みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

小説を書くうえでの悩み(pt.2)

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6/24

 

 小説「犬を裁く日」。第一稿完成。まだ28枚しか書いていない。あと50枚はいる。これから風景と回想と独白を入れる。不条理小説としてイベントが足りないようにもおもう。あとバックストーリーをもとにしたものを入れる必要がある。たんに回想だけでなく本文にも読者の興味をそそるものがいる。展開も大雑把すぎる。細かい橋渡しが必要だ。あしたは眼鏡を買う、USBを買う。

 

6/29

 きょうも「文學界」新人賞のために書いている。伊丹十三「「大病人」日記」を読み、映画のストラクチャーを、三幕形式を、小説に流用するという企みは破綻してしまった。映画ならば、いくらでも雄弁な沈黙があって、状況を画面全体で魅せることができるが、小説にはそれができない。けっきょく枚数だって三幕では到底足りなくなる。あてにしていた種本、サマラキスの「きず」も数年ぶりに再読してみるとまったく用を足さない。ただきょう届いた藤原新也アメリカ日記」はすこぶる役に立ちそうだ。書き手の観察力が少ない行数で、鋭く書かれている。とりあえず通読してから考えたい。いまのところ、六幕構成+序章で60枚。応募にはあと10枚が必要。それでやっと最低枚数の70枚に届くというわけだ。苦しいものである。まずはあたりまえのことを、あたりまえに書く必要がある。

 

6/30

 最後の朝食、サラダチキンと卵とカット野菜、セロリ。あとはスープと燕麦しかない。サローヤン「パパ ユーア クレイジー」読了。大変愉しかった。図書館へ。小谷野敦の「芥川賞の偏差値」を読み、考えを変える。わたしは文学をやるべきではない、アンチ文学をやるべきなのだと。多くのひとびとが心地よいとするものを書いてはいけない。じぶんを愉しませるものを書くべきなのだ。またブコウスキー、ボーマン、ジョーンズを再読することだ。とにかく盗める引き出しを増やすことである。炊き出しはカレーとバナナと煎餅だった。帰ってスープをつくる。固形スープにセロリ、ピーマン、ホットソース、バジル、コリアンダー、パプリカ、オリーブ油、ドレッシング、燕麦、そしてクラッカーのかわりに煎餅を入れる。料理のセンスがあってつくづくよかったとおもう。わたしはかつて父のつくった、ぞっとするような野菜炒めをおもいだす。当然ながら勧められても断った。かれの愚かさったらないね。帰ってからずっと永山則夫の鑑定記録についてのルポを読んでいる。小説に手が届かんわい。
 来月、Tシャツのデザインをはじめる。クレジットを添えてだ。じぶんで着るため、あるいは配るため、ひとに送るため。これは伊丹十三の真似だ。

 

7/01

 未明、「永山則夫 封印された鑑定記録」読了。やはり死刑制度はまちがいであるとおもう。一旦眠った。時間は8時20分。もっと眠っていたいというのに最近はまったくだめだ。半分の状態で、本をひらく。速読の本、苫米地博士の英単語の本、「ピカソになりきった男」を読む。町田康「外道の潮騒」を再読しようとしたが断念。苫米地の「free経済学」はわたしには用がない。長篇、きのうおもいつた箇所を加筆する。これでほとんど完璧だ。「ピカソ──」を読んで絵が描きたくなる。でもいまは基礎ですらできそうにない。予定としては「ピカソ──」のあとにブコウスキーとグーディス、ボーマンを再読しながら、中篇の加筆について考えるつもりだ。夕暮れ、最後に残ったインスタントの味噌汁を啜り、飯はなくなった。あとは紅茶と緑茶と烏龍茶だけである。夜、「ピカソ──」読了。

 

7/02

 

