みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

チューイン・ガム

おれたちがいままで読まされてきた詩っていうのは、ほんとうの人生をおれたちから隠蔽してる。それをおれは信長書店というアダルトショップのグッズ・コーナーで痛感したんだ。ローションを撰びながらね。とりあえずは、そのときの気持ちを一篇の詩に込めた。それではお読み頂こう、「チューイン・ガム」。

 


 おれが犯されてるあいだじゅうずっと、
 チーコは笑ってたっけ
 くちびるのあいだからずっと、
 チューイン・ガムを垂らしながら
 消防署だとおれはおもった
 電話をかけて真っ赤な車を呼ぶんだって
 でも、
 おれの口にはチーコのスカーフが
 スカーフが猿轡のかわりにあるから
 人語のかけらすら話すこともできなかったんだ
 やつはおれの両腕を掴み、
 上半身が天井にとどきそうになる
 なんてこった、
 まさかおれがあんなちっぽけな女友だちにやられるなんて、
 おれはあのとき女に犯されてしまってたんだ
 ちんぽの梁型がおれのなかを突きあげ、
 搔きまわすなか、
 チーコはずっと台所から笑ってたっけ
 おれは壁に貼ったまんまの、
 高橋由一の絵を見てた
 鮭だ
 半額シールを貼られた切り身がおれの脳髄を高速で駈け抜ける
 まったく女を敵にまわすもんじゃないぜ
 そんなことをしたらもはや
 生きていられないぜ
 うしろの女が
 ようやくディルドを抜いたとき、
 おれの頭のなかじゃあ、
 どうしたものか、
 フランス・ギャルの歌が、
 コンピュータ・ノマ・トライが流れてた
 わたしのコンピュータ・ノマ・トライ、わたしのカレシを見つけだしてよ!
 背が高くてかっこよくて、なによりも金持ちなカレシをお願い!
 まったくたわけた気分じゃねえか
 チーコのチューイン・ガムをかの女の唇から舌でからめてとって、
 そのままかの女の乳房に顔を埋めたせつな、
 おれは気を失って、
 しょんべんをちびりながら、
 冬のくそ寒い浴室へと運ばれ、
 そして天にも見放されたというわけだ
 チーコ、もし来世であったらおまえの友だちもろとも、
 チューイン・ガムみたいに路上に吐き棄ててやるからね!

 


France Gall - Computer Nr3 (Live 1968)


Der Computer Nr. 3

カセドラル再訪

 

 冬のあいだずっと
 アルコールという月光液から遁れようとして
 嫌酒薬を呷って、
 星々との口唇期を愉しもうとしてた
 藁を葺くひともないふるさとの、大聖堂
 そいつは父のつくりあげた家という夢の汚物
 そいつは父のつくりあげた家族という夢のむくろ
 おれはどうしたわけか、いまだに猫の跫音ってやつを聴いたことがない
 そうか、きみもそうだったか
 どうりでソフトがあまりにも、
 青い

 

 神戸市北区道場町字南山にて、
 あるいは生野高原にて、
 またあるいは旧宝塚温泉団地にて、
 冬の根を掘る
 あたらしい家が
 あまりにも多すぎる
 かつてゆうじんだったひとびとの家を過ぎる
 おそらく愛なるものが生まれるのはその肉体が腐敗を拒絶した一瞬
 どうりでおれには愛がない、
 ずっと腐敗と滅亡を受け入れ、
 為す術もなかったんだから

 

 「カセドラル再訪」っていう短篇をいつか書こうとおもってる
 おれはかつての姉の室で不眠の夜を過ごしながら、
 たったひとつのおもいに凭れかかる
 さようなら大聖堂よ 
 さようなら人形の家よ
 ここにはだれも棲むことはできない
 だれも憩うことができない
 きみはいまどうしているだろう
 麦色の手袋をしてハンドルを握ってるのか、
 はたまたきみ自身の大聖堂をつくりあげようと銀色の梁を掲げてるのか
 去っていくものがあまりにも多すぎる
 棄てられてしまったものがあまりにも多すぎる
 シアン化合渓谷を抜け、
 二丁拳銃を降ろせば、
 経験と、
 北半球のノートをたずさえて、
 あしたから、おれはきみのなかにもどってくるよ。 

 

