を受けさせた。でもあんなものでひとの心が解決するわけじゃない。もし母がわたしに変化を求めるなら、かの女自身変わらなければ意味をなさない、そうおもう。わたしはマックス・バリュで夕食を買い、ベッドのうえで食べた。チーズ・パンと蒸鶏のサラダを。義父が怒るのはむりもない。だってかれは他人なんだから。それでもどっかにわたしを認めて欲しいとおもってるのかも知れない。わたしは東京でいろんなひとびとに助けてもらった。かれらかの女らはどうしてわたしなんかに手を差し延べるのか。わたしが単に未成年の家出人だけでは説明がつかない。同情か、それとも共感か。わたしはギターのない室でずっと考える。でも答えはない。
 朝になってバスに乗った。上津台のショッピング・モールまでいく。最初は本屋に入ったものの、いまは精神的な豊かさよりも物質のほうが魅力的だった。アウトレットで迷った挙げ句、勿忘草を模したロングスカートを買った。どうにも冬に着るものじゃない。寒色の塊りだ。それから銀のネックレスを、最期に黒い冬帽子を買った。そしてあらためて本屋に入り、ブローティガン「チャイナタウンからの葉書」、ベケットゴトーを待ちながら」、室戸繁「かつて聖なる町」を買った。そしてタクシーで鹿の子温泉にいって汗を流し、蕎麦を食べ、またタクシーで家に帰った。義父はいなかった。母は神経質になんども髪を梳かしながらテレビを見てる。わたしに気づくと、一瞬こっちを見た。でもふたたびテレビにもどった。かの女は本なんか読まない。ベッドで横になり、本をひらく。それだけで満足だった。やがてまた足音がした。
   いつまでここにいるつもり?
   あんたのせいでここにもマスコミやらが来たのよ。
   できればおじいちゃんたちのところへいって欲しいの。
   わかるでしょ、その齢だったら。
   子供じゃないんだから。
 わたしはなにもいわなかった。じゃあ、あしたからいこう。そのまえに高校にいって友達に会おうとおもった。午后5時、今度は電車に乗って三田で降りた。天神まで坂をあがって、校舎が見えてくる。不安でいっぱいになりながら入り、駐輪場を過ぎた。たちのわるい不良たちがわたしに野次を飛ばした。──裸を見せろよ、歌姫!──無視して教室までいく。情報処理の授業中だった。山田先生が不気味そうにこっちを見てる。わたしは蔵原伊都の隣に坐った。もちろんわたしの席じゃない。──ねえ、あとで話せない?──おもてのベンチで待ってるから。──かの女は驚きながらも肯いた。これでいい。そうおもって教室をでる。職員室からでてきた担任と鉢合わせになってしまった。
   どうしたんや、岸本?
   なんで急に辞めたんや?
  先生も知ってるでしょ、わたしのこと。
   ああ、でも中卒でどうしていくんや、おまえ家出したそうやないか。
  大検、受けていつか大学へいきたいとおもってます。
 それだけいってわたしはかれを置き去りにした。もうどうでもいい、大検も大学も。わたしには未来はない。だからといって死ぬ気にもなれない、ただただしらけた気分だった。入口まえのベンチに坐って授業が終わるのを待った。やがて伊都が来た。わたしをどうおもってるかはわからない。暗い表情をしてわたしの横に坐った。
   ひさしぶり。
  うん。
