みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

チャールズ・ブコウスキー「パルプ」1994年

チャールズ・ブコウスキー「パルプ」新潮文庫(旧版)・ちくま文庫
Charles bukowski "pulp" 

1994

Pulp

Pulp

 
パルプ

パルプ

 
パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

 


 チャールズ・ブコウスキーのなまえを知ったのは、神戸市図書館の分所だった。そのころは、うだつの上がらない派遣仕事をやって日を喰い潰しながら過ごしていた。最初に手にとったのは、「町でいちばんの美女」と「勝手に生きろ!」だった。短いセンテンスで語られる素直な文章に惹かれた。けれど本を読むには暮らしがわるかった。わたしは作者名をあたまに刻み、建物をでた。
 それからしばらく経って大阪は芦原橋へいくことになった。公園に寝泊まりしながら暮らすなか、ようやく見つかった仕事のあてだ。けれど飯場に来てみれば連日、雨。あるとき、「京都で茶摘みの仕事がある」といわれ、わたしは高槻の飯場に移った。そこでも仕事はなかった。わたしはくそ高い丘のうえから、毎日散歩にでた。その途中に図書館があった。なにもすることがなく退屈していた身にはうってつけの場所、そこでブコウスキーと再会した。本のなまえは「パルプ」。素っ気ない表紙に赤紫の文字。そいつを借りて飯場の室で読む。わたしは24歳だった。

 「パルプ」は'91年に書き始められ、'93年春、白血病の診断によって中断、'94年、死の直前に出版された、ブコウスキー最后の長篇小説だ。かつてパルプ雑誌で旺盛を極めた探偵小説というジャンルを、ブコウスキーは冷たく嗤いながらからかっていく。
 主人公はニック・ビレーン。ロスアンゼルスの自称スーパー探偵だ。太っちょで、酒と競馬に依存している。独逸の拳銃ルーガーP08を所持。いつもダービーハットをかむってる。女とはほとんど無縁。かれには三つの依頼がある。ひとつは赤い雀を探すこと、もうひとつは死んだはずの作家ルイ・フェルディナン=セリーヌを探すこと、女宇宙人ジーニー・ナイトロを始末すること。もちろん、こんなことはでたらめでしかない。いちいち書いてもきりがないから、やめとく。とにかくこの小説を読んでわたしは笑った。とくに酒場でのいざこざの場面がいい。科白といい、人物といい、なにもかもが。


 「メアリー・ルー!」大声がした。「そこのケツの穴、お前に嫌がらせしてるのか?」
 バーテンだった。ゲジゲジ眉毛のチビな奴だ。
 「大丈夫よ、アンディ。こんなケツの穴、あたし一人でさばけるわ
 「そうとも、メアリー・ルー」俺は言った。「いままでずっと、ケツの穴ならいっぱいさばいてきたもんな」


 この小説の凄みは「来るべき死」の予感を逃げずに書いているところだ。それもユーモアを込めて。弱さを隠さず、素直さのなかで死んでいくことによって、ビレーン及びブコウスキーはその人生を全うした。自殺体質を自称し、死を意識しつづけた詩人兼作家の極点がそこにはある。確かにある。
 ちなみに「ワインの染みがついたノートの断片」に収録された'90年の未収録作品「もう一人の自分」は、この長篇におけるいくつかの部分を先行してる。謎を追う主人公、超自然的な存在、奇妙な犯罪譚。

 

パルプ (新潮文庫)

パルプ (新潮文庫)

 

 

 だいぶあとになっておれは新潮文庫版を手に入れた。ゴッホ今泉のイラストがいい。そういえば高校生のころ、こいつを本屋で見つけて手にとった。実際に読むまでになんと時間がかかったことだろう。わたしはおもいだしてこれを書いてる。
 ところで高槻の仕事はまっく金にならなかった。寮費でマイナスになった挙句、わたしはトンコ。いったん三宮へいき、そのあとは1ヶ月舞台役所に見習いみたいなことやり、あとしばらく大阪と兵庫を行きつ戻りつしただけだった。きょうは文無し。だからしばらくあいだドカチンでもやって喰いつなごうってわけだ。

かつての、かつての、

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from a jack-off machine#05[end]

 

 あたらしいものが書けないとき、かつてのものを読み返す。どれもこれもひどい。たしかにぼくの書くものも、内面も、暮らしぶりも、過古よりはずっとよくなってる。おととしよりも去年、きのうよりもきょうというぐあいで、前進できるてるっておもうことも。それでもすべてがよくなってるわけじゃない。わるくなるだけのことだってある。そういったもろもろに対してぼくは無意識に防禦してしまい、まったくの明き盲なところがいまもある。なにもわかってないのをさもわかってるふうにしてしまうところがある。きょうはそれをもっとはっきりと捕えたい。
 たとえば「from a jack-off machine」という、かつての連作の散文を読み返す。第1回を書いたのは、3年まえの'14年3月で、当初はブコウスキーの「note's of a dirty old man」みたいなものを書きたかった。息の長い文を書くための訓練として書き始めた。実際書きあげられたものは下手なモノマネで、無意味に攻撃的、いきり立った、余裕のない駄法螺だった。最初から最后まで《おれは凄いんだ、おれはまちがってないんだ!》とわめき散らしてるだけのものだ。正直、葬り去ってしまいたい。けれどもぼくはいい加減、自身のやって来たことを直視したい、そうおもってる。ぼくは齢をとったし、からだも衰えてる。これ以上、おなじまちがいは冒したくはない。
 あのころは、そうとう気が立ってた。過古のことでずっと怒り、悲しみ、悔い、それをやっつけようと作品をつくってた。歌ものをいくつかつくって室でデモを録音した。ライブにも数回あがった。なんとかして名をあげたかった。名声が欲しかった。終わってしまった20代や、恵まれない自身の境遇に勝ちたかった。もちろんのこと、そんな目論見はぜんぶやぶけてしまった。なにをやっても、初恋のひとにも、かつての馴染みたちにも赦されないばかりか、生活の糧にもならないということをわかってしまった。
 ぼくはいびつな家庭に育った。しかも先天性の障碍──自閉症スペクトラムADHDアスペルガー症候群──のためにひどい無理解と誤解と齟齬のなかで生きてきた。もちろんそれらを悲劇化するつもりはない。診断されたのはここ数年だし、大したことじゃない。問題は後天的なことだ。いびつな家庭と学校教育のために二次障害を起し、アルコール依存症になり、それがいまもぼくを苦しめてる。対人関係の問題、境遇の問題はどんどん大きくなった。25歳からは健康問題がふくれあがって、身動きもとれなくなった。かつてのことを悔み、嫉み、だんだんとぼくは憎しみを募らせた。父も母も、姉妹も、祖父母も、教師も、幼馴染も、同級生も、すべてが敵だった。

 '11年、それまで閲覧するだけだったBという文藝サイトに書き込みをはじめた。住所不定のぼくは虚勢と罵倒と居直りの手練手翰を学んだ。いろんなひとびとを罵った。みずからの実名を曝してだ。そしてそれが板についてしまった。まちがった認識のなかで、次第に人生が壊れてった。
 '13年、ぼくは四度めの急性膵炎で入院した。そのとき、古本の恋愛小説をもってった。病床で過古の恋についておもいめぐらした。23のときの子には会えない。高校のときの子にも。──でも小中学校のときの子には会えるかもしれないとおもった。かの女は初恋だった。退院後、ぼくはフェイスブックでかの女を探した。でもけっきょくかの女とはうまくいかなかった。ぼくには他社の気持ちをおもいやるということができなかったからだ。無分別に希死念慮を語ったり、かの女の男友だち──かつてぼくを虐めていたひとたち──を攻撃したり、挙句に冷たくされて、幼稚な怒りを露わにしたりで、かの女は沈黙してしまった。ぼくはその沈黙に耐えきれず、過古のいじめを蒸し返して、多くのひとを責め、罵った。それを心あるひとに注意されれば、卑怯な弁舌で交わし、真正面から答えなかった。昼も夜も酒に浸り、悪態をついては、醒めて正気に戻るというありさまで、かの女や、いじめっ子たちのことを実名あげて罵っては書き込みを削除していた。
 ずっとぼくは弱いじぶん、うろたえるじぶんを覚られまいとやって来た。一般のことがなにも知らない、わからない、そんなじぶんを庇いつづけきた。なにもわからないじぶんを隠すことでいっぱいだった。怖かった。相手を見下して攻撃しつつも、そんなことで満たされないのを知っていた。

 ぼくはひとの機微がわからない。ふつうのひとびとの生き方がわからない。ひとの気持ちが読めない。じぶんがなぜこんなにも過古に拘るのかがわかってない。けっきょくはいま現在がうまくいってないからだ。ほんとうのことをいえば、ぼくには知性も教養もない。タフじゃない。やさしさないから生きていくに値しない。ただ無意味にじぶんを正当化しながら、怒りや不安、見当狂いな諧謔に刈られてひとを攻撃してるだけだった。なにもかも言葉遊びだ。
 ほんとうのぼくは弱い。ぼくはもう33歳だ。髪は薄くなったし、筋力は衰えた。来月には形成外科で検査だ。いまもまだ初恋のひとを夢見る。かの女に逢いたいとおもいこともある。でも、それはただの未練と執着だ。いまでもかの女の顔も声もおもいだせない。長年の飲酒癖で、細かい記憶は薄れている。もし早いうちになんてこともない、普通の会話ができていたら、いまこんなに苦しむこともなかったろう。

 《ひとを傷つけるひとはきらい!》──3年まえにかの女がいった。そうだ。ぼくはかの女を、かの女のまわりのひとびとを傷つけた。あのとき、「ぼくが傷つけた。ぼくは傷ついてない」と虚勢を張った。

