みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

ダン・ファンテ「天使はポケットに何も持っていない」1998年

ダン・ファンテ「天使はポケットに何も持っていない」1998年

Dan Fante - "Chump Change" Sun dog Press '1998

 

天使はポケットに何も持っていない (Modern&Classic)

天使はポケットに何も持っていない (Modern&Classic)

 
Chump Change: A Novel

Chump Change: A Novel

 

 


  人生が俺に愛想をつかしてしまったのだ。


 おれがアルコール中毒と診断されてひさしい。'10年の3月、西成区萩之茶屋──通称釜ヶ崎でおれは喰いつめてた。というのも去る年の暮れ、おれは羽曳野市にある丹比荘病院精神科を追いだされ、西成区役所の精神保健福祉に助けを求めた。相談員は少しばかり理解を示し、いっときはアルコール症専門病院への提案もなされたが、CWが父に電話をかけ、おれは実家に帰ることになった。年明け、ひとり息子に無理解な父からの厳命で、仕事をみつけた。ひとつはシャンプーだかの箱詰め、もうひとつはヤマト運輸の仕分けだ。防寒着もないなか、ふるいカブに乗って仕事へいく。おれは堪りかねて金を少し借りた。それで上津台のイオン・モールへいき、アウトレット品のダウンを買った。深緑の、なかなかいいやつだった。
 そいつを着て家に帰る。親父がいった。──給料でたんなら金を寄越せ。そんなものを買う金があるのなら、全額寄越せ。さもなくばでていけ!──おれはでていき、さらに金を借りて、大阪へいった。安宿に泊まりながら、仕事を探そうとした。出会い系のサクラや、ポルノ男優、挙句はゲイ専門の酒場──エイズに関するパンフレットが大量に置いてあり、黒い寝台つきの面接室を慌てて逃げた。けっきょく仕事は見つからず、おれは酒を呑み、金を減らし、身体を毀した。ひどい痛風で足は浮腫み、股関節まで激痛に魘された。冬は春になった。ふたたびおれは西成区役所の精神保健福祉に助けを求めた。今度は病院行きが決まった。入院予定日まで安宿に待機して、それから和泉までいった。
 迎えた病院のCWはおなじ苗字の、なかなかきれいな女だった。おれはいった、──おれはアルコール中毒だと。かの女はいった、──じぶんでそう認めるひとは珍しいと。おれは二ヶ月、その病院にいき、そのあいだ二回も院内飲酒で捕まって牢屋へと入れられた。懲罰的手段。おかしなことにその病院の本棚には「自由こそ治療だ―イタリア精神病院解体のレポート」という本や、カーヴァーの「英雄を謳うまい」があったっけ。おれは別の病院へ移されるまえに図書館で借りた本を読もうとした。すると、看護人がいった、──それをきょう返しに行くと。おれはいった、──だってまだ数日ここにいるじゃないか。やつは容赦しなかった。その本はダン・ファンテという男が書いたもので、主人公もアル中だった。
 おれがはじめてその本を見たのは三田図書館でのことだった。いつのことかは憶えていない。ただそこによくいった。特に週末は。朝の6時から親父が作業を始めてた。草刈り、家の改築、車のタイヤ交換、間伐、穴掘り、──いつもいつもなにかやってた。おれはそいつに狩りだされるのが幼少からいやだった。休みの日は寝ていたい。なぜ姉や妹たちのようにのんびり過ごせないのか。おれは父の命令が下るまえに、カブで走りだした。そして図書館で過ごした。父親がいかに厄介な存在であるかをおれは痛いほど知ってる。敬意などいうものが、ただの屁でしかないと知ったときの虚無感。あるいは燃えながら立ついっぽんの枇杷の木。おれは本を読むことでなんとか、みずからの分岐しつづける感情に整合性を与えようと、文脈を与えようと四苦八苦してた。夜に帰れば父から罵られ、異分子としてしか存在できない自身を呪った。なにもかもが索漠とした過古の夢や願いのなかで滅び、そもそも家族との相互理解や語らいなどはじめからないということに痛めつけられてた。
 いつか断酒体験の合宿のとき、おれはみなのまえでいった。「付随する問題の大小にかかわらず、依存症は依存症である」と。医者や看護人たちはその科白を歓迎した。でもいった当人にはそれがただのでっちあげで、その意味がわかってなかった。付随する問題は年々大きなり、ついには破滅した。

 

 ダン・ファンテの父は、ジョン・ファンテだ。イタリア移民の2世として生を享け、コロラドの田舎からわずかな金で、カリフォリニアへ。「偉大なる」作家を志した。小説作品「デイゴ・レッド」、「バンディーニ家よ、春を待て」、「満ちてる生」、「塵に訊け!」を生みだした。そののちに映画業界へ流れ、作家の夢は喪われていった。晩年は糖尿病を患い、腕も足も切り落とされた。やがて盲い、妻の手によって最后の作品「バンカーヒルの夢」を著した。ダンはまるで父の人生から喪われ、抜け落ちてしまった夢を拾うみたいに小説を、詩を、戯曲を書いた。そして'15年に'71歳で死んだ。
 小説「天使はポケットに何も持っていない」は、父が危篤に陥り、その息子が精神病棟から退院したところで幕を開ける。主人公ブルーノ・ダンテの好物は、酒精強化ワイン「マッドドッグ20-20」。幸いなことにこの銘柄は日本に輸入されてはいない。だから主人公のまねをしてるうちにアル中になって、ステーキナイフを腹に突っ込むこともない。ブルーノは、危篤の報せを受け、離婚寸前の妻とともにニューヨークから故郷ロサンゼルスへ飛び立つ。機内でマスを掻いたり、病院では待合室の他人を撲り飛ばしたり、酒によってむちゃくちゃをやる。ブルーノは父の愛犬ブルテリアロッコと出逢い、次第にその犬に愛着らしいものを抱く。父の死を看取ったあと、ブルーノは犬とともに弟の車に乗り、妻のクレジットカードを持って放浪にでかける。 その途上で出会う吃りの少女エイミー、かの女は淫売だ。やせっぽちで魅力はないとブルーノはいう。それでもなぜかふたりは逃避行じみたひとときを過ごす。父の葬儀をあとにしてブルーノは中古車屋でダークブルーのダートを買う。そしてエイミーとのいざこざ。

