みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

初秋のスケッチ

 


 初秋にて現るるかな死せしひと

 

 秋暮れる雲間にピアノ聴きており

 

 月蝕や喪われゆく未亡人

 

 秋霖の烈しき真昼水を呑む

 

 水にふくれる陽光もやがて秋

 

 遠き火事果肉のような匂いして

 

 さすらえるもののみこそ秋の月

 

 犀を飼うわが幻想よ竹の色

 

 瘋癲の死ぬる秋あり保護室

 

 縁日の世界も終わり万華鏡

 

 秋月や連れて歩いて迷うまま

 

 陽もやがてみじかくなりぬかげの意味

 

 鳥影や地上に映える黄葉なり

 

 亡国の猫いっぴきよかげ長き

 

 砂充ちて閉ざさるるかな海水浴場

 

 夜風冷え姉の死后にて眠る犬

 

 骨を透く秋雨ばかり検査にて

 

 少年期遠きおもかげ秋祭

 

 階をのぼり来たればもう九月

 

 訪れて消ゆる初恋芒原 

 

 河に群るる蜻蛉のなかに日暮れあり

 

 

わが短篇集についてのノート


 ここ数年間ずっと温めてきた短篇集をようやくだせることになった。もちろんのこと、オンデマンドでだが。データを喪った作品をあたらしく書いたほかは、「新バーテンダーズ・マニュアル」、「みずから書き、みずから滅びるってこと。」、「マイクロフォーン・アイスクリーム」のみが新作である。大半は'11年から'15年あたりに書いたものを推敲したかたちだ。ネットで知りあった、城正幸──かれはどうしたわけか、ネット上での筆名をおれにも教えてくれない、だから当然かれの人となりを知っていても作品は知らない。──があとがきを書いてくれた。おれはこの本を澤あづさ氏に捧げることにした。かの女はわたしの小説のはじめての読者で、はじめて対価を払ってくれたひとだからだ。わたしを勇気づけ、励ましてくれたかの女できるのは、これくらいのことだ。

 

   *


「旅路は美しく、旅人は善良だというのに──そのほかの短篇」

      収録作


 旅路は美しく、旅人は善良だというのに *11
 れもんの若い木々にかこまれ *49
 愛についてのみじかく、そして淡いなにか *67
 ディック・フランシスを読んだことがない *74
 家出娘 *87
 ひと殺し *89  
 からっぽの札入れとからっぽのお喋り *100
 インターネットと詩人 *106
 小説のあいまに *111
 おもしろおかしく生きて死にたい *118
 新バーテンダーズ・マニュアル *140
 みずから書き、みずから滅びるってこと。*145
 月曜日に灼かれながら *175
 マイクロフォーン・アイスクリーム *252
 女を買うのに2万たりない、全額だ *258
 女ぎらい *285
 光りに焼かれつづける、うち棄てられた冷蔵庫のブルーズ *289
 
 著者略歴 *315
  あとがきとしてあってはならないこと *316

 