 無駄な行動ばかりで残金1千円ちょっと。とりあえずガスと電気を払い、ネット屋へ。散文への反応を見る。大したことはない。ただ現代詩フォーラムのLisacoという女は愚鈍だ。為にする議論、目的化した議論、あるいは非難のための非難、いささかの合意形成も得ようとしないのであれば勝手にするがいい。消えちまえ。しかも岩城春雄を擁護している。わたしがどれだけ理不尽で執拗な攻撃を受けたことも知らないで、「死んでしまえ」といったわたしを非難する。なんの発展もない。議論の価値はない。ブンゴクではTというひとと、わずかに理解し合う。このぐらいでいい。絶賛もいらない、全否定もいらない、中庸がいい。食材を買って帰る。森先生より葉書。散文を好意的に書いてくれている。それに満足するのがいい。もう終わった。あたらしいメモ帖と安い万年筆を買う。アマゾンでジョーンズ「拳闘士の休息」を安く買う。ヤフオクで2千円のビンテージの革ベルトに入札。

 とにかく脳内にずっと雑草が生い茂っている状態だ。休めない。スイッチが入りっぱなしのまま、切れない。そわそわと考え、つぶやき、奇声を発する。いかれた虫のような生活がつづいている。わたしは不安だ。それに焦ってもいる。さらに孤立したなかで、自己完結した発想が、ひとりよがりのまま発露しようと背を伸ばし、殻をやぶりつづける。もう我慢ならない。あしたこそはカウンセリングを受けて、今後を考えること。少年時代の虐待による海馬の萎縮についていちど検査を受けたい。

 再度出かける。忘れたUSBを引き取る。ツタヤで返却。「ブラウン・バニー」はもう一回見たかった。ヴェンダースを借りようとおもったがやめた。あと千円しかない。崩してしまえばあっというまだ。それよりもあした、ひとりでわが誕生日を祝おう、呪おう。

 

7/03

   チアノーゼ色の菖蒲を剪りてわが誕生日なり 生るるは易し──塚本邦雄(「日本人霊歌」)

 

 ひさしぶりに8時間眠る。それでも物足りないくらい。為す術もなく34歳になった。中篇小説は一旦休み。短歌でもつくるか。朝、長篇にまたも手を入れる。旅役者の部分を加筆、終幕部から一行削除。これでやっと終わりか?

 現代詩フォーラム、おもった通り、Lisacoは感情的な議論の泥沼におれを引きずりこみたいらしい。論点すら整理されていない。だいたい《笑》なんか文末につけるやつがほんとうに笑っていた例しがない。青筋立ててヒステリーをあげるだけ、相手を非難するだけ。コメント欄は議論の場所ではない、非難の場でもない、やりとりをする場所でもない、スレッド掲示板でもない。だのに延々と捲し立てている。みっともないよなあ、憐れであるよなあ。なぜじぶんの意見を文章化しないのか。その能力がないからなのか。ブンゴクがおれに目配せをしているとさかんに主張しているが、そんなことはおれの知ったことじゃない。そんなことは運営と戦えばいいのであって、おれに拗ねたってしかたないだろう。まったくどこまでばかなのか。

 森忠明先生が仰っていたように《女を敵にまわすと生きていけない》というのは確かだ。だから今後、ああいった女が現れたら、平謝りをして済ますのが、いちばんだろう。すべてわっちがわるぅござんしたぁってなわけだ。なにが悲しくて、なにが愉しくて、絡むことしか能がない女の相手をしなければいけないんだ。おれはもうたくさんだ。閑人ではないし、ほかに考えること、やることがいっぱいなんだ。

 ひさしぶりにカウンセリング。いちど心理検査をするという辞をなんとかかんとか心理士から引き出す。次は17日17時。あしたは高校時代に好きだった子の誕生日。お元気ですか、キタムラさん。幸せでいて欲しい。

 映画はあきらめた。残った小銭で林檎黒酢とノンアルコール・ビールを買い、夕餉。鶏胸肉を蒸し、茹で卵とセロリ、大根サラダ、オリーブで一皿。夜風がいい。

 

