みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

フィリップ・ジアン「ベティ・ブルー」'85年

 

ベティ・ブルー―愛と激情の日々 (ハヤカワ文庫NV)

ベティ・ブルー―愛と激情の日々 (ハヤカワ文庫NV)

 


フィリップ・ジアン「ベティ・ブルー」'85年
Philippe Djian - "37.2° LA MATIN" '85


  ぼくのノート類がバーゲンセールの陳列品みたいに四方八方に散らばった。ぼくはそれが気に入らず、落ち着きがなくなった。「いったいなによ、これは?」彼女はいった。「だれが書いたの、あんたなの……?」
 
 作家、詩人、画家、音楽家、泥棒、──なんだっていい。自身の表現で、方法で生きようとする人間が好きだ。"もっともアメリカ的な作家"というのがフランスでのジアンの評価だとかなんとか、どっかでそんな話を聞いた。この小説は冒頭からブローティガンエピグラフで幕を開け、終盤にはケルアックの一節が科白としてでてくる。主人公はかつて作家志望だった中年男、35歳だ、なまえなんかない──そんなものはいらない。かれはバンガローで下働きをしながら生活してる。住人のための買い出し、洗濯物の回収、水道、配管などなど。テキーラ、チリ・コンカンが好物。あるとき、出会ったばかりの恋人が転がり込んでくる。かの女はウェイトレス、25歳、なまえはベティだ。
 ベティは気性の荒い女で、主人公をふりまわす。ある夜、ベティは主人公が書き溜めた小説を発見する。そしてかれを天才だとおもい込み、バンガローの主に楯突き、ついには主人公の家を燃やしてしまう。ふたりはパリへ逃げ、ベティの妹リザのもとに転がり込む。かの女はアパートを経営している。ベティは主人公の書きものをタイプして出版社へ売り込もうとする。しかしどこにも受け入れられず、酷評を得る。ベティは批評家に復讐して逮捕されてしまう。男は告訴を取り下げさせて、ベティを連れ戻す。やがてリザの恋人で、ピザ屋を経営するエディがやって来る。すぐに打ち解けるベティたち。やがてエディの母が亡くなり、かれの母のピアノ屋にふたりで棲むようになった。
 ある日、ピアノを配送しにいこうとする男にベティがいった。妊娠したという。男は喜ぶ。しかしその夜、男が帰って来ると、めちゃくちゃに裂かれた産着が残され、ベティがいなくなった。かの女を探す男。灯りのついたわが家でベティを見つける。妊娠はまちがいだった。かの女は顔中にピエロのような、めちゃくちゃな化粧をし、髪を無残に切り落としていた。その顔を見たとき、男はトマトソース煮込みのクリネに顔をつけ、顔中に塗りたくった。病んでいくベティ。エディやリザは心配するも、どうすることもできない。やがてベティは幻聴を聴くようになる。男はかの女のためにと、現金強奪をやり遂げる。ベティは子供を誘拐しようとしてしまう。そして夏。ベティは片目をみずからえぐり取ってしまう。男には電話があり、作品の採用を告げられる。でも、ベティはショック状態でもうなにも認識しない。

 

 「ケルアックがいったことを憶えとけ」ぼくはため息まじりにいった。「至宝とは、真の中心とは、目の奥の目なんだ」

 


『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』予告

 


Trailer BETTY BLUE - 37,2 Grad am Morgen (Deutsch)


 原題は「朝、三七度二分」。フィリップ・ジアンは1949年生まれ。冒頭のブローティガンの引用をはじめ、ケルアックが数度引用されている。遅れて来たビートニクといった趣きだろうか。この作品はもちろん映画のほうが有名で、パンフレットには詩人の八坂裕子が寄稿している。わたしはインテグラル版しか見ていないので、かの女のいうように《200%男の映画》という言辞がしっくり来ない。無気力な生をつつましく暮らすしかなかった男を、ベティが作家にまで変身させた愛の映画だとおもっている。たしかにベティを都合よく亡き者にし、それに対して当然といった語りをする主人公は、ある意味では悪漢かも知れない。だが、美しく優しいものだけが愛ではないのだ。残念なことに本書は絶版であり、全訳でもないことを付す。

 

「そのころ鱗ついて考えてた。それがこの髪型に結びついたわけです」(本人談)

 

   *

 長篇小説「裏庭日記/孤独のわけまえ」はようやく校正が終わった。今週発送する。それでだめなら短縮版をつくって賞にでも送ろう。最近はずっと校正と読書に浸かってほかのことはなにもしてないと来る。そろそろあたらしい作品を書き始めなくてはならない。残念なことに娯楽作品は書けないから、またも青春残酷物語と相成るしかないだろう。とにかく賞に受からなければなにも始まらない。ものを書いていておもうのは、一作ごとになにもかも原初からはじめなくてはいけないということだ。自己模倣のわるくはないが、そいつはそれでエネルギーがいる。けっきょくはあたらしいものを書くしかない。それも手元に参考などと称して他人の作品を置くのもやめたほうがいいだろう。《書くか、さもなくばなにもしないか》──チャンドラーはそういっていた。なにもしないまでも書く時間と読書の時間は混淆するべきではない。混ぜるな危険である。まさしくサンポールである。義務感に駈られて書くのもいけない。書きたくなければ書かないのがいちばんだ。創造的世界はそんなことをやっても開いてはくれないからだ。

   *

 相も変わらず、携帯もネットも復活できていない。プリペイド端末はいけるが、フィマートフォンはだめだ。あとはネット復旧のために金を払い、室に線を引かなくちゃいけない。とりあえずネットカフェ頼りの生活から脱しなきゃだめだ。電話が使えるようになったら郵便局の面接でもいこうとおもう。金にはならない仕事ではあるが。
 正直にいっておれの人生はうまくいってない。負債はあるし、それを支払う能力がない。小説の構想はなかなか降りて来ない。五年まえの友情の破綻について書こうか、それとも郵便局での労働について書こうか。どうなるのかはわからない。けれども応募だけでもきちんと果たしたいとおもっている。

   *

 おとついは短歌、きのうはあたらしい詩をふたつ書いた。手紙も一通書き、長篇も加筆。なかなかいいスタートだ。しかしどうもおれの才能は夜用らしく、けっきょく朝まで書いてしまった。本も一冊読んだ。早く賞のための小説を書きたいが、他者との交流のない生活のなかでいったいどうすれば違和感のない他者をつくりだせるか、それが課題だ。

   *

 おれは尼崎がきらいだ。なのにおれの本籍地は出屋敷にある。生まれた場所でも棲んだ場所でもない、ただ父方の祖母がいたところだ。おれは分籍届をだしておれの人生から、あのうすぎたねえ町を葬ってやるのさ。

   *

 図書館で「ピカソになりきった男」という贋作画家の自伝を見つけた。これは買って読んだほうがいい本だと直感した。

   *

 金でも飯でも仕事でもおれに恵んでおくれ、だ。

母の日には生ベーコンを

 

f:id:mitzho84:20180509144958j:plain

 

 

   *


 いっておくが語ることは大してない。気分のままに書き散らして、《そこ》になにかあるように見せる、おれからのプレゼントだ。いまは金がない。だから気が立ってる。無駄遣いをしたのは、きのうのおれ自身だ。だから胸くそがわるい。というわけでこいつを書いてる。きみがどうしてるのか、もはやおれにはわからない。
 おれの「ユリイカ」への投稿はほとんど期待できない。「現代詩手帖」へ乗り換えようかと考えている。もしかしたら詩そのものがむいてないのかも知れない。いまはじめて吉増剛造を読んでる。「黄金詩篇」だ。先週末はひどかった。24日もつづいた禁酒をやぶってしまい、アルコール漬け、からだを壊してしまった。そしてきのうも妙なところで金を使ってしまった。飯はあまり喰えてない。なにか簡単なものをつくって腹に入れるべきなのに。筋トレも中断してる。こんなことではいけない。それなのにまともなことが、まったくまともにできない。長篇を「群像」に送るのはあきらめた。やはり「裏庭日記」は頁数が多すぎる。新しい作品をはじめから書くなら「文學界」のほうが頁数が少なくていいだろう。写真はあきらめるしかない。清里への準備は金がかかりすぎる。いまはまだ耐えるしかない。あたらしい小説におれは「夢の汚物」という仮題をつけた。自身の夢に裏切られる青年の話だ。あるいは郵便局員の話だ。
 音楽についていえば、なんの進展もない。このまえチューナーを買ったが、おかしなことに♭チューニングができないと来た。そんな代物があるとは露にもおもってなかったし、そんなものに金を払ってしまったじぶんが情けなくて仕方ない。いまのアコースティックギターは弦高を調節できない。手頃な値段でちゃんとしたギターを買いたい。秋頃にはなんとか、ライブへでるまでになりたいものだ。町のなか、ギターを背負った老若男女を見ると羨ましくなってしまう。しかし、いまはただ読書と小説だ。最近はスタージョンの「輝く断片」とスタークの「悪党パーカー/逃亡の顔」を読み終えた。前者はSF。おれにとっては、はじめてに等しいジャンル小説だ。新鮮な気分で読むことができた。いまはフリップ・K・ディック「トータル・リコール」とモルモット吉田の「映画評論・入門!」を手に取ってる。いっぽうエルロイの「クライム・ウェイヴ」は中断してしまってる。読んでない本は多い。しかもその情況で本棚が足りないんだ。ところがまだ携帯もネットも復旧してないから仕事もできない。あと4千円ちょいで通信料の未払いは終わる。電話はソフトバンクプリペイドを遣うしかないだろう。さすがに12万を返済するのにいまのままでは年月がかかってしまう。またしてもおれは倉庫係になるか、郵便局で夜勤の仕分けをやるか、どっちかでしかない。おれみたいな愚かな男でもできる仕事といえばそれぐらいだから。
 今月は小説の最后の校正。最低でも3人の人間に読んで批評や訂正箇所なんかを御教授給う予定だ。来週にはたぶん最新の製本が届くことだろう。それを森忠明先生に送ってかれを介して数人に読んでもらい、商業作品としての価値を高めたい。2月7日から書き始めてずいぶんと手間がかかった。自伝小説を書くのなら年譜をつくってからにしてから、というのが今回の教訓といったところか、出来事、時事、主要なおもいで、存在意義にかかわる重要な考えや科白、それらをもっと書くまえに決めてたら、何百回も訂正する必要はなかったろう。しかしおれのなかの作家はそれを我慢できなかったんだ。
 おれの文章のわるいところは饒舌過ぎるということだ。読み手になってみたとき、おれの文章は密度が濃すぎて息苦しい。もっと余白を活かした文体への変化が必要だ。すかすかで改行の多い文章もわるいが、おれみたいに喋りまくって息切れしてるのも質がわるい。そこでどうなるか。すべてを忘れ、ゼロからやり直せということだ。サリスが「ドライヴ」でやったような文体、またはシェパードが「モーテル・クロニクルズ」でやったような、カーヴァーが「ぼくが電話をかけている場所」でやったような──なんていえば切りがない。ほんとうに必要なことだけの文体、最小限のエネルギーによって綴られた文章。それこそがおれの望みだ。


