みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

わが晩年に於ける執筆の企み(2011)

 


                                                           おそらくこれを幼年の、なにも話せなかった自身に

 

 秋が遠のいていくおとが聞える。その響きはどこかしら落下音に似ている。暗い穴がふかく存在していて、そのなかに硬貨がひとひら沈んでいくような、そんな印象を受ける。これはおそらく季節の欠字だ。わたしはながいあいだ眠ったように生きてきて、ようやく目覚めたところだ。つまり詩ではなく、散文を書き始めたということだ。もともとおれは中学生の頃に小説家をめざして言葉を憶えはじめた。辞書を片手に本を読み始めたである。それまでまともに授業を聞いてもいなかったし、「様子」や「後藤」、「晩稲」なる言葉が読めなかったのだ。最初に手をとったのは集英社文庫だった。そのころ人気絶頂にあった広末涼子が宣伝キャラクターを勤めており、本を買えばかの女の缶バッチがもらえた。わたしは装丁で撰び、保坂展人「いじめの光景」、辻仁成ピアニッシモ」を買った。しかしそれをわたしは読まないまま棄てた。次は村上龍の「ラブ&ポップ」だ。映画を観にいったついでに買ったのだ。もちろん年齢詐称してだ。官能には出会えなかった。主演の三輪明日美がかわいらしかったというだけである。そんなかの女もいまでは子持ちだ。わたしは髪の短い女が好きである。それは小6の片恋に由来する。どうだっていいことに。
 まあともかく、そっからさまざまな本を読んだ。どれもが小説。どれもが古い作品。だが王道と呼ばれるものは「人間失格」を除いてほとんど読まなかった。いつも隅っこのものに眼を向けた。梶井基次郎、内田百閒なんかだ。べらべら人名を並べたてるのはよろしくない。文学よりも栄養学的な面でだ。そしてわたしは小説を書き始めた。しかし高校生のころにはやめてしまった。なぜか?──詩だ。そいつに逃げてしまった。いちばん安易でお粗末な世界だというのに。おれは三流の詩人としてなかなかうまくやったとは思う。ジャズバーでの朗読にも参加したし、朗読ライブでパンフレットのデザインや、コンクレート・ミュージックの制作もした。ちょっとはうけた。しかしそれがなにになるといのか。まったく精神的な慰撫行為にしかとどまっていなかった。投稿してもそれらは相手にされなかった。手帖はもちろんだ。思想では一回送って一回載った。掲載誌をもらっただけだ。金はなし。詩人会議にもなればそれすら採用になっても送ってこない。いったいあんなものをどこのだれがよろこぶというのだろうか?
 ずいぶんあと周りをしたものだ。これから、いまになって、ようやく、文章を鍛えなおさねばならない。あまりに中絶がながすぎた。そのあいだに歳をとり、からだを痛め、気づけば三十てまえの能なしのできあがりである。当然どこを向いても知らないひとびとだらけだ。まったくこれでは挨拶のしようもない。おれは乞食をしながらでもものを書いていくしかないのだ。気が向いたら寄付をしておくれ。いつかロルカ風に哀歌を奏でてやるぜ。おれはロルカを知らない。
 いまは時間がない。小説のイメージをここに書きつづろう。いずれにせよ、生きる余地があまりに少なすぎる。無駄遣いをつづけてきたのだ。さてはじめよう。

旅路は美しく、旅人は善良だというのに

 家出人の男と少女、その一日。舞台は大阪。梅田と徳庵。題名はベケットゴドーを待ちながら」の一節より。作中に固有名詞、人名、地名を登場させず、鉤括弧もなし。オカルト風。女とやれなかった童貞の話。

れもんの若木

 港湾労働、黒人船員、時間旅行機、レバー肉、アイス売り、新聞記者による物語。ブローティガン「晴れの日」、ブコウスキー「チキン3羽」への言及。

おもしろおかしく生きて死にたい

 門真市。アシスト・パワー飯場の実態。モリエール。窃盗。喪失と発見。《診断は急性膵臓炎。一ヶ月の加療。絶飲絶食、一日三本の点滴》。

夢見る悪意

 軽小説(ライトノベル)として。地方のある町内、そこに巣くう組織。ごくごく日常的な悪意がふくれあがる。呑みこまれる主人公。古典的なヒーローもの。連作向け。

銀行強盗[第二稿]