 けれど、たとえ過古になにがあろうが、自身の境遇がどんなものであろうが、やっていいことと、わるいことがある。そしてぼくのやったことはまちがっていたし、ぼくの書いていたこともまちがっていた。考え方も手法もでたらめなまま、多くのひとに迷惑をかけてしまった。そしてぼくは自身の言動によって、いまもおもい悩むときがある。自業自得だ。たったこれだけのことに気づくのに4年もかかってしまったのだ。けっきょくは社会性の欠如ってだけだ。
 とりあず、でていこう。──もっと忙しくなろう。留まっていては、持て余していては碌なことになりはしない。わるい考えに足を捕られてしまうだけだった。それもごくごくあたりまえのこと。あたりまのことに気づいただけだった。

 じゃあ、また。

   

33回転/半生タイプ

 

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   ○

 

 きょうでおまえは33歳だと、神がほざきやった。どうりでおれはふんづまってるわけだった。通りは穏やかで、どこまでいっても夜だらけだ。なにをやるか、なにを書くか、まったく定まらない日がつづいてる。引っ越しはできなかった。もう1ヶ月早くうごいてればいいものを、なにもしないままで終わらしてしまった。またぞろ予定の立て直しだ。今月は室と仕事を探す。絵葉書をつくる、ホームページをつくる、このブログを収益化する。ぜんぶできるのかは知らない。そんなことは知らない。ともかくできるかぎりというわけだ。
 それでもおれのわるいところは、競馬で喩えるなら多点買いのトリガミといったところだろうか。できることなら1日1日、ひとつのことだけをやっていれば成果だってでるというのに、生来の飽き性か、ADHDのためか、選択肢を増やし過ぎてなにもできないことが多い。きょうは脱毛症のことで医者にいった。薬について聴く。けっきょくは高額で断念する。そろそろ若禿まっしぐらかも知れない。金もなく、からだもわるい、頭はいかれてるし、おまけに見てくれもひどいと来た。この世にいるべきか、別の世界にいっちまうほうがいいのか、正直悩む。どっかの辺境、第4か、第5世界あたりに飛び去ってしまいたくなる。嗚呼。


   ○


 ところでおれは《ローハイド》でのバーテン見習いをやめちまった。大した顛末もない。4月のある日、グルメ雑誌「ダンチュウ」の記者とカメラマンが来て店を取材した。それが終わったあとオーナーは唐突におれにコースターを見せて、そのデザインはどうかと訊いてきた。おれは素直に首をふってしまい、それがかの女の怒りを買った。わるいことにおれは弁解をしなかった。かの女は見苦しいままにおれへの憤懣をほかの従業員に浴びせた。おれのすぐそばで、おれの聞える、見えるところでである。こういった女は醜い。おれに文句があるのなら、直接いえばいい。
 「おれならここにいますよ」
 かの女がふりむく。
 「ええ、知ってます!」
 「だったら、おれに怒りをぶつければいいじゃないですか?」
 「あなたが聞かないから、ほかのひとにいってるのッ。あなたは失礼ですッ。ここはわたしのお店であなたは従業員。それがわたしに意見するのはまちがってるッ。」
 「──たかがコースターのデザインぐらいで」
 「あなたも絵を描くんでしょうけどね、お金にならなきゃ意味ないのッ! あれがプロのデザインなのッ!」
 「だったら、おれにどうしろというんですか?」
 「あなたのセンスでコースターつくって来てッ!」
 なんだってこんなことになってしまうのか。おれは頷くしかなかった。未亡人はでていき、おれはひとり黙って流しのものを洗った。とにかく洗えるだけ、洗った。
 「起こってンのか?」
 マスターのH氏がいった。かれはおれよりひとつしたで、子供がふたりいる。長身痩躯で独特の体臭をしてる。
 「少し。──あまりにも理不尽でね」
 「耐えなあかんで」
 5月はじめての休日、おれは店に未亡人に電話をかけた。おれは酔って怒って、電話口でかの女を罵った。最后の給料と受取り、くそったれなブルックスのシャツを返して辞めた。土台、バーテンダーとして店をかまえるつもりなんざない、生活保護ぎりぎりの賃金で働くつもりもなかった。

 

   ○

 

 からだについてはあまりよくない。来週あたり、またも香川医大にいく予定だ。漏斗胸の治療についてはずいぶんな勇み足をしてしまった。ナス法は瑕を残さないという点ではいい。けれども二度の手術や、再陥没の危険を考えればとんでもないことだった。運動や寝起き、咳などにいつも不安を抱きながら過ごすというのはやりきれない。ふるい術法でいいから、もっと確実なものにしとけばよかった。焦って誤るのはいつものことだ。

 

   ○

 

 

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   ○


 これからはもっと慎重にならなくてはいけない。おれ自身の1日に、おれ自身の経済に。金が入ったから遣うではどうしようもないくずのまんまだ。環境を変えよう。生活を整えよう。遣うのはそれからでいい。あとは1日1行でも、1筆でもいいから、みずからの作品をものにすること。


 これからの予定若しくは願望:

  仕事を決める。
  保証人不要の物件に引っ越す。
  8月に青森県三沢市へいくこと。市街劇を見たい。佐々木英明さんとお会いしたい。 
  ライブにでる。


 そんなところで、
 おれはいま33回転で、
 半生タイプの中年男というわけだ。

 


 わかるだろ?

 

光りに焼かれつづける、うち棄てられた冷蔵庫のブルーズ

 

 


 八月のこと。ちいさな建屋の、自動車修理解体工場のまえ、うづたかくされたもののあいまをぬうようにしてかれは冷やされた緑の、その露をなめてる。とにかく舌が乾いた。うしろになにかが立ってる。ふるい冷蔵庫で、あけはなたれたとびらをむこうにふるい、ダイヤル回転式の黒いやつ。受話器を手にとってかれは話しをしてみる。
  やあ、おれだよ。
  うん、そうだよ。
  ああ、そうさ、でかいやまをあてたんだ。
  いまに好きなことができるぜ。
  えっ?
  サツだって?
  それはないね、おれのことはだれも知らない。
  ああ、それは聞いてる。
  でももんだいはない。わかってる。
  お願いだ、きょうは一日じゅう、赤いのを着ててくれ。
  じゃあ、頼むよ。──また遭おうぜ。
  しばらく潜んなきゃ。
  じゃあ。
 そのまま切って倉庫へ引き返した。れもんの若木が子供をもぎとられた女になってる。集まってくる男たちはみな、かれに冷たかった。
    逃げたんじゃねえかとおもったね。
  祷ってたんですよ。
     神を信じてんのか?
  いえなにも。
    じゃあ、なにに祷る?
  この朝に。
   ふざけるなよ。
    おまえのせいで豚にされるのはいやだからな。
 支度を終えて四人は車へ乗りこんだ。商品広告を載せたラッピングの白いバン、みな黙り、せかせかしたようすで莨を取りだす。いっせいに吸いだした。車庫の脇に植わった木が風で泣き、飼われてる犬が眼を醒ましはじめた。臆病な空気がそのへんに立ち込め、あるものは鼻を覆った。
   おい、大丈夫だろうな?
 助手席に坐った老人が青年へいった。ビーディーを吸い、うつろなまなざしを朝日に向けていた。唇が分厚い。いちばん年少の二十七だ。
  もちろん、だいじょうぶです。
 その声は昏く、にぶいひびきがある。老人はなにかものを呑みこんだつらで、それを聞き、出発の合図をした。
   どうなってもみんな一緒だ。
 信じなかった。いつもみんな先にどこかへいってしまう。五月の終わり、じぶんのもとに届いた郵便をおもう。なかに詩の雑誌と入選を知らせる紙片が封入されていた。それを救貧院の事務室で受け取って、その場であけた。選評にはこう書かれてあった。

 
 カポーティの短篇小説を読んだことがありますか? その一節を描いたような魅力的な作品。特に第二連目。「汚れ」も、ある特定の精神に触れ言葉になれば、美しさに変わる、そんなことを思わずにはいられなかった。