   *

 余分な間投詞の多さ、余分な接続詞の多さ、現在形にするか、過去形にする、過去完了形にするか。──《人生とは感嘆符にするか、疑問符するか、ためらうことだ》とフェルナンド・ペソアは書いてた。文章と文体、または彫琢される人生を求めておれは走っていく。おれには沈黙が必要だ。書くためにはまず黙らなければならない。あたらしい小説を2頁ほど書いた。あまりに主観がうるさい、あまりにアクションがない、からだを動かすように場面を動かしたい。動きがあって人物は生きる、思考や感情はあくまでアクションあってのものだ。痛みがあってひとは動くのではない、動くから痛みがある。ふたたび、おなじ筋で書き直しかない。

 

 発送口の片隅にビニールのカーテンがかかってる。かつて透明だったビニールは、脂と煤にまみれ、そのなかで青年はベンチに坐ってる。うつむいたり、天井をみあげたりで、落ち着きがない。
   キネサキホフランが勝ったらしいね。配当も凄いって。──隣の男がいった。カナメは先週、おなじ馬で三千円スッたところだった。喫煙所で油を売ってると、ろくなことを考えない。やつはハズレ馬券でドールハウスをつくると宣う。
   生憎、あの馬とは相性があわないらしい。
  おまえはどの馬ともあわんよ。
   それよりも午后の配達遅れんなよ。
 カナメは舌を突きだして水死人みたいに戯けた。なにもおもうことはない。休憩が終わって、かれは次の区画へカブを走らせた。みじかく長い人生のなかでできることはそう多くはない。馬はなにもかもを追い抜いてしまうし、胴元を潤すほかできることはないといっていい。好きだった女たちはみなカナメをきらって逃げてったし、友だちもいない。あとに残るのはせいぜいのところ、三〇歳まで五年だ。これこそ猶予といっていい。でも、なにができるか。そうともなにもできやしない。かつてあったような夢はなにひとつ叶わない。新興住宅地を四時間かけてまわったあと、団地に二時間。ほんとうならもっと早くできるはずだ。毎日のように上司にせっつかれてる。まぬけめ、とみずからにいった。一時間半は遅れてる。慌てて局にもどって転送の処理や、書留の処理をした。たかが時給千円でまじめにやる気もない。ロッカー室で着替えをし、そとへでる。莨火を点して、駐輪場へむかった。春の夜の寒さが沁みる。かれは吸い終った両切りをフェンスのむこうへ投げ、エンジンをかけた。家まで二〇分だ。その途上、酒屋でスコッチを買い、罐詰をふたつくすねた。きょうはオイルサーディンとオリーブ。なにもおもうところはない。アパートに帰って酒をつくり、汚れたベッドに坐った。サイドテーブルには読まれないままの本がある。たとえばシオラン「時間への失墜」、ファンテ「太ったウエイトレスからの口づけ」やなんか。二月、いまの仕事に就き、翌月生活保護は切れた。それでも入る金は一万しかちがいはない。寝る、起きる、喰う、仕事、そして酒、眠る。とてもかつてみたいに本を読むことも、なにかを書くことも、ギターを弾くのだってできない。もっとましな職を探すべきだ。それでも帰って来ると、疲れと焦りでいっぱいになった頭が酒を求める。カナメは根っからのアル中だった。父の、その父みたいに酔うと暴れた。かつてじぶんがされたように父を撲り、母を罵った。いくつもの飯場と病院を転々としたのち、みずから町へでて役所にでむいた。それから二年、断酒会や集団療法に加わった。内心、こんなちんけなものと吐き棄てた。はじめて持ったじぶんの室、だれも訪れないところ。

 

 

   *

 さておれは昼餉を喰いにでていこう。スーパーで夕餉の食材を買い、図書館にいく。──じゃあな。

 

 

輝く断片 (奇想コレクション)

輝く断片 (奇想コレクション)

 
クライム・ウェイヴ (文春文庫)

クライム・ウェイヴ (文春文庫)

 

 

贋アメリカ小説

 

   *

 

 「ニュー・カラーの写真家が好きです。旅の匂いがしてるんです」──社交辞令でわたしはいった。たしかに写真もそのジャンルも好きだ。でも、だれにもいいたくはなかった。あの老人のために自尊心を切って渡したようなものだった。「パラダイス・ギグ」での個展と演奏はあまりいいものじゃなかった。聴き手の求めるものがはっきりとしなかったのもある。しかしそれよりも病んでしまうのはかれらが、かの女らが、ずっとアクションを求めてるということだった。あいにくわたしはパフォーマーじゃない。電気椅子はどこにもなかった。踊るためのフロアに大版写真と楽器をひろげ、わたしたちは演奏したんだ。ひとをびっくりさせたいとか、悲鳴をあげさせたいとか、そんなものは手放した。
 いまは夜。会場の撤収はおわり。なにもすることがないなんてうそだ。歌詞を書き、コラムのアウトラインを仕上げる。もちろんこの小説もそうだ。物語は放擲された。でもひとびとは愛し合う、憎しみ合う、あるいは孤立する。長距離運転の滝田がハミングしてる。フィル・セルフェイのカセットにむかって。かれはドラムの国に棲んでる。無国籍だが血筋は正しい。正真正銘ブルテリア(人型)。
 「おれらのパラダイスはどこだ?」
 滝田はパブに行きたがってた。それでは金がかさむ。でもかれは我慢なんかしない。「おれらのパラダイスはどこだ?」。わるいがいわせてもらった。「よそ者にパラダイスはない!」。地上を雲が流れる。冬の地平をずっとおれたちは走る。わたしはこんなところまでやってきたというのに、日本での1夜が忘れられないでいた。詩人で写真家の友人が、ずっとカフェイン錠を呑んでいた。エナジードリンクとともに。それで死ぬんだっていって。でもかれにそんなことができるようにはおもえなかった。わたしが廊下にでると、かれの嘔吐が聞えた。旅の支度が迫っていた。ノートをいちまいちぎってペンを走らせた。もしかしたらかれにイメージを与えられるかも知れない。そうすれば死なずに済むだろう。
 《裏庭日記、もしくは孤独のわけまえ》──おもいついた、たったそれだけを書いてドアに挟んだ。滝田が待っていて、スティックをふっていた。そして笑う。
  徒足(むだあし)だったな。あいつは死なねえよ。
 たしかにそうかもしれない。でもわたしにできるのはあれだけだった。かれがなんとかして作品をつくってくれるのをただただおもいながら、アメリカの夜を走ってる。

 

   *

 