 救貧院での生活。居宅生活訓練。現金輸送襲撃に誘われる青年。よっぱらい、自殺未遂。三人称。

夢は失せ、馬はくそをひりだす

 題名だけで完成だ。

 殺した妻を花壇の肥料にしてしまった男の記事。それを読む主人公。ほんのおもいつきで自分も花を育ててみる。かれには妻も恋人もいないのだが、近所はそれを信じない。いないはずの伴侶が噂とともに形成され、事実にとって変わる。男はまぼろしを許容し、一緒に暮らすが、周囲の人間はある日、突然にそのまぼろしを否定していまう。男の伴侶への思いは宙に浮いてしまい、もはやもとにもどることはない。かれは墓を立て、毎日花を供えるが──。

単純に女であるなら、それはマネキンであってもいいはずだ

 過失により売春婦を殺してしまった男たちが自動車で死体を棄てにいく。しかしよっぱらい運転の挙句に車が故障。森のなかの道で口論をはじめる男たち。そこに現れたのは、猥褻でくびになったばかりの警官だった。

なにかにむかって犬が吠えてる

 バーキング・ドッグことブルース・ウィリアムズの写真集「死ぬにはいい日だ ニューヨーク道路情報」についての短い随想。そしてふたつの詩篇

鯨塚の子供たち

 少年時代の失意についての随想。鯨は小学生の頃、はじめて書いた詩に由来する。

殺しの十二ヶ月

 若い放浪者がひとを殺しながら旅をする。依頼者は姿を見せず、特異な連絡方法を採る。最後の殺しが終わったあと、主人公はかれそっくりの放浪者に殺され、役目をバトン・タッチして終わる。アノミズムの犯罪映画的解釈。脚本の習作として。


転落

 スクラップの車輛から発見された死体。その謎を探るひとりの殺し屋。過古の市議転落死事件。宗教組織に追われる殺し屋。凄惨な拷問。ピンク色の牝牛。悪党たちを拡大していくと、平凡な市民生活者に行き当たる。普通の日常が悪意に加担しているという実態。脚本の習作として。 


寺山修司トリビュート

 詩人・童話作家森忠明からの破門解除の条件は《中田満帆にしか書けない寺山修司論を一冊分書く》ことだ。というわけでおれが思いついたのはおれが気に入った寺山作品を年代順にならべ、ひとつひとつ、その方法論からカバー演奏する作戦だ。もちろん、あまり賢明とはいえないが、いまできるのはそれくらいだ。だろ?

いちばんいかした剃髪の方法

 薄毛をばかにされた主人公であるおれがあの手この手で相手に反撃する。聖杯伝説を一部下敷きに使う。もちろんキャメロット城もだ。それにしてもブルース・ウィルスのあたまは自毛なのか? 

映画、観ないか? 

 ふられかたの極意を童貞暦27年にも渡るこの賢者が伝授して進ぜよう。これはひじょうに繊細な物語だ。おもちゃの拳銃とくちづけで終わる。でもおれはふられたことがない。ちゃちな手紙を一度書いただけだ。まずこの話は映画館の入り口の歩道でははじまらない。脇にある電話ボックスのなかでもはじまらない。街路樹の緑色したかげのでもはじまらない。向かいにあるブティックでもはじまらない、最寄の交番の裏でもやはりはじまらない。交番の隣にあるコンビニエンス・ストアのバック・ヤードでもはじまらない。そこでバイトしている男の通勤経路でもはじまらない。その男がそこでふんずけた犬のくそからもいぜんはじまる気配はない。その男がひとりで帰るアパートメントの隣室からも絶対にはじまらない。その男が見ているテレビ・ドラマに登場する恋人たちの睦みごとからもはじまってはならない。その男がプル・タブをあけた缶チュウーハイのしずくから、あなたははじまって欲しいと思うのか? いいや、あなたは思わない。その男のポルノ・コレクションからはじまってもいいだろうか? いいや、それは赦されない。その男が眠る寝台からはじまるというのは果たしてどうだろうか? いいや、それも委員会は認めない。少なくとも国際オリンピック委員会は。だったら、その男が見る夢からはじめてはどうか? いいや、夢はかれの財産だ、決してふれることはできない。だったら朝日のなかでかれが感じたものからはじめるのが、なかなかの策ではないのだろうか? いいや、それは詩の領域だ。散文には任せられない。となればかれが絶望して見あげる天井の梁によってはじめるのはいかがだろうか? いいや、それも詩の領分だ、小説がしゃしゃりでていいものではない。ならばかれが最期に思い描く不滅の、起こりえなかった未来からはじめるというのが最大の繊細さではないのか? いいや、それはかれ自身が記述しようとしない以上、手を差しのべても息をしない。そんなことなら、かれが首にかけた縄のほころびからはじめるというのが最良では? いいや、それは縄の象徴性をいたずらに高め、ほかのことを曖昧にしてしまうだろう。んなこというんだったら、かれがその首をくくり、もがきながら見る景色によってはじめるのはどうなんだ? だめだ、かれの脳はもはやなにも感知していない。いいかげんにしろよな、だったらかれが死んでも消えない、かれの完全なる孤立からはじめるべきだ! だめだ、もう遅い。かれは死んでいる。だからなにもはじまりはしないんだ。きみはひとを殺したんだぞ、わかっているのか! ああ、わかっているとも、そのためにあたらしいはじめかたを思いついたんだ。──それはなんだ?
 かれを転生させて南アフリカ共和国からはじめるんだ。──そこには映画館はあるのか? ──さてそれはわからない。しかし少なくとも性交の確率は高くなる。