 カポーティを読んだことがない。その来歴と写真を見たに過ぎない。作家はかれの生まれた年に死んでいた。かれと同じくアルコールを呑みすぎていた。かれの知能指数は百にも満たなかったが、作家のそれは二百十五あった。
 いくつかの作品についてあらすじを調べた。じぶんの棲むところとの遠い距離を感じ、当惑を憶えた。楽しめそうには思えない。かれは一年も職に就いておらず、ほとんどのものから孤立してた。
 発進する車、そのゆさぶりを慈しみながら、おれはこんなものごともやがて美しさに変えてしまうのだろうかと思った。なにも書かずにすむのなら、それがいちばんの救いのはずだ。書いてしまうことで本来、きれいだったものを醜く、穢れきったものを美しくかざりたててもしまうのだ。
 もぐらびとたちはいごろ、どうしてるだろうか。またあの臭気のなかで眠りをむさぼってるだろう。こうなってしまえば、おれだってそうしたい。
 きっかけは町にいるときだった。声をかけてきたのは老人のほうで、かれはやせぎずで、乱れきった髪をハンチングで隠しきれないまでに隠そうとしてた。しろいもみあげがいたいたしくみえる。
   ここらに棲んでるのか?
  はい、あそこの施設にです。
   いい仕事があるんだが来ないか?
  無理ですよ、門限があるますから。
   何時までに?
  八時までにです。朝は六時半から。
   そっか。でも考えてくれよな。実入りはとにかくいいし、若いのがいるんだ。
 かれのなまえや実家について訊きだすと、老人はスーパーを越えてどや街のほうへ入っていった。歩道の柵に洗濯物がかかってるところをかれはみる。しばらく日に焼かれながら。それが去年の秋口だった。春になってかれはアパートメントの一室を与えられた。居宅生活訓練といい、生活保護に値するかをみるのものだった。室はふるい色町のなかにあった。戸口をひらけた屋が何軒もならび、坐った女のひとの隣りで、年寄りのが客引きをしていた。──おにいさん! いかが! 日に渡される千円ではそんなところにはいけない。なにか悪いことをしたようにいつも声を通りすぎてた。
 かれがそこを追い放たれたのはとある電話のせいだった。その日は朝から呑んでて吐きちらかすてまえにきていた。ゆうぐれどき、ほんのおもいつきでダイアルに手をかける。師事している老作家にだ。その声は冷め切っていた。
    で、──なに?
   作品送ったのですが。
    ああ、届いてるよ 
   どうでしたか?
 少し間があった。それから堰を切る、そのものだった。
    どうでしたかじゃないよ。
    あんたはおれに破門してくれって書いてきたんだぜ?
    そんなやつがどうでしたか、なんてよくいえるな!
    あんなきたならしい詩なんか送ってきやがって!
    あんたはどうしてそう品がないんだ?
    詩なんか猫かぶりでいいんだ!
    あんたは酒に溺れてどんどん品がなくなってる。
    あんたそれが自分でもわかってるだろ?
    それをなんだ、三流雑誌に載って、
    へんな女からわけのわかんない評がついたくらいで調子に乗るなよ!
    あんたはみんなに迷惑かけてるんだ、
    おやじさんにもおふくろさんにも姉さんにも妹たちにも施設のひとにも!
    あんたは本当に家へ詫び状送ったのか?
    あんたうそつきだからな、あんたの書いたことなんてひとつも信じられない!
    あんたは姉や妹たちが嫁げなくなるようなものを書いて平気なのかよ、
    だったらいますぐに死んじまえよ!
 おれは品のないろくでなしでうそつきだとかれはおもった。はじめからからねじくれてる。かつておれに品があったとはおもえない。ただ化けのかわがはがれてきたのだ。飯場を転々としたり、空き家の車庫で寝たり、公園で暮らすようなことがなければ、もう少し品があるように装いつづけることができたかも知れない。でも遅かった。だから黙って聞く。
    あんたをおれを老いぼれって書いたけどな。
    酒なんか呑んでるあんたよりも、
    おれのほうがよっぽど脳は若いんだからな!
    おれはいま中国の詩人の研究をしてるんだよ。
    あいつらはな、ちょっとでもまずいこと書いたら殺されちまうんだぜ!
    あんたなんかな、本当ならもうおしまいなんだよ。
    あんた、なんであんなことを書いたんだ?
    あんたはおれに褒めてもらいたくて詩を書いて送ってきたのか?
  ええ、そうです。
  甘えていました。
    そうだろう。甘ったれてただろう。
    あんたがおれについてとやかくいうのは許すよ。
    それは許しますよ。
    だけどな、あんたが先生についてくだらないこと書いてみろよ、
    おれはあんたのことを探しだして殺しにいくからな!
 作家とはじめてあったときのことを思いだしてた。老作家はいった。詩人は品のいいやくざだと。かれには義理も人情もない。じぶんを突き放す度胸もなかった。
 詩人はしゃべりまくり、とんでもない勢いで言の葉を放った。おれにはとてもそんなことはできない。おれが憶えたのはけっきょく言葉の模造品だ。本と映画と音楽によって育まれたつくりものに過ぎない。ひととの交わりのなかで培い、養ってきた人間に敵うはずはない。ただ聞いてるしかなかった。
    おれはあんたをいったん破門するよ。
    あんたがもしも先生について、
    あなたにしか書けないようなやつを本一冊分書いたら許すよ。
    できなかったらそのままお互いに忘れましょう。
 電話を切ってからチューハイを干した。できることはなにもない。そのままかれは救貧院にいったらしい。よく憶えていないが、夕食の予約を入れてたから、それを断るわけにはいかないし、あまり酔ってもいないとおもってたらしい。
 あっというまにあらわになって、かれはその夕べのライスカレーも、千円の支給もとめられ、すぐに実家へと送還された。
 それは山のてっぺんにあった。高原と呼ばれ、まわりにはなにもない。バスも列車も、商店も、自動販売機も、浮浪者も、娼婦も狂人もなかった。日課といえば寝てるところを父にけられることだけだ。そしてたまに金を手に入れては酒を麓の町まで買いにでかけることだった。
 ある夜、とんでもなく酔ってた。かれは母に怨みごとをぶっつけ、いちばんしたの妹を撲りつけ、木椅子で祖母の仏壇をはでに鳴らした。それから電気で死のうとおもいたって、どうやるかを考えてるうちに眠ってしまった。嘔きだしたもののうちでだ。つぎの朝、夜勤から帰ってきた父にこっぴどくやられた。荷物をすべて燃やされ、かれが密造してた口噛酒が室のそこらじゅうにばらまかれた。それはかれ自身にも注がれた。
 その夜電話があった。老人からだ。
   生きてるか?
  死んでるほうがましでしょうね。
   金儲けはすぐそこにある。ついてこいよ。
  のったよ、じいさん。
   その調子だ、兄ちゃん。
 つぎの朝にはもう町へでてた。父の金をくすねて追い放たれたところへ。かれはまず、もぐらびとたちの巣へ招かれた。戦前からある地下道で、もとは水が流れていたらしいところだった。かれらはそこで暮らしてた。小舟のようなねぐらをならべ、ときおり流れてくる、不法投棄に備えてる。浅い汚濁のながれと豚のようなねずみが、あたりを飾ってて、かれは鼻を覆って耳をすます。
 老人が声をかけずとも、七人の男たちは舟を降りてきた。みないちように表情がない。くらい両の眼がぼくを見てた。
   こいつだよ、飛田に棲んでたっていうのは。
    若いくせに保護かよ。とんだくそやろうだな。
      聞いたことあるぜ、いまじゃあ、将来性のあるやつを受けるって。
        でも若いからってさきがあるとはかぎらねえ。
        男なんてせいぜい十代のうちに底が見えてら。
    少なくともこいつには、ないだろうな。
   そう突っつくなよ。せっかくのやつなんだからな。
        せっかくやつがこわされねえようにしねえとな。
 わらいのないわらいを聞いた。ややあって老人は全員のなまえのみを明らかにした。しかしかれは自身の来歴について証言しなければならなかった。産まれの土地から、学校や集まりへの遠ざかり、倉庫や飯場での流れようなんかをだ。
         どもりがあるな。すこしだが。
  ええ、そうなんです。
        そうなんです、だとよ。
          まあ、よしとしよう。
         そうだ、よしだ。おれと似てるらしい。
   よかったな、きみ。
 老人の手が背中にかかる。その日は老人の知り合いの家へ泊まった。自動車修理解体場で、中心街からはずいぶんと遠い。列車に揺られながら、おもてをみる。灯しはすでにまばらになってた。
 挨拶も控えめにかれらへあたまをさげた。三十代の夫妻だ。夫は肥えすぎで、妻のほうはといえばやせすぎだ。ほとんど肉を感じさせない。眼が鋭い。でも美しさと品はあった。
 食卓におかれた作業手袋を棚へはらってから、妻は料理をならべだした。かの女は午、修理を請け負い、夜には女房にもどった。看板はない、広告もださない解体と修理、ここには車体のほかにもきずをもったひとたちがくるらしいと察することができた。具の乏しい汁ものを妻は好み、夫は肉と脂を噛み砕いてる。そうしながらかれの来歴を聞く。老人がそれを飾って、ことさら信用のある人物にみせかける。
   あんたは広告貼りの格好してそこらをぶらついてくれたらいい。
   わしはビラ配りのふりをしてたっているから。
   車が着たらまずは警備員をよく見ろ。
   やつらが金の入った鞄をだしたら、
   おまえは糊のデッキブラシをそのつらにぶちこめ、
   おれは鞄を奪う、
   それで一緒に車に乗るんだ。
 どっかで聞いた場面だなと思った。おもいだしてみるとそれは映画だった。不良少年とフランソワ・オランのはったヤマ。映画はいまいちだったが、ジョゼの原作はよかった。吹きだしそうになりながら喰ってた。あまりにばかばかしかった。でも、それがいいのかも知れない。
  七人でやるには多すぎると思いますが。
   これから削ってくんだよ。
   あの全員が使えるとおもうか?
  それでいつやるんです?
   再来週の金曜日、その午后だ。
 ふたりして倉庫の屋根裏に寝ころがった。二十三時、夜が長いとおもえば、もう酒のないことにふるえるような温さがみえた。それでももうじき、火曜日になる。 
 翌日からずっと工場の片づけをやらされた。草刈からはじめて機械の配置換えや、車体の移動にあくせくする。肩がわれるようになってるのを主人はなにもみえないようにふるまい、溶接機やら薬液の罐やらを転がすように運んでった。仕事が終わって湯を浴みてると、夫人が来て扉越しに声をかけてきた。
   たいへんでしたでしょう?
  ええ、こたえますね。
   主人にはああすることしかできないのよ。
  そうなんですか。
   ええ、わたし脱出したい。どこでもいいから。
  してしまえばどうです?
   むりなことよ。
 それきり声はなく、かれはシャワーをかけつづけた。すると工場から声がした。それは犬の叫びに近い声だ。──おい、いいかげんに湯をとめろ! むだづかいするな!
 それに従って食卓にいった。きのうとおなじものがそっくりでてきた。  
   どうしたの? そんな顔して。
    こいつには根性ってものがないんだ。だから少し動いただけで青ざめる。
 主人は肉をとって頬張った。かれには与えてはくれない。
    どうした? 文句でもあるのか?
  いいえ、なにも。
    気に入らないつらだ。
    あいつはなんでおまえのようなやつを釣ったんだか。
  わかりません。
    いいか、わかりたいのはおれなんだ。
    おまえじゃない。
    おれの考えに入るな。
  すみません。
    たやすくあやまりやがって。
    さっさと喰って失せろ。
 衣服に染みこんだ、草や油の匂いをそのままにして寝床へ坐った。灯りの絞ったランプに本をひらき、てきとうにめくる。──おれに言わせりゃ、おまえはしゃれた女たらしってとこだ、とレネハンが言った。
 このやまがもしもうまくいったらまずは女を買いにでかけよう。あの色町にいって垢を落としてやるんだ。童貞という垢をだ。電気式の後光によって照らされる女たち、客引きの老婦人ども、遊び人のくだらない連中を思いながら、からだがすぐに眠りを欲した。
 夜が明けて老人が顔をだしてきた。車の手配が完了したという。裏庭にワゴンが運び込まれた。楡の木のもとをとうに廃車になったのが停まる。──こいつを直して塗装してくれ。真っ白にな。頼むよ。──主人は黙ってうなずき、車体を片手で撫ぜる。そうやって車の心音を確かめるかのようだ。──修理代と黙秘は前払いだ。
  計画はどうなってるんです? 
   何人かを実際の広告や配布で働かせる、それで実行班の参考にするんだ。
  ぼくはそれまでここに?
   いいや、ちょいとやってもらいたいことがあるんだ。
   まだいえないが。
 それきりだ。老人は去り、またも重労働に狩りだされた。ワゴンを工場に運び入れ、まずは清掃だ。そのさきは主人の指導で道具や部品を手渡していった。はたからみていてかれはあまり乗り気でないようだった。そしてまたおなじ夕餉。かれは酒が呑みたかった。
  ちょっと買いものへいきたいのですが。
     なぜだ?
  呑みものを少し。
     それくらいここにもある。
  いえ、酒を。
     酒だって?
     ふざけるな!
     ばかたれが!
     おれが呑まないんだからおまえも呑むな!
  じゃあ、ジンジャーエールとパンだけでも。
     金を寄こせ、妻が買いにいく。
  ぼくは逃げませんよ。
     どうだろうな。
     くそに毛の生えた臆病ものにしか見えないがな。 
 そのあとは黙りこくって汁を啜り、サラダを喰った。きざまれたアンチョビだけが唯一の肉だ。夫人はじぶんのぶんを済ませてから買いものへでかけてった。眠りに就くまえにそれらを口にしながら、いったいじぶんがどこにいるのかを考えつづけた。しかしこの土地のなまえすらわからず、いったいじぶんがどの役をやってるのかさえ不明だった。翌日、三人のもぐらどもそれぞれ面接にでかけたらしい。つらのましなのが撰ばれて襟を正した。しかし当たりはでなかった。つらはましでも歳を喰ってて、職歴もあいまいだったからだ。
 つぎにふたりの男が面接を受けた。若づくりを施し、職歴を磨きあげていった。ひとりが採用されたものの、初日になってうそが暴かれ、戒告を受けた。そいつは腐ってやめちまった。そうやって、もぐらたちはすがたを消しつづけ、ふたりだけが残った。かれらは変装と身なりをととのえ、どやで待機に入った。
 そしてかれは作業員として暮らしつづけていた。夕餉のとき、主人がいう。
    おまえ、うちで棲みこみにならないか?
  え?
    あんなじいさんのいってるおたわごとなんぞで人生をむだにすることはないぞ。
    あんなの、昔から最低の客だ、おやじの代からのな。
  でもいまさら断れませんよ。金ももらっていますし。
    それぐらい働いて返せるだろうが。
    おれはあんなやろうのために捕まるのはごめんだね。
    おまえはちからがないがまぢめにやってる。
    どうだ?
  考えさせてください。
    まあ、いい。
    どうせ帰ってくるさ。
 喰いおえると皿を洗い、寝床へあがった。冷たい蒲団のうえであぐらをかき、本をひらく。しかしもはやなにもあたまへ入って来なかった。捕まってしまえば執行猶予はないだろう。重犯罪者として顔が国じゅうにまわされる。おぼろげだった不安が難い現実へとすりかわっていくのをじっと見つめた。──それからまた走り出せば、ほどなくベガスだ。──だれかが戸を叩いた。
   電話よ、じいさんから。
 子機を差しだす夫人の手が廊下の燈しで光ってた。しばらくみていたかったが、あきらめて耳をあてる。
    おまえさんにも仕事をやらせる。
  なんですか?
    あの奥さんとの仲をとりもってほしい。
  え?
  どうやって?
    にぶいやつだな。
    ふたりきりにしてほしいんだよ。
  わかりましたよ。
  なんとかやってみます。
 終わった通話を反芻しながら、かれは夫人の顔をみた。どうしたらいいのかが、まるでわからない。やせぎすだが美しい女、かれはそう名づけてからおもいなおして削除した。ばからしいものだ。なんだってこんなことをしなければならないのか。
 木曜の午、主人はでかけてった。かれは電話で老人を呼びだし、夫人を居間に呼んだ。あとは知らん顔を決め、廊下に立つ。やがてふたりが話しはじめた。それをぢっして聞く。それくらいしかできなかった。
    なあ、奥さん。あなたはダイエットのし過ぎだよ。
   ええ、わかってますわ。
   でももう粗食になれてしまって。
   いまさら返られないのよ。
    まえにいってたよな、こっからでたいって。
    その望み叶えてやれるよ、もうじき。明日だ。
   あまり期待できません。
    そんなこたぁない!
 あとにはえんえんと老人の講釈がつづいた。かれは壁越しに聞きながら手錠の重さについてめぐらしてた。