 深夜の給油のあいだじゅう、滝田はバッテリやらエンジンオイル、配管の具合まで、すべてを見た。あきらかに苛立っていたし、スピーカーの音響にも怒っていて、なんどもスイッチを押した。配線も見た。
  もういいだろう。店主が降りてる。
滝田はおかしな声で草を買いたいといった。
   おーおー、おれも落ちぶれたもんだな。
ないのかよ。
   いーやー、あの小屋にある。
いってくるよ。
   どっかで休んだらどうだ?
  もうじき休むことになるよ、いやでも。
 やつのブルージーンはとてもよかった。ヴィンテージものだろう。わたしの趣味ではないが。排煙を嗅ぎ、おれたちはパラダイスにむかう。滝田はほくほく顔で車に乗って、店主にチップをはずんだ。まあ、いいだろう。わたしにはどうだっていい。
 パラダイスなんていうものはないとわたしは滝田にいった。ちんけなバーでピンボールをやるだけだって。やつは聞かなかった。ハンドルを握って夜の果てまで走るだけ。けっきょくはふたりとも疲れ切ってタコマの安宿に停まった。モーテルの灯が悲しかった。そしてちかくの酒場で呑んだ。CCをジンジャーでわった。アイラ・オブ・ジュラをロックで呑んだ。女はいない。カウガールはどこにもいない。おまえのギターはな、と滝田が口を切った。油漬けにでもして3年寝かせろよ。──それからどうするんだ? おまえのタムでジャムをつくるのか?
   おい、中国人ども。
 店主がいった。──おれたちは中国人じゃない。
   いざこざを起すな。それからポットはてめえの室でやれ、ここじゃあ解禁されてねえんでな。
 わたしたちは黙ってそれぞれのを呑んだ。音楽はなし。地元の年寄りがあたりでわたしたちを眺めていた。どうってことはない。そろそろひけようとおもった。わたしだけでもいいから。ところがだ、滝田がひとりの男と撲り合いになって、そのままガラスごと外にだしてしまった。いったい、なにがジェーンに起こったのか?──しかたなくわたしが運転になった。滝田はジュラのボトルを持って来てた。なんていいやつなんだ。おまけにポットまである。わたしたちは立派な犯罪者だ。適当なクリークの近くに車を置き、歩いてモーテルに来た。特大サイズでビニールのポニーが迎えてくれた。それまでにわたしたちは10キロも歩いていた。若い女が降りてきた。薄茶色のみじかい髪に、昏い緑色の眼をしている。
   泊まりたいの?
  もちろんだ。
   草の匂いがしてる。
  ほんのお土産だよ。
   ありがとう、安くしておくね。
  ありがとう。──MISS──?
ロージー・フロスト。詩人とおなじ綴よ。
  詩を書くの?
   兄が、──もうやめちゃったけど。
わたしはさっきの事件が大事になるかどうか、札を切った。占いは得意じゃない。でもやらなきゃいけなかった。でもけっきょくわたしはジュラを呑み、ポットを吸った。なにもかもが大したことじゃなかってわかった。いいポット、いいフロスト。かの女のような娘と寝てみたかった。でもわたしはもうへろへろだ。滝田にまかせてさっさと寝ちまった。
 翌朝、滝田の姿はなかった。カウンターにメモがあってロージーとでかけるとあった。きょうの夜には「ホワッツ・メモリーズ」での催しがあるというのに。どうしろってんだ。待つしかなかった。窓から見える、さむざむしい土地を車が入ってきた。黒いシボレーだ。もしかするにもしかしたらだ。降りてきた男はおれをまともに見ず、いった。──ロージーが出てったみたいだな、勝手に。
  おれはなにも知らん。おれの相棒と一緒にどっかにいってしまったんだ。
   おまえ日本人だな、トヨタの工場はひどかった。
  おれもそう聞いてる。ひどいってな。
   おれはロージーの伯父だ。──この国は好きか?
わたしは答えなかった。好きな土地はある、ひとがいる。ただそれを説くには物事が急過ぎる。
  ロージーこそいったいなにものなんだ?
   かわいそうな娘だ。
 それ以上はいえないみたいだった。男は滝田の特徴をおれから訊きだし、さっさと村の寄り合いへ電話をかけた。そしていなくなった。それから1時間、2時間、3時間、4時間。冬の陽は暮れていく。わたしはそとへでてあたりを歩き回った。とまれ!──聞えたときにはもう頭をやられて冷たいところへ仆れてた。気がついたとき、民家の一室に閉じ込められていた。氷嚢がひとつ溶けかかって寝台にあった。殺す気はないらしい。どうしたものか、天井をみつめ、横になった。やがて扉がひらき、若くない女がケトルとグラスを運んできた。互いになにもいわないまま、受け取って白湯を呑んだ。女は椅子に坐った。階下からやがて男がきた。まだ若い男だ。
   おれのことを知ってるだろう?──いいや。
   ハンク、ロージーの兄だ。
  詩を書いてたんだって?──やめろ、死にたいのか!──きみはひとが殺せる気でいるだけだ。母親のまえでなにができるってんだ?──かれらはよく似ていた。──仲間はどこにいった?
  それはわからない。いつ帰ってくるかもだ。
  あした、おれたちはライブがあって、はやく現地にいかなくちゃいけない。あいつなしで舞台には立てない。
どうしていいか、わからない。
   ロージーはまえにおれのやったことで傷つけられたんだ。ひどいものだった。かの女にはなんの落ち度もないのにだ。それからかの女はこの町をでるといって、いろんな男をだましてきた。身体が無事なのが不思議なぐらいに。いっぽうでロージーを襲ったやつらは豚箱をでてからずっとロージーを逆恨みしてる。──手を貸して欲しい。
 おれをじっとみるハンクはまちがったやつには見えなかった。ただ向こう見ずで、落ち着きがなかった。突っ込むのはあぶない。そうはいっても滝田のこともある。おれは訊いた。きみはいったいなにをしたんだ?──2年まえ、村の顔役といっていい男に車を奪われたんだ。一味の棲む家に忍び込んで探した。下っ端をひとり撲った。そのときやつの女が入ってきて、おれはかの女とわるくない仲になった。そしてふたりで帰って来たんだ。──小さな物語だ。車の憾み、顔役の沽券、そして女。
  でも、そいつがほんとうなら、いくべきところはやはり司法ではないか。  
   こんな田舎でなんになるっていうんだ?
 どこにだってもんな揉めごとはある。それはわかる。しかしいまは、まだ滝田がやられたわけでもないとわたしはおもい、車のナンバーを書いてハンクへ渡した。麦藁色の壁に遊覧船を描いた油絵がある。そいつをみつめ、しばらくして立ちあがった。
   ここははじめてか?
  ああ、この国で、どさまわりもはじめてだ。ハンクが笑った。気づけば夕餉のときだ。豆料理と子鹿のステーキがでた。どっちもうまかった。熱い珈琲で流し込み、ひと息つく。そのときだった。戸外を車がスピードをあげてむかってきた。わたしとハンクは物陰からそとを諜った。そこには古く、緑色のダッジがあった。まちがいなかった。けれども乗っていたのはロージーひとりだった。
  滝田はどうしたんだ?
   かれね、吸ってるうちにどっかにいったのよ。
  どっかに?
   わたしもやってたからわかんないわ。
 「そのうち、どっかで見つかるさ」とハンクがいった。わたしにはそうはおもえなかった。いまさら大麻ごときでおかしくなるやつじゃない。どこでやるか、どこでやらないかの区別くらいはちゃんとついてるやつなんだ。
  どこまでいった?
   湖のほうまで。
  案内してくれ。──おれたちは湖へ走った。片道2時間もかかる。なんでそんなところへいったのが、どちらがいいだしたのか。ロージーはなにも憶えてないといい切った。わたしがたどり着いたとき、地面に血のあとをみつけた。追ってはみたが、あっけなく消えた。連れ去られたんだ。冷たいかぜが湖水をゆらし、わたしの胸に入り込む。ロージーとハンクは冷静だった。「このあたりには熊がいる」。だがそれと地面の血痕は噛み合わない。ひとの手が必要になる。車だってもう1台いるだろう。だがおかしなことにタイヤ痕はダッジのそれしかない。じゃあ、ロージーが?──どうして?
   いいかげんにしてくれないか?
 ハンクが痺れを切らした。わたしはあきらめて宿に帰った。夜、たったひとりで「ホワッツ・メモリーズ」にいった。3時間もかかった。ひとりでギターを弾き、ドローイングをやった。客は不在の男について訊いた。消えたなんていえない。病気だといってごまかした。終わって3時間、わたしはふたたび村へ帰った。ロージーは、ロビーのカウチに坐ってポットをやってる。わたしに気づき、笑った。わたしはなにもいわずに宿泊料を払い、じぶんの室へと階をあがっていった。夜の淵に立って、テレビをつける。ニュースに合わせ、なにも考えずに見てた。だれかがドアをノックする。掃除夫だった。わたしはチップをやって鍵を締めた。しばらくだれとも会いたくはない。翌朝、朝食を喰いにでかけた。ちいさな軽食屋をみつけて入った。ひと気がない。でもおれはテーブルについた。
   おまえさんは客なのか?
 老年の黒人がキッチンの裏から現れた。
   テーブルにいるから客なんだろうな、棍棒も持ってないし。
 かれには片耳がなかった。刃物でそっくりやられたみたいで、かろうじて耳たぶの切れっ端みたいなのがついてるだけだ。わたしの脳裏に浮かんだものは、かつて見た写真だった。私刑に遭い、吊るされた黒人たちの。女も子供もなく、血にまみれ、生きたまま焼かれ。
  サンドイッチとコーヒーを。
   おまえさんは旅行者らしいな。どこに泊まってる?
  ロージー・フロストのモーテルですよ。
 かれは動作のいっさいをとめて、わたしを見た。そしてカウンターに肘をつき、冷たい眼で戒めた。──やめろ、あそこからでるんだ、そうでないとおまえさんの生死はわからんぞ。

 

   *

 