 

 「あんたが悪いのよ! あ、あんたは親父さんに愛されてたのに、そ、その愛し方が気に入らないって、親父さんまで、や、やっつけてしまったのよ!」

 

 ロッコの病状がわるくなっていくなか、ブルーノは求人からセールスの仕事をみつける。ロッコをどうするか、金が少なくなっていくなか、どうやりこなすか。面接を終えてモーテルにもどると、エイミーはいなくなってた。詩のような書き置きを残して。
 ブルーノは金持ち女にデート相手をセールスする。酔っ払いの大女相手にだ。かの女と契約を結び、一戦を交える。その翌日、ブルーノは父の夢を見、父の存在や死についてあらためて考える。《俺は父を愛していながら、そのことにまったく気づいていなかった》。おれは親父を愛してはないだろうし、これからもおなじことだ。精神病理を抱えたわが家系について、いまや憎しみすらもない。祖父はアル中の乱暴者で、父はアダルトチルドレンだろうし、おれに至っては自閉症だ。家庭を維持さえしてればそれでよかった前時代とはちがい、いまやひとりひとりが負わなければいけない領域はどんどん拡大してる。よき労働者、よき父親、よき男、そんなものを呼称されるぐらいならおれは遁世したほうがましだと半分おもってる。もう半分は過ぎ去った価値観への憐れみだけだ。おれはいつになったくそくだらない男像や、父親像から脱却できるのか。それはけっきょくおれが男になるしかないだろう。父親になるしかないだろう。不在の過古から、実存の現実へと突っ切ってしまわないかぎりは、幻想は幻想のまんまだ。どこまでもつきまとう。
 ふとブルーノは高校時代に「ブルックリン最終出口」を買った古本屋をおもいだして車を走らせる。その店で父の書いた「風に訊け」と再会する。古本屋でのくだり、店員とのやりとりは物語の、ちょっとしたヤマで、心を奮ってくれる。父親との擬似的な再会がブルーノになにを齎したのかがわかるのは、もう少しばかりあとのことだ。やつは契約した大女ミセス・クーパーに、スペイン男ふたりをあてがわせた。

 

 おれにだって本はだせたかもしれない。父はそれを成し遂げていた。どうしておれはだせなかったのか? それはおれがあっさりと諦めてしまい、とことん失敗して転落していくだけの勇気をまったく持ち合わせていなかっただけだ。親父は死んでしまい、おれもまた死んでしまった。悲しみと真実だけがおれの魂に宿ってる。

 

 ブルーノはけっきょくセールをやめた。上司のバークハートとはうまくやりおおせた。作家、そして詩人として生きる決心をつけ、車をだす。ロッコはもはや瀕死だった。金も乏しいなか、医者に診せ、アルコールの離脱症状に呻吟する。そしてキャンディーバーを喰いながら、その糖分でアルコールを我慢しながら、一篇の詩を書く。LAについての詩だ。《おれは父親のためにこの詩を書いたのだ。もっと書こうとじぶんに誓いを立てた》。
 おれはいぜんに書いたふたつの小説のなかで主人公に詩を書かせてる。もちろんのこと、そいつはこっからのイタダキだった。この作品は、過度に感情的で、情熱のある眼差しが読み手と語り手をひとつにさせる。清濁併せ呑み、憎愛を込めて、故郷の街を、家族を、かつての夢=文学を描き切った傑作の長篇だ。アルコールの問題を当事者から描くという面でも、もちろんぶちっぎりで、ダンがどうして酒も薬も断ち切って創作の世界に没入できたかがわかってくる。

 おれはといえば、このまえ10日のあいだ禁酒しただけだ。軽く膵炎を起し、酒をやめると誓った。けれども仕事にありつき、金がでると呑んでしまった。ただただかつてよりも狡猾で、計画的な呑み方が身についたというだけである。おれはけっきょく和泉の病院も追われ、転院したあと、西成の救貧院へ流れた。そこで1年。またも酒がばれ、故郷に帰された。そして小説を書き、’11年の秋、ようやくこの町に来たというわけだ。そしてもうじきこの町をでるというわけだ。
 近年、ジョン・ファンテ作品の再評価が目覚ましいが、ダンの作品ももっと知られて欲しい。いつだったか、books Curliesの店長にこの本を紹介したら、「ブコウスキーよりもこっちのほうが好み」といってた。しかし残念ながら絶版のため、入荷できないということだった。お行儀のよい文学にはうんざりだというやつらには、この本がなかなかよい選択肢ではないかとおもってる。ちなみに映画化されるという話を聞いたが、ブコウスキーの「ハム・オン・ライ」同様、たいした情報は出てこなかった。詩集については一冊持ってる。いつか翻訳してやろうとおもってる。──じゃあな。田舎の親御さんによろしく伝えておいてくれ!