   テレビとかネット、わたしも見ちゃった。
   最初は音楽やってて凄いとか、
   スペシャにでて凄いとか、
   おもってたけど、
   いまはつらそう。
   あたりまえだろうけどさ。
  大丈夫だよ。──わたしは首をふった。
  また東京にもどってやり直すよ。
   もうこの町にはいないの?
  たまに来るかもね。
   がんばって佐代はやってけるよ、
   東京でもひとりやって来たんでしょ。
  そんなことないよ。
  助けてもらってばっかりだったし。
 そのとき大きな声ではしゃぐ女子たちの声が響いた。ふり返ると何人もの生徒がわたしたちを取り囲もうとしてる。いやだった。こんなときに邪魔なんかされるのは。わたしは伊都に別れをいって、ほかのだれの声にもふり返らなかった。そしてまた家に帰ってきた。母はわたしの荷物をまとめ、鞄につめてた。わたしたちはわかり合えない。けっきょく父方の祖父母の家にいくことにした。車でしばらく走る。神戸市中央区にかれらは棲んでる。到着してすぐに母は帰った。わたしは呼び鈴を鳴らし、かれら待つ。ふたりとも不安げな顔で出迎えた。
 けっきょく10日以上経っても繁は釈放されなかった。拘留延長ということらしい。起訴されるかどうかはわからなかった。警察に電話しても会うな、でないとまた捕まるぞといわれ、どうしようもなかった。そんななか社長と探偵たちが逮捕された。コンビニで見たスポーツ紙には《モデル事務所・社長以下逮捕──ゆがんだ愛の果て!》なんていう、救いようもない惹句が踊ってた。いったいだれがだれに愛を抱いてたっていうの?──わからない、わかりたくもない。森山さんのコメントも載ってる。《かの女はあんな娘じゃなかった。虚名に憬れ、写真家や事務所にたぶらかされたとしかおもえない》──いったい、どうしてたぶらかされたなんていえるのか。
 それからしばらく経って繁は釈放されることになった。わたしはかれに会う口実を探した。荷物を取りにいくっていうことにする。警察に電話した。もちろん会うなとはいわれた。でもかれが無実な以上、起訴もされない以上、会うのは自由だ。すぐに新神戸から東京に急いだ。警察署へいくと、取材を受けてるかれがいた。マスコミがいなくなるのを待ってかれに近づいた。でも何人かに写真を撮られた。わたしたちは歩き、蔑みのまざったレンズのまえを進む。いつになったらもとにもどれるのだろう。
   おれがわるかったんだ。
  それはちがう。
  わたしだって調子に乗ってた。
 通りを車が走る。激しいフラッシュが焚かれ、なかのだれかが叫ぶ。──このロリコンやろう!──繁は堪えきれなくなったのか、涙を光らせてる。かれの室に荷物をとりにいったあと、わたしたちはすぐに離れた。かれは写真の旅へ、わたしはギターの旅へ。それぞれでかけた。お金はまだ余裕だったけど、安いドミトリーやゲストルームに泊まった。でもわたしがあのモデルだと気づかれることも多かった。路上ライブでもおなじように気づかれ、野次られ、蔑みのなかで耐えるしかなかった。わたしは房総半島へ流れた。ひとのない浜辺を歩きながら、あたらしい歌をつくってた。夜は民宿に泊まって、ただ冬の雨を眺める。2週間のあいだ、わたしはさまよい、東京へ帰った。繁はまだいない。