 湖水を陽が照らす。わたしはもういちどこの村に来た。生きてるのか、死んでるのかもわからない男のためにできることがあるのか。もういちど確かめに来た。まずはフロスト伯父に会った。かれは猟銃会の古顔で、銃砲店をやっていた。客が来るような気配はない。わたしはそれとなくかれの生業を確かめた。ビル・フロストは予備保安官であり、金の多くはそこからだった。ロージーの事件のとき、やくざもののひとりを見つけだし、しばりあげたのもかれだという。ロージーはいまどんな暮らしをしてるのか、仕事は宿だけなのか、危なくはないのか。それらの問いにすべて答えなかった。つぎはハンクに当たることにして連絡先を訊く。
   おれたちを疑っているのか?
   警官の仕事を奪わないでくれよな?
 たしかにわたしのやれることではなかった。届けはもうだしてしまっている。しかし、7日が経っていた。わたしは車をだしてハンクの家にむかった。村の図書館で働いてるということだ。昼だというのにやけに暗いところだ。廊下のカウチには死体のような老人どもが脚を伸ばして眠っていた。どうやらここも村の寄り合いでしかないようだ。ハンクが台車を押して歩くのが見えた。
  ブローティガンはあるか?
   生憎、ビートやそのへんはおいてないんだ。
それは残念。
   ふるい公衆道徳が赦さないんだ。──ぼくの室にならあるが。
  いや、いいんだ。
 ところで、とわたしはいった。あんたの伯父さんは保安官、ロージーについては黙秘している。滝田についちゃどうかわからないが、組織との癒着だって考えられる。あんたがたがロージーを守るために生贄を捧げたってね。──ふざけるんじゃない!──ハンクは台車を放りだしてわたしに掴みかかった。逆恨みもいい加減にしろといわれた。そうかも知れない。図書館を追われ、わたしは酒場にいった。冷えたビールと、スコッチがあればいい。小さな村だ。店主はわたしを知っていた。
   あんたか、仲間が消えたってのは。
  だれに聞いた?
   もちろんビルだ。
  おれが知りたいのはロージーの素性だ。
   よそものが訊いていいことじゃない。
  ビル伯父もそういったよ。だがそんなやり口じゃ、まるで隠しごとあるって宣伝してるようなもんだ。
   なあ、よそもの。おれたちの流儀をわかってくれ。みんなどっかに傷はある。それに女の子だ。赦してやっていいだろう。
責めるつもりはない。ただなにがあったのかを知りたい。
   勝手にしな、
   黄色いの。
 ラフロイグに口をつけ、ビールで舌を冷やした。どうしてこんなところにやってきたのか。道を撰んだのは滝田だった。だけどかれ自身が消えた。店にいるのはわたしだけだった。そろそろもどろうと立ちあがったとき、男が入ってきた。ひとりだ。若い。保安官助手らしかった。青い制服で、顎をしゃくった。「来てもらいたいんだ」。わたしたちはおもてへでてかれの車に乗った。エンジンは切ったまま。
   ここで消えてくれればなにもいわない。
  そうでなければ逮捕か?
   そうはいってない、国外退去ってとこだろう。
  わるいが友人を探してるんだ。
   もう死んでるかも知れない。血痕に大麻、そしてロージーだ。もしかしたら組織に連れられて熊の餌だ。ろくな死体さえ残らない。  わたしは、いずれこの国を発つ。──できることはぜんぶやらなくちゃ気が済まない。──組織はどこにある?
   狂ったか?
 かれは黙ってわたしの眼をみつめた。そして少しだけ口をゆがめ、歯を見せた。笑ったつもりのようだった。さて、わたしのほうも笑わなくてはいけなかった。歯をみせてやった。
   いいだろう、遠くから拝むだけだ。
 村の中心地から幾分南東へそれたあたりにちっぽけなモーテルが、売春宿があった。おそらく裏賭博に遣われてるだろう小屋もあった。色褪せた看板たち。そのなかに大きな映画館があった。そこがやつらの巣だった。
 '81年に「血に飢えた断末魔」を上映してから、あいつらはここを根城に生きてるらしい。女を喰ったり、土地を転がしたり、違法労働者の派遣もそうだ。そして役人とはいい仲らしかった。
  ロージーはここで襲われたのか?
   そうだ。──でもじぶんからだった。
   兄を助けるだめだった。
 ふたりともことばを失くし、ただ坐ってた。無線のノイズのなかで田舎らしい事件の報せが聞えた。かっぱらい、飲酒運転、夫婦同士のいさかい、子供同士のいさかい、役人の失踪やなんか。やがてかれが車をだした。黙ったまま市街へ。あたらしい建築たち。そのひとつを指した。泊まるならあそこがいいだろう。──ばかな気は起こすなよ。あと一週間、猶予をやる。わたしは黙ったままホテルに入った。荷物を渡し、掃除夫にチップを与え、室にあがった。角部屋で大きな張り出し窓がある。ポーターにもチップをはずんだ。そして食事について考えてたとき、電話がなった。ハンクからだ。保安官助手から聞いたという。この町でうろつかないでくれといった。疲れきった声だった。わたしは喰い下がった。──あの映画館でなにがあったんだ?──電話は切れてしまった。
 わたしは町をうろついた。その果てのバーへいった。まるで街区から隔離されたようになにもところにひっそりとあった。店に入ってすぐわたしは少したじろいだ。どこを見ても黒人しかいない。かれら専用のバーだった。しかしいまさらそとへでて長い道を歩く気にもなれず、カウンターに着いた。異物を視るかれらの眼。わたしはビールを頼んだ。つよい酒に頼っていいものか、まだわからないからだ。バーテンは、おれは気にしないという態度でビールをだした。そういえばこの町で黒人を見たのは、あの軽食屋以来だった。おれが2本めに入ったとき、若い男が声をかけて来た。
   どっから来たんだ?
  日本だ──旅烏って身の上さ。
   なにをしてる?──絵を描いたり、ギターを弾いたりしてるよ。──おれが聞いてる話とはちがうな、そういってかれは凄んだ。
 「あんたはロージーのところから来たんだろ?──もちろん問題があって」──だれから聞いたんだ?──削げ耳のギルからだ、このまえいったろ、あそこの軽食屋に。──きみらの情報網は凄いな。──話を逸らすんじゃねえ、あんたのためにいってるんだぜ、消えた仲間なんか忘れちまえ、さっさと帰りな。──わたしは黙ってうなずいた。酒代をおいて、立ち上がった。若い男も立ち上がった。わたしの耳に囁く。──もしも、あんたが組織を狙ってるんなら手を貸すぜ、どうだい?──生憎、そんなつもりはないよ。わたしにはとてもできないさ。──早く帰れよ。──その声を背で受け、ホテルまでの道程を辿った。いったい、ここはどこなんだ?

 

   *

 

 ロージーが入ってきたとき、わたしは滝田の写真を見ていた。ロージーはわたしのそばでなにもいわず、寄り添って窓に靠れた。わたしはかの女からのことばを待ち、滝田とのことを考えた。やつがはじめてわたしの個展にやってきてドローイングを見たこと、わたしがやつのライブにいったこと、ふたりで音楽をはじめたこと。「おまえもおれも自由の代償を払ってるんだ」というやつのことば。
   兄から聞いたわ、あなたは最低よ。
  その通りだ。
   わたしのからだを見る?──傷口に触ってみる?
  そんなことじゃないんだ。ハンクの話しをしてくれ。
   兄のなにを?
  かれはずっとこの村にいたのか?
 「司書になるまえは州立大にいたわ。詩を書いてたのよ。大学の詩人会にも入ってた。有望な詩人だった。でも郷土史を書こうと記事を調べてたとき、祖父と組織のつながりを知ったわ。ずいぶん落ち込んでた。それでも書こうとしてた。夏休みに帰ってきたとき、詩人会から告発状が届いた。──供託金をかれが盗んだとあった。でもアリバイがあった。それを証明しようとしたとき、電話があった」。
  どんな電話だ?
   もうやめましよう、こんな話し。
   淋しいのならわたしがいる、どんなことでもしてあげる。
 いったいどんな──もうロージーにはなにも見えてなかった。ヘロインでもやったのか、眠たそうな眼でわたしを捉え、押し倒した。寝台のスプリングが鳴り、12匹の菟のみたいにうごきだした。わたしにはどうすることもできない。ロージーはまともな女じゃない。きっとだれかに薬と命令を受けてる。そのからだは真っ白で、冷たかった。わたしはかの女のからだを引き剥がし、カウチに運んだ。
  おれは淋しくなんかないよ。ハンクについて訊いてるんだ。
   いったいなにさまのつもり?
   そんなに知りたきゃ本人に聞けばいいことよ。
  いいや、かれは話さないだろう?
   わたしを連れだしてくれる?
  ぜんぶがわかったら。
   ならいいわ。──電話があったの。きみの記事を買い取るって。それでハンクは待ってた男に記事と資料を渡したの。
   詩人会は金のことをまちがいだと謝った。だけど、そのあと高級車がハンクへ贈られて来た。ハンクは返しにいった。
  あの映画館へか?
   そうよ。
 階下から足音が聞える。窓の下には銀色のルノーがあった。おかしなことにならないうちに、わたしはすべてを聞きだすつもりでいた。だが遅かった。ロージーの握った拳銃がこちらをむいている。小ぶりな自動式だ。らりってるぶん余計にあぶなかった。ちくしょう。
  わたしを殺すのか?
   いいえ、愉しんでもらうの。
   日本人ってけっこうおもしろいんだから!
わたしがかの女の手をとったとき、男がふたり入ってきた。ひとりはメキシコ人、もうひとりはレッドネックと呼ばれる貧乏白人だった。チェックのシャツにデニム、そしてブーツ。レッドネックが口火を切った。──ロージー、おまえは喋りすぎだ。ふたりとも映画を観る必要がありそうだな?──わたしたちはルノーに乗せられ、映画館へきた。上映作品のリクエストまではできないみたいだ。入り口ではビル伯父が待ち構えてた。──いったいどういうつもりなんだ?
 貧乏白人にわたしはいった。やつは答えず、車を駐車場へまわすと、降りてドアをあけた。ふたりとも降りろ。──わたしはビルを見た。ライフル銃を持ち、かたくなな面持ちで立ってる。衛兵みたいだった。わたしたちはなかへ通された。座席を越え、舞台にあがる。スクリーンの裏手に事務所があった。あるいは拷問部屋かも知れない。
   教えてやろう、ここだけの話だ。
 レッドネックが喋りだした。首にナイフの痕がある。──あのとき、ハンクはここへ車を返しに来た。社長からすれば当然面子をつぶされたってところだ。ものを察した三下がハンクを吊るし上げようとした。とちりやがった。反対に腕を折られた。ハンクは恐怖からか、ほかのやつらにも立ちむかった。そのとき社長の女が入ってきた。見物のつもりだったらしい。だが撲られたやろうに巻き込まれ、舞台から落ちたんだ。頭を打ち、重度の癲癇と診断された。ものや金で済む話じゃなくなった。社長はビルに電話をした。いい提案を期待してだ。そのやりとりをたまたま聞いてたロージーはたったひとりでここに来たんだ。かの女は薬を仕込まれて7日間、ここで過ごした。解放されたときには毀れてしまってたよ。薬と男なしじゃあ、生きられない娘になってた。
  ロージーがくすくすと笑った。そこにいる全員を嘲るみたいに嗤ってた。

 

   *

 