 金曜の明け方だった。うづたかくされた車体のあいまをぬうようにしてぼくは冷やされた緑の、その露をなめてた。とにかく舌が乾く。うしろになにかが立ってる。ふるい冷蔵庫で、あけはなたれたとびらには、ふるい、ダイヤル回転式の黒いやつ。受話器を手にとって話しをしてみる。
   どなた?
  やあ、おれだよ。
   おれさんね? 元気にしてるの?
  うん、そうだよ。
   いまどこに棲んでるの? お金はもってるの? それとも盗みでもやってる?
  ああ、そうさ、でかいやまをあてたんだ。
  いまに好きなことができるぜ。
   無駄なあらがいよ、すぐに捕まるって。 
  えっ?
   警察だって。 
  サツだって?
   決まってるじゃない。
  それはないね、おれのことはだれも知らない。    
   裏切りものだってでてくる。
  ああ、それは聞いてる。
   じゃあ、さっさと逃げて。
  でももんだいはない。ぜんぶわかってる。
   なにがぜんぶよ。わかってない。
  お願いだ、きょうは一日じゅう、赤いのを着ててくれ。
   ──わかった。
  じゃあ、頼むよ。──また遭おうぜ。
  しばらく潜んなきゃ。
  じゃあ。
   ぜったいに捕まるって。
 切って倉庫へ引き返した。れもんの若木が子供をもぎとられた女になってる。集まってくる男たちはみな、ぼくに冷たかった。
    逃げたんじゃねえかとおもったね。
  祷ってたんですよ。
     神を信じてんのか?
  いえなにも。
    じゃあ、なにに祷る?
  この朝に。
   ふざけるなよ。
    おまえのせいで豚にされるのはいやだからな。
 車が走り出して三十分が過ぎた。まず右後輪のタイヤがおかしくなりだした。煙がでたなとおもううち、車内へ強烈な臭いが発ちこめ、みなが顔を覆う。ぼくが片手で窓をあけてるま、車首はぶるぶるふるえだし、何台もの対向車から警笛を喰らった挙句、路肩にぶつかった。あとは静かなものだった。みな車を囲んで、無言のまま見つめていた。老人だけは怒り狂って手がつけられないありさまだった。安物の背広をしわだらけにしながら車体に蹴りを入れていた。やがてそれもおとなしくなった。息を切らし、空を見た。ぼくは莨を吸いたいのを堪え、じっと手を組んだ。朝の忙しい往来のなかに何人か、好みの女を見つけ、あたまのうちに留める。じぶんが真剣にものごとをうけとめられないことを笑いそうになった。あわてて打ち消し、状況に眼をやる。時間はあまりなかった。
   ここらで車を奪おう
 老人がいった。男たちは静かにうなづいて歩道を歩き出した。その先にコンビニエンス・ストアがある。それがはっきり見える。陽を浴みて白い。
       だめだ、もう。
 男のひとりが頭をふった。つよくふったから、そのままあたまがはずれてしまいそうにみえた。ひとりひとりがばらばらになって失せ、ぼくは老人とバスに乗って工場へともどった。主人はいない。どうやらしばらく潜るつもりらしい。妻は車庫で車を磨いてた。五七年式のサラトラ。黒い車体をよりいっそう黒くしながら、かの女の腿が昏らがりのうちでひらめく。布切れには血みたいのがついていた。血のような血だった。
  だめでしたよ、まったくだめでした。
   そうでしょうね。
   わかってたわ。
   ──主人はいま、いないのよ。
 しかしぼくは仕事にとりかかってた。鉄くず運びにただただ汗を流す。午が来て、それもやがてかなただ。夕餉を済ませてからふたりで寝室にいったとき、ぼくはじぶんの靴をかの女の寝台のしたへおいた。夜は傷みだした、鱈の臭いがする。とてもかんたんに篩いにかけられてたのだ。なにに?
  どうせなら、着飾ってくださいよ、きれいに。
   めんどうだわ。
  でもそのほうが楽しめそうだ。
 女には肉らしいのがなかったから注文した。すこしでもいいから他人のからだを感じたい。ぼくには裸なんてなにもおもしろくもなかった。めんどうにおもいながらもかの女は盛装してくれた。夏物のドレスに短い手袋をつけて、ストッキングとハイヒール。薄化粧に装身具、そして帽子。ぼくはかの女をうえにしてしっかりとかまえた。たがいの微笑みが工場からのグラインダーの音にぶつかる。老人がなにかやってるらしい。やがてそれも失せ、足音が廊下を伝わった。
    そこまでだ。
 そうやつがいう。
    いますぐにここをあけろ!
    あけるんだ!
 戸口のむこうからいつまでも声がしてる。いつまでも青年は笑ってた。笑いながら腰をふりふりして、かの女を愛していた。老人の叫びもやまない。やつの手にはつくったばかりの兇器が握られているのだ。おそらくは。
    おれの役割なんだぞ!
    そいつは!