 

   *

 

 ぼくはひどく落ち込んでしまった。ぼくのせいでかの女はあんなことになったのだから。なんども電話するべきか迷った。でもなにがいえるというのか。けっきょくなにもできないまま日々は過ぎ去り、写真家は釈放され、悪党どもは捕まった。けれどもぼくだって充分な悪党だった。かの女への辱めのきっかけはすべてぼくにある。それがわかったとき、ぼくはスカウトマンもポルノの現場仕事もすべてやめた。ぼくは恥ずかしくもかの女に恋をしているじぶんに気づいてしまったのだ。凋れた花のような気分、あるいは真夏の雑種のような気分だ。もはや、かつてのようにかの女と会うことはできない。それをかの女は望まないだろうから。古いテーブルに着いてずっと考えている。
 そうとも、たかが人生のために多くのものを犠牲にしてきた。70の老いた男が少女に熱をあげていた。なんという醜さか、愚かさか。いずれにしてもぼくには碌な死は待っていないだろう。ソクラテスのように無実の罪で死ぬことはないのだ。有罪者には、いったいどんな毒杯がもたらされるのだろうか。

 

   *

 

 花のなまえを忘れて
 木々のかげにかくれる
 だれか見つけて
 だれか見初めて
 
 いつか麓の町を訪ねて
 暗い小径の果てにふるえる
 だれか聞える?
 だれか知ってる?
 星のなかで輝く
 過古のすべてを

  エリオット、ディキンソン、キーツ、オーデン
  一緒にいて欲しい
  いつまでもはなれないで
  いつまでもはなさないで

 草色をしたわるあがきさ
 きみのかげから遠くに逃げる
 だれが気づくの?
 だれを棄てるの?