 

Kissed by a Fat Waitress: New Poems

Kissed by a Fat Waitress: New Poems

 

 


Made in Fante, portrait de Dan Fante écrivain - Documentaire  

愛と人道の裏側で──ぞく・山下晴代に寄せて

だまされた気分はいかがですか?──山下晴代氏へ

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=331209&filter=cat&from=menu_c.php

 

 「大衆の天賦の才」という詩でハンク・ブコウスキーがいっているように《憎しみにもっとも長けているのは愛を説くもの》というわけだ。これがぜんぶだ。わたしは長い悶着をやった。ひどいやりとりで、相手がたしかな悪意を持ってこちらを傷つけようとしてた。性別でものをいうのは現代にそぐわないが、女を敵にまわして長生きはできないというのはその通りだ。しかも還暦で、「アベ政治を許さない」詩人の妻で、人道問題に入れ揚げる自己愛性人格障碍者には。人格障碍には病識がない。本人は自身が病気だということに気づいていない。だからなにをいってもむだだ。しかもたちのわるいことに社会生活がうまくいっていれば周囲の人間も疑いを持たない。だがネット上になると恐ろしく凶暴になる人間もいる。あるいは社会的地位の低い相手に対して冷酷になるのもいる。
 わたしが問題にしたのは、SNSでのわたしの投稿に対して行われた言動についてのみだ。だというのにむこうは話を拡散しつづけるので、こちらとしてもいったいなにについて論じているのかがわからなくなっていく。単純化すれば、かの女は根幹の問いに答えられない。だから枝葉が多くなる。以下のようにかの女の非難対象は上下左右にスライドしていくのである。まっとうな話なんか通じるわけがない。倫理の欠如そのものだ。

 

  →希死念慮
  →ひとびとを騙そうとしてる
  →公共のため
  →600万人の障碍者が迷惑する
  →教育課程あるいは水準へ揶揄・誹謗
  →じぶんが善意で書いた詩集評を無断でツイートした、利用した
  →谷内修三と婚姻関係にあること無断で暴いた
  →4,5年まえの書き込み(現在残っていない情報)を基にした憶測や非難
  →あなたの言動は殺人と同等
  →ひとと喧嘩して逮捕された
  →現在居住している部屋に(親の支援があって入居した、風呂つきか否かなど)
  →童話作家森忠明の発言(指摘にあるような発言「サカキバラより危ないやつだ」は存在しない)や作家として認知度や経歴を誹謗
  →同情を利用して作品を買わせている(なまえの挙げられたのはたったひとり)
  →言葉の誤用や意味のまちがい、ミス・スペルの類い
  →wikipediaにじぶんのページをじぶんでつくってる
  →態度、上から目線
  →そもそもあなたに関心はない、どうでもいい

 

 あとは「頭が悪い」とか「ばか」とか「小中学校もいってない」といった煽り文句を飛ばすだけだった。知性のかけらもない。終盤は過古について「いった、絶対にいった」の強弁。まるで最近の国会じゃないか。正義の天下り官僚と独裁政権のそれである。記録にも残っていない発言について糾弾された。正直、気持ちがわるくなってしまった。たんに相手を疲弊させるといった点ではうまいが、論点がつねに移動していてなにを目的としているのかはわからない。これを女性特有のものといいたい欲求にかられるが、それは禁じ手だ。わたしが主張してきたのは大まかにいって下記の通り。

 

  ・わたしの投稿を共有したうえで嘲笑的なことを書くことへの異議
  ・わたしは同情を引いてひとを騙そうとしていない
  ・山下のブログに書かれてあるわたしについての記述に事実とちがう部分がある(親の支援、喧嘩、職なし)
  ・上記についての訂正あるいは削除

 

 かの女が遠くの絶対的弱者──そういえばおまえはロヒンギャ族を知らないだろうともいわれた──などを偏愛する一方、近くの人間に対しては憎悪で塗り固めている。対象がじぶんより弱くなければ、そして正しくなければ許容できないのかもしれない。かの女のタイムラインでは海外の動物愛護、人権問題の記事や動画が共有されるいっぽう、大きな文字で他人のことをいぎたなく罵っている、嘲っているものもある。かの女の友人たちやフォロワーたちはいったいなにをおもっているのか。その落差が魅力なのか。わたしやほかのひとに対する陰口に「いいね!」をいつも押している人間がいる。ぞっとしてしまう。
 今村征一(石川県で俳句をやっている70過ぎの男。@saigawatedori)、今井義行(神奈川県の詩を書いている男。@swrd21)、橋本正秀(70代ぐらいの男)、津田直樹(宇都宮市の30代らしい男)とか渡辺信雄(「ひょうご・こどもの詩と絵」編集とある)、二宮清隆(日本詩人会、埼玉市詩人会、小樽詩話会、旭川市)。流れや内容が読めているのか、それとも反射的な反応なのかはわからない。この男たちはなにを考えているのか。
 わたしはいちおう和解案として下記の書き込みをした。

 

あなたがわたしについての発言やブログの記述を削除するのなら、わたしもあなたについての発言やブログの記事を削除します。今后あなたがわたしに言及しないのなら、わたしも言及しません。

 

 しかしかの女はわたしの提案には反応しなかった。それどころか、終結宣言後にページを一時閉鎖し、じぶんにとって都合のわるいコメントを削除した。山下晴代が他人の投稿を穢すのはまっとうで、おなじようにやるのはそうではないということだ。今后もかの女は装飾品のように世界的な悲劇をまとい、気に入らない他者を一方的に非難しては勝利者を気取るだろう。それはどうしようもない。またなにかお気に召さなければ、わたしにむかって吠えるだろう。相手にしなければいいだけだ。かの女は社会的に成功している病者で、わたしは成功はしないまでも病から恢復しつつある病者だ。場外乱闘を演じているわけにいかない。年寄りの見当狂いな正義のために若いとはいいがたいが、わたしの労力と時間を遣うわけにはいかない。──と、ここまで書いてもう一度山下のタイムラインを確かめると、長々とやりあった投稿欄をまるごと削除してしまっていた。しかしだからといってわたしに関連するものがないというわけではない。自身の一方的な文言は健在で、