 

 

 

 

 

 

旅路は美しく、旅人は善良だというのに

 

 


    ○


 カウンター席に座って、横の止まり木を見る。小さな紙切れが名札のように貼ってあった。たしか、こんなふうなことが書かれてあったとおもう。――ふたりの少年がやってきて、おれのことで妹をつかまえていった。だからでていく。すぐに戻る。酒は置いておいてくれ――おそらく戻ってはこないだろうし、連れ戻すこともあるまい。かれがどういう気持ちか、わかりたくないまま考えてから、はじめの一杯を撰ぶ。まわりを見渡してみた。かれを待っていそうな人間がひとりもいない。立ち去っていったのだ。酒だってもうない。ひとたび哀れにおもい、かれを偲ぶためにも酒が必要だった。ついてきた女の肩を肩でこづく。察しがいいらしく、顔をあげて応えてくれた。
   なにが呑みたいの?
 少し考えて、あまりきざなまねはよすことにした。芋焼酎だ、湯割りの。かの女は年寄りくさいとつぶやき、そっぽをむいてしまった。しかたない、金はかの女が払うのだから、すきにいわせておけばいい。
 ボックスに座った老婦人がしゃべくるのをやってえらく高い声で耳に来てた。――待ってるのよ、あたしは。かれの来るのを。でもきょうだって来なかったわ! なんていうひとなの? 近所の子供を使いにしたりして!待ちながらいっぽんの木にされたわ。だからっていくとこもないのよ、あそこじゃあ。――しかも金持ちの男が来てね、あそこで話しかけんのよ。おれの眼鏡はどこ、だって。たがいにいくところがないのよ。みょうちきりんな召使いまで連れて、どこへいくのってのかしらねえ。しかもめくら。
 見たところ、かの女の相手はそれ自身のようだった。
   なに見てるの?
  あの婦人、ひとりで話してる。
   めずらしくないよ。
  よく見たの?
   あの街じゃあ、よく。
  まあ、おもしろいこっちゃないね。
  おれだって変なのにからまれたし。
   へんなのはそっちじゃあ?
 ある本でみたことがある。ゆうらく町ってとこでは六〇年代、首に札をぶらさげた老人どもがけっこうなかずでいたらしい。そこには「わたしに話しかけてください」とあった。ゆくところを逸してるのはあぶれものだけではないということだ。
   きみはこれからどうするの?
    どうにも。
   楽器なんて拾ってくればいいんだ、音色なんてあとからついてくるよ。
    あんたには音楽ってわからないでしょ。
    それだけ。
   ああそうさ。作曲法も和音進行でけつまづいておわり。
    単音ばっかでしかできないんだ?
   安いもんのソフトでいくつか書きあげただけさ。
    そういってお情けもらいたいんだね。
 ぼくは笑った。でなければやっていけない。かの女は笑わない。酒場でふたりともが坐りながら立ちつくしてる。旅なんざ、ろくでもなかった。
 長距離バスの夜更けはたちがわるい。室内灯が消えるころを過ぎても、いっこうに眠れなかった。小壜を呑み、脚を展ばそうとする。できない。あたまをうつむけるか、うえにするかでしつこく験す。都市での失態が夢のようにあらわれる。そんなときはいつも主観ではなく、どこかべつの方向から撮影された映像にかわる。じぶんが場面の一部分にすぎず、だれかがつくった、どへたな画面におもえてくる。
 ぼくがウィスキーの壜を握ってたら、隣の娘が肩を叩いた。窓からふりむいて、その顔をみる。化粧臭く、香水臭い。眼のまわりを隈取のような、墨絵のような、ほどこしが濃かった。舞台からそのまんま降りてきたような生身の女。かの女は壜を指した。
    呑みますか?
 黙ったまんまうなづく。唖しなのかも知れない。ふたたび窓にもどって、壜が帰ってくるのをまった。
     もっともってないの?
 しばらくたってから声があった。壜はからっぽだ。
    なんだってそんなものを?
     さいあくだから。
    さいやく、なにが?
     いいから、はやくだして。
 ちいさく幼い声にしたがっておしまいのいっぽんをやった。いやいやなのを見せつけてながら、かの女の手に落とした。
     ありがとう。
     それはどうも。
 この地点でまだ、ひとつめの休息所からでてしばらくいったところで、午前六時まで五時間はある。酒の臭いがそろそろ車内に充ちはじめてた。
     ずいぶん呑むんだね。
    なにもいわないでかの女は呑みつづけ、おれのぶんを失くそうとしてた。
     もういいだろう、おれのがない。
      黙ってて。
     勝手にしやがれ
      してあげる。だから黙って。
 箍がはずれたようだ。かの女は哂いだした。おれは壜をひったくり、その半分残ったのを干した。
      のんだくれ!
 笑いながらいわれた。ぬたくったマスカラのせいで、そのつらはあちらがわの笑みに見えた。地獄とか墓穴とか屠場とか夜の長距離バスみたいな笑みだ。
    知ってるよ、それぐらいのは。
     呑んで喪ってきたばかりだから?
     喪うのはわたしのほうがうわて。
 それからすぐに膝を寄せあい、告白しあった。ばかもの同士でだ。
    酔ってないでよく聞いててね?
 どちらも脱出にとちって帰るところだった。ろくでもないことだ。ぼくは飯場にいた。おなじ年の、とても気さくなやつに逢った。かれは組長にいわれて流れてきたらしい。やくざものだ。ふたりしてビールを呑み、現場へいった。印刷会社のビルヂングにはまだ壁もない。臭いはじめた夏が虻そのものだった。
 ある夜、いい仕事があるとかれがいう。フロント企業のひとつで二十万はかたい。まったくのぺてんで、あわや、けつを奪われそうになった。ぼくは文なしだから、母にねだって運賃をださせた。かの女といえば音楽やりたさにでていくも知りあった、とてもやさしいやろうにまきあげられ、やられてしまってた。――どんなつらをしてこんな話しが聴ける?どうだっていい。そうだ、どうだってかまわない。
   それにしても眠れないね。
 駅に着いたとき、足もけつもうごかせなかった。窓枠に手をかませ、右足にちからを入れる。重心はそこだ。もちあげるようなかたちでまごついていたら、かの女が手を貸してくれた。
  すまんな。
   お礼にいっぽん奢ってよ。
 女の子に奢るなんてとってもきざだ。少なくとも二十一にもなる童貞のおれには。裸足で歩く男がコンビニエンス・ストアのまえで立ちどまる。森番にみせたそいつをよけ、ふたりは酒を撰んだ。樵はではらってていなかった。女装のさなかかだろうか?
 高架下のルンペンたちにまじって、ポケット壜をまわし呑む。みんな敷物を片づけ始めてた。それでも、まだ寝てるのもいる。いっぽんやって、それでまたいっぽん。帰りの電車賃がなくなった。あとはほうぼうでレコードや本を眺めた。たがいの好みをただいいあって過ごした。それがいいとか悪いとかはなしに、静かに。そのあいま、側溝を走るものをみた。どぶねずみだ。おたがい、はじめてだった。走る姿だけはうつくしい。なにもいわなかった。うんざりして、もうなにもいうまいだ。酒場の場面にそろそろ戻ろうか。
 カウンターにケンタッキー・ウィスキーがきた。楽しい会話をねってみて、なにも浮かばないことに気づく。おれってやつはまったく、話すことに不向きだとおもった。ことばを憶えたって話せなかったころの空きを埋められはしない。こういったとき、教室を思いだす。どこだっていい。ただ教室であればおなじだ。さむざむしい。むなしい建築、内装の賜もの。そこへいくといつもぞっとしたものだ。全身のどこを問わないで狙われてるとおもえてくる。グラスをひと息にやる。そのとき老人が入ってきた。まっすぐに紙切れのうえに坐る。ほかに空いてるのはいくらもあったのにだ。すでに酒がはいってる。
   なあ、にいちゃん。
   このまえ、S区で火事があったろ?
   おれのどやのすぐとなりだった。
   買いものから帰ってくると、
   廊下や階段を犬どもや猫どもが走ってるんだよ。
   だれかが隠れて飼っていたんだな。
   ものすごい勢いで出口に向かっていった。
   どこもかしこも煙しかなくて、そのなかを室に向かったんだ。
   おれのものが無事か、あせったね。
   おれの室には白黒のまんまのテレビがある。
   莨の脂ですさまじいけどな。
   おれはスイッチをつけて窓をあけた。そのむこうに
   でっかい、おまんこみたいな炎がうずまいてたっけ。
 かれの眼にある、黒い染みみたいなものにぼくは応える。
     それはきれいでしょうね。
 無視して老人は指をつきだすと、ここでクイズがあるといった。
     さて、おれがなにをテレビで観てると思う?
    皇室特集?
     正解だ、おもしろいだろ?
    なにがです?
     白黒テレビをいまだにもってるってところがだ!
 かれはいかにおもしろいかを早口でまくし立て始めた。それからあたらしい売春宿、昔からある売春宿、ひとの多すぎる老人憩いの家などについて語った。しまいにはぼくのことを警官かとうたぐる。かれが沈黙をやぶりつづけることだけに感謝し、次の一杯を思う。老人は顔を手で覆った。
    おれはおもしろいのにだれもわかってくれないんだ。
     忘れていただけですよ。
    いいや、ほんとうはおもしろくないんだ。それにだれも話かけてこない。
     きっといそがしいだけですよ。
    ふざけるんじゃない!
   立ち上がってかれは、
   おれのまわりで職に就いてるやつなんかいないよ!
 あたりはばからぬ声でいった。店員には透明人間らしい。そのまま、からっぽのテーブル席へ移動するのにだれも呼びとめもしない。おれだって働いてなんかいない。ぼくは連れあいにいった、たしかにあのひと、つまらないね。
   かの女はいつのまにか注文したか、ビールを流し込み、
      もうでる、わたし、がまんできない。


