みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

ニューキャッスルの与太者たち──生きづらさの情報開示請求(3)

 

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   ○愛着障碍と承認欲求
 
 新幹線無差別殺人についての記事を読んだ。かれがいかに居場所のない、愛情の憶えのない人間かがわかる。そして浮浪者になろうとしたり、自殺しようとしたり、少年院に入ろうとしたり、この世のそとへでようと足掻きつづけていたことを知る。かれの撰んだ結末は最悪にせよ、その人生にはいくらか理解するところがある。
 だが読み終えておもったのはかれの想像力の貧困さだった。日本の刑務所に人権意識が守られているという妄信、そこへたどり着くための行動は、ほかのなにもより優先されるべきだという思考、警官から暴行されて猶、最終的には国が、刑務所が助けてくれるという甘さである。おれはこの件についてあまりロマンチックには考えたくはない。それでもかれの来歴を見ていると、胸を突くものがある。

 

www.dailyshincho.jp

 

 おれもこの世界が厭だった。いまだってそうだ。家庭も社会もおれの存在を疎外するばかりでなにも与えないどころか、奪っていく。母はおれをほとんど注視しなかったし、言葉もかけなかった。父権の暴風雨のなかで、たったひとりおれは取り残され、家の仕事に縛られ、あるいは父の発する科白──おまえなんか、人間やめてルンペンになれ!──など、始終罵倒を浴びせられ、かれが怒ったときには室のものを破壊されるなどのことごとが多かった。おれは父の影響で、幼いときから暴力的で、姉妹がなにかちょっかいをだせば、倍にしてやり返した。母は「おまえは父親にそっくりだ」といい、おれを姉妹からもじぶんからも遠ざけた。そんなおれが学校でうまくやれるわけもなく、中学3年以降は不登校になり、夜の公園や森のなかで過ごして来た。
 姉妹たちはどの場面でも優遇されていた。家の仕事など一切なかった。いつも小ぎれいにして、おれを黙殺するか、嘲っていた。母ともかの女らとも、まともに話をしたことがない。おれにはなにも共有する情報も、感情もなかった。おれは精神病院に入りたかった。なんどか試みたものの、不発に終わり、社会へでた。最初の就職を、研修中に辞して東京へでた。童話作家の弟子になった。だからといって喰えるわけじゃない。棲むところが得られず、けっきょく実家に帰った。それからは坊主になろうとしたり、日雇い派遣をやったりで、とにかく未来の見えないところにいた。次第に過古のルサンチマンがすべてを包むようになった。おれをいじめていたやつらや、恋した女たち、傲慢な教師たち、肉親を怨み、攻撃心を募らせた。
 多くのものは無知である。弱者=じぶんより下位にいるとする人間がどんな作用によってスイッチが入り、犯罪へと走るのかを知ろうともしない。たまたまおれには入らず、かれに入ったのかも知れない。あるいは心理的逃避によって回避されたのかも知れない。とにかくおれはひとを殺さなかった。だがそんなことは偶然である。かれには「天啓」があり、おれにはなかっただけのことだ。心情を寄せる気がなくとも、それだけははっきりしている。

 おれは電話口で、SNSで、ひとびとを罵った。だが、けっきょくいちばん痛い眼に遭ったのはおれ自身だった。友人と称する相手はいなくなった。おれはだれとも心から親しくなれない。それでもおれは作品といっていいのか、とにかく文章を書き綴っている。しかしそれは孤立と不安の反動でしかないようにおもわれる。
 数年まえに岡田尊司「愛着傷害 子ども時代を引きずる人々」を読んだ。するとおれがやらかしたこと、悩んでいたこと、それらがみな子供時代の疵のせいだということがわかった。同時に発刊時に読んでいれば、数多くの対人トラブルを起さずに済んでいた、ということもわかった。そして、けっきょくおれは「愛情乞食(伊丹十三)」に過ぎないということだ。この辞は映画「大病人」のなかで外科医師の男が、病人の男をしかりつける場面で放つ辞である。
 だれでもいいから、きずを塞いで欲しいがために他人の愛情を欲しがる。ただその行為に決着はつかない。いつまでもつづく現実と併走し、やがて人生を袋小路に追い込む。おれは充たされないおもいを表現に変換しつづけるだけだ。過古に心が引き千切られたままで、その苦しみに耐えられずにものを書く。そんなものは淋しいだけだと、無意味であると、どこかでわかってはいるが、どうすることもできない。おれのつくったものはみな愛着障碍と承認欲求の為せる業でしかない。心のもっとも寒い場所で、愛のない家庭環境や、荒んだ青年時代が痛みを訴えている。助けを求めている。
 おれはいまでも拘っている。じぶんがなぜこうなってしまったのかを。だから、こうして書きつづけている。しかしいつまでも、じぶんを語るわけにはいかない。おれが、おれが、おれが、──は、もう厭きてきた。ただ親父を撲ったときの、あの瞬間のひらめき、そいつをもういちど見てみたいものだね。