 

 管見によれば、「障害」ではなく、「義務教育」の欠如の問題。

 

 中田某氏に同情している人々が、騙されないのが目的であって、氏にはまったく関心ないので、これで終わりします。

 

 どーでもいいですけど、「当時」は、親切にあげたと思いますが。

 

 自分はどんなことを言われてもなんとも思いません。そういう訓練をしてきたからです。世間の人々のために動きます。今回は、善意の人々のため。

 

何者でもないからバカをケナしているとか、自分は何を言われてもなんとも思わないです。ほめられたいと思ったことは一度もないからです。

 
 じぶんはなにをいわれてもなんともおもわないからといって他人になにをいっても赦されるわけではない。結論をいってしまえば、こういったひとは「謝ったら死ぬ病気」なのだ。だから本筋とは関係ないところで相手を非難したりする。いくつもの例外や過古を現在形で量産し、相手を疲弊させ、痛めつける。わたしのように自己愛の足りないものにとってはかの女の言動は凶器以外のではない。偏愛は憎悪の裏返しでしかない。それを認識させることはできない。ネット上には珍しくない。こういったひとびとは、わたしのような人間が発言するとき、それが論理的にどうか、倫理的にどうかといったことに悩んでしまうのを無意識に見抜いている。そういった躊躇うを狙い撃ちしているのだ。以下にチェック・リストを残す。それに当てはまる人間とははなれたほうがいい。


  日常的にSNSで人道や動物愛護について発信あるいは共有している
  日常的に散文を書いているが文章は論理よりも感情が優先する
  国内問題に関心が薄くか皆無、反して海外問題に対して関心が非常に高い
  自身を絶対的上位に置いている
  極端な賛美や偏愛のいっぽう他人を攻撃する
  攻撃相手に嘲笑的で対等にはならない
  相手の倫理、道徳、思想信条、教育水準といったものを断罪するか嘲笑する傾向
  上記を根拠に差別に満ちた発言もするが本人としてはそれが正義
  弱者=正義(しかし同国人は例外)
  進歩的文化人あるいはサロンの住人
  自身の自慢は肯定、他者のは仲間以外は否定
  他者の批判を赦さない
  女で犬好き

 

 じゅあな、安らかに眠ろう。

 

自己愛性パーソナリティ障害のことがよくわかる本 (健康ライブラリーイラスト版)

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パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)

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素足の心理療法 (始まりの本)

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文庫 他人を支配したがる人たち (草思社文庫)

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良心をもたない人たち (草思社文庫)

良心をもたない人たち (草思社文庫)

 
ナフ川の向こうに―バングラデシュで生き抜くロヒンギャ民族

ナフ川の向こうに―バングラデシュで生き抜くロヒンギャ民族

 

 追記:09/13

 

この一件をもとねたにして短篇を書こうなどとおもってた。けれどそれはちっぽけな争いごとを愉しんでしまう、わたしのばかげた習性の発露にしかならないのでやめておいた。

けっきょく山下氏がわたしのアカウントをブロックすることで決着がついたようだった。かの女はわたしについて追加に言及せず、いまもおなじような散文を書いてる。批評もどき、詩もどき、そして慈善もどき。

 

松下育男氏のページに辿りついてしまったら、すでにブロックされていました。どちらがストーカーだ?と思いました。https://twitter.com/kumogakure/status/889942728200421376

 

あいもかわず、かの女はユダヤ人やアフリカ難民、シリア難民、ロヒンギャを引き合いに出して、他者を断罪する。しかしとわたしはおもう。かれらは他者への断罪や不幸の相対化のための道具として引き合いにだされることを喜ぶだろうかと。

かの女はいまだにわたしについてのブログの記述を改めようとしない。そして「プライバシーの侵害」とかの女が指摘する、わたしの記述──谷内修三との婚姻関係について──を訴えるわけでもない。

ひとを痛いめに遭わすのは好きだが、その反対は許せないというわけだ。もちろんだれだってそうかもしれない。でも、それはおれの知ったこっちゃない。

チャールズ・ブコウスキー「勝手に生きろ!」1975年

チャールズ・ブコウスキー「勝手に生きろ!」河出文庫
Charles bukowski "factotum" Black Sparrow Press 1975

 

勝手に生きろ! (河出文庫)

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Factotum

Factotum

 

 


 おれがニューオリンズに着いたのは雨のなか、朝の五時だった。


 ホーボーというのか、流れものや渡りものの世界に必要なのは世界の広大さ、酷しさといったところか。おれ自身は大した放浪もしてない。せいぜい東京、静岡、愛知、滋賀、和歌山、大阪、そして兵庫県内をさまよっただけで、それも短いあいだのうちに終わってる。たやすく海を見ることができるこの国のなか、身を切り刻むみたいな移動や距離への執着をまとうのは、むずかしい。地理や物理的距離よりも心的なものが勝ってしまう。それがいいとか、わるいとかでなく。
 ロードムービーが好きだ。ヴェンダースにしてもジャームッシュにしても道の嶮しさや状況のわるさを、居心地のわるさを的確に捉えてる。あるいはハートリーの「はなしかわって」も移動する範囲はごくごくささやかでも、その最小限のなかで描かれるものが好きだ。