 滝田への線はどっかにいっちまった。やつはロージーと寝たのか。ホテルにもどってロージーに訊いた。──ええ、もちろん。大人なふりして初なひとだった。あなたのほうはどうなの?──おれのことはかまわないでくれ。わたしは苛立ってた。ロージーを救えないこの村の大馬鹿どもや、映画館のやくざたち、そして兄だというのに妹を守れなかったハンク、甥や姪をほったらかしに組織とつながるビルにもだ。怒りではちきれそうなわたしを眺めてロージーは子供をあやす母のように髪を撫でてくれた。わたしたちは窓にもたれて泣いる。雨がふってる。北のなかの北へわたしはむかいたかった。──あなたの話しを聴かせて? わたしは、──おれは話した。
 冷え切った家庭に育った。父と母は半目しあって、とてもじゃないが愛も情もなかった。日本の経済がわるくなっていくなかで、大人も子供も不満を募らせてった。あたまのわるい、勉強もスポーツもできないおれは道化を演じることでなんとか逃げてた。それでもわるいやつらが寄ってたかって家庭や学校の憂さをおれの存在で晴らそうとした。だれにも助けてもえなかった。父はいった、おまえができそこないだからと。そして折檻した。母はいった、がまんなさいと。おれの家は貧しかった。ほかの子のようにいい服も着られず、ビデオゲームもなく、ただハンマーや手斧だけがあった。おれは絵を描きつづけた。どんなにばかにされてもやめなかった。
 やがておれは恋をした。12歳だった。かの女へのおもいをたったひとりの友達にいった。かれはおれを裏切ってかの女に告げ口したよ。それからはさらなる地獄がつづいた。生きながら焼かれるように学校へいった。いくしかなかった。かの女の眼はかつてのようにやさしくはなかった。おぞましい容姿、だれもがおれから立ち去り、おれの存在から色を失わせた。大人になっておれは母を苛み、父を撲った。かつてされたことにあらゆるかたちで仕返しを遂げた。けっきょくだれも愛してくれない。それでも滝田だけはおれの相棒だった。やつのいない世界で暮らしてゆく自信なんかない。
 ロージーが寝台へ導いてくれた。おれは、わたしはかの女の胸のなかではじめて愛に気づいた。そしてかの女をまっとうなといころへ連れていくんだと誓いをした。わたしはもうだれにも負けない。負けてはならないんだ。──ロージー、この町をでよう。

 

   *

 

 目醒めるとレッドネックが立っていた。もうひとり知らない白人も。金というより銅色の髪をして、明るいテーラード・ジャケットだ。かれらに連れられて映画館のなかで話があった。かれらはそれぞれちがった電話で、ロージーに薬を売ってるYことイェーガーに連絡をとった。毀れた映写機からとつぜん、映画が流れた。「ポイント・ブランク」だ。ウォーカーが撃たれ、物語りが始まるところだ。知らない男が入ってきて、スーツケースをあけた。一見して紳士風のその男は細身のからだをねじるようにして椅子に坐った。
   元締めは、わたしだ。fiveと呼ばれている。
 「fiveはいい医者だよ」とYがいった。黒い髪をうしろになでつけてる。ボクサーくずれといった感じ。──fiveがいった。「わたしは組織が欲しい。わたしの命令で殺しをやれば硬いだろう。この田舎だ。掃除はたやすいもんだ、日本人。──ひとひとり最高300までだ」。
 おれはロージーを助けたいだけだ。
 殺しはしたくない。
   そうはいかない、きみはもう立派な内通者だ。──話は決まったね、Y。──もちろんだ、five。──わたしの手に回転式と、自動式とが握られた。わたしには殺すつもりはなかった。だが、あきらかにあやしいのはYであって、ほかじゃない。ロージーの薬はと、わたしはいった。──見せ金は?──ロージーの薬は?
   ばかをいうなよ。
   わたしはまっとうな医者なんだ。
   アンプルだってきれいなものさ。
 おれはなにもいえず、かれの指示を聞いた。この映画館に関わる人間を消していった。ひとりひとりと。どいつもこいつもなぬけだった。平気なつらで地下鉄にいたり、競馬場で両足を伸ばしたり、死体になるか、Yの餌食になるかは、ほんとうにかれらの自由だった。このあたらしい生活にロージーは馴染んだ。じぶんのきらいなやつがぜんぶ殺されるって昂ぶった。たしかに1週間もすれば、らりらりのロージーを知る、淫売野郎がいっきに消えた。おれは報酬を片手にロージーを抱いた。眠りそうになった。Yに狙われてる気がしてカウチから落ち、ラジオをつけた。モダン・ジャズ専門局で不安を掻き消した。おれはかれを殺さないといけないのか。
 眼がさめるとからだがうごかなかった。ロージーが笑ってる。わたしに薬をやらせたらしい。床に縛りつけたれたみたいだ。わたしはカフカの虫を連想した。ロージーが林檎をもってる。やめるんだ! やめろ!──声がでないのに叫ぼうとした。ロージーは仲間になって欲しいみたいだ。わたしのからだにぴったりとからだをくっつけて、酩酊のなかで一緒になった。気分がよくなってきた。10時間も経って薬は切れ始めた。シャワーを浴び、炭酸水をあけた。ロージーが口づけをし、わたしはわるい気分じゃなかった。電話だ。次の仕事がやって来た。
   ビルを殺れ。
 わたしは戸惑った。ロージーに話をした。──ええ、ビル伯父さんを殺してよ。──なにがあったんだ。──あいつらと一緒にわたしを嬲りものにした。──確かなのか?──わたしを疑るの?──おれにはわからない。──Yが手はずを整えるはずだった。しかし映画館へいったとき、そのビルしかいなかった。
   きみはまだいるのかね?
  Yがあなたを殺せといってます。
   きみは正気とはいえないな。薬で洗脳されてるんだ。わたしはだれの敵でもない。ただの予備役で、銃砲店の主だ。──そういったせつな、かれはわたしの首に両の手を突っ込んで来た。首をロックして、扉へ叩き込んだ。どうすることもできない。わたしははかれの足を蹴ってあいだをつくる。そして空砲を撃った。
   きみがおれを殺す理由は?
  Yしかそれを知らない。
   なぜだ?
 わたしはきっと連続する殺人であたまがおかしくなってるんだ。Yを呼ぶべく電話をとった。──いったいどういうつもりあがって、ビルを殺さなきゃならない。やつはロージーを監視してる。この町からでられないようにだ。
  あなたがやったらどうだ?
   そんなにその老いぼいれが大事か?
  そうじゃない。おれの目的とはちがうんだ。
   目的なんか必要ではない。──待ってろ、おれが殺してやる。
おれはビルにいった。逃げるならいまのうちだと。おれは保安官だ。やつらには負けん。だがおれがやったことは赦されないだろう。ロージーに眼をつけたのはおれだ。かの女に電話してハンクが危険だといったのもおれだ。いまさら逃げてどうなるんだ。──ビルは映画館へ失せた。わたしはホテルに帰った。ロージーは、グラスをやりながらわたしを待ってた。わたしもグラスをやり、ふたりで一緒になってしまった。これでいい。これでいいんだとじぶんにいった。いまごろビルは処刑されてるだろう。知ったことじゃない。でもおれは殺人には飽き飽きだった。ロージーを連れだして逃げたい。でも村はやつらでいっぱいだ。five、Y、もしかして全員殺さねばならないのか。またも電話があった。なまえの知らない声のあと、また知らない声がした。
   きみが殺し屋の日本人か?
  ああ、そうだろうな。
   きょうはビルが死んだ。
  あれはおれじゃない。Yとfiveが殺った。
   連中が?──どうして?
  かれらに聞いてやってくれ。
 日本人、かれらを殺す気はあるか?──でないとこの映画館がもたない。のっとられる。
  fiveはそのつもりだ。──とりあえず主要人物をぜんぶ映画館にあつめてくれ。──一度話しをしよう。おれはホテルの地階に降りてビールを買いにいった。帰ってきてエレベータを待っているときだ。だれかがちかよってきた。ロビーの年老いた黒人だった。わたしの肩に片手を乗せ、苦い笑みをみせた。またか、とわたしはおもい、身を躱す心づもりをした。かれはいった。
 「あんたがどういうつもりかは知らない、知りたくもない」──あいつらは、──組織といえばいいのか、──もとはといえばおれたちを私刑し、奪いとってきたやつらだ。その果てが組織だ。役人やら警官を抱き込んでる。──あの映画館だってもとは、おれのダチ公がやってたんだ。──いいかい、日本人。おまえが組織につくんなら、碌な死に方はしないだろう。やつらを潰したいなら、いつでも相談してくれ──じゃあ、愉しい旅をせいぜいやっておくれ。
 一方的に喋って出ていった。かれの顔の片面には、ふるい火傷の痕があった。いったい、どうすればいい。助けを乞うのはたやすい。でも、それがだめだったら。失敗に終わったら。ロージーもわたしも生きてはないだろう。黒人たちだって無事では済まない。おれはエレベータに乗り、そいつが成層圏に達するまで待つ。生憎、最上階は8階だった。なにも考えたくはない。ビールをあけ、ひとり呑んだ。


   *

 