 いまだ読まれぬ本を抱えて
 ふるい辞のなかに埋もれる
 だれもいないの?
 だれも来ないの?
 砂のなかで瞬く
 海のささやき

  エリオット、ディキンソン、キーツ、オーデン
  一緒にいて欲しい
  いつまでもはなれないで
  いつまでもはなさないで

 花のなまえを忘れて
 木々のかげにかくれる
 だれか見つけて
 だれか見初めて
 
 いつか麓の町を訪ねて
 暗い小径の果てにふるえる
 だれか聞える?
 だれか知ってる?
 星のなかで輝く
 過古のすべてを

  エリオット、ディキンソン、キーツ、オーデン!
  一緒にいて欲しい
  いつまでもはなれないで!
  いつまでもはなさないで!
  いつまでもはなれないで!
  いつまでもはなさないで!

 

   *

 

 わたしにインタビューしたいというひとからメールがレーベル経由で来た。べつにすることもないし、退屈だったから受けてみた。どうせわたしの本音なんてどうでもいいんだろうし、ほんとうのことなんかお望みじゃない。それでも好きなように語ってやろうと指定された喫茶店にいった。相手は女のひとで、男女格差や性的問題、あるいは家出人について書いてるらしいのがわかった。わるくないようだ。
   あなたは男たちに利用されてるのよ。
   まえにあの室戸さんの記事を読んだけど、
   かれは表面、じぶんのせいだなんていってるけど、
   わたしには保身にしか見えない。
   だってあなたは家出してきた子だし、まだ幼い。
   なのにそれを裸にしたことがどれほど世間を騒がせ、
   傷つけているかをわかってないのよ。
  でも、写真が流出したのはあの事務所のせいで、かれのせいじゃないです。
   あなたはことの重大さを認めたくないのでしょうね、
   実際かれは姿を消しているし、あなたを置き去りにしてる。
   これからもかれとつきあうつもり?
  ええ、もちろん。──かれはわたしにとって大事なひとです。
   でも、わたしのように男女の問題を扱ってるものからしたら、あなたは綱渡りをしているようにしか見えないのよ。
  そんなことはありません、だれもわたしたちの関係を強要してませんし、
  たったいちどの失敗でそこまでいわれたくはないです。
 あとはずっと平行線だった。なにをいってもむで終わった。かの女はわたしのことを信じず、ただずっとじぶんをいうだけ。いったいどんな記事ができあがるのか、わたしにはわかる。それはかの女の先入観と偏見の塊り、被造物だ。かの女は最期にいった、──あなたをモデル業界に誘ったのはだれですか?──わたしはいった、だれでもありません、じぶんで入りました。かの女が男女の格差を云々する以上にわたしは音楽の宣伝ばかり話してやった。かの女は帰り際にひとことつけくわえた、──いずれ室戸さんや大倉さんからも話を聞きます。そうすればあなたを利用してきたシステムが見えてくるでしょうね。──わたしはぞっとしてふり返った。かの女は真剣だった。冗談じゃない。そんなことをすればソクラテスのことを知られてしまう。かれを曝しものにしてしまう。──どうしよう。
 わたしはソクラテスに電話した。かれはインタビューの件を仕方のないことだといい、わたしに安心するようにいった。かれは咎を受けるつもりなんだ。わたしは泣きそうになりながら、なにも語らないでといった。そして一緒に海を見にいこうと誘った。かれは横浜海岸がいいといった。わたしは房総半島がいいといった。けっきょくかれが折れて電車に乗った。

 

   *

 

