みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

長篇小説、そして創作について断片集

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3/28

 小説、新たなエピソードを挿入。1頁増える。夜、スケッチを二本書く。

4/10

 小説、加筆。そして終盤の内相を削る。再編輯。阪神震災を追加。実家の現在の外観も。外出、食器拭きを買い、パンツを買い、食料を少し。ノックビンを呑み、禁酒2日め。小説のなかでは過古への決別ができた。現実にできるのはいつか。

4/11

 ジョン・クリーズの自伝。けっきょく出自≠出会いと人脈が才能を発揮させるということだ。残念なことに。

4/12

 小説ようやく終わり。角川短歌の投稿準備も終わり(一首余って消すことになった)。夜はサラダ。大根、こごみ、鶏肉、焼き豆腐、オリーブ。ドレッシングは青じそをベースに蜜柑の果汁、生姜ペースト、アーモンドオイル、タバスコ、コリアンダー
 ジェイムズ・サリス「黒いスズメバチ」再読。抑えた文体がいい。人生について考えさせられる。わたしは長篇を書くことでどう変化したのか。過古を語ることと、現実の行為のはざまには大きな隔たりがある。それを消し去ろうと苦闘したのはたしかだ。だが消えるわけだがない。ただ語ることによって、それらはほんとうに過古になったんだとおもう。いままで何度も、いつでも、どこでも他人の眼、他人の思考に捕らわれて来た。そしてわたしはつねに他人を観察し、内心ずっとかれらについて語ってきた。おもにわるい方面で。しかしその必要ももはやなくなったといっていい。だれもおれのことを見てなんかない。おれについて知ろうとなんてしてない。おれがどんな作品を産みだしたところで、かつての同級生たちがふりかえり、迎えてくれることなどないという、まったくあたりまえのことを受け入れられ、そしてひとり生きるのを諒解したということだろう。

4/13

 またも失敗。小説に使う重要なエピソードを忘れてしまってた。2冊も発注したあとで気づいた。じぶんのなまえについて、楠本君のこと、教育実習生のこと。行きつ戻りつしてふたたびネットカフェへ。1冊のみ発注。いままでの失敗作5冊はテスト版として売ることにした。¥1400+送料。ぜんぶで¥8000ほど。きょう角川短歌へ原稿を送る、しかしここでも勇み足だ。B5とB4をまちがえる。角川はいかれてる、まえはA3だった。どちらにしてもばかでかい。そんなものを総人数で読み回すのである。ほかにも本を買ったりして金を使った。そしてあたらしいカメラに¥1800のフィルムを入れて撮影にでたものの、途中で電池切れ、しかもフィルムの巻き戻しに失敗。フィルムがちぎれてしまった。もっとこのカメラの扱いを調べねばならない。夕餉はアボガドと鶏肉の春雨サラダだ。


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 記憶にあるものを書くことと、実際の行動や出来事のあいだには埋めようのない隔たりがある。わたしはそれを承知で書いた。わたしにとって長篇小説を書くことの意味、それは過古や現実との折り合いだった。多くの過ぎ去ったものたち、心身を蝕んださまざまな怒りと悲しみ、そして破壊、もはやふり向いてくれることのないひとびとへの執着、それらを受け入れ、前進すること。もう幾年も自身を語る方法について探ってきた。かつてはもっと高飛車であったし、だれかをやっつけようともした。人名や固有名詞、それに地名、それらの扱い方すらもわからなかった。ふるいファイルやノートを整理し、かつての短篇、詩篇からも使える部分を探したりした。生来の勇み足のために未熟な原稿を何度も入稿してしまった。少なくとも1万はどぶに棄てた。納得のいくところに着くまでに2ヶ月と6日と半分かかった。文章は手直しするたびによくなった。過古の記憶も書いてる最中はともかく、歩いたり、眠ってるときにおもいだされた。ドキュメンタリーやロードムービーを撮るみたいにわたしは書いた。ただ残念なことに記憶の断片化は激しく、文体の統一や、整合性といった面では随分と苦戦せざるを得なかった。やはり現在と過古、記憶と記述はそれぞれまったく関係のないものであると、おもい知らされるのである。今回の作品で得た技術を使って早く短篇や脚本を書きたいのはやまやまだが、わたしには足りないものが多くある。多すぎるほどに。歴史、地理、自然、数学、哲学、科学、疫学、かぞえたら切りがないほどに。建築についての知識、物質のなまえ、人種的特徴、異なる文化圏への興味、見えるもの、聞えるもの、味のするものに対しての表現手法やなんか。ともかく学ぶ必要がある。焦ることはないが、わたしはもうすぐ34だ。可能性は限られてる。絵も音楽も写真も好きだが、それらとも折り合いがいる。文章とちがって金もかかるし、時間はもっとかかるだろう。先の見えない旅だ。
 わたしはひとりの未熟な作家、あるいは藝術家として、この1冊がめぐりめぐりってだれかを励ましてやれれば幸いだとおもってる。そしてなにかをはじめられたらもっと幸いだとも。「マルドロールの歌」の冒頭ほど大袈裟でないにしても。
 