   ○


 呑み屋通りを抜けて大きな本屋のまえへでた。ひと待ち顔の群れむれがやかましい。円柱のでっかい広告。派手なべべを着た女に表情なしでプロバイダを奨められた。その胸に手を当ててみたい。いつか、あれのねたに使おう。またふたりしてポケット壜をまわした。七百円以上もした。黒いやつ。ぼくはときおり、かの女の顔を盗み見ては、化粧を落とせといいたくなった。でもいまはこいつの金で呑んでいるんだ。下手なことはいえない。女はみんな意地が悪くて、悪意にはそこというものがないんだ。それを発揮されれば手に負えない。黙って離れるだけだ。つき合ったことはない。だがほかの場面でよく思い知らされてるつもりだ。ぼくはチェイサーにビールを嘗めながら、そういう場面を思いだそうとしてた。
   ああいう店にはよくいく?
  まえはいったよ。
   あんなところのどこが楽しくて?
  べつに楽しくなんかないな。
   酒は高くて量は少ない、
   店主は無愛想だし。
   知ってるひとが、
   なんとかいうやつの朗読をやってて、
   酒を奢ってくれてたから。
    そのなんとかいうやつをそっちは読まなかったの?
   たまには読んだ、うけ狙いで。
   でも、おれは舌がよくまわらないから、
   いろんなところでつっかえて、みんなに笑われて、
   そいつが酒になった。
   ズブロッカってやつが好きだったな。
   透明で、壜に草の茎が漬かってる。ぽーらんどの原産らしい。
    ぽーとあいらんどってあの港の?
   いいや、ソ連の近くにある国らしいけど。
   ばかみたい。
  ばかそのものさ。
 ぼさっと突っ立ったまま呑みつづけ、そのまま21時を過ぎた。いろんな目玉がふたりをつけまわした。かの女をからかうものもいた。なにもできないことにただあきれてた、みずからへ。
   うせやがれ!
   このくそちんこ!
   いいかげんにしないとその口をひん曲げてやる!
 活躍したのはかの女のほうだ。しばらくして数駅先の暗い町で降りた。そこはかの女の地元であり、こちらがけつわって逃げた就職の、研修者寮のあることころだった。そこで二週間いた。せまい室は相室。背の高い、丸眼鏡の男が一緒だった。
 その日の技能講習が終われば、そこらへんを遅くまで呑み歩いた。ただ金だけが減っていき、気がつくというぐあいでバスに乗っていた。ほんの1ト月まえのことだ。もしかしたらまだ棄てていった荷が残っているかも知れない。
 ふたりは歩きながら入れそうな店を物色した。そこらにはコンビニエンス・ストアも、酒の自動販売機もなかった。暗い栗褐色の通りをゆっくりと歩き、なるべくなかの薄暗い、ふたりのひどく酔ったさまや、かの女の幼さの通らないところを探す。
 どの店にもそれぞれ見覚えがあった。つまんないところもあったけど、親切でいいひとたちにもであった。あるところでは就職祝いに奢ってくれ、つぎの日にまた会いたいといってくれた会社員のおっさんもいた。あいにくその夜には旅路に就いていたが。明るい店主の夫婦、それにかれらのだした焼きそば。
 行きのがら空きの車輌でおもったのは、あたらしい空想のものがたりだった。おんぼろでも寛げるアパートメントと、なにかわからないが、なにかを産みだすおれ。生まれてこのかた、あたまのなかの、もうひとつの世界にぼくはおぼれて来た。その穴ぼこのなかで傷みを忘れ、充ち足りてきたから、もの憶えの悪さも、からだの弱さも、みてくれのまずさも、つながりのなさも、咽もとを過ぎるのがあまりにも早すぎた。そうとも、おれはもっと苦しむべきだった。
   女がうえを指差してる。
   あれにしよう!
   あそこがいい!
   ちょっと!
   どこ見てるの!
 白にちがいはないけれど、かなり汚れたビルヂングの上階に看板が掛かっていた。カラオケ居酒屋。まちがいない。いったことのあるところだった。その名もごくつぶし。ひまつぶしだった気もする。おれは断ろうと思ったが、かの女のはじめて見る、明るい顔のせいで、したがうままにしていた。四階まで螺旋階段をのぼる。扉をあける。赤黒い照明だか、内装のなかに半円状のカウンタ―と、ソファ席、カラオケ用のひくい壇がぼんやり浮かんだ。まえに来たときとおんなじで客はおらず、中年過ぎの太った女主人が止まり木、若いバーテンダー姿の女が酒のまえに立っていた。ちがっていたのは若い女で、前回にいた、髪の短い、おれ好みの美人ではなく、目鼻立ちのはっきりしない青白いのがいただけだ。残念なのか、ありがたいのか。
 女主人はひくいしゃがれ声で挨拶をし、ふたりをカウンターに手招きした。どちらともウィスキーの炭酸水割り。もうあまり呑めそうになかった。そいつを2度おかわりしてから、かの女は歌いだすといった。1曲が百円だ。おれはとめなかった。かの女の歌ったのが、なんという曲なのかわからない。けれどどこか、カントリー調だった気がする。歌はうまかった。ただ酔ってるせいか、舌足らずに響いた。ぼくはといえば、ひとまえで歌ったことなどなかった。
 以前きたとき、古いジャズ歌謡ではじめて唄った。「女を忘れろ」というものだった。曲間のドラム・ソロが気に入っていた。女主人はそいつを聴いて音痴だけどうまいといった。この夜、どうやらぼくのことを憶えてないらしかった。わが恋人もどきはさらにもうひとつやって終わった。みんなで拍手を送ってやり、ぼくは口笛だって鳴らしてみせた。上機嫌で戻ったかの女に、こちらがまだ口をつけていない酒を丁重にゆずる。そいつはいっきに呑み干された。
    そっちも歌ってよ。
   こんなひくくて鼻にかかる妙な声で?
    いいと思うからやってよ。
   じゃあ、やるってやるよ。
 ぼくはあまり考えもせずに席を空けた。酔っぱらっていて、もうなにもかもが温かかった。それだからおなじ歌を、まえとおなじように撰んでいた。これでこちらのことが思いださされるだろう。ダイス、転がせ。ドラムを叩け、就職と自立について語った口ぶりがいかにまがいものだったか、はっきりするだろう。やけにしんみりする夜だ。間奏のドラム・ソロにのって、からだをゆすり、いかにも悲劇的なつらをしながら歌っていた。忘れろ、忘れろ、あの娘なんかはよ。――みんな表情がなかった。おれは締めのソロが終わるまえに席にかけ、からっぽの容器をつまみあげた。できるだけ粋に見えるように。もう一杯だけ。女主人がこちらを見据えた。
   音痴だけどうまいわね。
  それはどうも。
   あんな古い曲、どこで知ったの?
  映画ですよ。
   そんな映画、いま観られる?
  衛星でやってます。
 でまかせを答えてばれるのを待った。あちらさんはそれ以上訊かず、ちがうところに水を向けはじめた。――ところでおふたりさんはいくつなの? おれはどうってこともなかったが、かの女はちがった。大きいその眼をびくつかせてしまった。まったく、なにをいまさらおびえてる?
 でも、女主人だって悪党じゃなかった。曰く、
     安心して、
     黙っててあげる。
     なにもうらなんてないの。
     あたしの友達がやってるホテルがあるのよ。
     安くてきれいなのに近頃、
     客足がにぶいのよ。
     今夜だけでも泊まってやって!
     ねえ!