 佐代子から電話があってぼくは旅の支度をした。海が見たいという。ぼくは横浜をすすめたけれど、かの女は房総半島がいいといった。房総か。まるでつげ義春の漫画「やなぎ屋主人」ではないか。ハマナスの唄を歌うしかないのか。頽落への道をふたりでいこうというのか。どこかに死の予感をもちながらぼくは駅に立った。プラットホームでぼくらは手を繋いだ。写真家はまだ帰ってきてないという。じぶんのことを差し置いて怒りを感じた。こんなときにかの女をほっておくなんてどうかしている。
 自己嫌悪とともにぼくは佐代子と席に着き、じっくり時間をかけて房総までいった。海岸でかの女は砂を弄び、やがて海へと歩いていった。そしてぼくを呼ぶ。──ねえ、一緒に死のうよ。もう限界なの。──ぼくは波に洗われるかの女のもとへ駈けだした。かの女の手を握り、肩を抱き、髪を撫でた。
  死ぬまでの時間なんてあっというまだよ、急ぐことはない。
  きみが大切なんだ、生きていてくれ。
 しばらくかの女がすすり泣き、ぼくたちは砂のうえで横になった。やがて夕暮れになり、蛤を買って宿に泊まった。ふたりで黙ったまま貝を喰い、冷や酒を呑み、眠った。旅から帰って1週間、ぼくらはふたりで過ごした。やがてかの女のもとに音楽仲間から電話が来た。森山という男がかの女に謝ったという。「おれがわるかった」と。いったいどれほどの男がかの女に特別な感情を抱いてるかをおもった。かの女は活動再会のためにわたしのもとを離れていった。

 

   *

 

 悪態の果てみずからを抱き
 黙りこくって見送った車窓
 見知らぬ背中降り立った駅が
 遠くかのひとのおもざしを見せる

 あいづちもなくさまようがままの
 融けだしていく輪郭は遠い
 頼りはみんな破かれてしまえ
 きみらになにもわかってたまるかと

  冬の外気、立ち向かうはずが
  冬の外気、あっさりと打たれ
  首をふった、屈辱の果ての
  そこにはなにもない

 二月の風の文学はいつも
 過ぎ去ってったひとみたく淡く
 二月のかぜの文学はいずれ
 孤立のなかの手のひらに融ける

 鴎が飛んだ 質問の1羽
 回答もせずに見送っただけさ
 右へ左へと流されるたびに
 ぶ厚いかぜの壁を蹴り上げる

  アベローネ、もはやきみのことを
  アベローネ、ぼくは書きはしない
  手をふったむこうにはだれも
  むこうにはだれもない

 

   *

 

 森山さんたちがスタジオで待ってた。わたしたちはリハーサルを始める。あたらしい唄を仕上げていく。そうしてデモを録り、ひさしぶりに森山さんの室にいった。──きみはほんとうにあの写真家が好きなのか?──はい、そうです。かどわかされたわけじゃありません。──かれはちょっと困った顔をしてたけど、すぐに笑って、きみの意志は固いといった。たしかにわたしは意固地なくらいだ。家からもでて、音楽をやって、モデルでスキャンダルを起してもまだ、ものごとをやり通そうとしてる。それこそわたしだった。
 わたしたちはオムニバスとシングルのために曲をつくった。森山さんは弓でエレキ・ギターを弾き、わたしは12弦に挑戦した。ドラムはブラシを使い、ベースはフェンダーのベース・オルガンを使った。ほかにも逆回転やなんかの特殊効果や、フィールド・レコーディングによる環境音を入れた。ゲストの音楽家がピアニカやトイ・ピアノをオーヴァーダビングした。完パケしたあと、都内でライブ・イベントに出演した。わたしは客席のなかに室戸さんを探した。けっきょくわからなかった。かれはいったいいまどうしているのだろう。そうおもいながらライブではストラトを弾き、アクアパスのアナログ・ディレイをかけた。5曲終えて楽屋にもどると、そこには椿さんから花が届いてた。やっと和解できたみたいで気分がよかった。わたしは繁の室に帰って、ひとりバジルソースのリングイネを食べた。たしかにかれは冷たいような気がしてる。もうひと月も会ってない。なにがかれを追い込んでいるんだろう。もしかしたらかれも死に取り憑かれてるのかも。そうおもうと、もう眠れなかった。ただ薄暗い室のなかでかれの写真集をめくった。