ハンバーガー・ショップ

 ハンバーガー・ビショップとはなんの関係もない話。

暁の牛丼屋

 牛丼屋は関係ない話。

沈黙に静止した鋼鉄の、回転すし屋

 おれはそいつがきらい。以上。

豚肉でできた旅行代理店

 おれはパスポートがない。金もない。いき場がない。以上。

家鴨

 すきになれる鴨知れない。以上。

競泳水着と水泳帽

 うッ


 ──ふぅ。

童貞だって立派な体験

 都市の妖精はいつも秘部をさきに洗うものだ。それはとてもゆっくりとしていて、一種の儀式を思わせる。都市の樵はそを隣室で聴き、じっくりと火酒を味わう。色のない安息日ビルヂングの窓は不吉を予感させる眼だ。高い空に怯え、都市のみどり児は泣きはじめた。都市の絵描きたちは筆を折られ、なにも表すことができずにいる。都市の停留所にバスのかたちをした死が現れ、乗客でいっぱいになる。都市の幻視者たちはいままで見えなかった悪意を見えるかたちに変換する。そのとき、都市はゆるやかな崩壊にそのをくるぶしを鳴らす。この短篇はそういったこととはまるきり関わりのない、ど田舎のスーパー・マーケットが舞台だ。おそらく童貞とも関係ない。

第32号‐地下隧道崩落火災の顛末

 スタローン主演映画のパロディ。崩落と火災に遭ったひとびとがなんとか脱出しようと試みる。かれらはいずれもなんらかの専門家。くそとんでもないインテリジェンス、インテリゲンチャの集まりである。かれらは討論をはじめる。専門知識をすきなだけ披露し、相手を打ち負かすことに熱中し、ひとりひとりがくそみそにくたばる。それがかれらにはお似合いというわけだ。知性は一種の死に装束である。そしてあたまの悪い、無学で無教養でとにかく破廉恥な、しかし無垢な童貞の男が本能で生き残る。というわけである。くそインテリはくたばれ、無学万歳だ。ざあまみろ。
 そしてこの物語もまたそういったざれごととはほとんど関係ない。これはひとりのばかな主婦が浮気相手に逢瀬に赴き、男に裏切られる話である。事故のことはラジオのニュースで後日譚が触れられるだけである。アーメン

トイレの水が流れないわ、こんときどんな顔をしたらいいいのかしら?