7/04

 きょうは高校時代に好きだった子の誕生日。フリースクールから定時制へいったあの子。幸せになってて欲しい。

 CWはおれの「政治パンフレット」を笑っていた。ネット屋へ。ブログ記事の修正。現代詩フォーラム、Lisacoへ最后の返信(日記の一部より抜粋)。5chのスレッドにておれを非難する書き込みがひとつ。まったく手垢のついた非難、そして文末の《笑》。それで勝ったつもりか?──たしかにあんな場所にもう何年もかかわっているのは、病理といわれてもしかたないだろう。自己批判ができてないというのも確かだ。おれは詩そのものから手を引くしかない。さもなくば、とにかく当てずっぽうでも詩誌に送るべきだろう。特に「詩と思想」へだ。あそこなら認められることはむつかしくない。インターネット詩人どものなかで、じぶんを貶めてもしかたがない。だいたい詩人なんて人種は救いがたい。多くが不愉快かつ醜い。おれのそのひとりなのかとおもうとやりきれない。「文学極道」での7年のあいだ、できることはすべてやった。けれども有意義だったのはそのうち2年ぐらいだ。あとは腐れ縁でしかない。断ち切るしかない。いまは小説と短歌に打ち込むことだ。わざわざ、じぶんよりずっと稚拙な連中に合わせる必要はない。

 尼崎市役所へ。分籍届をだす。腐れ縁を断ち切るために。戸籍謄本を見る。おれは祖父母のなまえすら知らなかった。もちろん両親の出生地も。本籍地を現住所へ移した。親とも故郷である生野高原とも、もうオサラバだ。これでよし。帰りの電車のなかで買ったばかりの傘を忘れた。三宮に帰ってふたたびネット屋へ。藤原新也アメリカ」を買おうとおもうもやめる。bedheadのアルバムもやめる。サニーデイ・サービス「MUGEN」を再購入。ツタヤで4本の映画を借りる。「アメリカ、家族のいる風景」、「ランド・オブ・プラントリー」、「荒野のダッチワイフ」、「ロボコップ(リメイク版)」。オークションで落とした、ベルトの代金支払。丸山耳鼻科にいく時間がない。しかもあしたは木曜日と来た。急ぐわけではない。あとは食料。8時過ぎに帰って飯の支度。蒸鶏のサラダ、茹で卵、インスタント蜆汁。いつもより眠ったというのに、いつもよりも疲れ果て、眠い。23:14。さてみずからを慰めて眠ろう。

 

 

 

アメリカ日記 (Switch library)

アメリカ日記 (Switch library)

 
ピカソになりきった男

ピカソになりきった男

 
パパ・ユーアクレイジー (新潮文庫)

パパ・ユーアクレイジー (新潮文庫)

 
永山則夫 封印された鑑定記録 (講談社文庫)

永山則夫 封印された鑑定記録 (講談社文庫)

 
芥川賞の偏差値

芥川賞の偏差値

 
拳闘士の休息 (河出文庫 シ 7-1)

拳闘士の休息 (河出文庫 シ 7-1)

 
真説・外道の潮騒

真説・外道の潮騒

 

 

小説を書くうえでの悩み


 いまは「文學界」新人賞にむけて中篇を書いている。今回は伊丹十三の「「大病人」日記」を参考にして、映画シナリオの書き方を流用している。三幕+序章という形式。シノプシスを書き、本文にまず場所を書き、それから科白だけを入れる。そのあと簡単でみじかい地の文を書き入れ、展開を調整しながら、加えるべきものを考える。
 ところが風景描写がなかなかうまくいかない。地理についてぼやかしてあるというのもあるが、わたしは草木の種類も、建築様式の知識もなかったのだ。これではまずいときょうは図書館でそれらしい本を探した。それからロード・ノヴェルという性質を高めるために旅行記の類いを買うことにした。そこで藤原新也の「アメリカ日記」などを購入。そして種本としてサマラキスの「きず」を買い、参考として映画「ブラウン・バニー」と「審判」のソフトを借りて来たのだった。