 ブコウスキーはいろんな人間が訳してて、いまは中川五郎がメインのようだ。おれは都甲幸治の訳文が好みだ。この物語は日米開戦以降から終戦直後あたりを描いてる。真珠湾攻撃のあと大学を中退し、徴兵も免除されたヘンリー・チナスキーは、さまざまな仕事に就き、アメリカ国内を移動しつづける。雑誌の発送作業、植字工の補助、線路工夫(短篇「愛せなければ通過せよ」にも描かれてる)、自動車部品の卸売店、地下鉄の広告貼り、犬のビスケット工場、婦人服の発送係、自転車の倉庫、自動車部品の問屋、マイアミの洋服屋、蛍光灯取付器具会社の発送係、新聞社の清掃人、ブレーキ部品の会社、画材屋の発送係、クリスマス用品の倉庫番、蛍光灯取付器具会社、ナショナル・ベーカリー・グッズ、サンズ・ホテルの荷降ろし。主な挿話として父との確執や、女との交わり──ローラとジャン、金持ちのウィルバー・オックスナード、競馬、作家への夢と野心が描かれる。そして端々に中産階級の労働倫理や精神的服従を強いる組織や集団への嫌悪が滲む。
 けっきょく人間は時間に敗北し、男は女に敗北する。賃労働によってなにかに打ち勝つということはなく、愛情の主導権を男が握ることは不可能なのだ。仕事にあぶれ、金を喪ったチナスキーは、あれほどじぶんにくっついてたジャンにも棄てられ、室を追われる。そして有り金をストリップに突っ込む。

  ’05年、ベント・ハーメルが監督した映画「酔いどれ詩人になるまえに」では時代は現代へ、場所は曖昧に描かれてる。決定的かつ根本的なちがいは、終盤でジャンに棄てられるのではなく、チナスキーがジャンに別れを切りだすところだ。DVD(廃盤)には未公開シーンが収録されてて、それを補完したディレクターズ版を期待させる。

 音楽はクリスティン・アスビョルンセン。OSTには劇中未使用が入ってる。おれの一押しはブコウスキーの詩「roll the dice」を基にした「If You're Going To Try」だ。DVDに比べれば入手はむずかしくはないだろうとおもう。ただ惜しむらしくはストリップ店内で流れてた音楽が入ってない。

 

           
Factotum OST Kristin Asbjornsen - 18. If You're Going To Try

 

 河出文庫での訳者解説では、クヌート・ハムスン「飢え」やジョン・ファンテ「塵に訊け!」が引き合いにだされてた。作者本人はイギリスの出版社からのインタビューに以下のように発言してる。

──今はどんな仕事をしてるの?
ブコウスキー 長篇の再構成。今度短篇集が出るんだが、書いてるうちに長篇とダブっちまったんで、ダブった章を取っ払った上でくっつけて、元通りにする作業をしてる。題はラテン語で『ファクトータム』と付けた。何でも屋、複数の仕事に就く人という意味だ。これまで経験したいろんな職業に就いて書いた。(中略)『パリ・ロンドン放浪記』が種本と言えるね。(以上、「ユリイカ 増頁特集 ブコウスキー」より「競馬代稼ぎ」インタビューより)

 

わかい時代を描いた詩篇を求めるなら次の2冊がいい。

 

Burning in Water, Drowning in Flame: Selected Poems 1955-1973

Burning in Water, Drowning in Flame: Selected Poems 1955-1973

 

 

The Days Run Away Like Wild Horses

The Days Run Away Like Wild Horses

 

 

夏の諍い──山下晴代氏との問題について

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 もうじき引っ越しだ。あとは引っ越し業者を決めるだけ。もうじき業者来るまえ、この文章をやっつけてしまおう。4万5千の物件から3万9千の物件へ。これから書くことは気持ちのいいものじゃない。大した意味もない。ただおれの靴についた虫かなんかについて言及する。

 数年まえ、'12-15年ぐらのこと。谷内修三の奥方の山下晴代氏と知り合ってなんどかやりとりした。といってもそれはみなfacebook上でのことで、いまや過古だ。'14の暮れから'15年はひどい精神疾患に悩まされてたし、無作法な言動のなか、けっきょくいまでは「友だち」ではない。何度かログインができずアカウントを作り直したさなか、むこうから切られてしまった。

 きのうの夜、日記の改変してfacebookに投稿した。もちろんのこと、ただおもいつきであって他意も意図もない。そうしたところ、朝には山下氏からコメントがつづってあった。

  

 

お金とヒマをもてあましている老人たちが目立つFBですが、こういう「若者」もいます。この人は、5年前か何年前か、かなり昔から知って、FBもやめたり、またやったりしているものだから、もう「友だち」にはなっていません。

しかし、こんな「若者」ができてしまったのは、親や世間が、甘やかしたからではないですか?

また「死ぬしかない」などという、「いつもの」切り札で、善良の人々の同情をひこうとしていたので、世の中のためにならないと、コメントしました。後学のためにご覧ください。

 

****

 

「拙コメント」

あなたの書き込みを初めて見かけた5年前だか何年前にも、「この秋には自死する」と書いていました。それから何度、「死ぬ」と書いていることか。いったい切り札を何枚持っているんですかね(笑)? たとえば、貧しい国の路上生活者の若者は、パソコンも待っていなければ、冷房付きのマンションにもいない。詩集だって出せないでしょう。私の大学時代よりはるかにいい暮らしは、おそらくは親御さんが多少の援助をしてくれているのでしょう。いつも世間への不満ばかりで、「ヘルパーの老婆」とは、なんたる言いぐさ。それに、あなたの「先生」とかいう人もいったいどういうつもりなのか? そして、ここを覗くかぎりは、支援してくれていた方々もいたはず。しかし、その人たちへの感謝の言葉もない。

あなたが初めて「死ぬ」と書いていたのは、二十代でした。まあ、おそらくあなたは絶対に死ねず、これ以上墜ちることができないところまで墜ちて、汚らしい老人になっていくことでしょう。そして、誰も同情してくれなくなる。

シリアなどの難民の子供たちがどれほど辛い目に合っているかなど、あなたの眼中にはなく、いつも「自分が、自分が、自分が」、自分ほど世界中で不幸な人間はいないと思っているみたいですね。