   *


 いままでいろんな文藝投稿さいとで、うだうだいってきた。けれどもけっきょくわたしが創作について、おもに詩について助言できるとすれば以下の通りだ。

 ・日本の古典を読むこと(流し読み、拾い読みでもかまわない、積極的に模倣する)
 ・短歌・俳句で凝縮力を高める。
 ・音のひびきを声にだして確認する。
 ・字面の絵画的構成。

 

 

黒いスズメバチ (ミステリアス・プレス文庫)

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短歌とオイル・サーディンについての論考

 

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 腹が減った。きょうから禁酒のためにノックビン散薬を呑んでる。「短歌研究」及び「角川短歌」、どちらも脱肛した。できあがったということだ。角川は題名以外すんなりといったが、研究は何度も駄目だしを喰らい、ようやく出来た頃には最初の主題はほとんど残っちゃいなかった。まあ、よくあることだ。「古今和歌集」と寺山修司「月蝕書簡」を読みながら書いた。研究での主題は、初恋からの決別だった。最期にはおれのおもいとかの女の家庭生活になった。角川はこれといって主題はない。書きまくったなかから撰んだ。題名も研究とはちがい、すんなりつけることができた。
 おれが短歌をはじめてつくったのは、17歳のときだ。国語の授業でだ。おれは一首、「全高校生短歌」とかいう冊子に載った。《潤う姿のきみおもう》という下の句だったとおもう。それから2年半、おれは寺山修司の作品を模倣した。そいつを森忠明に送った。かれから電話が来た。あとから聞いた話では、そのへたな短歌を読んで、本気で弟子にするつもりになったらしい。そんなところだ。しきりにかれはおれを「歌人」という。けれどもじぶんとしては短歌はいちばんじゃない。いまは小説と音楽のほうが上位だ。そういえばしばらくオイルサーディンを喰ってない。──さて脱肛したので、肛門を治そうとおもう。いい方法はないか?


「短歌研究」のための没歌篇

 

 ぼくを撃つゆかこのひとりもうひとり紅茶を呑んで微笑んでゐる


 遠ざかる青春さらばゆかこという夢を与えし十二の空よ

 


 死がやがてやさしく包むだろうといい路上に積荷置き去りにする


 放たれし拒絶のことば冬の夜のひとりのときのアマリリスかな


 雨の降ればそぞろに歩き鼻を突くペンキの匂い黴の臭みは


 ひらく夜ひとりぼっちに棲むままに暮れてゆかんか詩を口遊む


 遠きゆかこの姿いつのまに冬の銀河に放たれていく


 飛ばざるもの妬み苛む夜いつか無人のつばさゆかこともに呼ぶこともなし


 さようならはつ恋われの飛ぶ空をゆかこみたいに流れる時は

 

 

古今和歌集 (岩波文庫)

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寺山修司未発表歌集 月蝕書簡

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バンガ スモークオイルサーディン 瓶 270g

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トマトコーポレーション オイルサーディン箱入り(ペルー産) 90g×25個

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スチール 脱肛帯 中

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【指定第2類医薬品】ボラギノールA注入軟膏 2g×10

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これは海難救助法ではありません

 