When you're growing up in a small town

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   *


 卑語にさえたじろがないきみの眼に見つめられつつ過ぎる葦原


 日本語の孤愁へひとり残されて犀星の詩を口遊むのみ


 再会を遠く夢見て老いてゆくいっぴきのわれ死せるその日よ

 
 「ふるさとは遠きにありておもうもの」ひとり立証せし一夜

 
 死せし犬縄の終わりにぶら下がる父という名の未完の建築


 唾するわがふるさとの地平にて溶接棒の光りは眩し


 芒原ひろがる土地にかつてまだきみの棲む家まぶたへ映ずる

 
 ひとり残らず幼友だちを喪い回想のなか楔打つのみ


 枯稿というものを識らずに沈々と更け入る夜の思慕のひとひら


 ナミダという海に溺れてしまえれば片恋地獄も凪ぎてゆくのか


   *


 だれもない待合室で草臥れて猶ひと恋し鰥夫の失意


 つなぐ手のなきまま暮れる人生が回転木馬を追い越してゆく


 暮れる冬窓いっせいに青々と竈がまわり子供がまわる


 黙するは一語の和解なきままに朽ちて腐るるわが家の窓だ


 いまさらに過古をば悔やみ果つる月祐子のための音楽つくる


 いつかまた会えたらいいと懐かしみわれ中年の階に坐す


 きみのようになれまいと羽根棄てるみどりのからすにぼくはなりたい

 
 おもいでのなかのユウコの笑みをただ初冬の夜の鍋に匿う


 初雪はまたかと丘を馳せくだるような跫音祐子のように


 いたずらっぽく微笑む祐子おもいだすたとえぼくなどきらわれようと


   *


 いままさに死ぬるからすのかげ翳めいっぽんの木を伐り終えるなり


 火の記憶遠く遠くをたなびいて罰のふたたび降りるを待てり


 まじないのようにぼく追う過古たちのなかから祐子だけが愛しい


 一篇のブルーズみたく語られる苦い二度めの恋の風景


 心臓のような柘榴の実を囓り幼きときのみずからを抱く


 枯れし河測量人の跫音を石が呑みまた朝靄が呑む


 いまいちどわたしのなまえ口にする遅れて笑うかれのよこがお


 わたしという雪のなかにて横たわるかれの死后さえどうでもいいの


 未明にてわたしのなかを通過する貨物のなかのかれの愚かさ


 子供靴サービスエリアに残されて発見するも持ち主不明


   *


 冬花火──川縁に立つ子供らの一瞬ぼくを怪しむまなこ

  
 冬瓜のあばらに雨の垂れるままわたしなるものわずかに忘る


 腐食せし鉄骨あまた土地に立つふるさとの門閉じて帰らん


 風船飛ぶ──そのおもてに顔写し戯れているわたしの過古よ


 懐いだすつかのまかれの顔昏しわたしのなかでふと見喪う


 ちいさな町のなかでカメラを構えてはあたらしきものすべて妬まん

 
 午后の陽のなかで妬心はふくれたるたとえばかつてのゆうじんの家

 
 男たちと歩くかの女に焦がれては両切り莨ひとり咥える


 懐かしきわが家などなし忌まわしきときの地平を見渡すばかり


 にんげんの家なるものを遠ざかる父の建築依存症かな


   *


 隣人のふるさとばかり懐かしむわが魂しいの餓えを飛ぶかげ

 
 砕かれて猶土に還れず散らばるる浴室のタイルの水色を視る


 赤インゲンの罐づめひとつ転がして休日の陽の明きを憾む

 
 オリーブの実にて憩える金曜の傾く梁よおれを吊せよ


 充ちがたき願いのあまた星蝕のすべて吸われ消えてしまえよ


 殺意さえおもいでならん河下の鉄砲岩に拳を当てる


 フェンスにて眠るものありカメラ持つわれに気づいて走る野禽は

 
 空腹と孤立の抱く茨しかぼくにはないという現象学


 零る陽のもとを夜勤の道すがら仰ぎ見てしばし歌えり


 霜ぐもり枯れ木のうえを瞬いて自己という名の虚構を照らす


   *


 ひとの名を忘るしもつき机上にてミニカーいちだい消息を絶つ
 
 
 安物のファルファッレを茹でながら架空の対話をひとりめぐらす


 明けぬ夜の銀河のほとり蒸気吹く機関車ひとり月を見あぐる


 指ふたつ万年筆を弄びかつてのきみのおもかげを描く


 トマト罐放ちつつあり琺瑯の鍋につぶやくかつての片恋


 ともだちがいないことなど忘れたき芒原にてギターに触れる

 
 黄昏れていてはいけない──告げてただ町へとつづく灯りたちかな


 分光器かざして見つむきみがいた町のむこうの山の頂き


 車窓見る過古からやがて現在へ失せていくのみわたしの初潮

 
 頭蓋にてこぶしの花を咲かせたく獄中日記土に埋める


   *

  
 在りし日の祐子をおもうぼくひとり若白髪を数えてばかり


 青む眼の一羽が鳴らす鉄の檻ぼくは外套着て匿うさ


 空というものの対義語探したる少女のせつなぽっかり暮れる

 
 成長をするってことの淋しさを小さな町に棄てて来たりし