 映画館に着いた。声の主を求めてわたしは扉を叩いた。はじめにレッドネックがでた。わたしを招き入れて舞台まで歩く。スクリーンのまえにはY、裏にはfiveと、見たことのない顔があった。かれが社長ことスコフスキイだった。緑色の眼でわたしを見る。太りかけたからだをスーツで匿い、銀縁の眼鏡が光ってみえた。楽に話しを進めようとかれはいった。登場人物全員が焦ってた。出し抜かれまいとゲームを始める。ナイト、クイーン、ポーン、あるいは桂馬。机のしたで足を蹴り合う子供みたいに、意地のわるさが際立ってる。わたしはだれを殺すのか、だれから殺すのか、だれがいちばんロージーを苦しめたかを算段に入れた。そいつはスコフスキイと、ハンクだ。
   狙いはなんだ、現ナマか?
  そうだ、──でも贅沢はいわない。
 Yとfiveはわたしを睨みつけ、牽制する。社長はレッドネックを呼び、金を持ってくるようにいった。指3本を突きだした。わたしはナイフの柄をポケットのなかで握った。やがて現金が来て、社長が受け取った。素早く勘定を済ませ、わたしのほうに差しだす。立ちあがってテーブルを見下ろした。不意にうしろからレッドネックがわたしを撲り倒し、長いあいだ眠った。ひさしぶりに眠ったような気がする。夢のなかでテープレコーダーがまわってる。録音室らしい。でも歌手も技師もない。わたしはだれかのために青い馬を育ててる。首のみじかい、おかしな馬だ。やがてレコーダーがとまって、スピーカーから滝田の声がした。わたしはかれに助けを求めた。
 テーブルのうえにわたしがいた。からだを縛られ、どうしようもない。足も手も首もだめだ。社長がわたしを見下ろしてた。自由になりたいか?──自由には金がかかるんだよ。きみは少しばかりついていた。でも、まちがった道を歩いてたんだ。──わたしは黙って天井を見た。蜥蜴のマリアッチが描かれてる天井をだ。なぜこんなところにいる? ツアーはどうした? 音楽はどうしたんだ?
   きみがYやfiveを殺るのなら放してやろう。
   わたしに忠誠を誓うんだ。
 選択の余地はない。けっきょくわたしは1週間でふたりを殺すことになった。わたしはあたらしい銃とナイフを授かった。黒人には気をつけろともいわれた。わけは訊けなかった。それから町へでて、あたらしい宿に就いた。ラジオに耳を凝らした。Cursiveの"What I have done" が流れている。懐かしい歌だ。ひとりぼっちでアルバムを聴いていたときをおもいだす。
 おれがYを殺ったのは火曜日の雨の日だった。午後6時、ダンスクラブのマスターとして働きにいくかれを尾行した。車はスコフスキイが手配した、ラッピング・トラック。炭酸ジュースの広告がでかでかと載ってる。やつが駐車場に車を停めた。車を降りた。店へ入る。姿は消える。わたしはトラックをやつの車のまえに停めた。でられないように。ラジオに耳を傾け、口笛を吹く。そしておれも姿を消す。夜になって霜が降りてきた。やつが駐車場にもどるまで、手前のレストラン・バーで食事をとった。ありきたりのステーキに、つけあわせの野菜と赤インゲン豆、そしてコーヒーを味わい、窓の隅から様子を伺った。やつは駐車場で慌ててた。携帯電話でどっかにかけている。おそらくそこの管理人だ。わたしはバーをでる。ポケットのナイフに祷った。やつを殺させてくれ。お願いだ。ロージーのためだ。
  どうかしましたか?
   車がだせないんだ。
 Yの顔が一瞬、静止した。声もない。
   なにしに来たんだ?
  車を取りに来たんですよ。
 ナイフでやつの腿を刺した。下から突きあげるようにして。感触はない。倒れかかったやつを蹴りあげ、脇腹から腰を抉った。やつは膝を折って崩れ落ち、頭を打って仰向けになった。雨が血を洗い、やつのからだから体温を奪っていった。死はもうじきだ。わたしはトラックに乗って走り去った。そのあいだずっとハミングしてた。ラジオから流れる、Joy Divisionに。《But I remember when we were young》──わたしはまた宿を変え、考えた。愛についてどれほど勇敢であっても、感情にふりまわされる愚かものであってはいけない。つぎはfive医師だ。かれをどうするか。おれはなぜこんな諍いにこだわり、ひとまで殺すのか。殺せるのか。ずっと心のなかにあった復讐心かも知れない。父への、母への、同級生たちへの。
 医者は隣の村に棲んでた。金曜の夜。寒さはずっとひどい。白亜の城と昔ならいわれただろう家は、くすんだ黄色や灰色になり、植え込みの花は枯れてた。荒んだ生活が見えた。しかし車は真新しいアウディだった。道へ油を撒く。車の動線にたっぷりと注いだ。朝、車はおもいどおりに滑って、路肩に突っ込んだ。わたしはやつを助けるふりをしてドアをあけた。エア・バッグが作動し、やつは気を喪ってる。わたしはやつを混紡で叩き殺した。返り血が顔や服を濡らした。いい気分じゃない。わたしはじぶんの車に乗った。またしてもラッピング・トラック。顔を洗い、服を着替え、タオルと一緒に荷台に隠した。もちろんのこと、警察だって黙っちゃなかった。いくら内通者がいようが死人が多すぎる。それにおれは失った仲間を待つひとりのよそものだ。叩けば埃がでる。おれはロージーのところへいった。あとひとり、スコフスキイさえ殺してしまえば終わりのはずだ。そう信じてかの女を抱いた。電話がかかってきた。ハンクからだ。
   この豚殺しめ!
  いきなりなどうしたんだ?
   おれは失せろといったはずだ。
   なぜまたおれの妹に手をだすんだ?  
  かの女を傷つけたひとりはおまえなんだぞ。
  いったいどの口がいってるんだ?
 わたしは怒って電話を切った。
  ここからでよう、ロージー。
   だめよ、わたしは。もうなにもできやしないって。
 長いあいだ、窓を眺めた。どこにも警官の姿はない。だが確かにリストには入ってるだろう。やがて夜になって、ロージーは眠った。アルコールと睡眠薬をまぜてた。とめようとしたときには、もう口のなかだった。わたしはかの女を寝台まで運び、寝かしつけた。坐ってかの女を眺めた。おれはどうしても、かの女から離れたくなかった。ハンクの白いピックアップがモーテルの裏手に駐まり、かれが降りて来た。まっすぐこちらにむかって来る。そして寝台のロージーを見、わたしを見た。
 「組織のやつらを怒らせたみたいだな」──ああ、そうらしい。──おまえは何人、殺すつもりなんだ?──わからない、ただかの女を救えればいい。──おまえなんかに救えるはずがないさ。──薬はあんたが渡してるみたいだな?──長い沈黙がずっとつづき、やがてハンクは階下へ降りていった。そしてそのまま朝までどっかに消えた。光り。

 

   *

 

 金曜日の夜。わたしは保安官助手に連れられて警察署に来た。滝田らしき死体があがったらしい。射殺体だった。凍てついた湖岸に守られ、きれいなものだった。まちがいなく滝田だった。わたしはしばらく黙って立ってた。さまざまな手続きが待ってた。でも動けなかった。しかたなく一晩だけ、待ってもらった。わたしはいったいなんのためにたくさんの血を流してきたのか。そいつは虚無以外のないものでもないようだ。ロージーと一緒に酒を呑んだ。安いバーボンだ。工業水の味がした。多くの死者、それもじぶんが殺ったやつらの死に様が、わたしの眼を覆い隠した。滝田を殺ったのはロージーだ。でも、かの女を責めたところでしかたがない。過古のわるいおもいでがそうさせたのかも知れない。それ以上の追求はできないだろう。わたしはもっとましな酒を求めて宿をでた。酒場をいくつかまわって、ロージーのもとへ帰る。手にはカティ・サーク・ストームがあった。べつにこれだっていいものじゃない。でもヘヴン・ヒルよりかはずっとましなはずだ。外套を脱ぎ、カウンターに投げ、ラウンジで待つ、かの女のために、2杯の酒をつくった。おれはコロナ・スマトラに火をつけ、大きな鰐みたいなソファに坐る。ロージーは媚びるような眼差しをしてわたしを見た。
  映画、観ないか?
   どうしたの、急に?
 なんでもいい、とにかく観よう。わたしは遠くの車からプレイヤーを降ろしてテーブルに置いた。電源を繋いで、ソフトを入れる。ふるい日本映画だ。題名は「野獣の青春」。暴力以外のなにものでもない映画だった。
   へんな映画ね。
  そうだ、おかしな映画さ。
 わたしたちが映画を観終わったあとで、電話がかかって来た。社長からだった。土曜日の夜、劇場に来て欲しいということだった。ロージーも一緒にだ。たぶんわたしたちは殺されるだろう。もうYもfiveもいない。まったくの用済みだ。
  社長はおれたちを殺すだろうね。
   かもね。
 わたしたちは抱き合った。唇を奪い合い、手を握って寝台に横たわった。かの女がじっとわたしを見る。わたしもかの女を見る。翌朝、ハンクのピックアップに油を積んだ。腕時計を使って簡単な発火装置をつくり、夜を待つ。どれも映画や小説で憶えたことだった。すべてを神が拵えたとしたら、やつもわたしも地獄行きだ。わたしは死体安置所ですべての手続きをした。もういちどだけ滝田の顔をみた。大麻をやってる最中だったんだろう、気持ちよさそうな顔してる。胸にあいた穴が釣り合わないほどに。大使館に連絡した。わたしはまったく無知だった。こういったとき、どうすればいいか、かれの家族を探して報せるにはどうしたらいいか、遺体の帰国をどうしたらいいか、まったくだった。保安官に半分まかせ、わたしはかれの遺品をまとめた。旅行記を書いたメモ、手紙の草稿、ライブ会場の連絡帳、カメラやなんか。
 夜が来た。おれはひとを殺したんだ。報いを受けるべきかも知れない。丸腰のまま、映画館までロージーといった。いざとなれば発火装置がある。レッドネックとメキシコ人が扉のまえに立ってる。わたしたちの挙動をすべて見張ってる。スクリーン裏ではスコフスキイ社長が待っている。どうしたらいいのだろう。ためらいながら社長のまえに立つ。
   ひとを殺した感想はどうだ?
  報いを受けるしかないというところです。
   ほう、えらい心がけだ。──わたしにはもう帰る家も国もありません。友人も死んでました。もはやなにも残ってはないのです。
 スコフスキイはわたしのことばが真意からのものか、図ってた。銀縁のなかで両目が左右に動く。わたしとロージーを見較べて、思案してる。長いあいだ、それがつづいた。わたしは気がおかしくなりそうだった。ここで殺されるのか、はたまた別の場所か。そのとき、おもてで大きな音がした。映画館の扉から炎と煙が入って来る。やってしまった。レッドネックとメキシコ人が消化器を持って出入り口に走る。やつらは火だるまになってそのまま見えなくなる。スコフスキイは裏口にむかって突っ走る。そして銃を抜き、まえをむいたまま、わたしたちへむかってを撃つ。おもての扉が焼け落ちる。ピックアップが爆発し、火は受付を乗り越え、客席にまで迫る。わたしはロージーの手を引いて裏口まで走る。スコフスキイが裏口に鍵をかけてた。ふいにロージーが銃を抜き、鍵穴を数発で打ち抜き、扉を開ける。ちょうどスコフスキイがじぶんの車に乗り込むとこだ。マット・ブラックのメルセデスへ。やつがふりむく。その顔はしろい。ロージーがやつの顔を撃ち抜く。穴のあいた顔はマグリットの絵みたいだ。ふりむきざまにかの女はわたしをも撃つ。わたしは仆れ、わたし自身の銃痕に吸い込まれていく。