 

   *

 

 鳴り止まない日々の嘶き
 入り江にたどり着くまでに
 わたしをだれが救ってくれる
 だれがわたしを慰めてくれる
 どうしてか、涙
 どうしても、鴎

  いつかきっとそのままで
  たどり着く日を夢見る
  いつかきっとそのままで
  入り江のなかに帰っていく
  いつかきっとそのままで
  あなたがわたしを捕まえる

 会えないあなたの声を探して
 入り江にたどり着くまでは
 あなたをだれが救ってくれる
 だれがあなたを慰めてくれる
 どうしてか、光り
 どうしても、太陽

  いつかきっとそのままで
  たどり着く日を夢見る
  いつかきっとそのままで
  入り江のなかに帰っていく
  いつかきっとそのままで
  わたしがあなたを捕まえる

 どうしても、光り
 どうしても、涙
 どうしてか、鴎
 どうしても、血汐

 

   *

 

 東北道をずっと北へいく。雨はずっと降ってる。この3日間も。泥濘に車を止め、ゆっくりと廃墟のほうへ歩く。だれもいない。灰の匂い。からっぽの檻、からっぽの犬小屋、からっぽの鳥籠、そんなものがまわりを埋め尽くしている。あるいは鉢植えや植木鉢が。廃墟のなかに入っていくと、獣の匂いがする。煉瓦の崩れかかった舘屋の脇に植物園があった。木々がガラスを突き破り、原型をとどめていない。
 おれはなにをしているんだろう。そうおもいながら歩く。雨が氷のように雨具を滴る。もうずっと佐代子には会ってなかった。どうしても引け目を感じてしまう。かの女にはすまないことをしてしまったし、またそれを恢復する術がいついつまでも見当たらなかったのだ。おれはシャッターを切りつづけた。うしろめたさがどうしても残る。カメラはそれを隠してはくれない。あたらしい1枚撮るたびに顔の皮がはがれ落ち、おもいでがちかよる。どうしたものか、引き返したくなった。おれはカメラを降ろして、車へともどる。泥濘から車をだす。タイヤが少し滑る。そのまま県道を過ぎ、国道を過ぎ、高速に入った。おれはいままでなにをしていたんだろう。佐代子のことをちっともおもってはなかった。その事実がおれを打ち据える。5時間かかって東京に入った。おれはアパートに帰って室に入った。だれもいない。当然だ。もうずっといなかったんだから。──おれはフィルムの整理にとりかかった。ずっと忘れたままのそれは石化したずっとむこうの世界のようだった。そいつがおれを呼び醒ましてくれる。終わってから佐代子のサイトを見た。ライブイベントにでたらしい。写真には珍しくエレキを持ったかの女がいた。おれは少し嬉しくなった。かの女がまた活動し始めたことが慰めになった。ぼくはかの女にメッセージを送った。──もうすぐ帰ると返事が来た。

 

   *

 

 ニュースサイトでわたしの記事をふたつみつけた。ひとつはあの女のひとのもの、もうひとつはライブ出演についてのものだ。前者はやっぱりわたしの発言なんか無視してる。おもいこみだらけでどうしようもなかった。かの女のなかではわたしにかかわってるひとはみな犯罪者らしい。たしかに繁が非難されるのは仕方ないとおもうし、現実にわたしたちは声明文を発表し、《倫理的・道義的に問題があったと指摘されても仕方がないでしょう。しかしあの写真はみな個人的な作品であって公にされることを前提とはしていません。わたしたちに主従関係はなく、あくまで対等なかたちで接した結果です》といった。わるいのは曝したやつらだ。森山さんや花純さんのことも書かれてある。でもかれらかの女は口をひらかなかった。ソクラテスのことはだれにも知られずに済み、ほっとした。宣伝として喋ったことはぜんぶオミットされてしまってた。もうひとつの記事は「脱がされた少女の音楽」と題してあった。内容はわたしの音楽とモデル活動の履歴と、ネット上の憶測をただ貼り合わせたものだ。どうだっていい。宣伝になればいい。歩きながらその記事を見てた。そのとき繁からメッセージが来た。ようやく帰って来たんだ。心配事が終わって安堵する。わたしは家路を急ぎ、かれの戸をあけた。わたしたちは口づけをして再会を喜んだ。

