みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

黙する、まなざし

 

 黙する、まなざし

 またたきの天体

 おきざられた観覧車が、

 さまようぼくを照らす夜

 かわるがわる、

 飛びかかる過去やらきみやら、

 流動体みたいなスカーフ、

 色のないスコール、 交わって。

 

 おはようございます、

 はじめまして、

 ぼくはうれしい、 どうぞよろしく、

 いつだったか夢のなかで

 足踏みオルガンを弾きながら、

 教室から落ちていくきみを見た

 あれから幾年、 ぼくはこの場所に着いた

 

 きみの黙する、まなざしよ

 もはやなまえすら喪って、

 ぼくはやってきた

 ふるい階から

 帽子を片手にして、

 混じりけのないスコッチを

 きみのスコアに叩きつけてあげる

 

夏の定型詩

短歌


 真夏の死たとえばぼくの万華鏡いつもみたいにきみが視えない

 

 けものすらやさしい夜よみずからを苛みながらも果実は青い

 

 森番のひとりのかげを手斧もてわかちつつある狩人のぼく

 

 まだ解けぬ方程式も夕暮れてきみのなまえのなかに眠れる

 

 神殺むるときを経ながらぼくはまだ夕餉の支度できていません

 

 

俳句


 ふなかげの淡さの陽炎午睡して

 

 

 踏む浪や月のかたちに触るるまで

 

 

 夏の夜に灯台守が泳ぎ着く

 

 

 海見ては孤独のありか確かむる

 

 

ニューオーリンズ

 

 ニューオーリンズの日々についてブコウスキーは語りたがらない
 あるいは語るべきものがあまりないのか
 5セントの棒つきキャンディを嘗め
 空腹を抱え
 書くためだけの時間を求める 
 あるいは子供たちに追われて、
 酒屋のなかへと逃げ込む
 果たしてすべてはおもいだされたのか

 ニューオーリンズの子供たちは叫んだ
 あの気味のわるいやろうをやっつけろ!
 いつもキャディを買う酒屋に隠れてかれはどうにか生き延びた
 そして子供たちはいなくってかれはいつもように鳩を見つめた
 フランス風のなまえの鳩を
 川があって
 そのさきは入り江
 雲がのろのろとうごいていくさきは
 シーザーが刺されたころから死んだっきり
 ニューオーリンズはかれにとっての悔しさなのか
 岸のむこうのひとかげは
 だれもかも水死人で
 かれらが坐るのは 
 ブコウスキーの気に入りのベンチ
 やつらと坐って
 やつらの酒を呑む

 

ダン・ファンテ「天使はポケットに何も持っていない」1998年

ダン・ファンテ「天使はポケットに何も持っていない」1998年

Dan Fante - "Chump Change" Sun dog Press '1998

 

天使はポケットに何も持っていない (Modern&Classic)

天使はポケットに何も持っていない (Modern&Classic)

 
Chump Change: A Novel

Chump Change: A Novel

 

 