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3/27 モノマネ鳥の正しい使い方


 長篇小説は直してるあいだに220pを超えてしまった。頁数はすなわち予算だ。あとはまた校閲・校正だ。骨が折れる。02/07に完成したはずが、もう二ヶ月ちかく経ってる。noteに最終稿があるので興味あれば読んで欲しい。有料ではあるが。いまはシナリオと漫画について考えてる。賞や投稿の窓口のあるところに賭けようってわけだ。
 調子はまったく良くない。肺炎にかかったり、小銭入れを失くしたり、金を失くしたりだ。どうしようもない。可能性に賭けてやるしかほとんど方法はない。携帯電話もネットも止められてる。支払いをなんとかしようにも仕事にも就けない。おれにはどうにかこうにか、やってみるしかない。小説が完全になるまでほかのことで埋めるしかない。自信なんかどこにもない。わたしはなるべく自己をそのまま描きたいとおもってる。だから執行猶予や生活保護、あるいは剽窃について口をひらく。twitterでは《ばか除け》のためと書いた。けれども実際は、属性とか、分析だと宣い、考えることも、眼のまえの存在がじぶんとおなじ人間だということを忘れてしまったひとびとに問うてるんだ。《まともなことができてから文句をいえ》ときみらはいう。大人しくしてろという。そんな二流国民扱いにどんな意味があって、結果としてどういった現実が待ってるのかも想像だにしないまま。きみらは思考停止なかでしか生きられないのだろう。だからこそ父権的な懲罰思考をふりかざし、時代遅れの家父長主義に棲み、いつまでもきたちの薄汚い父親を無意識に演じつづける。いつまでもだめなやつはだめなままでいろというメッセージ。気に入らない者の、成長や技能の習得の機会を奪う。いやな書き込みながら見なければいいともいわれる。確かに程度問題かも知れない。だが二流以下の新聞記事やテレビのコメンテーターたちだって、まったくどうじようなことをいったりする。基本的な事実を確認もせず、おもいこみだけで書く。ふだんの大企業の役員や皇族に対しての慎重さはどこにいったんだ? わたしは疑問した。でも。どうやら賛成してるらしいんだ。いずれにしても二極化が進み、じぶんたちだって下位に落とされるのは充分考えられる。それでもまだいいつづけるのかな。あらゆる人間に属性なるものを与え、劣化だとか、甘えだとかいいながら、相手の瑕疵を穿りかえす。政治や活動家がなにをやってるのかとおもえば、派手な話題で、じぶんが一席ぶてるかどうか。毎週休日になれば辺野古基地反対の老人たちに出会す。だれもが見飽きたポスターをそこらに並べ、演説する。すでに負けた手法によってふたたび負けるために。またまた与野党一緒に組んでるのかと勘ぐりたくなる。
 きみらがおれにできることはないだろう。以前、bloggerを使ってたとき、検閲ですべて消されてしまった。それまで書いたすべてがなくなった。グーグルには質問も抗議することもできない。素人のボランティアがサポートをしてる。そのうちのひとりが、「アニス」、「ハイヒール」という詩を読んで絡んできた。曰く《生活保護費で酔っ払ってからだをわるくして羨ましいですね》と来た。そして無言電話が掛かって来た。公衆電話からだ。《また電話かけます》といった。わたしはこういった痴れものを排除したい。なぜならかれらとは通じ合えないからだ。おなじ人語を使ってても、絶対にわかり合えないものがいるということだ。かれは後日、twitterをフォローして来た。ブロックした。当然みたいに。《ぼくも保護を受けたいです》と宣ってたが、まさか本気ではないだろう。おれの助言や手順にも答えなかったのだから。他人が云々のまえに、自己分析ができてないのだろう。だから絡んだり、無言電話をする。じぶんがわからないから、他人のこともわからない。対話能力が一文もない。でも本人はおもっているんだろう、じぶんには対話ができる、相手が見えてると。他人を色分けし、分類し、そのうえで攻撃しようとする連中にはそれなりの対応がある。相手から遠ざかって頂くことだ。
 おれもかつてはひとを攻撃してやまなかった。嘲笑的な態度にはめったにでなかったが、ひとの作品を貶め、人格を貶めてきた。けれども作品の過程でじぶんを分析するうちに、そんな行いはマイナスでしかないし、本来のじぶんが望んでたものではないのがわかった。だからわたしはべつの道を採った。ユーモアの力を借りることにした。わるい感情に苛まれそうになったとき、とんでもなくふざけたこと、笑いになるか、他人が呆れるようなことを書いた。おれはいつかコメディを書きたいとおもってる。いまはとにかく古典に触れるしかない。
 このまえ「雨月物語」を手に入れた。まだ読んでない。いまはジョン・クリーズの自伝を読んでる。コメディを書くうえでの助言がちらほら書かれてある。なかなかおもしろい。久しぶりに笑わせてくれた。季節はもはや春になり、桜でさえ五分は咲いてる。そしておれは来月まで退屈な日を過ごさねばならない。けれど他人にからむほど暇でもばかでもない。モノマネ鳥の正しい使い方については次回に延期する。