 やさしさなどというのはさみしい男のつくりだした共同幻想であるといっていい。おれを含む童貞というやつはそんなものが存在すると信じ込まされているから苦しむしかなくなるのだ。恋愛以外にもおもしろいことはいっぱいある。さえない現実よりも、よく創りこまれた虚構を大事にしよう。そうすればどや街や橋のしたに落ちていく必要も、自己批判の底なしぬまにもはまらずに済む。想像力はなにより、優位に立ったちからだ。鍛えあげれば鍛えるほどにそれは強靭になりうる。おれたちの愛読書にはコリン・ウィルソンの「夢見る力」を推すべきだ。そして「発端への旅」も。女はどいつこいつもえらそうだ。しょうもない穴とふくらみに驕っておれたちを火色の地獄へ、エドヴァルド・ムンクの自画像のそれへと突き落とす。いまこそ蛆虫の視野をかなぐり棄てて立ち上がり、物語をつむぐときだ。たとえばアラビアのロレンスのようなやつを。老シオラン曰く「攻撃に値するのは神のみ」。然り、然り、然り、まったく然りだ。ばかはほっとけ、世界はいずれ、おれたちのものだ。虚飾をぬぎすてて殴り合え。女などポルノがあれば充分だ。そう思えばおれたちは少しだけ自由になれる。これはささやかな挑戦状だ。いっそ市庁舎の入り口に貼っておいてやろうか? まあいい。そいつはやめておこう。とにかくおれは石井香織でぬく。あれはどうみても脱がないポルノだ。そうだろう? 裸なんてつまらない。ただの裸で興奮するのは13才で卒業だ。人生足別離にして官能足非日常。
 しかし、この物語もまたこういったおばかなアジ演説とは関係がない。これはある新婚夫妻における古典的な、ディケンズ的な問題を扱っている。ちなみにおれはチャールズの本を一冊も読んでいない。題名だけである。大丈夫、それは読破済みだ。この短篇では、ばかな新妻に対して若い男がどれだけ堪えられるかという、いわば人間版耐久レースを演じさせるつもりだ。そのためにはまず、かの傑作映画「グラン・プリ」を見なければ話にならない。モンキー・パンチの漫画である、ルパン三世「デッド・ヒート」も役に立つかも知れない。不二子曰く「ねえ、ルパン、アタイのこと好きになったぁ?」、ルパン曰く「──いっけねえ! 時間がねえ!」。失せるがいい、女よ。家庭とは地獄の一形態である。有能な男ほどおまんこで殺されるのだ。