  人生が俺に愛想をつかしてしまったのだ。


 おれがアルコール中毒と診断されてひさしい。'10年の3月、西成区萩之茶屋──通称釜ヶ崎でおれは喰いつめてた。というのも去る年の暮れ、おれは羽曳野市にある丹比荘病院精神科を追いだされ、西成区役所の精神保健福祉に助けを求めた。相談員は少しばかり理解を示し、いっときはアルコール症専門病院への提案もなされたが、CWが父に電話をかけ、おれは実家に帰ることになった。年明け、ひとり息子に無理解な父からの厳命で、仕事をみつけた。ひとつはシャンプーだかの箱詰め、もうひとつはヤマト運輸の仕分けだ。防寒着もないなか、ふるいカブに乗って仕事へいく。おれは堪りかねて金を少し借りた。それで上津台のイオン・モールへいき、アウトレット品のダウンを買った。深緑の、なかなかいいやつだった。
 そいつを着て家に帰る。親父がいった。──給料でたんなら金を寄越せ。そんなものを買う金があるのなら、全額寄越せ。さもなくばでていけ!──おれはでていき、さらに金を借りて、大阪へいった。安宿に泊まりながら、仕事を探そうとした。出会い系のサクラや、ポルノ男優、挙句はゲイ専門の酒場──エイズに関するパンフレットが大量に置いてあり、黒い寝台つきの面接室を慌てて逃げた。けっきょく仕事は見つからず、おれは酒を呑み、金を減らし、身体を毀した。ひどい痛風で足は浮腫み、股関節まで激痛に魘された。冬は春になった。ふたたびおれは西成区役所の精神保健福祉に助けを求めた。今度は病院行きが決まった。入院予定日まで安宿に待機して、それから和泉までいった。
 迎えた病院のCWはおなじ苗字の、なかなかきれいな女だった。おれはいった、──おれはアルコール中毒だと。かの女はいった、──じぶんでそう認めるひとは珍しいと。おれは二ヶ月、その病院にいき、そのあいだ二回も院内飲酒で捕まって牢屋へと入れられた。懲罰的手段。おかしなことにその病院の本棚には「自由こそ治療だ―イタリア精神病院解体のレポート」という本や、カーヴァーの「英雄を謳うまい」があったっけ。おれは別の病院へ移されるまえに図書館で借りた本を読もうとした。すると、看護人がいった、──それをきょう返しに行くと。おれはいった、──だってまだ数日ここにいるじゃないか。やつは容赦しなかった。その本はダン・ファンテという男が書いたもので、主人公もアル中だった。
 おれがはじめてその本を見たのは三田図書館でのことだった。いつのことかは憶えていない。ただそこによくいった。特に週末は。朝の6時から親父が作業を始めてた。草刈り、家の改築、車のタイヤ交換、間伐、穴掘り、──いつもいつもなにかやってた。おれはそいつに狩りだされるのが幼少からいやだった。休みの日は寝ていたい。なぜ姉や妹たちのようにのんびり過ごせないのか。おれは父の命令が下るまえに、カブで走りだした。そして図書館で過ごした。父親がいかに厄介な存在であるかをおれは痛いほど知ってる。敬意などいうものが、ただの屁でしかないと知ったときの虚無感。あるいは燃えながら立ついっぽんの枇杷の木。おれは本を読むことでなんとか、みずからの分岐しつづける感情に整合性を与えようと、文脈を与えようと四苦八苦してた。夜に帰れば父から罵られ、異分子としてしか存在できない自身を呪った。なにもかもが索漠とした過古の夢や願いのなかで滅び、そもそも家族との相互理解や語らいなどはじめからないということに痛めつけられてた。
 いつか断酒体験の合宿のとき、おれはみなのまえでいった。「付随する問題の大小にかかわらず、依存症は依存症である」と。医者や看護人たちはその科白を歓迎した。でもいった当人にはそれがただのでっちあげで、その意味がわかってなかった。付随する問題は年々大きなり、ついには破滅した。

 

 ダン・ファンテの父は、ジョン・ファンテだ。イタリア移民の2世として生を享け、コロラドの田舎からわずかな金で、カリフォリニアへ。「偉大なる」作家を志した。小説作品「デイゴ・レッド」、「バンディーニ家よ、春を待て」、「満ちてる生」、「塵に訊け!」を生みだした。そののちに映画業界へ流れ、作家の夢は喪われていった。晩年は糖尿病を患い、腕も足も切り落とされた。やがて盲い、妻の手によって最后の作品「バンカーヒルの夢」を著した。ダンはまるで父の人生から喪われ、抜け落ちてしまった夢を拾うみたいに小説を、詩を、戯曲を書いた。そして'15年に'71歳で死んだ。
 小説「天使はポケットに何も持っていない」は、父が危篤に陥り、その息子が精神病棟から退院したところで幕を開ける。主人公ブルーノ・ダンテの好物は、酒精強化ワイン「マッドドッグ20-20」。幸いなことにこの銘柄は日本に輸入されてはいない。だから主人公のまねをしてるうちにアル中になって、ステーキナイフを腹に突っ込むこともない。ブルーノは、危篤の報せを受け、離婚寸前の妻とともにニューヨークから故郷ロサンゼルスへ飛び立つ。機内でマスを掻いたり、病院では待合室の他人を撲り飛ばしたり、酒によってむちゃくちゃをやる。ブルーノは父の愛犬ブルテリアロッコと出逢い、次第にその犬に愛着らしいものを抱く。父の死を看取ったあと、ブルーノは犬とともに弟の車に乗り、妻のクレジットカードを持って放浪にでかける。 その途上で出会う吃りの少女エイミー、かの女は淫売だ。やせっぽちで魅力はないとブルーノはいう。それでもなぜかふたりは逃避行じみたひとときを過ごす。父の葬儀をあとにしてブルーノは中古車屋でダークブルーのダートを買う。そしてエイミーとのいざこざ。