 この文章には、なんの教訓も、解決策もない。ただニューキャッスルを手にした、酔っ払いの、与太者たち同様、おれにも人生を愉しむ権利はあるだろうって、はなしなんだよ。いまだ、認められない作家もどきとしておれがいえるのはこれだけだ。いまのところ。

 

 おわり

ニューキャッスルの与太者たち──生きづらさの情報開示請求(2)

 

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自画像(2010)

 

   ○広汎性発達障碍(LD、ADHDASDほか)

 20歳をとっくに過ぎたころから学習障碍という辞に出会した。たぶんネットの掲示板だったとおもう。ニュース記事がそんなものがあることを伝えていた。読んでみると身に憶えがあった。おれはずっと計算ができなかった。どれだけ勉強してもできなかった。高校の授業では白い眼で見られ、嘲られた。そんな厭なおもいでとともにして、「じぶんはひょっとして学習障碍なんじゃないか」とおもい、解決策を調べた。子供用には薬があるらしいが、大人にはない。そこで話は終わってしまった。
 やがて26になり、大阪の救護施設でおれは生活していた。そこでようやく障碍の検査を受けた。数字のカードを並べたり、指定されたテーマで絵を描いたり、単語についてイメージをいったり、そんなこんなで、発達障碍とADHDだということがわかった。そして「算数障碍がある」、「言語能力と想像力は一般よりも高い」ともいわれた。早速、障碍者手帳も交付された。そのあとおれは酒によって施設を追われ、実家に帰らされた。短篇小説を書き始めた。そうして日々は過ぎ去って、おれは三宮へでた。福祉事務所から救護支援が為され、ようやく棲むところを得た。やっとひとりで、だれの監視もなしに暮らせるところを見つけたというわけだ。でも、そこでも酒三昧。からだはわるくする、被害妄想はでる、無計画で破滅的な日々を送る。SNSで過古の同級生たちとうまく対人関係が築けず、相手を罵倒・攻撃するなど、次第に逸脱行動を起こすようになっていった。'15年の秋、泥酔のうえ、迷惑行為をして警察に保護された。そのまま病院へ送られ、「自閉症スペクトラム」と診断された。その翌年、今度はなまえも知らない町で錯乱状態になり、ふたたび病院に送られた。診断名は「アスペルガー症候群」。──あれ? とおもった。自閉症ではないのかと。医者はいった、自閉症のなかのアスペルガー症候群であると。退院ののち、病名を調べた。厚生労働省のサイトには以下の通り書かれてある。

アスペルガー症候群の特徴
アスペルガー症候群の人々には、「表情や身振り、声の抑揚、姿勢などが独特」「親しい友人関係を築けない」「慣習的な暗黙のルールが分からない」「会話で、冗談や比喩・皮肉が分からない」「興味の対象が独特で変わっている(特殊な物の収集癖があるなど)」といった特徴があります。このほかに身体の使い方がぎこちなく「不器用」な場合が多くみられます。

https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-03-006.html

 たしかにおれは「表情や身振り、声の抑揚、姿勢などが独特」、「親しい友人関係を築けない」。だがほかに該当するものはなかった。しかし、発達障碍というのは複数の障碍の複合体みたいなものらしく、医師のいっていることがべつにまちがっているわけじゃない。以下のサイトも、多くの文章でおれのことをいい当てている。

 

大人のASD(自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群・広汎性発達障害など) : 発達障害とは - 株式会社Kaien

 

 たとえばおれは集団がきらいだし、ひとりでいるのが──寂しいとおもうものの──落ち着く。ひととのやりとりが苦手で、自己流で物事を進めたがる。これまでの人生で、ずっとひとやことばに齟齬ばかりが生まれ、もはや他人となにかをやるということ、他人と一緒にいるということが鬱陶しいかぎりだ。べつに孤立している現在を愛おしんでるわけじゃない。できればここからでていきたいし、仲間や友人、恋人が欲しい。でも、あらかじめ失われた社会性によって、おれはみずからを放逐してしまう。孤独者は集団への復帰を求めずにはいられないという事実に相反しながらも。
 仕事をやっていて憂鬱なのはじぶんが自然だとおもっていることが、他人にひどく不自然に、あるいは滑稽に見られるということだ。いまでもたびたびからかいの的にされてしまう。おれには反撃できない。しようものなら、よけいにばかにされるだけだからだ。どういわれ、どう見られてもしかたがないと耐えるだけだ。そこにまた誘惑がある。アルコールだ。どこまでもついてくる追っ手なのだ。おれにとっての対処法はただそれを文章へと昇華させることだ。むだのない、素直で、無防備な文章へ変えることだ。いまのところ、この障碍に効くなにかがあるわけでもない。ただただいまの情況を、「おれの人生などそんなもの」といって、黙っているしかないのか。いまは自己肯定の方法を模索中である。