 おもいおもいめぐらして姉たちのささやかなるあらがいを識る


 われを憎む妹たちの夕月を洗面器にて保存し眺む


 単葉機模型となれば天井の月へむかって哀歌を刻む


 やわらかきまなざしばかり祐子のためにぬいぐるみをば贈った過古よ


 写真とは記録に過ぎぬ大道の視点を犬がゆっくりと過ぐ


 葡萄の木枯れながら蔦壁を這いわれのかげにて実る黒さよ


   *


 師走にてひとりの友を葬れし夢を見るわが旅枕あり


 茎嚼めばカンナの非情充つるまま鉄道貨車に惹かれてしまう


 冬の根を掘るわれいまだ男という容れものにただ弄ばれる


 過古という土地に娼館ありやなしや密航いまだ叶わぬもの


 火柱を跨ぐ少女のおもざしに訪れる冬あまりに白く


 愛語なく昏くなりたる室もはや孤独に甘えられずいて

 
 鉈ふるう老夫溶暗せし夕餉憶えたばかりのガンボを喰らう


 好きだったかの女のかげを求めては片恋図録の封印を解く


 たったひとり投宿せしが夜ふけにて魚石の光るを見て逃亡す

 
 中古るの産着の襞浮かぶ埃まみれの窓が明けゆく


   *


 「くちびるが厚ければ情も篤し」老ゲイ・ボーイのまなざしやさし

 
 遠ざかる夏よ誕生石を砕きたく宝石店のルビーを見つむ


 友引とからめてひとり鍵穴の無人のむこう少年が凝視る


 ぼくという冬硝子に投影すきみという名の夕がすみ欲し


 天使とて淪落せしが陸に立ちスコッチ片手喰う氷頭


 肉体が腐敗を免れようとあらがうときに初めて愛というものがある
 

 隆一の最后の詩集捲るとき梨の畝へと光り差したり
 

 愚者たるに楽園あらず運河にて孤舟の櫂をゆらす星暦


 水雲の呼吸の果てにとりこまれ帰るところを持てないぼくら


 エラスムス不在のときに訪れて神を説かるる淋しき寒帯


   *


 アルコールに蝕まれてギターすらも弾けず羽化登仙の少女を求む

 
 鳥語のみ教授し給う人類学者人語の解読いまだならんか

 
 冬の蟻よじ登りたりもの干しの子供の靴にむくろとなりぬ


 幼年のさみしさおもうロッカーのなかに他人の翅隠したり


 抽撰器しわすの町に運ばれて運命以前の籤の悪名


 銀匂うくるわてっと手に歩く松本隆の生き霊を見し


 うしろ髪なびくかの女のまぼろしを花色として素描せしかな


 かのひとのおもかげばかり午に見る名画のようなおぼろの残象

 
 呼び声もなきままひとり立ちあがり月光の最終列車を待てり


 雪女まだ来ぬ夜の門地にてかの女の科白ふと口遊む


   *

 
 やがて来ん冬のあぎとに繋がるる星蝕のたび消えるわたしは


 胎動期迎えつつありひとびとの顔を地下より照らすまなざし


 冬の畝──少年ひとり眠りいてけもののごとく横たわるなり


 聖家族さ迷う銀河われをただ見つけてくれる日を欲す


 われ統べる愁いよ故郷という二字を消さんとするに親指淋し


 靴磨く故郷の森を窯にくべ3小節のブルース唄う

 
 ひとり呑む月光液の青さにてかのひとばかりわれをいたぶる


 冬芝居はぶたい燃ゆる八日目の夜の舞台よ消えてしまえよ


 きみのために喃語すべて残したるぼくのうちにて眠る犬たち


 ふりかえる夢なきゆえに過古おもうきみの残した科白のなかで


   *


 窓のないそらいっぱいの夕雲を捧げるきみがどこにもいない


 葉脈を地図に見立ててアルルカンひとり辿って眠る日もあり


 玻璃を撃つ──青年ひとりわがうちを歩きさ迷いやがて冬なる 
  

 飛ぶ伽藍──翅はいつしか質札になり抵当流れ待つのみとなる


 玉葱の皮いちめんの床を見て母の出奔正しくおもう
 

 家族とは他人のはじめ──母のいう辞の蹟に踵を鳴らす 


 仄昏き「家庭の医学」──死後だれも病むことなきをわれ歓びぬ


 孤立にさえ厭くときありぬたとえれば雲路の果てに死ぬる流星


 黄昏のときを愉しく聴きておりいまさらながらぼくは淋しい


 犀流る河の最果て海という一語のためのくちづけが欲し


   *

 
 緑打つ露の玉にていっぱいのきみのおもざし透かし見るかな


 虹のなき冬の真午の雨あがり子供の声を慈しむのみ


 ポケットを突き抜けて指を冬館赤き煉瓦の計らいに灼く


 だまされて吊されながら人妻のまなざし熱く羊に挿れる


 待合のかげにかの女の幻を見て一瞬にたじろぐわれは


 無人機の離陸をモニター越しに見し幼年時代のぼくのかたわれ


 妹の変身雨後の林にてひとり隠れて見るは祝祭の夜


 天が散る午のかけらを隠しへと入れてふたたび無言電話す


 わがうちの小さな町の莨屋に灯り点れる永久の夕景


 叙景詩の小さな町よふるさとと呼ぶにふさわしからぬ貧しさよ


 幸福な青少年期なきがゆえにひとりの月へ梯子を渡す

   *

 


Lou Reed & John Cale - Small Town 

 