 しばらして、わたしは立ち上がる。そして歩いてロージーの宿までいく。かの女はハンクと笑ってる。なにを話してるのかは、どうやっても聞えない。おれはあきらめてじぶんの車まで歩く。そして乗り込む。少しばかり凍てついてはいたが、エンジンはかかる。しばらく空ぶかしをして温めたあと、わたしは本来の予定に立ち返り、「ザ・ヴィレッジ」までいくことにした。あさっての昼までにたどりつければいい。村を走る。いろんな人間がみじかいあいだに死んでしまってる。ビルもYもfiveも、三下どもも、滝田も、そしてもちろん、わたしも。中心街を抜け、ハイウェイに入った。路肩にはヒッチ・ハイカーもいる。この寒いのにだ。ばかなやつらだ。そうおもったとき、ひとりの男に眼を奪われる。滝田だ。胸の血が生々しい。乾き切っていない。わたしは車をとめて、手をふる。やつは嬉しそうに走って来る。やつのブーツがいい音を発てる。──どうしてこんなところにいるんだ?
   実は、おれにもわからないんだ、
   でも、
おまえさんが来るってことはなんとなくわかったよ。
  話は走りながらしようぜ、
  つぎは「ザ・ビレッジ」だ!
   よしきた!
 わたしたちは久しぶりに話した。大いに笑った。そして旅はまだつづいてる。わたしたちにはギターとドラムがあるみたいに、あの女には麻薬と男があるということだ。上空に輝く冬の月。菊正宗を呑みたくなった。どっかにあるだろうか。わたしはだれも悼んでなんかいない。ただひとりの仲間を愛するだけだ。わたしの胸もまだ乾き切っていない。血は、それそのものが道であり、標べだ。どこから来て、どこへ帰っていくかなんて大したことじゃない。流れや標べに愚直に従い、たまには裏を掻いてやること。
 たった、それだけのものなのだ。

 

   *

 

ディック・フランシスを読んだことがない

                  ('07年「おかまやろう」改作)


 あわやぶちこまれそうになった。──どこに?──留置場ではない、救済所でもない、失業者相談窓口でもない。おれのけつの穴へ、銃口でもなければ、パイプでもバイブでもないもの。骨のない、やわらくなったり、かたくなったりするものが、皮と肉と管によってできてて、おれやあんたの股のあいだにあるやつがだ。
 「おい、おまえ。そこでせんずりしろ!」──なんでだ、手品はどうした?──これも裏切らせないためだ。──おれは寝台へ、全裸でよこたわり、またぐらをしごきはじめる。やつはそれをじっと眺める。そして鞄からおもちゃのあひるをとりだす。「これがなんだがわかるか?」──おもちゃのあひるだ。──おもちゃのあひるです、だろうが!──すみません。──こいつが怒りだすまえにいき果てろ。わかったか?──やってみます。
 「おまえ、紫色の公衆電話の話、知ってっか?」──いいえ。──まあいい。おまえにいったってしょうがねえ。──ポルノがテレビから流れてる。さえない代物だ。おれは勃つんじゃない! ──そう自身へいいつづけてた。──はやくしろよ、それともおれがしごいてやろうか?──しびれを切らしたか、小男はおれのを掴んだ。立ちあがっておれの背後にまわる。
   おれが入れてやる。
   痛くはない。
 それだけはやめてくれ!──おれは哀願し、なんとかその場を遁れた。いったいなんのためにおれはこんなところにいるんだろう。

 工場は米の投入役を求めてた。採用された。ミラーの「冷房装置の悪夢」を持ってった。ふたりの若い男が退職をひかえて嬉しそうだった。仕事は単純だった。いやなやつがひとりいるらしい。そいつはリフトを運転してた。リフトが運んだ米袋を開封し、脱穀機へながした。父が勝手におれの鞄をあけた。ミラーを見て激怒した。職場に本などもっていくな!──というのが新しい訓示だった。理由を聞いても答えない。従わないことでおれは、その謎を解こうとした。しばらく経って、やつは気に入らないことに怒ってるだけなんだと合点した。福知山の脱線事故のあとだった、「たつや」の女将から電話があった。おれが巻き込まれたのか、心配してくれてた。あの事故で亡くなったひとで知ってるのは、小学生のときに通った床屋の女将だけだ。
 仕事は粉塵による鼻炎がひごく、2週間でやめた。米の粉が吹きあがって来る。マスクをすればよかった。三田の駅前で電話をかけた。やめますといい、途中で切ってしまった。それでも金は入って来た。おれはもういちど東京へむかった。とりあえず路上に坐った。老いたルンペンがよってきた。
 よお、あんた、どっから来たんだ?──神戸からです。なにしてる。──いまはなにも。仕事を探してます。──おれはきょう金が入るんだよ。そのまえに飲みもの、奢ってくんねえか。あとで返すから。痩せたからだに半袖を着てて、金はなさそうだった。それでも、おれは老人を信じて飲みものを買った。見返りのためじゃない。かれは亢奮ぎみに「おまえに11万やるよ!」といった。11万は来なかったが、かれがよくしてくれた。もとはやくざで、移民2世、妻が死んでから路上に入ったといった。菓子パンやスピリタスをわけてくれた。2日たっておれはいった。
  なにか仕事はありませんか?
   ホストなんてどうだ?
   あんた、いい顔してるしなあ。
   あるいはシンナーでも売るかだな。
   しかし最近じゃあ警察がうるせえからなあ。
  飯場とかないですか?
  倉庫とか?
   そういうのならいっぱいあるよ。
 翌朝、地下道でかれは手配師にひきあわせた。話しはすぐに決まった。小さな路線をひきつぎして飯場、加藤組へ来た。そこは八王子の住宅地のなかにあってトタンで覆われてた。まずは食堂に招かれ、ひさしぶりに飯を喰う。つぎに湯に浴みだ。「東京流れ者」を口にしていると、湯加減はどうかと声がする。
  問題なしです。
 室は大部屋で何十人との共同だった。莨に黄ばんだ壁をながめてると、男らが帰ってきた。かるく挨拶をすます。あとはなんにもできることがない。10時の消灯までうごけずにいた。ノートを広げて発想を待つ。観察されてるようなさわりがあった。たしかにだ。ここのまえにも所沢の中村組という飯場にいた。室が決まるまでコンテナハウスのなかに入れられた。室は、3人組の相部屋で、室の入り口にはアニメキャラクタの等身大パネルがあった。初日、中目黒のアパートメントに行かされた。基礎工事の手元作業。コンクリートの打設のため、鉄骨をブラシで洗った。地上へは仮設階段がある。昇り降りするたびに揺れ、怖かった。昼食、おれは弁当を忘れてしまってた。それを察したのか、老人が菓子パンをくれた。夜、仕事から帰って来ると、室の長らしいのが凄んだ。──おまえ、挨拶もできねえのかよ!──ぶっ飛ばされたいのか!──こんなところにはいられない。あたまのいかれたおたくやろうなんざごめんだった。おれはさっさとでた。
 村下渉に出会ったのは、翌々日だった。やつはワゴンの窓際でけだるそうにしてた。現場は大日本印刷・事務所ビル。黒い鉄骨をむきだしにした陰茎のようにみえる。からだがまるでうごかなかった。足場を組むのを手伝ったり、ガラだしをやってるあいま、倒れそうになる。不安定な仮設階段はめもくらむ揺れをくれた。
   そこのおまえ、足場を組め!──おまえ、おれより喰ってるんだろうが!──もっと動け!
 ひょろ長の男が罵声を浴みせるのを黙って聴いてた。こいつを叩きのめして、スコップの味見をさせてやりたい。休憩のとき、おれは氷をタオルに包み、頭にあててた。雨季をまえにして夏は来てる。地下の詰め所に降り、じぶんの飯場の卓を探す。そこにはあのちびっこがいた。──大丈夫か、あんた?──じぶんでもわかるほど顔が青くなってた。坐って相手をみた。160センチ、あるかないかのちびだった。でもこいつだって要領よくやってるんだろう。涼しい顔をしてる。どんなことでも抜かりなしといった様子だった。おれは自身を憐れみ、ただ腰を降ろした。──歳は?──今年で21だよ。──おれとおなじじゃないか!──やつは笑って莨をさしだした。いっぽんとって喫む。つまらねえ代物だ。酒を呑みたかった。やつは村下渉と名乗った。
 「おれはじつはやくざなんだよ」とやつはいった。14歳からかずかずの非行を重ねて来たとか、もとは金髪だったとか、年上の女と実家で暮らしてるとか、医者にハルシオンを要求して拒否されたとか、そんな与太を喋った。じぶんには別に仕事があって、そこは高給で楽ちんだ、おまえも来ないかといった。
  なんでこんなところにいるんだ?
 「しくじりをやらかしてよ、組長の命令で来たんだ。どうだい、こっちをでたらいい仕事がある。──のらないか?」──おれは警戒して遮った。いや、おれもでたら用事があるんだ。わるかったな。──おれは警戒してた。こんなやろうとは離れるべきだ。それでもだんだん。ふたりで話すようになった。晩酌のビールをやつとわけあい、やつが仕事についておれをフォローしてくれることもあった。しかし飯場にも労働にもあきあきしてた。とてもおれのからだに合わない。詰め所でぼやいた。
 もうやめるよ。──やめてどうする?──地元に帰って工場にでももどるよ。──もどれないだろ。──さあな。──おれの仕事についてこいよ。来週の金曜日に満期なんだ。──どんな仕事だ?──それはいえない。でもあんたのことが心配なんだよ。
 ある晩、どぎつい仕事を終え、公園にいった。やつがおれを待ってた。──とりあえず、組長に話しをつけてきた。月20万はかたいぜといった。──それでどうすればいい?──まずは組長のまえで手品をしてもらう。──仕事の内容は?
 「電話をかけるだけでいい。多重債務者にだ。それでおれたちが肩代わりして利子を儲ける。あんたなら1ヶ月はなにもしなくてもいい」──いい出会いに恵まれてる。うれしくおもった。やつの満期で飯場からずらかることにして室へもどった。盆休みになった。8月12日、金曜日。やつは満期。おれは酒壜を鞄にしまいこみ、やつのあとを追った。やつは遅いといった。手元には盆休みの5千円あった。まずはバスに乗って駅をめざした。やつがさえずる。聴くに耐えなかった。
 「おれはまえにいちどバスの運転手をしめてやったよ。おれが1万しかもってねえっていったらよ、そいつ、そんなじゃ支払いにならねえと抜かしやがった。おれはバスからやろうをひっぱりだして、停留所の看板でぼこってやったよ!──あれは傑作だったなあ。土下座もおまけだ」。
 そんなことがやつにできようとはおもえなかった。おれはやつから見えないように酒を口にした。──おれたちは環状線に乗りこんだ。雨脚はつよくなり、やつは落ちつかず、いらだちをもろだしにしてた。そして目的とはちがう飯田橋駅で降りてしまった。おれたちはパチンコ屋にいくことになった。雨が降りだした。帰ろうかとおもった。どこへ? やつがいうに金を作るという。おれが店内をうろちょろしてるとやつがおれの肩を小突いた。──おい、来る気ないだろ!──いや、あるよ。──手品の道具がいる。ビニール紐とばかちょんカメラを買って来い!──やつが千円札をいちまいきり渡した。追い立てられるようにおもてへでた。商店街をみつけ、紐とカメラを用意した。やつが喰わせものとはわかってたが、20万のきらめきは、なかなか消えてくれなかった。パチンコ屋のまえで2時間待ていたらやつがあらわれた。黙ったままだ。換金の列にはくわわり、なにがしかを受けとった。いずれおれはこのことを書くんだ。やつをしっかり見る必要がある。でも、おれのほうも焦ってた。ようやくにしてやつの地元にきた。上野だ。
   ここじゃあ、おれもそれなりの顔だ。敬語で話せよな。
  ああ。──ああ、じゃねえよ。わかりましただ。
  わかりましたよ。