 

 「あんたが悪いのよ! あ、あんたは親父さんに愛されてたのに、そ、その愛し方が気に入らないって、親父さんまで、や、やっつけてしまったのよ!」

 

 ロッコの病状がわるくなっていくなか、ブルーノは求人からセールスの仕事をみつける。ロッコをどうするか、金が少なくなっていくなか、どうやりこなすか。面接を終えてモーテルにもどると、エイミーはいなくなってた。詩のような書き置きを残して。
 ブルーノは金持ち女にデート相手をセールスする。酔っ払いの大女相手にだ。かの女と契約を結び、一戦を交える。その翌日、ブルーノは父の夢を見、父の存在や死についてあらためて考える。《俺は父を愛していながら、そのことにまったく気づいていなかった》。おれは親父を愛してはないだろうし、これからもおなじことだ。精神病理を抱えたわが家系について、いまや憎しみすらもない。祖父はアル中の乱暴者で、父はアダルトチルドレンだろうし、おれに至っては自閉症だ。家庭を維持さえしてればそれでよかった前時代とはちがい、いまやひとりひとりが負わなければいけない領域はどんどん拡大してる。よき労働者、よき父親、よき男、そんなものを呼称されるぐらいならおれは遁世したほうがましだと半分おもってる。もう半分は過ぎ去った価値観への憐れみだけだ。おれはいつになったくそくだらない男像や、父親像から脱却できるのか。それはけっきょくおれが男になるしかないだろう。父親になるしかないだろう。不在の過古から、実存の現実へと突っ切ってしまわないかぎりは、幻想は幻想のまんまだ。どこまでもつきまとう。
 ふとブルーノは高校時代に「ブルックリン最終出口」を買った古本屋をおもいだして車を走らせる。その店で父の書いた「風に訊け」と再会する。古本屋でのくだり、店員とのやりとりは物語の、ちょっとしたヤマで、心を奮ってくれる。父親との擬似的な再会がブルーノになにを齎したのかがわかるのは、もう少しばかりあとのことだ。やつは契約した大女ミセス・クーパーに、スペイン男ふたりをあてがわせた。

 

 おれにだって本はだせたかもしれない。父はそれを成し遂げていた。どうしておれはだせなかったのか? それはおれがあっさりと諦めてしまい、とことん失敗して転落していくだけの勇気をまったく持ち合わせていなかっただけだ。親父は死んでしまい、おれもまた死んでしまった。悲しみと真実だけがおれの魂に宿ってる。

 

 ブルーノはけっきょくセールをやめた。上司のバークハートとはうまくやりおおせた。作家、そして詩人として生きる決心をつけ、車をだす。ロッコはもはや瀕死だった。金も乏しいなか、医者に診せ、アルコールの離脱症状に呻吟する。そしてキャンディーバーを喰いながら、その糖分でアルコールを我慢しながら、一篇の詩を書く。LAについての詩だ。《おれは父親のためにこの詩を書いたのだ。もっと書こうとじぶんに誓いを立てた》。
 おれはいぜんに書いたふたつの小説のなかで主人公に詩を書かせてる。もちろんのこと、そいつはこっからのイタダキだった。この作品は、過度に感情的で、情熱のある眼差しが読み手と語り手をひとつにさせる。清濁併せ呑み、憎愛を込めて、故郷の街を、家族を、かつての夢=文学を描き切った傑作の長篇だ。アルコールの問題を当事者から描くという面でも、もちろんぶちっぎりで、ダンがどうして酒も薬も断ち切って創作の世界に没入できたかがわかってくる。