SEALDsと居酒屋甲子園と感動ポルノ


 3年まえのある夜だった。わたしは瘋癲病院にいた。通算7回めである。本を読んでいた。ロバート・キヨサキのベストセラー本だ。「貧乏父さん、金持ち父さん」である。大した本じゃない。テレビはうるさく、くだらないし、書くこともなく、ただ読んでいた。そこへテレビを観ていた初老のデブが声をかけて来た。──本読むの?──ええ。──大卒?──いいえ。──やつはそれきりなにもいわずにテレビにもどった。いったい、なにがいいたいんだ?──大量に産みだされる大卒=学士という資格にもはや価値などあるのだろうか。わたしは腹立ち紛れに大学論をおもいながら本を読んでいた。痛ましいことに教室や塾にいき、講師や教授のまえでしか学ぶということができない人種はたしかにいる。そしてそれが当然であり、そこから逸脱したものを平然と侮蔑するものもいるのだ。ただそれだけのことである。なにがいいたいのかといえば、なにもいいたくはない。
 ただ当代の漂流物としておもうのは、大量生産のおなじ顔がどんな階層でも幅を効かせているということである。いまやアウトサイダーとインサイダーを見分けることはできない。ポン中らしい髭面の若者にも、わたしが大卒ではないというや、「うそでしょ?」などとうすら笑いで返された。あるいは22歳のとき、自動車学校で「大卒以外とは話もしたくない」という男に出会したこともある。まったくばからしい話じゃないか。色眼鏡をかけたがる、戯けた大立て者たち。いまの大学すべてに入学と卒業の価値があるのか、わたしには疑問だ。人口比に於いて増えすぎているし、いまでは程度のひくい入学者のためにテーマパーク化したり、一般教養や礼儀作法を教えているという記事もある。なによりも不満なのは高等教育を受けながら議論や批評のひとつもできない抜け作が多いということだ。大卒の資格は決して倫理的模範になり得ていないことについてほとんどのひとは無智であるといっていい。しかもその資格はこの国に於いては更新されずに朽ちていくだけなのだ。それを如実に顕現させたのは昨今の学生運動だろう。われわれがなにひとつ進歩していないということを解らせてくれる現象だ。
 SEALDsとかAEQUITASとか、とにかくいろんななまえが乱舞したものだが、横文字で表せればなにものであるかのように感じているだけかも知れない。では「未来のための公共」はどうだろう。これもおかしななまえだ。いったい公共とはなにを指すのだろうか。公共心か、公共性か。いまひとつイメージが湧かない。それはかれらの曖昧な論理に随行しているようにも感じられる。かれらかの女らには批評能力も自己分析能力もあるようには見えない。あるのは情緒であって、それ以上には止揚しない。とあるレーベルがかれらかの女らのドキュメタリー映画「わたしたちの自由について」を販売していたが、その惹句や予告篇はまるで「一夏のおもいで」とでも形容するしかないようなものだった。反戦反核も反改憲もあらゆるものが過古でしかないのである。議論や定義づけを識らず、また批判精神もない。外部から突っ込まれれば口汚く開き直るだけ。それで以て高等教育の最中にいるのだから、救いようがない。
 数年まえ、「家賃を下げろ」というデモの記事を見た。デモが行われたのは新宿である。知性があるとはとてもおもえない。わたしの若い知人は中野駅のそばに棲んでいるが、共同便所、風呂なし、四畳半を2万で暮らしている。さすがにそれは極端な話だが、探せばあるのだ。それに生活保護だってある。もちろん、困窮にある学生にはそれなりの手当てがあって然るべきとはおもう。しかしそれを新宿の街頭で叫んだところでなににもならない。ただのガス抜きで終わるのが眼に見えている。せめて「緊縮財政反対」や「通貨発行権を国に」を叫んで財務省日本銀行なんかを囲ったほうがよかったのではないか。