 

   *

 

 ぼくが最後に佐代子に会ったのは4月だった。かの女は追われていた。駐車場に黒いワンボックスカーが停まってる。そこから男が降り、やがて戸口に立って男はずっとぼくを見ていた。そいつがかの女のいうところ、ケツ持ちのやくざらしい。わたしはかの女に隠れているようにいった。そいつは光りのないまなざしでこっちを伺っていた。ぼくは声をかけた。──どなたですか?──岸本佐代子さんのお知り合いですか?──だったらなんだというんです?──社長から話があって来たんです。──かの女はモデルを辞めてます。──そんなことはどうだっていいことです。こちらもメンツにかかわっている。かの女と話をさせてください。──要件はこちら聴きます。──話のわからないひとですね、あなたはわたしは佐代子さんと話をつけに来たんだ。社長の頼みを断るわけにもいかない。もちろん、話せませんでしたじゃどうしようもないんだよ!
 そいつは静かな怒りを湛えていい、わたしへにじり寄る。──あなたこそ、おかしいんじゃないですか。かの女が拒んでいるのに無理矢理話をしろという。そんなことが赦されますか?──さっさとでていってくれ。──ぼくがいうなや、そいつはこちら蹴倒して入って来た。慌ててわたしは台所まで這い、包丁をとって立ちあがった。
  なんの用かは知らない、しかし不法侵入は感心しない。
   死にたいのならおれを殺してみろよ。
 やつはそういってわたしの右手を捕らえ、片方の拳で顔を撲り飛ばした。ぼくは包丁をできるだけ遠くへ投げた。かつて教えられた捕縛術をおもいだそうと頭をひねる。咄嗟のことでおもいだせない。素早くしゃがみ込み、両手を組み合わせて相手の右膝にたたき込んだ。靱帯の手応えが伝わる。それでもやつは怯まない。片手でテーブルを掴み、無事なほうの足でぼくの顔面を狙う。ぼくは床を横に滑って落ちてあるボールペンを握った。それがなんであれ、いまは握るのだ。そして体勢を立て直し、やつの首を狙ってひと突きした。空気の漏れる音がしてやつはくたばった。ぼくはやつの電話を探りだし、その電話帳に片っ端からかけた。そしていう。──この電話の持ち主は死んだ、おれが殺したと。そのなかのひとりがどうやら組の人間だったらしい。ぼくはいった、
  死体を取りに来るか、それともこのまま警察にいくか、決めようじゃないか。
   死体なんざいらん、始末はおまえさんがやればいい。
  わかった。
   訊いておきたい、おまえさんはなんのために殺したんだ?──あの女はおまえのなんだ?
  なんでもない、ただ憶えててもらいたい、あんたらかの女をつけ回すのなら、今度はおれがおまえらをつけ回す。
 ぼくは電話を切った。風呂場に隠れていた佐代子へ帰るようにいう。それから男の死体を蒲団で包み、やつの車まで運んだ。そのままうしろに死体を積んで発進した。ダッシュボードには御丁寧にも佐代子についての詳細や、社長からの伝言、そして組の在処まで入っていた。とりあえず、伝言をひろげた。《もういちどおれのところにもどれば、釈放の暁に好きなだけ金をだす。でなければ罰が下るだろう》──なんてばかげてるんだ、この伝言は。釈放の暁だって?──やくざの臀の下にいるやつがいえることか、それに佐代子は金で靡く女じゃない。ぼくは社長に面会にいこうかとおもった。そしてそいつを実行に移したわけだ。死体入りの車を堂々と駐車場に停め、中野署内に入った。そして面会申請をし、やつと会った。もちろんやつはぼくのことを知らない。ぼくは始末屋を連れてきたといった。おもての車に乗せてあるといった。やつは勝ち誇った笑みを浮かべ、今度はあんたが乗せられる番だという。
  そんなつまらない冗談を聴きに来たんじゃない。
  やつはあんたを裏切っておれを殺そうとした。
   おれを裏切った?
  ああ、そうだ、やつは伝言の内容をおれに密告して笑っていた。
   そんなことか?
   もっと大きな話じゃないのか?
  車のダッシュボードにあんたと組との関係、あの男との関係、ぜんぶダッシュボードに入れてある。
  やつはつまるところ、あんたが万が一どうなろうが知ったことじゃなかったんだろうよ。
  おれは車を置いていくが、文句はないだろうな?
 慌ててやつはアクリル板を叩いた。──待ってくれ、佐代子には手をださない!──誓う!──ぼくは組に伝えろといい、署をでた。そして車を走らせて遠くの山縁へ放置していった。もし佐代子にまたなにかあれば車の在処を密告できるようにダッシュボードの中身はそのままにした。指紋だけを消し去ってだ。そのことからもうだいぶ時間が経った。社長の釈放はやはり叶わなかった。組の弁護士も役には立たなかった。ただ事務所の下っ端や、探偵には執行猶予がついてしまった。ぼくはかれらを追いつづける。佐代子のほんとうの安寧が訪れるまで。それがぼくにできるたったひとつのことだ。中野のアパートメントを引き払い、いまは厚生施設で働いてる。これからどうなるかはわからない。