   *


4/05 エリク・エリクソンとビニール傘の問題点


 ガラリと変わって、エリク・エリクソンとビニール傘の問題点について書く。とてもむずかしいの話なので今回は書かない。寺山修司吉行淳之介との対談で「詩や小説を書く女はきらいです」と断言してる。たしかにことばを扱うもの同士の婚姻は幸せではないだろう。チャンドラーの短篇「ふたりの作家」を読むといい。かれの初恋はバレーボール部員だったというし、わたしの初恋もまたソフトボール部員だった。活発でアウトドアな女性に惹かれるところはある。しかし結実はしないだろう。絵や写真をやってる女性のほうがたぶんうまくいくのではないだろうかとおもう。ネットでも文藝人とはさんざ会って来たが、だれもかも癖が、我が強すぎる。
 小説のほうは一応脱稿した。洩れたエピソードもあるが、それは出版が決まってから直そう。姉の友人との諍いや、ネットで知り合った女とのあれこれやなんか。おもいだすのはたやすくはない。時間がかかる。わたしはいったいなんのためにこんなことをしてるのか。単に創作で金を得たいというのなら絵や漫画でもやってほうがましだ。きっとそのほうが儲かる。だというのに基本的な鍛錬を避けて、こんなところにきてしまった。文藝は自己のうちがわを抉りつづけなければいけない。それがとてもつらいところだ。なぜこんなところにいるのかを問わずにはいられない。存在の根本を問わずにはいられないのだ。あまりにもやっかいすぎる。そんなことをする人間がふたりでやっていけるのだろうか?
 わたしは出会いをもっと大事にしたい。女性とも出会いたい。ただやはり文藝人と穏やかにやっていく自信はない。言語表現はおのれも他者もきりきざんでしまうからだ。ソフトタッチのエッセイストならよかったのだが、わたしにその才はない。けっきょく同族同士で慰め合おうというのか?──そいつは勘弁だ。おれは自身をよりよい方向へと変えていくしかない。そのためにまず生活を整えることだ。不要なものを棄て、家具をそろえる、身なりを整える。いまは、たったそれぐらいしかできそうにない。ふさわしくなるということのほか、いえることはない。さてそろそろビニール傘を買いにいくとするか。

 さきほどニュースで聞いたのですが、わたしに豚の膵臓脾臓が、肝臓が移植されることになりました。非常に元気になったあげく、100グラム、320円になる見通しです。では今夜の「これは海難救助法ではありません」を終わりとします。おやすみなさい。

  NHK

 

 

レイモンド・チャンドラー語る

レイモンド・チャンドラー語る

 
アイデンティティとライフサイクル

アイデンティティとライフサイクル

 

 

 

おまえらの顔なんざ見たくもない、でも愛してるんだ。

 