Facebookも、何回やめて、戻ってるんですか(笑)?
私は『新潮』8月号を批評した後半に、あなたのことを書いていますよ。朝吹眞理子という、あなたと同年齢の、おそらくはすべてに恵まれ、悠々と作家活動をしている作家と比較して。その人よりは、あなたの方が不幸だとは思いますがね。

 

 後学のためとはいったいどういうことだろう。そんな効果を持つような取り上げ方ではなかった。かの女がいうようにブログでわたしについて言及されてた。

 

『新潮 2017年 08 月号』──文芸誌の終わり(★) ( その他文学 ) - 山下晴代の「女はそれをがまんできない日記」 - Yahoo!ブログ


まったく同じトシの男性で、Facebookで、作品を発表し、かなりグレているやつを私は長い間「観察」(笑)してきが、才能はむしろ、その男に多くあると感じられるが、職もなく、しかし実家はそれなりに支えてくれているほど貧しくはないのだろうが、ケンカをしては豚箱に入り、精神病院にも入っていたようで、最近は念願の童貞も捨てたようだが、どーだろうー? 彼は、彼があこがれる無頼派作家、ブコウフスキーのように無事、才能のきらめきのなかで「夭折」できるだろうか? 

 

 すぐに調べればわかることも調べてない。わたしはFacebookで作品を発表してない。実家からの支援などない。わたしはバーテンの仕事を辞してから作業所や単発の派遣をしてる。喧嘩でブタ箱に入ったことはない。

 かの女の「友だち」から削除されたはずなのにこうして反応が帰って来る。本人としては「耳痛い意見」のつもりなのだろうが、それはお互いに信頼があってこそだ。これでは偏見と主観に基づいたマウンティングでしかない。以前にもわたしが図書コードを取得し、個人事業主の届け出を出した際、かの女からのメッセージがとどいた。《自主出版まら自己満足なのでISBNコードはいりません》とあった。そんなのことわざわざどうしてメッセージで送ってくるのか。わたしは適当に受け流した。
 ひとの書き込みを覗き見して、わざわざ反応を返してくる。わたしはそんなことを頼んだつもりはない。じぶんから縁を切っておいて接近してくるのがわからない。実際が「世の中のためにならない」というは建前や免罪符でしかなく、自身の感情を害するものをこき下ろし、仲間からの同意を得たいというだけでしかない。じつに不毛だ。
 わたしは自身の言動に問題ないとはいってない。むしろ多すぎるほど多い。それを解決するのにあがいてるだけだ。わたしは有能でも有望でもない。ただひとりでできることをやってるに過ぎない。
 じぶんの気に喰わないものには、無条件で断罪されるべきであり、どんな嘲りも赦されるというのがかの女の見解なのだろう。

 

ちょいと金があると、顔を直して句会三昧。その金を、難民の子供たちに寄付したら、もっと美しい顔になれるのに。

 

 こういったものを得意気になって書き込む神経をわたしはただしいとはおもわない。かの女は作家とはいえないし、ブロガーか? いったいなにを生業にしてるのかもわからない。谷内氏も才能や読みは大したことがない、読むべきものがない(だからこそ、よりによって九条護憲本なんかをだすのだろう)。ただいえるのは、味方になる気もないくせにわたしに馴れ馴れしくちょっかいをださないでくれってことだ。

 かの女はfacebook上にて頻繁に衝突を起すらしく、blogにおいては下記のように書いてる。 

 

数年前に奥さまがお亡くなりになったと書かれていたが、そのわりに、「配偶者の死」の前と後で、そのバブリーな書き込み(あの店にいった、これをごちそうになった、「会合の前にビールをいただいていった」(一杯ひっかけていってもOKな会合って、どんな会合だ?笑)、あれをもらった……てな書き込みばかり。

kumogakure.blog.so-net.ne.jp


 けっきょくかの女が問題にしているのは相手の倫理であって、それ以上ではない。SNS上で語ったことでどうして相手のすべてを決められるのか。そこに書かれてあるものがほんとうである保証もないし、そこに書かれてあるのがそのひとのすべてでもない。あくまで一断面に過ぎない。何倍にも拡大解釈し、あるいは曲解し、個人の心的領域まで土足で上がり込んで踏み荒らしている。そんな権利はだれにもない。


「辛い人生」と、あえて自分で言うか(笑)? それでは、シリア難民や、ユダヤ人絶滅収容所の生き残りは、どうなるのか? そういう辛い経験が、人をまっとうにするのではないのか?


 要は《世界的に報道される悲劇に較べれば、おまえの悲しみには価値はない》というわけだ。シリアやユダヤにやたら肩入れしているが、そんなものは自己満足に過ぎないし、それを持ってきて他者への攻撃に使用するのはまっとうなことではない。倫理や道徳、あるいは作法、言葉遣いについて意見をするのはわるいことではない。ただその目的のためなら、どんなことをいってもかまわないということにはならない。

 

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案   全文掲載

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー

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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」

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 もし最初の反応にわたしが平謝りするか、受け流してたら、ここまで拗れはしなかったとおもう。あまりの暑さでいまおもえばおかしかった。実際かの女としてもちょっと懲らしめてやろうぐらいだったのだろうけど、そいつを跳ね返したためにばかげたことになっちまった。かの女としてわたしに裏切られた、騙されたとおもってるのだろう。たしかにわたしはかの女の評価に値する人間ではなかったというわけだ。おそらくかつて評価をした相手が実は希死念慮を書かれた30男で、がっかりし、そいつを認めたことが羞恥になった挙句、件の投稿によって憤満が爆発しちまったんだろう。

 