 

    *

 

 緑色の天使たち
 退屈に飽いて遊んでる
 ぼくは莨を吸いながら
 春の雨に降られてる

 緑色の天使たち
 真昼の町をさまよう
 きみは唄を歌いながら
 空飛ぶサーカスを見てる

  きっと
  きょうみたいな
  まなざしの地獄で
  天使たちはわらってる
  天使たちはわらってる

飴色の悪魔たち
 いつも屋上で遊んでる
 ぼくは指切りをして
 かれらと約束を交わす

 飴色の悪魔たち
 真夜中の道をさすらう
 きみは遠く消えて
 夢見る裸婦像を見てる

  きっと
  きょうみたいな
  まなざしの天国で
  悪魔たちはわらってる
  悪魔たちはわらってる

 

   *

 

 ソクラテスはいなくなった。かれがどうしてるのか、花純さんも知らない。ただ最期に会ったとき、男を殺したのはたしかだ。どこかへ逃げたのか、それとも捕まって殺されたのか、わたしには調べようもない。母からはときどき手紙がとどくようになった。かの女の苦労がどういったものか、わたしにもなんとなくわかりかけてきた。もうじき18だ。わたしはメジャーから声がかかり、アルバムをだすことになった。正直いまどきメジャーなんかに興味はない。じぶんのペースで曲がつくれないだろうし、日本の音楽業界は毎年新譜がないと忘れられてしまう。ひとつの国のなかで自己完結するしかやりようがない。それにわたしの好きな音楽も時代遅れなものになっていってることに気づいた。森山さんはいつもあたらしいことをしようと躍起になってる。ついて行けそうもないくらいに早く変化する。
 繁はようやくモデル撮影から写真芸術に進んだ。たまにわたしの音楽ジャケットを撮ってくれてる。わたしはいままで書きためた歌詞ではなく詩を雑誌に載せてもらえるようになった。いつか詩集がだせればいい、そうおもいながら夜、遅くまでじぶんのノートパソコンのまえにいる。
 夏になった。わたしは詩集をだし、メジャーからはシングルとアルバムをだした。あたらしい室に引っ越した。そしてソクラテスからメールが届いた。《拝啓、ぼくはいま無事に過ごしている。なにもかも終わった。きみの人生にとっての不安をすべて消し去ったつもりだ。ぼく自身のいささか荒っぽいやり方で。いまは厚生施設で働いてる。住所は教えられないがいつか会えるときが来ればいいと願っている。きみの活動は時折チェックしている。うまくいっているみたいでよかった》──わたしはかれに会いたかった。でもそれが叶いそうにないことも察した。あの男を殺してたぶん、かれ自身がわたしにとっての脅威にならないよう息をひそめて生活してるんだ。わたしは繁にかれのことを話した。最初は不愉快な顔してたかれもやがてはうなずいた。
   きみの幸運はかれの不運から始まったものともいえるな。
   もしかれがきみのことなんかほっておいてポン引きのままだったら、
   おれたちがこうして会うことも一生なかったろうし、
   きみが音楽を棄てずにやり抜くことにはならなかっただろう。
   いつかきみはかれのことを詩や歌にするべきだとおもう。
   それでかれがどっかで見てくれればいいじゃないか。
   おれたちはけっきょくお互いの脆さのなかで生きていくほかはないからだ。
  そうね、かれがいたからこそいまがある。
  でもほんとうにそれでかれは幸せなのかっておもってしまう。
   そんな疑問を持ってたら、きっとかれは悲しむよ。   
 そういってかれはライ・ウィスキーを取りに台所へいった。わたしたちはトマトソースのペンネと、アボガドサラダを食べ、卵スープを呑んだ。そしてかれが酔いとともに饒舌になっていくのをじっと眺めながら夜を過ごす。翌日、図書館で何気なしにわたしはソクラテスについて読んだ。かれの生涯、かれの行為、かれの発言、かれの影響、かれの死について調べた。無実の刑によって裁かれ、毒人参を呑んだソクラテス、かれの死に対する態度にはひかれるものもある。かれの妻はいった、無実の罪で死ぬなんて。ソクラテスは答えた、じゃあ、ぼくが有罪で死ぬのがいいのか?──クサンティッペはたしかに悪妻かも知れない。それでもソクラテスは愛してたんだろう。かれはこうもいった、とにかく結婚したまえ、いい嫁をもらえば幸せになれる、わるい嫁をもらえば哲学者になれる。きっとソクラテスのような哲人にはクサンティッペのようなむずかしいなひとが必要だったんだ。でなけば人生の醍醐味がないとおもったんだろう。ソクラテスはさらにいう、蝉は幸せだ。なぜならものをいわない妻がいるからとも。なんていいぐさだなんだろうかとおもう。でも、ほんとうのことはなにもわからない。
 たぶん、かれは神託によって、無知の知によって翻弄され、うち滅ぼされたひとりの哀れな男でしかなかったのかも知れない。真理を求めて歩き、問答したかれはのちの世のための触媒であり、起点であったとおもう。かれの哲学はいまも生きながらえてる。でも、けっきょくかれ自身はからっぽの器に等しかったんだと、わたしはおもった。ソクラテスという器にひとはいろんなものを入れ、また見いだす。ただそれだけのことだとおもった。そしてわたしもまたうちなるダイモンの声に耳を傾け、夜があけるまでそれに身をまかせた。声は次第に大きくなっていく。わたしはなにを知ってるっていうんだろう。わたしは善く生きてるっていえる?──わたしはなにを求めてる?──わたしは歴史にも伝説にもなれそうにない。そんなこと求めてなんかない。ささやかな営みで終わってもいい。わたしだってまだなにも知らない。いまわたしが知るべきこって?──やがて夜が終わって、太陽の昇る音が聴えたような気がした。そうしてわたしはなにもなかったみたいに街を歩き、ひとびとのなかを過ぎる。そしてギターに手を展ばす。もういちどでいい、かれに会いたいって、おもった。


   *

 

 魂しいの砦に火はやさしく
 忍び、
 そしてかつてのすべてを焼き払う

 すべてのわたしが孤立のなかで飢えながら
 かれのなまえを呼ぶのを待っている
 でも、
 やがて火は消える

 


   *