      *

おれが慰安婦を買うのにあと2万円足りない、全額だ

 おれは1度だけ風俗にいったことがある。20歳のときに三宮のピンクサロンへ。やることは口ぬきである。それで一万未満だった。店の屋号は「レッド・ルーム」──ストリンドベルリから採ったのではあるまいな?──嬢のなまえはルイだった。太めで、お人よしな顔つきである。おれはいき果てることができなかった。包茎が恥ずかしく、──いっておくが、おれは仮性なのだ。剥いて洗えて感度も鈍らない、まったく便利極まれる代物なのだからな!──剥いたままにした。それが痛かった。あとは世間話で濁した。ところでこの話は慰安婦に関係がある。おれは虚構のなかで元同級生たちに逢った。おれは詩人として母校の北六甲台小学校に招かれたのだ。ギャラは2万円。そこで詩を読み、ギターでかっこよくアーサー・リーのごとく歌った。けれどおれは老アーサーではない。かれは白血病で死んだ。どうでもいい。おれは拍手を浴みながら壇を降りる。そこへ3年生のときに好きだった不動産屋の娘──ここでは仮に寺尾麗奈としょう──が現れる。おれに向かってなにごとか話しかけてくる。おれは一切を無視し、その存在すら認めようとしない。あたりまえだ。かの女はおれが好きだってわかったとたん、その態度を硬化させ、6年生の頃になって唐突に友人の女──竹内紗代としよう──と一緒におれを癩病菌扱いしやがった。おれがそばを通りかかるたびに大きな大きな大きな大きな悲鳴をあげ、大げさによけるのである。極小サイズのモーゼ状態だ。なんてこった。おまけにおれの悪口を毎日のように垂れ流し、おれのいないすきにおれの机から教科書や絵を奪っていった。目撃したわけではない。しかし、いくら敵が多いとはいえ、ちゃちな女のやることなど透けている。
 それでおれ様が無視しつづけていると、女はわめきだすんだ。おいおい、30手前になってそれかよ! おれはしかし表情ひとつ変えない。それはまるでボギーである。でもおれはボギーではない。ボギーよりも背が高いからだ。おれはゆっくりと喋る。自慢のバリトンでだ。
 「きみはおれになにをしたのか、わかってるのか?」
 「なんのことぉ?」
 「おれが好きだったってだけで、ずいぶんなことをしてくれたじゃないか?」
 「はぁ? なんなんそれぇ?」
 「毎日おれがちかくを通るたびに悲鳴をあげてよけた。あれは昔の癩病患者に対する反応によく似てる」
 おれは左のひらに右の手のひらを打ちつけ、音を鳴らした。そうしてすばやく左の手をうえに突き上げる。威嚇だ。──この動作を仮にオナラと呼称しよう。
 「なにいってんのか、わからへんわぁ」
 「おれだってわかりたくないね。好きだった女にくそみそにやられるなんてな。竹内といっしょになっておれのものを盗み、噂話を発てたろう。あの女はなんなんだ? まったく関係ないじゃないか? たしかにおまえとちがって顔はましだが内容はとんでもない。いったい、きみらのような連中はなんできらいなものをほっておくことができないんだ。アピールせずにはいられないんだ。おれはきみらをちくったりも、やりかえしたりもしなかった」
 なるたけ静かにいい、おれはオナラをする。
 「なんできみのようなのが好きだったのか、いまもってわからない。暴力教師の林にいびられておかしくなってたのかもな。きみは徹といっしょにおれの家に来た。それが初対面だ。きみはやつのことが好きだったんだろ? 中学じゃおなじ吹奏楽部。とんだ、つきまといだ。狐のようなつらでなにを想像してんだ?」
 さらにオナラだ。
 「──」
 「きみのような女を慰安婦っていうんだ。それも性質の悪い。男にけつをふっておきながら、自分は被害者だとわめき、際限なくがめるんだ」
 いまいちどオナラした。
 「失せろ、くそ女」
 最後のオナラだ。おれはかの女を取り残してさっさと去る。さらば愛しき女よ。歩いていくと、そこにはカメラで撮影している男がいた。細見というなまえにしよう。こいつはビデオゲームをやたらに自慢し、中学では青いふちの、おかま眼鏡をかけていたやつだ。ちなみに以下のくだりはモンティ・パイソン「チーズ屋」のいただきである。
 「なにを撮ってるんだい?」
 「なにって、有名詩人さんをや」
 「で、それをどこに載っけるんだい?」
 「どこにって、どこにも──」
 「youtube?」
 「いいや」
 「ニコニコ?」
 「いいや」
 「画像ボックス?」
 「いいや」
 「ファイルマン?」
 「もうないやろ」
 「dailymotion?」
 「いいや」
 「ひまわり?」
 「知らん」
 「file tube?」
 「知らへん」
 「x videos?」
 「おぼえがない」
 「megavideo?」
 「なにそれ」
 「megaporn?」
 「わからへん」
 「slutload?」
 「そんなんあんのか」
 「your file host?」
 「聞いたこともない」
 「hot porn?」
 「なにそれ?」
 「v porn?」
 「だから、それなんやねん?」
 「world porn video web?」
 「あほか、おまえ」
 「告発ちゃんねる?」
 「するか、ぼけぇ」 
 「funny things, good things?」
 「きッしょいねん、おまえぇ」
 「break on through(to the other side)?」
 「死ね」
 「そうかわかった。つまりアップローダーに載せるんだろ?」
 「ああ、かんべんしてくれや、ほんまに!」
 しかし、かれはずっとカメラをまわしたままだ。止めるそぶりは微塵もない。おれは少し強気にでることにした。
 「そのキャメラ、いくらするの?」
 「38万や、さらでこうたんや」
 「なかなかよいさそうな品だな」
 「あたりまえやで、国産や。チャンチュンチョンのぱちもんとはちがうんや」
 「で、そのキャメラがもし、ここで毀されたらどうなる?」
 「どうなる? 捕まえて殴って警察や!」
 「そいつが捕まっても平気だとしたら?」
 「え?」
 「そいつが殴られてもなんとも思わないやつだとしたら?」
 「それは──」
 やつは口ごもる。出口は、ちかい。
 「キャメラ記憶媒体はいくらだ?」
 「──憶えてへんわ」
 「憶えてない? でも高くはないだろう」
 「──千円もせえへん」
 「ならここで出して見せろ」
 「え?」
 「おれが買い取ってやるぜ。ほら」
 おれは札入れをだし、その中身をひろげる。まるでおまんこのように醜くひらく。ぎしぎしにつまった『脱亜論』の著者が息苦しそうに二つ折りの仔牛革のなかだ。大丈夫、いま助けてやる。おれはやつの手のひらからチップを受け取り、そこへ2人をおいた。それ以上すると、絶対につけあがり、しまいには素人あがりのblack mailerの誕生だ。脅迫者は撃たないとチャンドラー卿はいっておられるが、素人ではそうはいかないのである。経験済みだ。おれは非常に感じやすい背中の男なのである。
 しかし翌日、思わぬことが起きる。おれは三田市のモーテルをでて、わがアパートメントに帰ってきたんだ。すると郵便受けに妙な伝言だ。無署名の洋薄紙に三菱の水性ボールペンによって文字が書かれてある。真っ赤なインキ。鮭の赤身のような色だ。曰く「あたらしい文学ゴシップをありがとう!」だと。なんだ、それは? さっそくインターネットをつなぎ、 まずは電子郵便を見る。バッファローのごとくに受信があった。どれもこれもおれへの憎悪でいっぱいだ。その原因はすぐにわかった。だれかがきのう、おれの声を録音していやがった。それもくそ携帯電話でだ。おれはそいつをもったことがなかった。
 音声はすでに通信上に挙げられ、ものすごい速度で、その複製や風刺が、攻撃や同調が増殖していった。そのどれもが慰安婦という言葉を標的にしていた。おれが口にした動画サイトとアップローダーのすべてにネタはあった。おい、おい、おい、おい、おい! だれか止めてくれよ! でも無駄だった。すべてがあとの祭りだった。ふと見ればどこかの大新聞の記者がぬけぬけと、メール・インタビューしに来ていた。おれは答えることにした。なるべく紳士的に。以下本文。