 

 ○小説「犬を裁く夜(仮題)」

  ふたりの演奏家が巡業している。しかし理不尽な出来事に遭いつづけ、最期には消息を断つ。

 ○課題

  出来事の前兆を感じさせないこと、袋小路を利用しつくすこと、主人公たちの履歴、人物造形を練り直すこと。


 わたしはこの作品によって中篇小説の技術と場面描写の技術、風刺の手法を確立したいとおもっていまる。だれがふたりを現実から遠ざけ、ブラックボックスへ閉じ込めるのか、そしてかれらはそこから現世に復帰できるのか。まだまだわたしはふたりについてよく知らない。あと3ヶ月で70枚書かねばならない。現在30枚。わたしはどこへいくのか?

 

 

「大病人」日記

「大病人」日記

 

 

きず (創元推理文庫)

きず (創元推理文庫)

 

 

学歴というもの──マミー石田を再考する

 


  そういう享楽的な諸君の姿を見ていると胸糞が悪くなります!──セリーヌ「死体派」


 かつてマミー石田という男がネット上にいた。おもに「高卒者」を嘲笑するためにアジビラまがいの投稿を繰り返していた。かれには追従者もあったし、かれのサイトには共犯者もいた。かれらはどこにいったのか。当時わたしは夜学の高校生で、じぶんが高卒者になってしまうことをひどく怯れた。もちろんかれらの影響によってだ。わたしは担任に勧められるまま、無名大学を受験した。3万円の受験料。なまえさえ書けば受かるという噂。けれどもわたしは落ち、いまではその大学もなくなってしまっている。石田は自称MITだったが、やがて東京大学であることが露見した。かれはひどくうろたえたらしい。かれのサイトには高卒者を嘲笑する小咄などもあった。たしかこうだ、──2台の自動車事故が起きる。警官がそれぞれの学歴を訊く。いっぽうは大卒、もういっぽうは高卒。警官は高卒者のみを勾留した。──まったくおもしろくはない。ただただ書き手の復讐心が稚拙に表現されているだけである。いやしくも高学歴を盾にユーモアをやるのであれば、最低でもモンティ・パイソンの作品は知っておくべきだろう。
 かれの主張は要約すれば「いまどき勉強のできないものさえFラン大学に通っているというのに、高校しかでていないものは頭に欠陥があるか、障碍があるとしかいえない」というものだった。ひとびとの俗物根性を煽るにはもってこいの主張である。ところが、ここにはふたつの疑問がある。大量生産された大卒という資格がいったいなにをもたらしたか、ということ。経済的な背景や発達障碍などの問題が見過ごされていることだ。かれはひどく不公平な見地に立ってものを見ている。そして知性と向上心といったものを学歴というひとつの基準でしか考えておらず、けっきょくはじぶんの気に喰わないものをいかに嘲弄するかが、主張の目的になっている。
 そしていま、はっきりとおもうのは知性や教養は学歴とは関係ないということだ。かれが学資と労力をかけ、東大に入ったのはたしからしいが、かれは品のない、そしてこじつけでしかない妄言を垂れ流すことしか、喜びがないのだ。おそらくかれの発言をいちばん真に受けたのは、かれの非難する高卒者のひとびとであろう。かれと同等か、それ以上の人間の共感を呼んだとはおもえない。かれとその共犯者が教養やユーモアを持たず、ひたすら下品な笑いをしていたのは、けっきょく日本の教育制度が、暗記を重視し、考えさせる、疑うということを教えて来なかったことにあるのではないか。だからこそ最高学府という場所で思考停止に陥り、そのさきの展望が皆無という情況を産んだのではないか。しかもこれはかれのようなネットミームの特殊例ではない。実際に大学以後、いっさい学ばずに老いていくだけの人間は多いだろう。社会にでてから学ぶということが、この国ではあまりに不寛容にしか受け止められていない。