 おれはといえば、このまえ10日のあいだ禁酒しただけだ。軽く膵炎を起し、酒をやめると誓った。けれども仕事にありつき、金がでると呑んでしまった。ただただかつてよりも狡猾で、計画的な呑み方が身についたというだけである。おれはけっきょく和泉の病院も追われ、転院したあと、西成の救貧院へ流れた。そこで1年。またも酒がばれ、故郷に帰された。そして小説を書き、’11年の秋、ようやくこの町に来たというわけだ。そしてもうじきこの町をでるというわけだ。
 近年、ジョン・ファンテ作品の再評価が目覚ましいが、ダンの作品ももっと知られて欲しい。いつだったか、books Curliesの店長にこの本を紹介したら、「ブコウスキーよりもこっちのほうが好み」といってた。しかし残念ながら絶版のため、入荷できないということだった。お行儀のよい文学にはうんざりだというやつらには、この本がなかなかよい選択肢ではないかとおもってる。ちなみに映画化されるという話を聞いたが、ブコウスキーの「ハム・オン・ライ」同様、たいした情報は出てこなかった。詩集については一冊持ってる。いつか翻訳してやろうとおもってる。──じゃあな。田舎の親御さんによろしく伝えておいてくれ!

 

Kissed by a Fat Waitress: New Poems

Kissed by a Fat Waitress: New Poems

 

 


Made in Fante, portrait de Dan Fante écrivain - Documentaire  

愛と人道の裏側で

だまされた気分はいかがですか?──山下晴代氏へ

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=331209&filter=cat&from=menu_c.php

 

 「大衆の天賦の才」という詩でハンク・ブコウスキーがいっているように《憎しみにもっとも長けているのは愛を説くもの》というわけだ。これがぜんぶだ。わたしは長い悶着をやった。ひどいやりとりで、相手がたしかな悪意を持ってこちらを傷つけようとしてた。性別でものをいうのは現代にそぐわないが、女を敵にまわして長生きはできないというのはその通りだ。しかも還暦で、「アベ政治を許さない」詩人の妻で、人道問題に入れ揚げる自己愛性人格障碍者には。人格障碍には病識がない。本人は自身が病気だということに気づいていない。だからなにをいってもむだだ。しかもたちのわるいことに社会生活がうまくいっていれば周囲の人間も疑いを持たない。だがネット上になると恐ろしく凶暴になる人間もいる。あるいは社会的地位の低い相手に対して冷酷になるのもいる。
 わたしが問題にしたのは、SNSでのわたしの投稿に対して行われた言動についてのみだ。だというのにむこうは話を拡散しつづけるので、こちらとしてもいったいなにについて論じているのかがわからなくなっていく。単純化すれば、かの女は根幹の問いに答えられない。だから枝葉が多くなる。以下のようにかの女の非難対象は上下左右にスライドしていくのである。まっとうな話なんか通じるわけがない。倫理の欠如そのものだ。

 

  →希死念慮
  →ひとびとを騙そうとしてる
  →公共のため
  →600万人の障碍者が迷惑する
  →教育課程あるいは水準へ揶揄・誹謗
  →じぶんが善意で書いた詩集評を無断でツイートした、利用した
  →谷内修三と婚姻関係にあること無断で暴いた
  →4,5年まえの書き込み(現在残っていない情報)を基にした憶測や非難
  →あなたの言動は殺人と同等
  →ひとと喧嘩して逮捕された
  →現在居住している部屋に(親の支援があって入居した、風呂つきか否かなど)
  →童話作家森忠明の発言(指摘にあるような発言「サカキバラより危ないやつだ」は存在しない)や作家として認知度や経歴を誹謗
  →同情を利用して作品を買わせている(なまえの挙げられたのはたったひとり)
  →言葉の誤用や意味のまちがい、ミス・スペルの類い
  →wikipediaにじぶんのページをじぶんでつくってる
  →態度、上から目線
  →そもそもあなたに関心はない、どうでもいい