 《指導者が戦略も方法も持たない反体制の運動は、大衆をいら立たせるだけだ》──かつて寺山修司は自伝的エッセイ「悲しき口笛」のなかで語っている。おなじように「デモじゃ世の中は変わらない」とも。そして政治が変革しうるのはほんの部分であって、家出や大学解体の可能性を岸上大作に話したといい、かれの死について《そこには甘えがって、ほんもののニヒリズムに欠けていた》としている。デモは所詮、自己完結したぺらぺらのロマンでしかない。数の増大とその陶酔感、そして派手でパフォーマンスとかりそめの結束感、そういったものに骨抜きにされてしまうひとびとには社会を変えることなど、ましてやじぶんを変えることもできないだろう。わたしにはかれらと「居酒屋甲子園」の区別がつかない。それはけっきょく感動やら情緒やらの押し売りであって、もはや政治でもなんでもないのだ。依頼心を以てして運動や既成の政治屋どもに将来を仮託しているに過ぎない。内田樹にしろ、詩人の谷内修三にしろ、立場を持った「大人」たちが若者の情動をさも実存のある運動と呼んでいるのは、あまりに情けないことである。かれらは文学の辞と政治の辞のちがいがわからないどころか、情緒と論理の区別すらついていないのではないのか。そうおもわずにはいられない。かれらがやっているのは所謂「感動ポルノ」であり、ひとの心のすきまを狙った賤しい商売でしかない。たしかに大勢が集まってひとつの声を成すのは気分がいいだろう。けれどもその先がない。野党連合もけっきょく意見形成のための議論をせず、ただただ時流と雰囲気だけで終わった。学生たちも情動が意見に先行しており、おなじように議論を避け、行為だけが残ってしまった。
 既成の権威を払いのけて議論を尽くし、声をあげるというのならわかる。しかし、かれらかの女らは組織や
集団のなかに紛れてしまい、議論どころか肉声さえも匿ってしまった。そして対抗馬が次々と自壊するなか、安倍政権だけがいまも健在でありつづけ、さらなる緊縮と増税が待っている。国会中継はまるでフェイントだらけのラフ・プレイに見えてしまう。反則もないかわりに鮮やかなK・Oやカウンターすら拝むことはできない。まるであらかじめ筋が決まっているようにしか見えない。わたしは以前、「日本語には対等という概念が存在しない」というような言説を見たことがある。「おまえは下、おれは上」、その構造に沿ってものが語られ、過ぎ去っていく。こうした言語学的問題を意識において話せる人間がいなければ、これからもずっと情緒の垂れ流しは終わらないだろう。
 そういえば数ヶ月まえ、わたしは「ザ・議論」という小林よしのり井上達夫の対談を読んだ。小林の口絵で大きくミス・リードされているが、基本として井上がカウンターを打ち、それを小林が避けようとするだけの本だった。小林は天皇制やAKBの話になると嬰退的かつロマンチシズムに濡れてしまうくせに、天皇制やAKBやパチンコが批判の的になると、それを嬰退的なもの、あるいは奇麗事ととして片づけてしまう悪癖がある。いわば情緒を情緒で排撃しているのだ。わたしからすれば天皇制もAKBもパチンコも、ひとの心の弱みにつけ込んでいる悪しき被造物、悪しき商法に他ならない。神聖なるもの、熱中できるのものを求めるのはいい。しかし、そのために天皇家から基本的人権を奪い、少女たちに危険と背徳を負わせ、射幸心を煽り、精神的・経済的畸形を大量生産することにわたしは与しない、否をいう。そのためには議論が必要であるし、大学というものの解体を含めて可能性を探ることだ。
 つい先日のこと、わたしは作業所にむかって廊下を歩いていた。ある扉にこう書かれてあった、「介護甲子園」──これほど強烈な皮肉がほかにあるだろうか。苦味を舌にとどめ、わたしは作業に入った。またもドラッグストアの商品画像置き換えのために。

 

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