   *


あとがきとしてあってはならないこと/城正幸


 中田満帆に会ったことはない。姿を見たこともない。ただ彼の声を聴いただけだ。作品といっていいのか、彼の書くものはどれも遠い異国の出来事みたいで、いまひとつピンとこない。かとおもえば生々しい詩があったりしてドキリとすることもある。よくわからない。ただいえるのはこの短篇集によって彼は語り手としての能力を不謹慎に愉しんでいることがだいぶ伺える。かつていじめや、虐待にもあっていたという彼は、おそらく母親の愛情不足から道化を身につけ、そして他者からの攻撃によって、あるいはブラックユーモアの影響から、毒のある笑い、みずからを嗤う表現を身につけたのだろう。それがいちばん色濃いのは「ディック・フランシスを読んだことがない」であろう。ここではゲイによって性的被害を受ける自分をどうしたものか、明るく演じている。これが実体験なのかと、私は彼に訊いた。返事は素っ気なかった、「なんの虚飾もなくほんとう」であるらしい。おなじく「新バーテンダーズ・マニュアル」も、作品の質として劣るものの、彼の経験が生かされているという。根っからの神戸気質が醸す腥さを私は感じ取ってしまうが、それでも彼の作品にはなにか惹かれるものがある。おそらく彼の作品のなかで引用されたり、リミックスされた言辞や方法が私の好みに合致するからであろう。チャールズ・ブコウスキーを初めてとして、彼はさまざまな作品から引き出しを満たしている。たとえば「マイクロフォーン・アイスクリーム」はあきらかにエルヴェ・ギベールの方法を引用している。《おかまやろう》などという、今日では性差別でしかない語を使う男が、いったいどうして同性愛者であり、エイズで逝去したギベールを読むのか。多分彼のなかに二重、三重の大切な男性像というものがあって、それは一重に英雄であり、二重に粋人であり、三重に少年性なのだろう。私はそう思う。
 彼はこの七年のあいだ、ずっと神戸市中央区に暮らしている。本人は時々、厭いてしまうらしく、手紙に連綿と街の喧騒のなかで暮らすことの憂いと淋しさを吐露している。「森のなかで隠れて暮らしたいとおもうときがある、でもそんなこと、叶わない。それもわかってる。ただときどきサイレンや灯りのないところで眠りたいとおもうよ」。なるほど、しかし彼は故郷の生野高原に帰りたいわけではないのだ。あくまで新しい土地に行きたいという願いがあるということも同時に告白している。ただ心配なのは決してまだ過去と和解できていないということだ。「みずから書き、みずから滅びるってこと。」で彼は執拗に昔馴染みや初恋に苦しめられている。前出の「マイクロフォーン・アイスクリーム」も同様に、過去によって雁字搦めにされた人間を充分に読み取れる。彼のそういった葛藤は一体いつ解消されるのか。文学的成功か、あるいは社会への参画か、はたまたもっと根源的な他者との繋がりか。それはわからない。ただいえるのはこの本は散文家としての彼の第1歩であり、序章であるということだ。'11年にかかれたという、表題作はきっと、数世代あとには彷徨える青年たちの密かなアンセムになっているかも知れない。そんな気がする。
 先日のこと、先行して彼の長篇「裏庭日記/孤独のわけまえ」を読ませてもらった。これは自伝的長篇ではあるが、犯罪小説と詩が交互に現れるという特殊な性格を持っていた。彼がいうには体験を語る苦しさ、読む苦しさを中和するため、あるいはその反動でアメリカでの犯罪を描いたという。ふたりの日本人ミュージシャンがアメリカの田舎町で犯罪組織と女に翻弄されつづけるというのがそのあらすじだ。自伝部分では前半に三歳から二〇歳まで、後半に夜間高校を卒業してさまざまな場所を彷徨い、やがて今年の二月を迎えるまで書かれている。彼はいった、「種本はサム・シェパードだ。わたしは『モーテル・クロニクルズ』が好きなんだ」とメールに書いていた。だが実際はちがうのではとおもう。たとえばセリーヌの「夜の果ての旅」やブコウスキー「勝手に生きろ!」、リチャード・スタークの「悪党パーカー」シリーズを想起させるところが多分にある。彼はそれらをすべて飲み込んだうえで書いていたのだろう。
 正直云って私はこの本の正しい読者ではない。彼の文章は穢らわしく、歪だ。頭か爪先まで悪文のかぎりを尽くしたといってもいいだろう。どうしようもなく、胸糞が悪いし、蹴り飛ばしたくなる。こんなもので満足しているようでは、どうしようもない。それこそ救われない。中田満帆が古い短篇を寄せ集めてなぜいまこれをだすのか。さっきも書いたようにこれはあくまで序章だ。私は次に期待したい。──というわけで、そろそろ退場させて戴こうじゃないか。

 

                '18年9月24日、芝浦公園にて (詩人/文藝批評家)

 

ヴァンサンに夢中

ヴァンサンに夢中

 
楽園

楽園

 

僕(今月の歌篇)