    ○


 安宿の主人も太った女だった。もしかしたら遠い親類かなにかかも知れない。これで3人目が、エクレアといっしょに現れないことをわずかながら祈る。ほんの連想にすぎないのに、縁の薄い文庫本があたまのなかにあった。たしかイギリスの短篇だ。おれの恋人がどやよりも安い、ただ同然の小銭を払う。そしておれとおなじようにおれたちを車で送ってくれた女主人にふしぎそうなまなざしをむけていた。
 どこかになにかが隠れていたっていい、そんなところだった。もとは近代的だっただろう、内装もひびと汚れと埃とかびで、そこらじゅうがやられていた。壁は黄色く、床には緑の敷物。まあ、小さくて目立たないところにある、この四階建ての昭和モダンはなかなか興をそそった。おれはそういうところが好きだった。どうせならジャケットと、中折帽子をかむって来ればよかった。そんなもの、もってない。
 提供されたのは、四階の小さな一室だった。かわいげのある狭さだ。ベッドカバーは深紅。色っぽいかもしれないが、いつ洗ったものなのか見当もつかない。寝台のわきに小さな鏡台と照明があった。テレビジョン、テーブルはなし。シャワーと便所のみ。かの女はまっさきにからだを洗いにいく。どういうわけか、この階だけ窓硝子がない。かわりに緑やら赤の文字が入った合板が貼られていた。いや、打ち付けられていたんだ。おれは文字を見た。製造元のなまえだろう。かすれていて、どう読んでいいものかはわからなかった。でも、これとおなじものを実家で見ていたっけ。ねじの入れ方が執拗だ。
 父は日曜大工に執り憑かれていた。もともと平屋で買った中古のわが家だったが、かれはそいつを二十年以上、改築に費やしていて、おそらくそれに終わりはないだろう。いつもどこかをつくり、どこかつくったところを毀していた。通りがかったひとびとがおかしな眼で眺めた。少なくとも幼いころはかれについて。なんでもできる、すごい父だとおもっていたし、敬ってもいた。
 しかし、そうしたことにつき合わされつづけるにしたがって、けっきょくは狂気を学ぶために準備された、はじめての教材であると覚った。家すなわち、それは父だった。そして家にある以上、そこにあるものはかれの所有物だった。かれは毎日、ひとり息子に手伝わせているのはほんの少しの、どうでもいい箇所に過ぎないと声を荒らげた。日曜日の朝からひねもす、罵り声と金鎚の柄を味わい、御奉仕させられながら、しかしかれの息子は思ったものだ。マスはひとりでかくものだと。
 かの女はもう寝台になだれていた。スカートがもう少しでめくりあがる。酔いの醒めはじめたあたまで、そのさまをぼくは描いた。早いことろ、そうなってしまえよ、な。なにかはじまる予感こそしたが、なにをしたものだろうか、まごついてもいた。なるたけ音を発てないよう、気配りながら歩み寄り、まだ十七の女の子の横に坐った。化粧は落とされていて、はじめてみる素顔は素朴すぎたが、それがよかった。きれいで、お高くとまった感じがない。薄目をあけながら荒い息をしている。
   水をちょうだい、
   炭酸水か、天然水で。
 かの女の声がした。その通りだ。ぼくも欲しかった。さっそく階下へ急ぎ、フロントに声をかけた。まぼろしの三人目はいなかった。どうやらまだらしい。安心した。エクレアを突っ込まれるのはぼくかも知れなかったけど。――ぼくはかの女の財布から金を払い、ふたつのペットボトル、炭酸と天然、自分用にジンの青い小壜を受け取った。急に怖くなったのだ、なにかが。もどってきたら音楽が聞こえて来た。携帯ラジオをかけていた。半透明の赤い色。ストラップの紐があって、首から掛けられるようになってる。そんなもの、はじめてみた。
 かつて好きだった三人組のバンドが、いまは四人になって、そのときにぼくには好きになれそうにない曲をやっていた。どうでもいいことだ。勝手に期待してうらぎられた気分になるのはまちがいだ。かの女はその曲が好きそうだった。鼻歌。おれはいつかは好きになれるかも知れない。
ぼんやり受け止めながらボトルを二本、目のまえにかざした。どっちがいい?炭酸がいい。
 蓋をあけてから手渡すと、ありがとうと小声でいってから、ほとんどいっきに呑みだした。小さなボトルはからになった。かの女はもういっぽん、天然水も口につけた。こっちは少しづつだ。ぼくはべつの曲がかかるのを待ちながらジンをあけた。
  なによ、それ?
 もらったのさ。
  うそつき、勝手に買ったくせに。いつまで呑むの?
 だいじょうぶ、これで終わるよ。
   いつまでもそっちの面倒見切れないから。
 おれたちは黙ってラジオを聴いた。しばらくしてかの女がこっちをみた。
   少しだけ呑ませて。
 おれは直に呑んだやつをそのまま渡した。いぢわるのつもりだったが、向こうにはどうでもいいことだった。肩透かしを喰らってるはたで、壜を電燈にかざし、その輝きを眺め回していた。おれは訊いた。
   きれな壜だろ?
    うん、ほんとに。
   それ呑むと、青い小便がでるんだぜ。
    きたない!


    ○


 ほんとうの故郷はここじゃない。かの女はラジオに合わせてつぶやく。それがかの女の歌声だ。こちらはなんにも返さず、残り酒をちびりちびりだ。もうなにもわからない。酔っていない。でも酔ってた。あたまが冷静さを装ってる。いちばんたちがわるい。気持ちがいいのか、悪いのかの決まりもつかなかった。シャワー室から盥をもってきて寝台の脇におく。手ぬぐいを枕のうえにかけておいた。
   どうしたの?
  げろするかも知れないだろ。
   やめてよね!
   被害に遭うのはこっちなんだから!
  そっちだってそうとう呑んでるよ。
  あぶねえのはおたがいさまだろ?
   あんたほど呑んでないって!
   ばかじゃないの!
   脳みそが融けてるんだって!
  うるせえな、くそったれ!
  くそがきは黙りやがれ。顎をひんまげてやろうか?
    けんかもできなきゃ、働けないやつがなにいってもおんなじ!
  いいから黙ってろよ。
  せっかくかわいい顔してんだ。もったいないじゃないか。
  おれと愛し合おうぜ。
    やりにやる、
    やってやってやりまくる!
    おれはめんくいなんだよ。
    いつもいい女に惚れてきて、
    いつもきらわれてきた。
    でなけりゃ、知られることもねえとくる。
    あんたとなら何回だって、――
 長々とせりふをいった。しょっちゅうつっかえて、なにをいってるのかもわからないとこが多かった。恥ずかしいくらいに訛ってた。大きらいな近畿訛りだ。かの女はしばらく表情もなしにおれを見あげてた。こっちがいい終わるのを待って仕返しにでる。そいつはこんなかんじだったとおもう。
     ふざけんなよ、醜男。
     あんたは甘ったれてるだけ!
     じぶんを掴まえてくれるのを、
     バスみたいにずっと待って、来ないまんま死ねばいい。
     あんたって死体が歩いてるみたい。
     わたしとちがって夢も目標もないし、だれかに出会おうって気力もない。
     わたしは失敗はしたけど、学ぶことはできる。あんたとちがって!
     くだらないものが脚のあいだについってくからって偉そうに。
     男はどうしてそうなの?
     じぶんだけは賢いなんて、じぶんだけはばかだなんて、
     どうしてたやすく思う!
 ラジオが飛ぶ。こちらに飛んでくる。あたらなかった。あたったのは合板で、外装を少しちらして床に転げた。ノイズもまた音楽のひとつだ。それを聞きながら寝台に坐る。床で寝ろとはいわれなかった。しかしそのおもざしは反対だ。
     きみのいうとおりだ。ぜんぶ。
     おれはじぶんがいちばん賢くてばかな死体だとおもってるよ。
     展望もなんもない。
     ただただ好きなものがあっただけだ。
     それをまねしてばかげたことをやっただけ。
     わらえない。
 わたしは、とかの女いいかかけた。いいかけてやめる。わたしは、――ほんとうにすきだったか、わかんない。
     音楽のこと?
      でもあなたはそれが好きなんでしょ、ほんとに。
     しがみついてるだけかもな。
      お幸せ。
     それはどうも。
      その、なんとかっていうの、楽しかったの?
     いや、ただひとに遭いたかった、誉められたかった、話したかった。
     でも話すことなんかなにもなかった。
     ぜんぜん見つかんない。
     言葉を憶えるのが遅すぎてしまった。
      喋る自信ない?
     どもりがある。
      ぜんぜんないって。酔ってるからでしょ。
     いまでもつっかえるんだよ。あっ、とか、えっ、とか。
     そうしてからじゃないと反応できないよ。
      そういえばそうだね。でもひとまえじゃ、なにか読んだんでしょ?
     あっ、いろいろとね。
      そのころから呑んだくれ?
     幼いころからだよ。母方のじいさんがよくビールの泡を呑ませてくれて、
     酒はいつもあこがれだった。
      しょうのないこと。
     わかってる。けどわかってない。
      なにそれ?
     格言。おれの。
      ちっともおおしろくない。そんなんでいったい、なにが書けんの?
     もうなにも書かない。
      じゃあ、どーすんの?
     倉庫作業かな。
      その身体で?ちからいるでしょ?
     出庫係でもしようかな。品物のかるいところでね。
    鼻で笑うというのをおやじのほかにもみた。くだらない自己暴露をやりたくていつもおれはうずうずしてる。いま酔ってからよけいにそれはでてきた。
      わたしは死ぬか、隠れて暮らしたい。でもそのまえに――
    不運な女はきらいだ。うつくしくない。耐え忍ぶ女もきらいだ。うつくしくない。でもやり返そうとする女はよかった。これで運さえ、ついてくれば文句はない。でもそれはどこにある?
    そういえば、だれかがいってたよ。
    「秋風や人さし指はだれの墓」って。
    おれはどういうことだかわからなかったけど、
    それってすんごくさみしいことだよな、
    だれもが手に墓つけながら歩いたり、
    笑ったり、もの喰ったり、くそしたり、二段階右折したり、
    列にならばされたり、鉄条綱のむこうにいたり、
    病院に入ったり、ベストセラーの本を読んだり、
    面接官に呼ばれたり、検察官を接待したり、
    呼びだし喰らったり、出荷伝票とにらめっこしたり、
    しょんべんしたり、帰るところがあれば帰って、なけりゃ陸をひき、
     好きなやつにきらわれ、好きでもないやつと笑いあい、
     歌を唄ったり、働いたりするんだからな。
      それでも、
      いきつくところがいっつもそこにあって、
      秋のかぜが吹いてるなんてきれい
      すんごくきれいにおもう。
     きれいなのはきみのほうだよ、なんだってあんな化粧してたんだ?
      すべてが怖かったから。
      だれにも近づいてほしくなかったの。
      ナンパとかされるんだろう。
      あなたはできないでしょう。
     じゃあ、おれに話しかけてきたのは?
      いったら悪いけど、そっちがあまりにもぶさいくで、
      暗くて冷たい顔してるから急にからかってみたかっただけ。
     それで?
      それでって?
     うまくいったの?