 観月荘の4階に室をとった。古い宿だ。寝台がふたつ、姿鏡が1枚、冷房、テレビ、便所、廊下にはビールの自販機。室に入ろうとしたとき、やつは「バイバイ」と手をふった。どうすんの?──やるよ。──なんでおまえのホテル代まで払わなきゃならねえんだよ!──どうすんだよ。──やり場を喪い、シャワーを浴びた。──その態度じゃ、うちの組長も切れんべ。金が欲しいだけなんだろう?──うちの会社、入ったからには、それなりの働きをしてもらわねえといけねえんだよ。おめえから金貰いたいぐれえなんだよ。おまえ、甜めてるるだろう、こっちはやくざなんだよ。おまえなんてすぐに殺せるんだからな。すぐ、ふてくされるしよ。──耐えかねて、やめるとおれはいった。──それじゃあ、おれの面子はどうなんの?──ホテル代は払います。──兄貴や彫り師は呼んであんの。払わなかったらどうすんだよ。怒られるのはおれ、なんだぜ。室の頭金も払ってんの。払えよ。身分証なんかなくたって探せるんだぜ、てめえの家族に取り立てるぞ!──やつは激昂して捲し立てた。うんざりだ、おれはおまえを信じてたんだ。しばらくしてやつも大人しくなった。たがいにビールを流し込む。やつが話した。組長が今夜これないという。かわりにここで手品をやって写真にとるといった。
   おまえまず、裸になるんだ。
   裸で手品をやるんだよ。
 戸惑っておれが脱ぐ。やつがおれをビニール紐でしばりつける。しかしそれだけだった。あとは要領を得ず、紐はけっきょく切られてしまった。おれの全裸をやつが写真に収める。いったい、こいつはなんなんだ? 問いかけのしようもない。おまえ、そこでせんずりしろ!──おい、手品はどうしたんだ?──裏切らせないためだ。
 テレビが光りを放つ。ポルノだ。おれはいつまでも勃たなかった。いやものを浮かべて勃たないようにした。父の顔や、クラスでいちばんの醜女をおもいうかべた。やつは痺れを切らし、おれのうしろに立った。やつはズボンを降ろして態勢をつくった。
   おれが入れてやる。
   痛くはない。
  それだけはやめてくれ!──あわやぶちこまれそうになった。やつはしぶしぶ、じぶんの寝台へもどった。おれを睨む。坊主頭で、やせぎすで、しかし態度と声だけはでかい。いっぱしのちんぴらやくざにふさわしい声色じゃないか。おれは怒声を浴びてるしかなかった。けつを奪われかけて寝台のうえで正座した。
 まぢめにやれよ!──すみません。──まぢめに働く気もないんだろう!──楽して金が欲しいっておもってるだろ?──もう仕事の話しはなしだ!──聞きながらおれはじぶんがなぜこんなことになったのかをおもいめぐらした。たしかにおれは楽がしたかった。大金を得たかった。まぢめでもない。でも、おれはじぶんの居場所が欲しかった。
 だからっておまえ、逃げるんじゃねえぞ、おれには調べがつく!──逃げればおまえの家族だってただじゃおかねえからな。おれが紹介するから、おまえそこで働け。それとも金持ちババアのヒモにしてやろうか?──金はいいです。とにかく帰してください。
 このホテル代だっておれが払ってるんだぜ、そうはいくかよ。──やつはおれの鞄からノートを引き抜き、なにやら店やひとのなまえを書きだした。ひどい悪筆かとおもえば、きちがいみたいにきれいな楷書だった。地階の電話で、飲食店だかの番号を調べた。104に何度もダイアルし、そいつを書きとめた。見つからない店のほうが多かった。わずかな答えをたずさえて戻った。──おれの先輩がやってる店がある。おまえ、そこいけよ。ボーイの仕事だ。一生懸命働いて母親に仕送りでもしてやれ。そうしたら前に仲が悪いっていってた親父ともよくなるだろうしな。休むときはちゃんと連絡してこういうんだ、明日はがんばりますのでお願いしますってな。そうすりゃ認めてくれる。──さっきまでけつの穴にぶちこもうとした相手にいう科白か?──おまえには夢とかないのかよ?──詩人だ。──なんだそれ、小説とどうちがうんだ?──なにも思いつかなかった。──まあ、おれも駅前で酔って買ったことがあるけどな。いいちゃいいし、よくわからん。──ただただ時間が過ぎるのを待つ。──飯場できらいなやつはいなかったか?──いないよ。おれはうそをついた。これ以上ややこしくなるのはご免だった。やつの説教を再発させたくはない。おれにきらいなやつがいた。茶色いのパーマの男。長い髪で、ジョン・レノンそっくりのやつが。くそ狭い銀行支店、たしか三菱だったとおもう。そこではじめて一緒になった。気性の荒いやつで、おれを追い払いたくてたまらないのだ。どけだの、うせろはあたりまえ。でも、ちがう現場でのことだ。無言でやつのいうことに従ってたら、ひどく困ったつらで「頼むから返事してくださいよお」──か弱い声をだした。──明日は早いんだ、もう寝ろ。
 やつは灯りを消した。肛門が痛みだした。やつは眠ってる。おれはまたしても急性胃腸炎にやられた。便所で嘔吐し、いきんでもいきんでも腹はおさまらず、夜通し便所にいた。肛門がただれるように温く、それはきっと紫をしていたにちがいない。逃げだすこともならず、紫色、それだけがあった。朝、ホテルをでる。具合はまだわるい。やつもまだ不機嫌そうだ。──これ、おまえが処分しろ。おれの裸を撮ったカメラだった。やつはやくざでもちんぴらでもなく、ただのおかまやろうかも知れない。その鞄、ロッカーに入れろよ。まるで家出してきましたっていってるようにみえる。
 「でも」──おれはためらった。──でもじゃねえよ。
 「ロッカーの金あるか?」──金はない。

 やつは朝餉を喰いに蕎麦屋に入った。おれは自由になったというわけだ。でもやつの裏切りは淋しかった。とりあえず駅の商店や古本屋を見てまわった。飯島耕一の「アメリカ」という救いようもなく、つまらない詩集があった。そのあと、もしものときをおもって交番へいった。とんでもないでぶの警官がいた。不機嫌な顔して立ってた。女房や子供に豚呼ばわりされたせいかも知れない。おれは話した。けつの穴と手淫のほかを。
  それであなた、裸の写真を撮られたんだね?
  なんの抵抗もしなかったの?──仕事が手に入るならと。
  カメラは?──返してもらいました。
  ちょっと署のほうで、もう1度話してくれるかな?
 ふたりしてちかくの警察署へいった。若い刑事は軽装で、半袖のボタンシャツにジーパンだった。おれは取り調べのせまい室に入れられた。かれは20代らしかった。おれはもう1度説明した。飯場でのこと、やつの素性、仕事のことやなんか。犯された女のような気分だった。恥ずかしく、そしてけつの穴がむずむずする。警官は諭すようにいった。田舎に帰って仕事を探せ。でぶと一緒におもてへでた。
  高校はどこ?
 有馬高校です。
  名門じゃないか。
 定時制であることはいわなかった。おれは高架下のルンペンたちに会いにいった。かれらは眠ってた。おれに気づかないふりをしてた。立川で作家の森忠明と会い、3千円を借りた。立川基地の跡を歩き、かれはおれの俳句についていった。──《帰らぬといえぬわが身の母捨記》、これ季語ないけど秋だよな。──おれは終夜営業のレストランで夜を明かした。金なんかすぐになくなった。母から金を無心しながら2日、3日を路上で過ごしたあと、夜行バスに乗った。窓をながめ、去っていく町をみる。そのまま夏は終わりかけてた。

 

 

興奮 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-1))

興奮 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-1))