 中田 あなたがなぜわたしの書き込みを観察しているのかがわからないですね。もっと精神栄養になるような存在がいるのではないですか。この「日記風」の語りには大した意味はないです。わたしは親とは前縁されてしまっているし、どこに棲んでいるのまかも教えてはくれません。しかし、それは自業自得のことで、どうしようもないことです。《しかし実家はそれなりに支えてくれているほど貧しくはない》という文言の根拠なんでしょうか。世間に対して不満というよりは、それについて行けない自身への羞恥や焦りや不安です。わたしを支援してくれるひともいるが、それは地域の障害者支援だったりで、ここで繋がっているひとびととは、ほとんど対話もなにもありません。4人のうち二人とは実際に会っていて、そのうち1人とは14年ぐらいのつき合いがあります。支援については直接感謝を伝えているので、なぜここに表明する必要がとおもいます。
 わたしの余生がどんなものか。それはあなたには関係のないことだ。ただいえるのはシリアに眼を向けるにはそれ相応の暮らしの安定と当事者意識が必要だろうということです。そういった紋切型の諭しには辟易しています。あなたの主観ありきでわたしの内部を決定されてもわたしには答えようがありません。
 けっきょく山下さんもじぶんより劣った存在を嘲笑したいだけなのではないのでしょうか。わたしはたしかに劣っているが、だれにもわたしを嗤う権利などない。わたしはただ自身に付随する問題を試行錯誤しながら解決しようとしているだけだ。相談できる相手が身近にいればいいが、いないからひとりで考えたり、動いたりしているだけです。それがまちがっているというのなら、山下さんが今后もわたしに対して「観察」し、主観とおもいこみで書き込みをされるのであれば、わたしは拒絶します。

 

 山下 世間に何十万といる障害者の方が迷惑するんですよ。あなたみたいなのが、障害者だといって、世をすねたことばかり言っていると。私は好奇心が強いので、ほかのところも覗いています。それでブロックされることもありますけどね。ブロックすると、相互が見えなくなるので、極力ブロックはしません。ご迷惑なら、どうぞ、そちらでブロックしてください。はっきり言って、あなたみたいなクズを告発したからといって私には、なんの利益もありません。見て見ぬふりもできましたが、多くの善意の方々が、「騙され」ているような気がして、あえて、公共のために書き込みしました。

 

 中田 うぬぼれが激しいね。公共のために? 私憤と義憤の区別もつけられないではないか。「多くの善意の方々」とはだれなんだ。わたしのこの場の書き込みよって利益を得たこともないし、騙してもない。他人は他人だ。 障碍認定がある以上、わたしがそれを明らかにしようが、それはわたしの自由意思だ。たしかに迷惑な言動があることも事実だが、わたしはそれについて改善しようとしてる。あなたがあなただけの倫理観や正義感を満足させるために「世間」とか「障害者の方」、「多くの善意の方々」、「公共のため」だとか、目に見えない、あやふやで、定義しようのない総体をだして非難するはやめろよ。それは卑怯だ。いい加減主体をはっきりさせようじゃないか、山下個人の感情が出発点なのか、それとも特定のひとびとがわたしに意見があるのか。あきらかに主体はあんたの個人的感情のみだ。谷内もそうだが、あんたら印象でしかものがいえなんだ。じぶんが正しいものは不特定の多数にとってもそうであるという論法でしか考えられないんだよ。読めないやつには書けないし、書けないやつには読めないんだ。騙されたとおもってるのは「多くの善意の方々」ではなく、他ならぬあんただ。だから被害者としてわたしを断罪するというわけだ。しかし他人の倫理を問題にする以上は、じぶんのも問題にされねばならず、それを拒否するというのならダブルスタンダードでしかない。

 

 山下 あなたには関心ありません。善意で親切にしている人々が気がついてくれることが目的です。いつまでも恨み言を書いてなさい。私はほかにやることが山ほどあるので、もう関わり合いません。私が関わり合わないと言ったら、関わり合わないんです。あんたとは違いますからね(笑)。

 

 中田 じぶんからひとに絡んで、じぶんから撤退宣言なんともご自由ですね。そして相手が受け入れなければ、義憤にすり替える。うらやましいかぎりです。ぜひその「善意で親切にしている人々」を全員引き取ってください。わたしには分不相応です。ではよい週末を

 

 けっきょく山下氏は表面的な読みしかできないので表面的にしか書くことができない。上辺をなぞるうまいが、そこで終わってる。だからこそかの女自身の言動に根拠与えるのは「世間」や「善意で親切にしている人々」や「何十万といる障害者」などかの女の内側の存在だけなのだ。どうにもかの女のなかにはあるべき障碍者というのがあるらしい。それに適合しなければ名乗ってはいけないということだ。そういった考えこそが差別でしかない。

 以前、「文学極道」にて「あなたの存在にうんざりし」と名乗る人物から非難をされた。その人物も相対貧困などいうものを否定してるらしく、《アフリカに比べれば》とか《自分は年に数百万単位で寄付をしている》などと宣ってた。イメージのなかの絶対的弱者あるいは数字のなかのそれには敏感だが、眼のまえの存在にはどうしようもなく認識が弱い。かれかの女みたいな人間から見れば、大抵の人間は「自己責任」で片づけられてしまうだろう。

 あとでかの女のタイムラインを見ると、そうとう据え兼ねているようで、でかでの文字投稿でわたしについて書いてた。

 

中田某氏に同情している人々が、騙されないのが目的であって、氏にはまったく関心ないので、これで終わりします。


何者でもないからバカをケナしているとか、自分は何を言われてもなんとも思わないです。ほめられたいと思ったことは一度もないからです。

自分はどんなことを言われてもなんとも思いません。そういう訓練をしてきたからです。世間の人々のために動きます。今回は、善意の人々のため。

 