      *

  M.Kさまへ

  拝啓

 このたびはわたくしの極私的な発言を取り上げてくださり、まことにありがとうございます。長い創作生活のなかでこれほどに注目されたことは、まったくはじめてでございます。しかし大手報道機関の記事になるべきは、わたしの発言云々よりも、むしろわたしの詩作品ではないかと思うのですがいかがでしょうか?

 貴殿は、慰安婦という言葉についてのわたしの細なる見解をお求めになっているようですね。わたしの知識における、その言葉の意味は売春婦と同義であります。春をひさぎ、身を立てている女性ということです。わたしはそういった女性に対して侮蔑するつもりはいっさいありません。むしろ憧憬すら抱いているくらいです。女性の性への賛歌もすでに数篇、書いています。わたしの第三短篇集『おしりの穴からこんにちは』を一読頂ければ、それはまことに明瞭になることでしょう。くわえて半世紀前の小説に『春婦伝』というのがございます。鈴木清順監督によって映画にもなっています。そちらも参考になるやも知れません。

 貴殿は、わたしの発言に社会的な側面があると指摘されていますね。しかしわたしは政治的、社会的な事象を云々するつもりは毛頭ありません。朝鮮半島の南側にあるらしい国のうちで語られていることや、問題に挙がっていることと、わたしの使用した単語にはなんの関わりもありません。そういったことについては歴史や社会の専門家で、あほみたいな広い学究施設の内側の方々に訊いてください。わたしはなんの専門知識も持ち合わせておりません。無学の徒の一員に過ぎません。
 わたしは右でも左でもありません。ひょっとすると真ん中ですらないかも知れません。わたしは社会におかれた問題の重要参考人でもなければ、問題を解決する英雄でも、あたらしい視座となる幣でもないのです。ただあの三文字を使用しただけの、一個人にほかなりません。謝罪するつもりはありません。

 たしかにあの女性に対して子供じみた、くだらない復讐を果たしたことはたしかです。それに対していささか申し訳なく思っています。わたしが内面の成長を知らぬ大人子供のばけものだということを明確にあらわしているのはたしかです。しかし、かの女のほうも、ひとことぐらい謝ってもよかったのではと思います。まあ、こんなことはなんのいい訳にもなりませんが。けっきょくわたし自身、言葉のちからにうぬぼれ、甘えていたということでしょう。
 かつて長いあいだひどい吃音に悩まされ、話すことや、その内容のなさに苦しめられていただけに、わたしは言葉を獲得したことに酔っていました。その言葉も本と映画と歌によって憶えた、ただの複製品のまがいものです。所詮ひとびとのなかで、生の会話のなかで培ってきたものには敵わないのです。ネット上の書き散らしとなんら変わりません。わたしはしばらく黙っていようと思います。