更新されない知識は古びていくだけなのである。かれの言動にショックを受けたものとしてわたしは書いている。ルサンチマンを学歴によって正当化することはできない。「わるいのはおれじゃない!」と喚いたところで情況はかわらない。当然のことである。かれのサイトには掲示板もあって随分意見を戦わせたらしいが、けっきょく自己の価値観の絶対化と、他人への侮蔑しか目的がなかった。相手が大卒であっても、つねに東大(文系は除外)やMIT未満は人間として値しないといったふうな応えだった。まったく不毛の一語に尽きるというわけだった。
 そしていま匿名掲示板で流行ってる言説は「高卒で地方公務員になったほうがへたな大学にいくよりも得」というものである。
 石田の主張から約16年ほど経って登場したのがこれだ。わたしはもうすでに公務員になる年齢を過ぎてしまってるのでどうしようもないが、理解はできる。ここには学歴で満足することなく、そのさきの人生を射程に入れているからだ。スノビズムにはちがいないとはいえだ。面壁九年といえばいいのか、ものを書き、読みつづけるなかでようやく本質がわずかに見えて来たようにおもう。石田がどう就職し、自己の不平不満や憎悪をいかに解決したか、しなかったのか、そんなことは想像する気にもなれない。どうだっていいことだ。しかし目的と手段をとりちがえた学歴論や、学習法のベストセラーがいかに多いか、そしてあいかわらず教育は一辺倒で、学びの多様性なんかどこにもない。国語は「作者の心情」をいい、英語は学習指導要領と学閥のために歪められ、体育は危険行為を強制し、数学なんかはわたしにはさっぱりだ。わたしはいずれ学習障碍を克服するために学習をはじめるだろう。ただしじぶんに合った学習法を試行錯誤しながらである。これはわたしの人生だ、あなたのではない。ひとを類型でしか認識できない想像力のなさ、人生の流れを手前勝手に定義づけするおろかさ、常識という幻想に囚われた果ての愚行、──もうやめようじゃないか、そんな相互監視な人生は。少なくともわたしは降りる、石田やその子孫たちを振り切って。かれをおもうとき、わたしは祖母殺しの朝倉泉少年を連想してしまう。じぶんの環境や、自身の至らなさを他者に着せることで、現実と理想とのあいだを埋めようとして死んだ少年の姿にどうにもかれがダブって仕方がないのだ。学歴がない人生は不幸だ、だが学歴を求める人生のほうが、もっと不幸である、という方程式も成立するのではないかとおもえて来てならないのである。かれには学力があった。だが知性はなかった。ユーモアも、みずからの対義も、そして客観性も、肉体的交歓も、半ダースほどのちっぽけな詩学も。

 
 最後に余談をふたつ、映画監督の黒木和雄は脚本を書いてきた松田優作にむかって「高卒ごときに脚本が書けるか!」と罵倒したという。これは伝聞に過ぎない。しかしほんとうならばかれが晩年に監督した原爆云々の、反戦云々の人間ドラマなどぺらぺらのお飾りでしかなく、権威に笠を着た、俗物根性の発露でしかないのではないか。加えて松田は伊丹十三をきらってた。なんだか同族嫌悪のような気がする。「魚眼レンズのように端っこの人物がぼやけてる」と松田は伊丹映画「お葬式」についていうが、「人間の証明」のような人物説明(描写ではない)ありきの作や、「蘇る金狼」のように動機不在のアクションありきの作に出演するところが、おれにはよくわからない。「陽炎座」や「家族ゲーム」は比類なき傑作だったが。
 もうひとつ、むかしに「真剣10代しゃべり場」という番組があった。あれもまた俗物根性を刺激するための装置であった。議題はいつも「10代は~すべき!」だ。いい加減ほっておいれてくれ、わたしの人生はわたしが決めるんだ、外野どもよ。かれらの人間性?──おれの人間性?──まあ、いずれにせよ、どうだっていいことだ。