 

 つづく

ニューキャッスルの与太者たち──生きづらさの情報開示請求(1)

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   精神病者としての遍歴──まえがき

 あなたはこれまで何度、精神科病棟に入院しただろうか。おれは、8回だ。これはアルコール専門病院も含めての数である。じぶんのなにが問題なのか、その原因はなにか、それを治すにはどんな方法があるのか、どんな思考法があるのかをこれから数回に渡って書いていきたいとおもうい。じぶんでいうのはあれだけれど、かなり特殊な例だから、だれかの参考になるかは微妙なところでもある。
 だけれど、書く行為はなにもだれかのためだからというわけでもない。むしろ、じぶんがいまどの地点にいるのかを理解するための行為なのである。ここではアルコール、発達障碍、愛着障碍と創作の順に書いていこうとおもっている。これがだれかにとっての救いになればいいし、またひまつぶしの種や、嘲笑の種になろうが、おれには知ったことじゃないってわけだ。

   ○アルコールと、そのほかの嗜虐

 「もしかしたら、じぶんはアルコール中毒なのか?」とおもった。22歳ぐらいのとき、おれは家にいられず、野宿生活をしてた。おおよそ半年。1月~5月半ばにかけてのことだ。'06年のことだ。時折、父の不在を狙って実家に這入り、母の財布から小銭を抜いて暮らしていた。あるとき、名塩駅のスーパーで、トリスを呑んでいた。もちろん、懐は寒くなりばかり。あしたへの不安、ただ生きてるというだけの不安に襲われながら、ウィスキーを呑んでいた。そんなとき、《おれはアル中なんじゃないか》とおもった。こんな差し迫った情況のなかで、酒にしがみついてるのは、あきらかに逸脱行為だとおもった。それでも、そのときはただ呑むしか方法はなかった。
 金さえあれば、自部屋でも、塒でも、酒を呑んだ。やはりウィスキーだ。小壜が床を埋め尽くすほど呑んだ。金がないときには工業用アルコールの、上澄みに火をつけ、消してから呑んだりもした。これは梅崎春生の小説「幻化」にある場面の真似だった。主人公は芋からつくられた燃料用のアルコールを戦友たちと呑む。その際、火をつけて毒素を飛ばす、という描写があった。それでも、もしかすると眼が潰れるかも知れない。そうおもってふたくちほどでやめてしまった。

 野宿生活が終わっても酒は終わらなかった。おれは小学生から酒を呑んでいたし、特に高校にあがってからは痛飲の日々がつづいていた。金が入ると、とにかく酒に突っ込んだ。とにかく酒だけが唯一の逃げ場であったし、現実の外気から守ってくれるなにかだった。そのころ、呑む原因についてなにを考えていたか。高校時代は対人恐怖を理由にしていた。しかしそのころには呑むことに理由づけはしなかったとおもう。
 やがて'07年、おれは照明器具の倉庫で働いていた。仕事が終われば量販店に飛んで、安いバーボンを買っていた。毎晩いっぽん呑み干していたというわけだ。このときは飲酒の理由を仕事のストレスと見做していた。しかし、それを晴らすにしても酒量は多すぎた。その仕事をやめて数ヶ月後、おれははじめての膵炎をやらかした。そのあとの人生で、さらに7回、膵炎をやってる。たぶん、膵臓はもうどろどろに融けてしまっていて、もしまたやらかせば帰って来られないかも知れない。