 どうかこの文章を一言一句違わずに掲載してください。だめならほかへ流してください。わたしはこの件に関連して、このひとつだけに絞りたいのです。ほかのところへはなにも答えないつもりです。そうすればあなたさまも面子が立つでしょうから。わたしはばかな人間です。それでは

  草々

 追伸:もうじき、わたしが編輯に一部参加している雑誌『遠い声 other voices』の6月号がでます。あたらしい地下音楽家と路上詩人についての特集を組んでいます。わたしの推す芸術家をグラビアつきで載せました。ヌードはありません。この雑誌の広告ももちろん、上記の文章と合わせて掲載されることを望みます。わたしは犠牲を払っています。ギャラはいりませんが、これくらいはお願いしてもさしつかえないでしょう。
 失礼致します。 

      *

 書き終えてから20回は読みかえした。まあ、こんなものだろう。送信ボタンをクリックし、ブログにも同じ文章を、(じぶんに都合よく)シェイプしてから掲載した。なかなかいい落ちじゃないか。天才は抑制し切れない。然り。じつに然りだ。おれはおもてにでかけると、酒屋に直行した。ポーランド産のスピリタスとチェリー・ウォトカを二本づつ買い、成城石井で肴用に各種チーズ、ハーブ入りサラミ、アンチョビー、鮭の燻製、各種ソーセージ、鴨の内臓のパテ、バゲット、チェイサー用にベルギー産の麦酒全品などをでたらめにかごに入れ、あやしむ店員のくそ面ン玉を相手にせず、現金で2万近く払った。どうだい、このおれはいかすだろ? 薄毛隠しの中折帽子をかぶりなおし、それはまるで『拳銃無頼帖』における宍戸錠のごとき風格で町を歩いていった。
 室に帰ってテレビを見る。当然地上波などではない。映画専門チャンネルだ。ポーランド映画「リリア 4 ever」がやっていた。まえにも見たことがある。とんでもない鬱映画である。10代でショートカットのかわいい女の子が、母親に棄てられ、友人に裏切られ、男に騙され、異国でからだを売らされ、自殺する映画だ。どうせ物語を書くなら、つねに可能性を描きたいものだ。それが単に破滅しか産まないならばルポタージュで充分だ。おれはそう思いながら鑑賞した。それにしてもこの文章、なかなか終わらない。あまりに気持ちよくてとまらなくなってる。どっかのやつがおれにいったっけ。曰く「芸術家のおまえこそ、薬物をやるべきだ」と。くだらないな、そんなもの。創作や空想の楽しみを憶えれば、いくらでも脳内麻薬がだせるんだぜ? 金もかからねえときてる。こいつをみすみす手放すわけにもいくめえってもんよ。
 まるで廣澤虎造の気分だ。高校生の頃、おれはダイソーでCDを買って聴いた。おそらくおれの世代には潜在的な欲求として、森の石松や灰神楽の三太郎になりたいやつが、少なくとも221人は存在している。これは一般的な統計学ではあぶりだせない数値だ。こいつには地下想像力(©寺山修司)が必要というわけである。
 麦酒はすぐになくなった。つぎはチェリーだ。貴重きわまるアウト・ストックを生で啜る。もう呑むことはあるまい。それから長いインター・ミッションンンンンン。

      *

  番組の途中ですが、しばらくお待ちください。
  ただいま使用機器のメンテナンスをおこなっています。
  あと6時間ほどお待ちください。
  チャンネルはそのまま。
  電源もそのままま。

      *

 おれは眼を醒ますと、料理をつくりはじめた。たやすいスパゲッティだ。あつあつのやつをおれは手づかみで食した。これがもともとの正しいスタイルである。どこかで読んだ。おかげで指の何箇所かを火傷が見舞った。まあ、宇宙的な意味でアクセサリーだね、もうじき夏だね、沸いてるね。腹がいっぱいになったところでスピリタスの生クリーム割りを頂く。へたをすればだが、精液を呑んでいるようにも見えるかも知れない。しかしおれ以外にだれもいなかった。童貞のさわやかなる不安である。深夜の映画を堪能しながら、ブクの詩を原語で朗誦する。おれは英語がわからない。しかし発音と素読だけはまあまあできた。これもまた無料の玩具である。たっぷり近所迷惑な代物を読み、酒を呷った。もちろん膵臓に触らない段階でだ。そいつは心得ている。スピリタスがいっぽん、からになった。おれはふたたび眠りに落ちたたたた。