 

 あとは「頭が悪い」とか「ばか」とか「小中学校もいってない」といった煽り文句を飛ばすだけだった。知性のかけらもない。終盤は過古について「いった、絶対にいった」の強弁。まるで最近の国会じゃないか。正義の天下り官僚と独裁政権のそれである。記録にも残っていない発言について糾弾された。正直、気持ちがわるくなってしまった。たんに相手を疲弊させるといった点ではうまいが、論点がつねに移動していてなにを目的としているのかはわからない。これを女性特有のものといいたい欲求にかられるが、それは禁じ手だ。わたしが主張してきたのは大まかにいって下記の通り。

 

  ・わたしの投稿を共有したうえで嘲笑的なことを書くことへの異議
  ・わたしは同情を引いてひとを騙そうとしていない
  ・山下のブログに書かれてあるわたしについての記述に事実とちがう部分がある(親の支援、喧嘩、職なし)
  ・上記についての訂正あるいは削除

 

 かの女が遠くの絶対的弱者──そういえばおまえはロヒンギャ族を知らないだろうともいわれた──などを偏愛する一方、近くの人間に対しては憎悪で塗り固めている。対象がじぶんより弱くなければ、そして正しくなければ許容できないのかもしれない。かの女のタイムラインでは海外の動物愛護、人権問題の記事や動画が共有されるいっぽう、大きな文字で他人のことをいぎたなく罵っている、嘲っているものもある。かの女の友人たちやフォロワーたちはいったいなにをおもっているのか。その落差が魅力なのか。わたしやほかのひとに対する陰口に「いいね!」をいつも押している人間がいる。ぞっとしてしまう。
 今村征一(石川県で俳句をやっている70過ぎの男。@saigawatedori)、今井義行(神奈川県の詩を書いている男。@swrd21)、橋本正秀(70代ぐらいの男)、津田直樹(宇都宮市の30代らしい男)とか渡辺信雄(「ひょうご・こどもの詩と絵」編集とある)、二宮清隆(日本詩人会、埼玉市詩人会、小樽詩話会、旭川市)。流れや内容が読めているのか、それとも反射的な反応なのかはわからない。この男たちはなにを考えているのか。
 わたしはいちおう和解案として下記の書き込みをした。

 

あなたがわたしについての発言やブログの記述を削除するのなら、わたしもあなたについての発言やブログの記事を削除します。今后あなたがわたしに言及しないのなら、わたしも言及しません。

 

 しかしかの女はわたしの提案には反応しなかった。それどころか、終結宣言後にページを一時閉鎖し、じぶんにとって都合のわるいコメントを削除した。山下晴代が他人の投稿を穢すのはまっとうで、おなじようにやるのはそうではないということだ。今后もかの女は装飾品のように世界的な悲劇をまとい、気に入らない他者を一方的に非難しては勝利者を気取るだろう。それはどうしようもない。またなにかお気に召さなければ、わたしにむかって吠えるだろう。相手にしなければいいだけだ。かの女は社会的に成功している病者で、わたしは成功はしないまでも病から恢復しつつある病者だ。場外乱闘を演じているわけにいかない。年寄りの見当狂いな正義のために若いとはいいがたいが、わたしの労力と時間を遣うわけにはいかない。──と、ここまで書いてもう一度山下のタイムラインを確かめると、長々とやりあった投稿欄をまるごと削除してしまっていた。しかしだからといってわたしに関連するものがないというわけではない。自身の一方的な文言は健在で、

 