    ○


 午前3時をまわっても、ふたりは起きていた。横たわっているだけで、ラジオに耳を傾けたり、とぎれとぎれな会話をしてなにもせずにいた。どっちかで手を握るか、頬を撫でてみるか、何通りもの、着想があったが、どれもやれなかった。やっぱりおれは童貞だった。天井の灯りを消して、スタンドに切り替える。靴下だけを脱いで床に抛る。かの女はじっと眼をあけて、ラジオのほうを見ていた。ひとりでやるようにシャツとズボンを脱ぎ捨てる力がだせなかった。そとの路地から自動車の音が聞えて来る。やがてそれは真下で停まった。
   ところで、女の子とつきあったことあんの?
  あるわけないだろが。
   好きになったときって、もてないのはどうしてんの?
  想像力のないやつだな。
     悪かったね。で、どうすんの?
    好きなのがばれてきらわれるのを待つだけさ。
     どんなふうにきらわれんの?
    黴菌扱いされたり、ものを盗られたりだよ。小学生のころだった。
     仕返ししないの?
    そんなこと、どうやってできるんだよ、
    相手は女、わるいのはぜったいに男さ。
     みじめだね。
    きみはどうなんだ?だました男に復讐しないのかよ?
     いつか、ぜったいにしてやるわ。あんたとちがって叩き潰してやる。
    つよい女だな。ますますそそってくる。
     気持ちわるい。
     死ねばいいのに。
    ああ、殺してくれよな。
     いや!
     じぶんでやって!
 かの女が眠りに就いてから、その顔をコンパクト・カメラに収めた。それからぼくも眠った。酒はかえって眠れなくさせた。
 やがてかの女の吐く声が聞え、合板のすきまから入る光りが眼をあけさせた。まだ六時だ。かぜが路地裏から吹きあがって塵をいっしょに室に入れてる。だいぶ酔ってから、盥をあらかじめ、そばにしてて助かった。3度吐き、指を汚す。まだ残ってる炭酸水でしたたかにうがいをし、もう一度眠った。3時間経ってた。
 また酔いが残ってた。ふたたび水をあおり、どうにかしようとする。どうにもならない。かの女はいなくなってた。窓辺の床にラジオが転がってる。スピーカーの桟みたいなところが何本か折れ、散らばってた。横っつらにも罅がみられる。ひろいあげ、とりあえず鞄に入れる。カメラが失せてた。紙片がいちまい、寝台のうえにみえる。――はじめにきた駅で待ってて。
 ふたたびこみあげてきて洗面台に走る。盥はいっぱいだった。くるしさはいつだって新鮮だ。おなじ階をまわってもかの女はなかった。
 階しをあがってみせる。室の戸のひとつひとつを検分にみせてふれる。そのなかにひとつだけ、半開きのをみつけた。断りを入れ、そのうちかわをうかがう。まず砂っぽい、よごれた足もとが覘いた。そこには入って左の壁に背をあずけた女の子が立って、こちらを見あげてた。寒色の、柄のあるワンピースを着て、かすかに笑む。その衣もどこかしらうすい汚れがあった。髪がおれの好みに短く、黒い。歩きまわって確かめる。どこにもいない。
   なあ、――ワンピースのがいった。ここからでえへんの?
  連れを探してる。見なかった?
 かの女はかすかに顎をふった。
   車でたとこやし。
 なにもいわずにしばしを過ごす。訊きたいことはあった。ばからしくおもえた。しかしこれが現実でなくてなんだろう。
   なあ、裏口の場所教えたげる。
   あんたのこと、ママがよんでるから早くしたほうがええで。
   待ってるから。
 黙したまんま降りていったら、さっそくでぶに腕を掴まれた。敷物のうえから犬が吠え声の支度をしてる。
    あんたの女、どういうつもりだ! 見てみてよ!
 あいたまんまの金庫がある。ダイアルがふたつと、錠のひとつの銀の箱で、あけられたまんまのむこうがわにお情けのような札がのこされてる。赤いカーテンが室の温度をぐっとおしあげ、ぼくは床を見、敷物の柄を憶えようと努める。おそらくは五分あまり、そのままうごかずにいた。
    どうしてもらおうかな。わたしのお金ちゃん。
   なにももっていないんです、すみません。
    そんならどうやってかたをつけんのよ?
   働いてもってきますよ。
    あんた、住所あるの?働いてるの?
   なにもありません。
    いまからかたをつけてもらうわ。
  そうとうにまいってたから胃腸液と迎い酒を頼んだ。赤い眼を干してから、ぐっと脂肪に近づく。これは芝居だから大事には至らない。これでも演技者なのだから。寝台にたがをからませ、おかみのちからをぼくに充たす。寝台は少し湿ってる。ながれかかるとき、たっぷり憎んでやるつもりで房さに両の手をむけた。でぶの片脚がぼくを蹴りあげる。そして蹴る、さらに蹴る。おおきな笑いが熾った。火事の匂いがしてきたから、ぼくはいっきにでぶの腹におもてをうずめ、その肉に祷る。さっさと終わりやがれって。
 おかあさんといって!――唾液が降りかかる。もう驚くこともなかった。蒸留酒とパプリカの臭いがおもざしを漏らして、あたらしくもないだろう、絵画技法になってた。青年にのしかかる水牛の時間。
 とてものろくさい時間がたくしあげられる襞のあるスカート、緑のパンティを脱がせ、あたらしい酒を空けさせた。指示通りにそいつを口移しにする。スコッチの錘がふたりを線画する。平手打ちがあざやかに決まった。ぼくの頬に温く。ふいに勃ってきた。もういちど口うつしてからおれはでぶの横腹と左肩とのど仏を見舞った。けれど酔っていて痛みどころではない。カーテンのすきまから洩れだした朝日が美しい。その美のうちで杯はまわりだし、やがてでぶは、ぼくの櫂にくちづけをしてきた。だからだ、一撃を喰わせてしまった。
 立ち上がってまたぐらをなおす。傷はない。痛みはある。かぞえもせずに金庫のをねじいれたら、壜をふたつばかし盗ってホールへでる。もういちど階をあがり、くだんの室にむかった。女の子はまだそこにいた。ぼくはじかに壜にくちつけた。かっこいいつもりで。
    ころしてくれたんでしょ?
   ああ、ばっちり。
   案内してくれ。
  かの女のみてくれを消えた少女と較べながら降り、裏口をでる。荒れた庭にいっぽんの柳が植わってた。これからどこへいくん?――とりあえず、あの駅だ。
 おもてで、通りを進むまえにいま一度、宿を見る。日ざかった宿のうえ、四つ目の窓に立ってるのがいた。広い窓の左右に男と女が見おろし、こちらをとらえてる。なんにも入ってない両の眼。それはこちらを見る。のっぺらぼうみたいだ。表情なく、恋人同士にもおもえない。そこをはなれ、列車に乗り込んだ。中心街がみえるとほっとして、少女をみた。ホームにおりて通勤客のあいまを歩いてるとかの女がいう。
    ありがとうやけどな、
    酒呑むひと、きらいやねん。
    そのうちひどい眼に遭うから。
    どっちも。
 それきりいなくなってぼくはもといたところに戻ってきた。駅で待つといっても広すぎてどこにいていいのかわからない。とにかく歩きまわってると、構内の本屋のまえ、老婆が箱のうえに坐ってた。
 和服に正座を決めこみ、背筋をのばしきり、まえを見てる。おそらくは往来だろう。そのまなこがこちらを向いた。まっすぐに射るものをこちらからも、まっすぐに据える。もしこれで耐え切れなければ、かの女は来ないかも知れない。うしろからだれかが見えてる。一分が経ち、勝ちにおもえた。二分経ち、負けにおもえた。三分、四分が経ってまた勝ちに思えた。さらに五分経って負けに思えた。そうして十五分はしてやっと向きを変えた。こっちがだ。


    ○


 カウンター席に坐って、となりの止まり木を見た。そこにはこんな紙片があったのを憶えてる。――あれは妹なんかじゃない。だれも気づかない。なんであいつがなにもかも知ってる? そのとき皺でできあがった男が入った。となりの紙切れのうえに坐る。こちらにむかって話し始めてた。それを聴きながらひとつの詩ができあがっていった。なんの苦しみもないかわりに、それはしらじらしいじぶんの、へたくそな写し書きのようだった。いまいちど再現してみよう。


   解きほどかれた夜のほどろに立っている男たち
   かれらに勝ち目はない
   おおきな鳥と
   小さな鳥がきて
   かれらやぼくを食い尽くすから

   それははじめ
   輝かしいようにおもえた
   雨に融けだした聖母像のように
   広告塔の少女のようにみせて
   羽が朝を切る
   よくよく見てみればなにもかもが衰えているし
   まったくのかざりごとでしかないのだけれども
   まったく愛しくおもえたものだった
   安ホテルの汚れたベッドのうえ
   ラジオが毀されるみたいに
   かの女が喪われたから

   もはや美はうごけないものたちの砦だ
   すべてのあくがれと
   すべての窓枠が燃えつきたのち
   すべてのさまよいがはじまるだろう

   けがれきったものでさえ
   光りを持ってると感じるのはもっともさみしいとき
   ぼくはあなたといたかったのだ
   けれど大急ぎで
   とまったまんまの劇が
   ある朝終わって
   ひきつぶされてゆくはいっぴきの黒い犬
   そのかたわれがいまのぼくだ


 書き終えてポケットにしまうと、まだ皺でできた男が話しつづけてた。
   おれはおもしろいのに、だれもわらってくれないんだ。
   だれも話しかけてこない。
   話しかけてこない、話をさせてくれない、話せない。
   話すことがない、話させてくれない。
   きのうもおとついも、会社にいたときにだってだ。
   友達なんか、くそ。
  きっといそがしいだけですよ、だれも。
  だれも?
   だれもだって?
   だれもだれもだれも、
   わしのまわりで働いてるやつなんかいねえよ!
   くそったれ!
 熱くなるのも醒めるのもはやい。かれは席をかわった。だれも話しかけるものはいない。おれだってそうさ。テレビ画面の宇宙遊泳を観てた。音を消されてる。宇宙船内をマラソンしてるひとりの男が、おなじ環のうちで走ってる。かれはいったい、どこへむかってるのか、顔また顔の通過、鳩尾と背中の痛みがやってくる。それでもとまらなかった。給仕が猫のようにおれをおもてにほうりこんだ。
 そうだ、そのとき、あの詩を側溝に流したんだ。――いま午前五時、見憶えのあるような太陽がのぞきはじめたところ。


                  Sun's Up!