   *


 秋の月まばゆくなりぬ半月に世界のすべて託し給えよ


 星の夜に水の魚は光りけり葬場の鐘に跳ねあがりたり


 秋月にあずける恋よひとびとのなかにふと迷えるおもい


 標なき十字路にただ立ちながら炎天に燃ゆる蠅をば見つむ


 秋の雨ひとかげみなのまなざしをただわれと結べる土曜の午


 早秋の光りのなかにさまざまの魚の泳ぐきみのまなこは


 水のないプールのごとくからっぽの水槽抱いて少年泣きぬ


 乾く蓮葬場の果てに生えておりわれ昏々としてそを見つむる

 
 静かなる時代よいまだ死の灰を喰わずして存ることはできず


 遠きわが父の死を望み延々と遠沖泳ぐ少年を見る


   *


 秋風やひとより遅く学ぶゆえわれひとりのみ労役となりぬ


 若者よさらばあかとき来ずものとひとりつぶやいて徒寝のとき


 ぼくというものの卑怯よ秋の陽の光りに曝し羞ずかしめてる

 
 big muff 踏む一瞬の足許を月蝕がみな浚っていった


 星月夜きみの夢へと訪れていつまでもただ手をふってたい

 
 ひとの世の淋しさばかり聴くせつな語るせつなに眠れる鉛


 日本語の律と戯れて日蝕に奪われながら海に佇む


 ひとのなき砂のうえにて口遊むカチューシャの唄ただおぼろげに

 
 雲路追う少女のひとり呑みながら秋霖はただすべてを洗う

 
 かぜに倣うぼくの両の手いつかしらきみをおもって泣くこともなく


   *

 
 だれにでも愛と笑いの夜があり西部の町に涙を忘れる


 恋という終列車を乗り過ごし朝の路上に死ぬる犬たち


 黄昏れるきみの時計の文字盤の小さな疵のような失恋


 長方形の海を夢見る午后はるか遠き町へと砂をばら蒔く


 もどることもない刻む針は高く時計を越えて国境を飛ぶ

 
 漁り火も明ける朝にはいっぽんの流木を抱いて町を歩きたい


 語られることもなかりき物語の標本となるぼくの余生は


 雲走る彼方へ水はまっすぐと河となり海となり雨となる

 
 ぼくの実態は水だ!──水を呑む男はコップのなかへ消えてった

 
 そしていまどこまでぼくの詩篇にはだれが歩いてだれが泳ぐか?  


   *

 

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未完成

未完成

 

 

august/8月

 

   *

 

 さすらえば鰥夫の身こそ倖せとおもい果てたる真夜の駅舎よ

 

 晩夏訪れてたったいま淹れる珈琲の湯気に消ゆるすべての死者は

 

 暮れる丘奇蹟の粒もなきがまま天然の美を湛える河や

 

 濡れそぼつ聖母のごとき裸婦像やわれを見初めて連れてゆかんか

 

 草木の燃えあぐる夏いくつものおもいでたちをいずこへ葬る?

 

 かつてわがものたりし患いのすべての因果、父に求むる

 

 たえまなき少女絶唱おくびょうな霊(たま)のおもざし街燈に見ゆ

 

 ふたたびを求めていつか完きの存在というものになりたきかな

 

 炎上する聖家族の梁や棟、ぼくの愛するものは消えゆく

 

 いつか会えるだろうとおもいながら齢を重ねて消える幻し


   *


 おそろかなる不運によって幸運を授けられたるわれの人生


 
 ひとの世の角を曲がれば深甚と迎え入るるはかの女の幻影

 

 うつし世にあまねくありぬ銃眼のすべてに曝すわれの詩篇


 
 かげろうの歌ひとり聴くひねもすにたれかを欲すこともなきまま

 

 水翳にぼくは顔を埋めながら果たしてどんな道を求める?

 

 ひとびとは過ぎず時間のみ過ぎてぼくはふたたび眼をそらすかな

 

 いくつかの面影われを連れ去って幾多の夢の残り火を見せ

 

 呼び声は遠く幽かなところにて両の手をいまひらきをるもの

 

 たわむれを暮らしの燈しとして生きかつてのことを忘れようとす

 

 和解することもできずに肉親とゼロへと還る支度をなせり


    *


 時というときのはざまで揺れているモーテルの灯よぼくにたなびけ

 

 深夜見る海の暗さよ黒い波繁船のなかにみな閉じ込められよ

 

 うつろなるときの雫よ無神論者として生きるぼくを嗤え

 


 あらゆる神は妄想に過ぎぬといい貶めらるるものに手を差し伸べて

 

 垂直の人間足り得、わずかなる信を授けらるる僥倖を待つ

 

 あたらしき浮き世に生きてひとびとのうつろをただただ遊び生きたり

 

 かつてまだ青年だったときおもい、ひとつの星に寄せるまなざし

 

 でもぼくはきみのようにはなれまいと零す永久凍土の詩篇

 

 かのひとの長き不在よまざまざと暴かれてゆくぼくの惨めさ  

 

 うまくやりおおせればいいと口遊み、かれはいまだに佇んでゐる

 

 8月の遠き御空に落ちていくすべてのもののための駅舎よ
 

    *

 


bloodthirsty butchers/august/8月