 管見によれば、「障害」ではなく、「義務教育」の欠如の問題。

 

 中田某氏に同情している人々が、騙されないのが目的であって、氏にはまったく関心ないので、これで終わりします。

 

 どーでもいいですけど、「当時」は、親切にあげたと思いますが。

 

 自分はどんなことを言われてもなんとも思いません。そういう訓練をしてきたからです。世間の人々のために動きます。今回は、善意の人々のため。

 

何者でもないからバカをケナしているとか、自分は何を言われてもなんとも思わないです。ほめられたいと思ったことは一度もないからです。

 
 じぶんはなにをいわれてもなんともおもわないからといって他人になにをいっても赦されるわけではない。結論をいってしまえば、こういったひとは「謝ったら死ぬ病気」なのだ。だから本筋とは関係ないところで相手を非難したりする。いくつもの例外や過古を現在形で量産し、相手を疲弊させ、痛めつける。わたしのように自己愛の足りないものにとってはかの女の言動は凶器以外のではない。偏愛は憎悪の裏返しでしかない。それを認識させることはできない。ネット上には珍しくない。こういったひとびとは、わたしのような人間が発言するとき、それが論理的にどうか、倫理的にどうかといったことに悩んでしまうのを無意識に見抜いている。そういった躊躇うを狙い撃ちしているのだ。以下にチェック・リストを残す。それに当てはまる人間とははなれたほうがいい。


  日常的にSNSで人道や動物愛護について発信あるいは共有している
  日常的に散文を書いているが文章は論理よりも感情が優先する
  国内問題に関心が薄くか皆無、反して海外問題に対して関心が非常に高い
  自身を絶対的上位に置いている
  極端な賛美や偏愛のいっぽう他人を攻撃する
  攻撃相手に嘲笑的で対等にはならない
  相手の倫理、道徳、思想信条、教育水準といったものを断罪するか嘲笑する傾向
  上記を根拠に差別に満ちた発言もするが本人としてはそれが正義
  弱者=正義(しかし同国人は例外)
  進歩的文化人あるいはサロンの住人
  自身の自慢は肯定、他者のは仲間以外は否定
  他者の批判を赦さない
  女で犬好き

 

 じゅあな、安らかに眠ろう。

 

自己愛性パーソナリティ障害のことがよくわかる本 (健康ライブラリーイラスト版)

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パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)

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素足の心理療法 (始まりの本)

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文庫 他人を支配したがる人たち (草思社文庫)

文庫 他人を支配したがる人たち (草思社文庫)

 
良心をもたない人たち (草思社文庫)

良心をもたない人たち (草思社文庫)

 
ナフ川の向こうに―バングラデシュで生き抜くロヒンギャ民族

ナフ川の向こうに―バングラデシュで生き抜くロヒンギャ民族

 

 追記:09/13

 

この一件をもとねたにして短篇を書こうなどとおもってた。けれどそれはちっぽけな争いごとを愉しんでしまう、わたしのばかげた習性の発露にしかならないのでやめておいた。

けっきょく山下氏がわたしのアカウントをブロックすることで決着がついたようだった。かの女はわたしについて追加に言及せず、いまもおなじような散文を書いてる。批評もどき、詩もどき、そして慈善もどき。

 

松下育男氏のページに辿りついてしまったら、すでにブロックされていました。どちらがストーカーだ?と思いました。https://twitter.com/kumogakure/status/889942728200421376

 

あいもかわず、かの女はユダヤ人やアフリカ難民、シリア難民、ロヒンギャを引き合いに出して、他者を断罪する。しかしとわたしはおもう。かれらは他者への断罪や不幸の相対化のための道具として引き合いにだされることを喜ぶだろうかと。

かの女はいまだにわたしについてのブログの記述を改めようとしない。そして「プライバシーの侵害」とかの女が指摘する、わたしの記述──谷内修三との婚姻関係について──を訴えるわけでもない。

ひとを痛いめに遭わすのは好きだが、その反対は許せないというわけだ。もちろんだれだってそうかもしれない。