 

追記:

この文章を書いてからすっかりじぶんの人生と折り合いがついてしまった。学歴なんておれにはいらねえ。どうだっていい。

学歴フィルター (小学館新書)

学歴フィルター (小学館新書)

 
非学歴エリート

非学歴エリート

 
学歴分断社会 (ちくま新書)

学歴分断社会 (ちくま新書)

 
セリーヌの作品〈第11巻〉死体派

セリーヌの作品〈第11巻〉死体派

 
高学歴モンスター: 一流大学卒の迷惑な人たち (小学館新書)

高学歴モンスター: 一流大学卒の迷惑な人たち (小学館新書)

 

フィリップ・ジアン「ベティ・ブルー」'85年

 

ベティ・ブルー―愛と激情の日々 (ハヤカワ文庫NV)

ベティ・ブルー―愛と激情の日々 (ハヤカワ文庫NV)

 


フィリップ・ジアン「ベティ・ブルー」'85年
Philippe Djian - "37.2° LA MATIN" '85

 

 ぼくのノート類がバーゲンセールの陳列品みたいに四方八方に散らばった。ぼくはそれが気に入らず、落ち着きがなくなった。「いったいなによ、これは?」彼女はいった。「だれが書いたの、あんたなの……?」


 作家、詩人、画家、音楽家、泥棒、──なんだっていい。自身の表現で、方法で生きようとする人間が好きだ。"もっともアメリカ的な作家"というのがフランスでのジアンの評価だとかなんとか、どっかでそんな話を聞いた。この小説は冒頭からブローティガンエピグラフで幕を開け、終盤にはケルアックの一節が科白としてでてくる。主人公はかつて作家志望だった中年男、35歳だ、なまえなんかない──そんなものはいらない。かれはバンガローで下働きをしながら生活してる。住人のための買い出し、洗濯物の回収、水道、配管などなど。テキーラ、チリ・コンカンが好物。あるとき、出会ったばかりの恋人が転がり込んでくる。かの女はウェイトレス、25歳、なまえはベティだ。
 ベティは気性の荒い女で、主人公をふりまわす。ある夜、ベティは主人公が書き溜めた小説を発見する。そしてかれを天才だとおもい込み、バンガローの主に楯突き、ついには主人公の家を燃やしてしまう。ふたりはパリへ逃げ、ベティの妹リザのもとに転がり込む。かの女はアパートを経営している。ベティは主人公の書きものをタイプして出版社へ売り込もうとする。しかしどこにも受け入れられず、酷評を得る。ベティは批評家に復讐して逮捕されてしまう。男は告訴を取り下げさせて、ベティを連れ戻す。やがてリザの恋人で、ピザ屋を経営するエディがやって来る。すぐに打ち解けるベティたち。やがてエディの母が亡くなり、かれの母のピアノ屋にふたりで棲むようになった。
 ある日、ピアノを配送しにいこうとする男にベティがいった。妊娠したという。男は喜ぶ。しかしその夜、男が帰って来ると、めちゃくちゃに裂かれた産着が残され、ベティがいなくなった。かの女を探す男。灯りのついたわが家でベティを見つける。妊娠はまちがいだった。かの女は顔中にピエロのような、めちゃくちゃな化粧をし、髪を無残に切り落としていた。その顔を見たとき、男はトマトソース煮込みのクリネに顔をつけ、顔中に塗りたくった。病んでいくベティ。エディやリザは心配するも、どうすることもできない。やがてベティは幻聴を聴くようになる。男はかの女のためにと、現金強奪をやり遂げる。ベティは子供を誘拐しようとしてしまう。そして夏。ベティは片目をみずからえぐり取ってしまう。男には電話があり、作品の採用を告げられる。でも、ベティはショック状態でもうなにも認識しない。