      *

 朝、起きてみるとみると妙な具合だった。宿酔いとか、そんなではない。室の空気がかすかに変わった。──ような気がする。むろんおれの空気に色がついているとか、陰影が施されているとか、キュビズムが混入しているとか、そんなことはない。ただおかしいのだ。なにかが。家具の配置も微妙に変わっているような気がする。ガスライティングのはじまりかもな。思ったがおれはそのまま過ごした。訪問客は叩き返した。あいかわらず、ばかなものごとを書き、ひたすら笑い、自己を救済した。それについてひとがなにかをいってくるのは賞賛にしろ、罵倒にしろ、副産物に過ぎない。
 おれはある夜、めずらしくそとで呑んで帰ってきた。おれ以外にだれもいないはずだった。しかしいるのだ。カーテンの奥に寺尾麗奈と竹内紗代が。なんということだろうか、いったいどうやってはいったのか? たしかにおれの棲み家はぼろぼろのアパートメントだ。しかし鍵だけは厳重にしている。なのにどうして鍵には傷ひとつなかった。おれは戦慄を奏でながらゆっくりとちかづいていききききき、・・・・・・。

 やめよう、あまりにくだらない。こんなことはなしだ。でたらめの悪ふざけだ。おなじ題で書くにしろ、もっと美しいものがたり、感動でいっぱいの話に仕立てよう。そこには小麦色の娘と、夏の太陽と、したたかな海辺と、油絵を書く男がいるはずだ。そして愛情と信仰にあふれた牧歌的な母親が毎晩マンドリンを奏でてくれる。おそらく中心になるのはうまい味噌汁の、真実の隠し味についてだ。そこにはもう慰安婦や2万円、寺尾麗奈はおろか、中田満帆も不要だ。おなじ題名であってもだ。 

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最期にひとこと
 
 紳士、淑女のみなさん、いかがだっただろうか? 書いている被告本人は大笑いの連続であった。おれの晩年における予定はだいたいこんなものだ。正直予告篇で終わらず、本篇に着手できるのかは不明だ。おれにはユーモアが必要だ。悪ふざけが欠かせない。それがちゃちな精神というぬかるみにおける花なのだ。怒りや楽しみでだれかを殺したり、豚のように群れたり、デモに参加したり、政治に関心をもったり、投票にいっただけで偉ぶったり、くそテレビゲームをもっていることで偉ぶったり、それに熱中することに偉ぶったり、だれかをきらいなということで偉ぶったり、好きだということで偉ぶったり、黴菌扱いしたということで偉ぶったり、キモイや、ウザイや、イタイなどの3文字言葉を使っているということで偉ぶったり、上級の三角法やフェラチオーの最終定理を完全把握できているからといって、障害年金生活保護がでるからといって、現代詩手帖に載れるからといって、驚異の穴を知っているからといって、中田満帆以外のだれかであるといって偉ぶるのはほかのひとびとに任せた。がんばってくれたまえ。おれにはまだまだ笑う用意がある。いかんせんひどい生活だからだ。自殺よりもほんの少しでいいから、ましなことをしたいだけなんだ。ただでさえ、容姿は醜く、胸骨は畸形、特定疾患もち、乱視で弱視、頭髪は薄く、白髪が多い、足は短く、胴は長い、学習障害知能指数は96、アル中で、精神障害者3級だ。何度もいったように無職で童貞で無学だ。まあ、とにかくおれはこんなくそったれでも笑えるようになりたいだけなんだ。不滅の名声だとか、文学的価値を求めているわけではない。ただ「なにを見てもなにかを思いだす」のだ。すべてが悪くなっていくなか、いくばくかの夢は見ていたい。
 おれはこいつをトム・ウェイツの「雨の犬ども」を聴きながら書いた。'85年作である。80年代にもいい音楽はあった。たいていは装飾過剰のごみくそだが、いいものはたしかにいい。夢の終わり、人生とかいう三文芝居の終わりにはぴったしである。これもまたくそ美しい童貞には必須の品であろう。政府や環境団体、婦人団体、ヤリチンどもが、ヤリマンどもが禁制品リストに入れないうちにたっぷりと聴いておこうぜ。このようすであと2、3日は確実に生きていられそうだ。
 おれたちは間に合ったんだ。──そうだろう?