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3/11 

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 長篇小説はできた。けっきょくおれはコントロール・フリークなのだろう。ようやく気づいた。Vincent gallo伊丹十三とおなじだ。頁のすべてに拘った。表記、書体、レイアウト、改行、表紙などなどなど。こいつを出版社に送ってみるとしよう。だめだったら絵でも描くさ。ともかく売れるものを書かなければいけない。生活は苦しい、人生はいまのところ終わらない。鶏の胸肉を茹でる。きょうは曲も書いた。マスはまだである。
 それらしい態度をとってじぶんが才人かのようにいうこともできるが、おれはただのなんでも屋だ。学んできたすべて、受け入れてきたすべてを小説にぶち込んだ。もちろん、零れてしまった挿話もある。そいつは短篇に書けばいい。なんでもかんでも入れるわけにもいかない。予算は限られてるからだ、いつもの通り。来週は電気代¥13,000を払わなきゃならない。債務整理もやらなきゃならない。人生にしくじった。それでも作品だけは出来あがっていく。父からの虐待も学校でのいじめも社会との不適合も、家族の歴史もすべてネタになる。おれはフルタイムのろくでなしだ。たっぷりと味わって欲しい。
 おれはようやく憎しみから股を洗った。怒りも穏やかになった。愛と笑いの夜を過ごしてる。書けば書くほど視界が拓けていく。これほどに気持ちのいいものはないとすらおもえる。自尊心や自己愛がようやくわかって来た。母性はいまだ不在だが、べつに焦るほどのことでもない。この齢になってさまざまなことへ眼をむけられるようになった。じぶんの苦しみ、その一色で心を塗りつぶすこともない。ただ少し淋しくおもうときもある。連れあいもなく、週末の金欠をやり過ごすとき、おれはどうなってしまうんだって、とてもおもう。なにに怯えるかは相場がある。おれの場合は無名のままの死だ。おれの師である森忠明はさかんに「無名のエクスタシス」や、後世に残るかどうかを説くが、おれはちょっと俗っぽいだろうけど、金と女と好きなだけ作品をつくれる環境が欲しい。いや、これが本音だ。
 いったい、だれのためにおれはやってるんだ?──じぶんを救うためだ。まわりまわってだれかが救われるのもいいかも知れないけど、おれにはおれが必要だ。あなたがたはどうしてこんな場末のブログを見てるんだ?──なにがおもしろい?──ここにいるのは電子の滴りでしかない。おれの詩も絵も散文も。やがて消えるかも知れないものに時間を費やすこと、そして他人の人生のなかにじぶんの人生を発見し、驚かされる、そんなときがあったらいいとおもってる。銀河の流れの、小さな粒子のなかで人間の意識がその出生以前も死后も在りつづけるとしたら?──あなたはいったいどう生きる?
 おれはたしかに狂ってる。去年の末にもおかしくなって病院に入った。有馬高原病院。きれいなところだ。おまけに主治医の女の子がおれの好みにぴったし!──あゝ、ナカムラ先生!──でも、おれは無断退院して出禁になってしまった。たった二日でだ。やっちまった。もしかしたらかの女と仲良くなれたかも知れない。おれはいまだれとも会わない。ケースワーカー精神科医臨床心理士障碍者支援センターの人間のほかは。だれもここには来ない。だれか、おれを見つけてくれ。
 もっと表にでなければと考える。ライブにでて新曲をやるとか、朗読会とか。なんでもいい。できることをしたい。しかし生活はどんどん逼迫する。まあ、どうにでもなれだ。人生は不条理そのものだ。偶然を受け入れられないものは「引き寄せの法則」なんてものに頼る。あるいは現世利益のくそ宗教や、エセ科学陰謀論、あるいは右や左へと進む。けつくらえってんだ、ばかやろう、おれたちは互いの神を滅ぼすためにやって来た愛の戦士なんだぜ!──よく見てみろよ、未来なんかない。あるのはいまだけだ、急げ、 マイ・ベイブ! 