日本には、成人の(身体+精神)障害者が600万人以上います。それらの人々の何人がFacebookで喚いてますかね? こういう方々が迷惑します。バカがいると。

 

 最初のコメント、メッセージ、シェアでの文言を見るかぎり、かの女がはじめから外部要因などのために書いてないのは明らかだ。ただ苦しまぎれに虚言を弄してる。ほんとうに啓発したいというのなら、その軽い調子で書かれた第一声およびシェアの文言を改めてはどうか。そして中田満帆という人物がいかにしてひとを騙し、世間や障碍者に迷惑をかけようとしてるかを解説するべきだ。

 感情や表面でしか読んでないものだから上辺にあるものしか読み取れないし、書くにあたっても上辺を撫でただけ、あるいは自身の感情や偏見によってゆがめられたものしか、かの女の文章にはない。批評でも分析でもない、文学的装飾のついたおもいこみでしかない。そこは谷内修三の詩の読みとも低通してる。

 まったく関心がないのにブログで言及したり、まったく関心がないのに投稿に絡んだり、まったく関心がないのに挙げ句の果ては人助けまでする。なんて情熱的な御仁なんだ。 かの女の行為になんの意義があるのかはわからない。まあ、ただおれひとりをいなくなって600万人が助かるのならいいかも知れない。同情? 善意のひとびと? 会ったこともない、なまえも知らない障碍者? かの女の投稿に「いいね!」を入れてる男たち──そんなもの、もちろんおれの知ったことじゃない。

 

つづき→「愛と人道の裏側で──ぞく・山下晴代に寄せて」http://mitzho84.hatenablog.com/entry/2017/07/31/194333?_ga=2.55251823.511948895.1590575363-1974940982.1544014202 

チャールズ・ブコウスキー「パルプ」1994年

チャールズ・ブコウスキー「パルプ」新潮文庫(旧版)・ちくま文庫
Charles bukowski "pulp" 

1994

Pulp

Pulp

 
パルプ

パルプ

 
パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

 


 チャールズ・ブコウスキーのなまえを知ったのは、神戸市図書館の分所だった。そのころは、うだつの上がらない派遣仕事をやって日を喰い潰しながら過ごしていた。最初に手にとったのは、「町でいちばんの美女」と「勝手に生きろ!」だった。短いセンテンスで語られる素直な文章に惹かれた。けれど本を読むには暮らしがわるかった。わたしは作者名をあたまに刻み、建物をでた。
 それからしばらく経って大阪は芦原橋へいくことになった。公園に寝泊まりしながら暮らすなか、ようやく見つかった仕事のあてだ。けれど飯場に来てみれば連日、雨。あるとき、「京都で茶摘みの仕事がある」といわれ、わたしは高槻の飯場に移った。そこでも仕事はなかった。わたしはくそ高い丘のうえから、毎日散歩にでた。その途中に図書館があった。なにもすることがなく退屈していた身にはうってつけの場所、そこでブコウスキーと再会した。本のなまえは「パルプ」。素っ気ない表紙に赤紫の文字。そいつを借りて飯場の室で読む。わたしは24歳だった。

 「パルプ」は'91年に書き始められ、'93年春、白血病の診断によって中断、'94年、死の直前に出版された、ブコウスキー最后の長篇小説だ。かつてパルプ雑誌で旺盛を極めた探偵小説というジャンルを、ブコウスキーは冷たく嗤いながらからかっていく。
 主人公はニック・ビレーン。ロスアンゼルスの自称スーパー探偵だ。太っちょで、酒と競馬に依存している。独逸の拳銃ルーガーP08を所持。いつもダービーハットをかむってる。女とはほとんど無縁。かれには三つの依頼がある。ひとつは赤い雀を探すこと、もうひとつは死んだはずの作家ルイ・フェルディナン=セリーヌを探すこと、女宇宙人ジーニー・ナイトロを始末すること。もちろん、こんなことはでたらめでしかない。いちいち書いてもきりがないから、やめとく。とにかくこの小説を読んでわたしは笑った。とくに酒場でのいざこざの場面がいい。科白といい、人物といい、なにもかもが。


 「メアリー・ルー!」大声がした。「そこのケツの穴、お前に嫌がらせしてるのか?」
 バーテンだった。ゲジゲジ眉毛のチビな奴だ。
 「大丈夫よ、アンディ。こんなケツの穴、あたし一人でさばけるわ
 「そうとも、メアリー・ルー」俺は言った。「いままでずっと、ケツの穴ならいっぱいさばいてきたもんな」


 この小説の凄みは「来るべき死」の予感を逃げずに書いているところだ。それもユーモアを込めて。弱さを隠さず、素直さのなかで死んでいくことによって、ビレーン及びブコウスキーはその人生を全うした。自殺体質を自称し、死を意識しつづけた詩人兼作家の極点がそこにはある。確かにある。
 ちなみに「ワインの染みがついたノートの断片」に収録された'90年の未収録作品「もう一人の自分」は、この長篇におけるいくつかの部分を先行してる。謎を追う主人公、超自然的な存在、奇妙な犯罪譚。

 

パルプ (新潮文庫)

パルプ (新潮文庫)

 

 

 だいぶあとになっておれは新潮文庫版を手に入れた。ゴッホ今泉のイラストがいい。そういえば高校生のころ、こいつを本屋で見つけて手にとった。実際に読むまでになんと時間がかかったことだろう。わたしはおもいだしてこれを書いてる。
 ところで高槻の仕事はまっく金にならなかった。寮費でマイナスになった挙句、わたしはトンコ。いったん三宮へいき、そのあとは1ヶ月舞台役所に見習いみたいなことやり、あとしばらく大阪と兵庫を行きつ戻りつしただけだった。きょうは文無し。だからしばらくあいだドカチンでもやって喰いつなごうってわけだ。