 

 「ケルアックがいったことを憶えとけ」ぼくはため息まじりにいった。「至宝とは、真の中心とは、目の奥の目なんだ」

 


『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』予告

 


Trailer BETTY BLUE - 37,2 Grad am Morgen (Deutsch)


 原題は「朝、三七度二分」。フィリップ・ジアンは1949年生まれ。冒頭のブローティガンの引用をはじめ、ケルアックが数度引用されている。遅れて来たビートニクといった趣きだろうか。この作品はもちろん映画のほうが有名で、パンフレットには詩人の八坂裕子が寄稿している。わたしはインテグラル版しか見ていないので、かの女のいうように《200%男の映画》という言辞がしっくり来ない。無気力な生をつつましく暮らすしかなかった男を、ベティが作家にまで変身させた愛の映画だとおもっている。たしかにベティを都合よく亡き者にし、それに対して当然といった語りをする主人公は、ある意味では悪漢かも知れない。だが、美しく優しいものだけが愛ではないのだ。残念なことに本書は絶版であり、全訳でもないことを付す。

 

「そのころ鱗ついて考えてた。それがこの髪型に結びついたわけです」(本人談)

 

   *

 長篇小説「裏庭日記/孤独のわけまえ」はようやく校正が終わった。今週発送する。それでだめなら短縮版をつくって賞にでも送ろう。最近はずっと校正と読書に浸かってほかのことはなにもしてないと来る。そろそろあたらしい作品を書き始めなくてはならない。残念なことに娯楽作品は書けないから、またも青春残酷物語と相成るしかないだろう。とにかく賞に受からなければなにも始まらない。ものを書いていておもうのは、一作ごとになにもかも原初からはじめなくてはいけないということだ。自己模倣のわるくはないが、そいつはそれでエネルギーがいる。けっきょくはあたらしいものを書くしかない。それも手元に参考などと称して他人の作品を置くのもやめたほうがいいだろう。《書くか、さもなくばなにもしないか》──チャンドラーはそういっていた。なにもしないまでも書く時間と読書の時間は混淆するべきではない。混ぜるな危険である。まさしくサンポールである。義務感に駈られて書くのもいけない。書きたくなければ書かないのがいちばんだ。創造的世界はそんなことをやっても開いてはくれないからだ。

   *

 相も変わらず、携帯もネットも復活できていない。プリペイド端末はいけるが、フィマートフォンはだめだ。あとはネット復旧のために金を払い、室に線を引かなくちゃいけない。とりあえずネットカフェ頼りの生活から脱しなきゃだめだ。電話が使えるようになったら郵便局の面接でもいこうとおもう。金にはならない仕事ではあるが。
 正直にいっておれの人生はうまくいってない。負債はあるし、それを支払う能力がない。小説の構想はなかなか降りて来ない。五年まえの友情の破綻について書こうか、それとも郵便局での労働について書こうか。どうなるのかはわからない。けれども応募だけでもきちんと果たしたいとおもっている。

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 おとついは短歌、きのうはあたらしい詩をふたつ書いた。手紙も一通書き、長篇も加筆。なかなかいいスタートだ。しかしどうもおれの才能は夜用らしく、けっきょく朝まで書いてしまった。本も一冊読んだ。早く賞のための小説を書きたいが、他者との交流のない生活のなかでいったいどうすれば違和感のない他者をつくりだせるか、それが課題だ。

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 おれは尼崎がきらいだ。なのにおれの本籍地は出屋敷にある。生まれた場所でも棲んだ場所でもない、ただ父方の祖母がいたところだ。おれは分籍届をだしておれの人生から、あのうすぎたねえ町を葬ってやるのさ。

   *

 図書館で「ピカソになりきった男」という贋作画家の自伝を見つけた。これは買って読んだほうがいい本だと直感した。

   *

 金でも飯でも仕事でもおれに恵んでおくれ、だ。