   *

  3/11(註。この題はただの日付であって、それ以外のなにものでもない)。

 犬がうそついたって?
 だれもいないところまで
 如雨露式の躯もって
 水を蓄えにいこう

  自身の名も忘れ
  給水塔へ飛びのった
   
 あの子求めたばっかりに
 痴聖に逃げられて折れた
 血統書なくした男女がいて
 清掃夫に泣きごといった

  枯れた花を抱いて
  いっぱいのくそへ飛び込んだ

 計画にずっと逃げられて
 真実を猫が吐いたって
 ぼくはここにいるからね
 清掃夫が上着を投げた

  囚人(めしうど)のように
  軛をとられ 朝が来る

  約束するよ
  きみをいつか見つけると
  ぼくがきみを見つけるさ
        
   *

 配布用の作品見本輯「a loner's way」をつくった。モノクロ全15頁に短歌、詩、絵、写真を載せてる。大阪あたりで配るつもりだ。神戸?──あそこじゃ顔がわれてるよ。まだ発注してないけれど、ネットプリント版を先行でだす予定だ。愉しんでくれるとありがたい。あるいは中指を立てたっていい。なんとでもいうがいいぜ。おれのようなポンコツを気にかけてくれる悪男悪女たちに今夜は乾杯したい。早く、電話とネットを取り戻して、みじめにネツトカフヱーで過ごすのは終わりにしたい。みんな、おれに力(=金である)をくれ。あるいは「アボガドと生ハムのリングイーネ」の材料をくれ。まあ、でも冷蔵庫もない。去年、¥3500で売ってしまった。噫。
 長年、粗悪な酒を呑んできたせいか、最近は左腕がふるえる。もう歳だ。シロック・ウォッカも、アイラ・オブ・ジュラも呑んだこともないというのにだ。神は醜い。たぶんひでえ醜女であろう。でなけりゃ、金満の少女性愛好家だ。生活保護から抜けだすため、精神科に通い、求人に応募してるというのに、電話は停められ、滞納金は膨れてる。ただ飯を喰ったり、シャワーを浴びるだけで金がなくなる。業務スーパーオートミールと即席味噌汁、罐詰を買う。あるいは炊きだしにいく。おれはいまでも信じたい、おれは貧乏人じゃない、一時的に破産してるだけだと。こんなことなら'08年、「キムラユニティー」から来た直接雇用の誘いを断るんじゃなかった。まあ、あんときは棲む家もなく、公園暮らしだったが。噫。
 いまは作品の在庫もなし。絵葉書も刷れない、詩集もなし。しかもそれらのジャンルは電子化には不向きだ。読者たちはじぶんだけの一冊を求めてる。味気のないキンドル版で満足なんかされないし、見向きもされないんだ。詩や藝術を権威から取り戻さねばなるまい。噫。

   *

 きみたち、へたな詩人たちにいいたいのは、《技術がなければ方法を身につけるしかない》ということだ。方法詩なんてものはそのなまえの通りで、へたな詩人、いいわけの小狡いガキどもにはとっておきの方法だ。数字を並べるもよし、プログラム言語を書くもよし、記号やアルファベットで遊ぶもよし、冴えない大学生にぴったりだ。過剰な意味づけのなかで居直り、否定されたらふざけた態度で相手をからかい、挑発するともっといい。わかったか、諸君?

   *

 おまえらの顔なんざ見たくもない、でも愛してるんだ。──ただいま22時と42分です。

   *

 

 

When [解説・歌詞対訳付き国内盤] (BRC45)

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ぼくの伯父さん 単行本未収録エッセイ集

ぼくの伯父さん 単行本未収録エッセイ集

 
ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

 

 

詩を金に換えるということ、そのほか

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詩を金に換えるということ


 わたしの理想をいえば、文藝投稿サイトにも投げ銭や書き手支援のシステムがあったらいいとおもってる。中国ではすでにあるらしいが、日本に蔓延ってる潔癖症的同調主義がそれを赦さないだろう。こいつを黙殺し、破壊しながらやるしかない。正直、アマチュアたちが撰ぶ月刊優良作品とか、ランキングなんてくだらない。なんの役にも立たない。とにかくじぶんにとっていい作品を書いてる人間を見つけるしかない。主宰人のいいなりになって上位ランカーたちの作品をただただ眺めてるだけではどうにもならない。それにいつまでも詩壇ごっこ、商業誌のまねごとをしてもしかたないだろう。
 わたしにだって他人の作品をいいとおもうときだってある。本すらだしてない作家の作品を買いたいとおもうときがある。だからこそシステムが必要なんだ。生憎わたしにはそれを構築する技術がない。アイデアは夥しくあるけれども、いかんせんできることは限られている。手を貸してくれるひとが欲しいのである。というわけでネットの文藝人の方々には考えてもらいたいのです。
 えー、もちろんのこと批評ごっこもやめてしまったほうがいい。掲示板で延々やるのなら、作品と批評はべつにしたほうがいい。あまりにくだらないやりとりが多すぎる。散文でちゃんと書けてこそ批評には価値が生まれる。だれもへたな文章を、固有のスタイルのない散文なんか読みたがらない。それに作者と評者がべったりくっついているのはなんとも不健全にわたしはおもうのだ。
 まあ、これは半分以上、じぶんの利益を考えてのことである。わたしは月末になると喰うものがなくなるし、生活が荒む。それをどうにか抑えてものを書いてはいるが、もしわたしの作品がダイレクトに売れたら、ファンという存在があるとして、支援してくれたらとおもうわけですな。金は不浄でもなんでもない。だれかに支援してもらうことは乞食でもなんでもない。作品さえまっとうであれば、システムさえきちんとしていればいい。
 あるいはサイトへのカンパがあってもいいだろう。サーバーやシステムの維持し、余ったら投稿者に還元する。それでいいのさ、いいじゃあないの、まったくもってね。そろそろ相互に生き残れるよう考えるべきなんだ。くだらない旗振り合戦なんてやめましょうよ。わたしはそれが虚しくてね、すっかり投稿サイトを見なくなってしまった。
 この件で話したいひとは是非メールください。