 そのあともいろいろ病院をまわった。けれども本気で禁酒する気持ちにはなれなかった。そこに変化が訪れたのはいまから5年ぐらいまえだ。酒による逸脱行為が表面化してきてからだった。いろいろと奇行に走ったり、ひとびとを罵り、暴力を仕掛けたり、集団暴行に遭ったり、──恥ずかしくてあまりいえないが、とにかくそんなことがあった。それとストロング系の酎ハイに手をだすようになり、今度は連続飲酒状態を経験するようになったからだ。金があっというまになくなり、気づくと身体の具合もわるい。喰うものもない。──こんなことが毎月のように起きつづけてた。
 とりあえずは、かかりつけの精神科でノックビンをだしてもらった。しかし、この薬、即効性がない。けっきょく酒に逆戻りしたというわけだ。けれどもシアナマイドという薬には即効性があり、すぐに酒の呑めないからだにしてくれるのだ。でも、はじめのうちは服用後に酒を呑んでひどい眼にあったりした。眩暈と筋肉痛と嘔き気にまみれて身動きがとれなくなったことがしばしばあった。'17年からは嘔くまで呑むようなことがたびたびあった。なんとか薬に頼らないで酒を止める方法はないかと探っていた。
 そのころ、精神科のクリニックを変えた。カウンセリングを受けるようになった。心はいくらか楽になったものの、おれのなかでは酒をやめようとするじぶんと、うまくやり抜けて酒を呑みつづけようとするおれが同居していた。酒による小規模の金銭問題を何度かやっては、《やめてやる》と誓ったものだ。

 本格的に断酒をはじめたのは'19年の春からだった。当時はバイトでMacを買おうとしていた。酒をやめて、ウィルキンソンのタンサンで凌ぐ日々がつづいた。酒がないのはとても退屈だった。緊張がほぐれないし、なにをやっていても、時間の経過が遅すぎる。3ヶ月ほどしておれは酒にもどってしまった。酒を抜くということは退屈と、停滞と、重すぎる時間に耐えることだと、そのときはおもった。──もちろん、その退屈と停滞の原因はじぶん自身なのだが。

 


アニメ ザ・シンプソンズ ホーマーの断酒生活

 

 おれは本屋である本と出会った。小田嶋隆の「上を向いてアルコール」である。立ち読みでいくらかページを繰ったときは、あまり感じるものはなかった。
 次に町田康の「しらふで生きる」に出会った。ネット上でかれのインタビューを読みあさった。インタビューはどれも愉しかったのだが、実際の本はかれの語りのくせのつよさも手伝ってあまり愉しそうには見えなかった。「人生を無理に楽しもうとしない」という一節は残ったが。
 それでも前著を借りてきて読んだ。それでわかったことはアルコールを呑むことにはなんの理由もないということだった。酒で現実逃避はできないということだった。ここでいろいろと引用したい欲求に駈られるのだけれど、まだ浅い読み方しかしていないのでよしておく。
ただ読んでいて、おれの場合、時間があって、それを持てあまして、退屈でいるから呑む。あるいはその現実に耐えられなくて呑むということが見えてきた。
 いまは酒をやめているが、いつまでつづくかはわからない。正直、まだ呑んだことのないシロック・ウォッカや、アイラ・オブ・ジュラや、アブサントを呑んでみたいという気持ちも残ってる。ただいままでのように時間に耐えられないから呑む、ということはよしたい。あるいは一時の怒りにまかせて呑むようなことはしたくない。
 酒を呑まずになにをしていたか。ウィルキンソンの炭酸や、ジンジャーエールを呑んで時間を潰していた。これだって嗜虐でしかない。なんにもうまくない。けっきょく問題は残された時間の多さ、そしてそのあまりにも感じる遅さ、重さなんだ。そいつが酒やタンサンに走らせる。やることさえあればいくらでも愉しむことはできる。いまこうして書いてるように能動的に時間を過ごすことで、酒への欲求は収まって来るのだ。もちろん、いまはシアナマイドを摂取して、呑めなくしてもいる。だがいずれにせよ、なにもすることがない状態は危うい。

 

 つづく

 

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白

  • 作者:小田嶋隆
  • 出版社/メーカー: ミシマ社
  • 発売日: 2018/02/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
しらふで生きる 大酒飲みの決断

しらふで生きる 大酒飲みの決断

  • 作者:町田 康
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2019/11/07
  • メディア: 単行本
 

 

最後の晩餐みてえな愛の詩

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 おれのうちなる女の子たちがよくいったものだ、
 "わたしのこと、好き?"って
 "わたしのこと、好き?"って
 その科白ならほんとうはおれのものなのに
 かの女たちにいわせては淋しさを紛らした
 ガソリンの切れた車が空ぶかしをするみたいにいま、
 "おれのこと、好きか?”
 "おれのこと、好きか?”
 そうくりかえす
 そこにはだれもいないのに
 かの女たちがおれのうちからいなくなって久しい
 どうぞ、からかってくれ

愛を巡る最後の伝言

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 もしもきみが牛なら、
  ぼくを愛するだろうか?
 もしもきみが鹿なら、
  ぼくを愛するだろうか?
 もしもきみが鯨なら、
  ぼくを愛するだろうか?
 もしもきみが蛭なら、
  ぼくを愛するだろうか?
 もしもきみが発動機なら?
  おなじことだ。
  きみは愛さない。