方法詩、そのほか


 電話料金を滞納して、そいつが12万を超えてしまった。たとえ払っても電話を復旧させるのはむりだという。自己破産について考えなくちゃならない。文藝はうまくいってる。小説も終え、短歌も終えた、詩も在庫がある。とにかく商業誌に投稿しないかぎり、なにも始まらないといっていい。
 ネットにもう投稿するのはやめた。なんの成果にもならない。金にもならない。いい加減、読者が作者に投げ銭でも送れるシステムでもつくるべきだ。しかし運営人のあたまにあるのはだれをランキングに撰ぶかということぐらいだ。またもうんざりする。だれが上だとか下だとかいう旗振り合戦なんていつまでやってるんだ。そんなものは詩情とも作品の質とも関係はないことになぜ気づこうとしないのか。わたしにはよくわからない。たぶん中毒にでもかかってるんだろう。
 方法詩というジャンルがある。もう10年以上まえに知った。数字の羅列を詩と称してた。頭でっかちな優等生の世界。プログラム言語を詩と称するやつもいた。ばからしい。このまえも「文学極道」じゃあ、ふたりのやつが数字を投稿していた。それらの数列がどういった考えから生成されるのかはわからない。ただかれらは自己弁護、自作改題にうるさかった。そんなにあとづけが必要なものに詩情なんてものがあるのか? そしてかれらに共通するのは、ひとを小馬鹿にした態度だ。方法詩でも、プログラム言語でも、連中と来たら反発をおちょくることしかできない。まさに馬鹿の壁だった。だからといってわたしは詩を数字に置き換えることに反対はしない。
 ただ自作について多弁になればなるほど、かれらは胡散臭い。もしかしたらまともな散文も書けないのかも知れない。哲学用語、数学用語、そして人名、これらを散りばめてなにかを書いた気になってるだけかも知れない。そういった手合をいままで幾人も見てきたんだ。記号化という選択肢についてたしかに魅力を感じるときもある。でもそれはあくまで日常言語と巧く結合されたうえでだ。人間を書けなんていう野次は飛ばすつもりもない。だが少なくともかれらを批判するものをおちょくっているようでは、ただの自己愛の異形化の延長でしか、かれらの表現はあり得ないだろう。
 わたしはあたらしい詩集のために絵を描き、それを加工しながらネット詩人という憐れな人種との訣別、哀悼を示した。なでだれもアクションを起こさないのか。リアクション待ちのだめな芸人風情のように笑えないものを掻き立ててる。基本がなってないんだな、これは。つまるところかれらは「削る」ということも「黙る」ということも知らんだ。古典文学がその歴史のなかでどれだけ削り、黙って、大事なものだけを残してきたことをかれらは知らない。自作改題なんか読みたくもないし、そんなものは書けなくなったやつのすることだよ、きみたち。
 詩のサイトはみな商業誌の真似事未満に落ちてしまった。志もなにもない。わたしにもしできるなら、その力があるのなら、やはり才能を支えたいとおもう。それは金でもいいし、食料でもいい。とにかくわたしがだれかにされて来たことを、もっと積極的にできるところ築きたい。かつて「ココナラ」でやったように詩の講座をやるのもいいが、あれは正直時間の浪費でしかない。ある程度の見込みさえなければただの地獄であるよな。
 ひまつぶしや気晴らし程度の創作なんてわたしは読みたくいない。身を賭すなにものかがなければ藝術にはならない。慰撫行為だ。あと作品をどれだけ売れるかたちに、残るかたちにもっていくかだろう。これを読んでるみなさんは、素直さで詩をい書いて欲しい。もちろん技術を学びながらだ。いい詩を読み、いい映画や音楽、哲学、地質学、地政学、法医学なんでもござれ。その道の古典と名作から学んで欲しいおもうのである。もちろん魂しいを学ぶことは容易じゃない。ひどい目に遭うかも知れない。でもそれもまた翻弄される愉しみとしてやっていくしかないのです。

 というわけできょうの授業はおしまい。早くうちに帰って湯割りのストーンズを呑むといい。じゃあ失敬。