みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

フィリップ・ジアン「ベティ・ブルー」'85年

 

ベティ・ブルー―愛と激情の日々 (ハヤカワ文庫NV)

ベティ・ブルー―愛と激情の日々 (ハヤカワ文庫NV)

 


フィリップ・ジアン「ベティ・ブルー」'85年
Philippe Djian - "37.2° LA MATIN" '85

 

 ぼくのノート類がバーゲンセールの陳列品みたいに四方八方に散らばった。ぼくはそれが気に入らず、落ち着きがなくなった。「いったいなによ、これは?」彼女はいった。「だれが書いたの、あんたなの……?」


 作家、詩人、画家、音楽家、泥棒、──なんだっていい。自身の表現で、方法で生きようとする人間が好きだ。"もっともアメリカ的な作家"というのがフランスでのジアンの評価だとかなんとか、どっかでそんな話を聞いた。この小説は冒頭からブローティガンエピグラフで幕を開け、終盤にはケルアックの一節が科白としてでてくる。主人公はかつて作家志望だった中年男、35歳だ、なまえなんかない──そんなものはいらない。かれはバンガローで下働きをしながら生活してる。住人のための買い出し、洗濯物の回収、水道、配管などなど。テキーラ、チリ・コンカンが好物。あるとき、出会ったばかりの恋人が転がり込んでくる。かの女はウェイトレス、25歳、なまえはベティだ。
 ベティは気性の荒い女で、主人公をふりまわす。ある夜、ベティは主人公が書き溜めた小説を発見する。そしてかれを天才だとおもい込み、バンガローの主に楯突き、ついには主人公の家を燃やしてしまう。ふたりはパリへ逃げ、ベティの妹リザのもとに転がり込む。かの女はアパートを経営している。ベティは主人公の書きものをタイプして出版社へ売り込もうとする。しかしどこにも受け入れられず、酷評を得る。ベティは批評家に復讐して逮捕されてしまう。男は告訴を取り下げさせて、ベティを連れ戻す。やがてリザの恋人で、ピザ屋を経営するエディがやって来る。すぐに打ち解けるベティたち。やがてエディの母が亡くなり、かれの母のピアノ屋にふたりで棲むようになった。
 ある日、ピアノを配送しにいこうとする男にベティがいった。妊娠したという。男は喜ぶ。しかしその夜、男が帰って来ると、めちゃくちゃに裂かれた産着が残され、ベティがいなくなった。かの女を探す男。灯りのついたわが家でベティを見つける。妊娠はまちがいだった。かの女は顔中にピエロのような、めちゃくちゃな化粧をし、髪を無残に切り落としていた。その顔を見たとき、男はトマトソース煮込みのクリネに顔をつけ、顔中に塗りたくった。病んでいくベティ。エディやリザは心配するも、どうすることもできない。やがてベティは幻聴を聴くようになる。男はかの女のためにと、現金強奪をやり遂げる。ベティは子供を誘拐しようとしてしまう。そして夏。ベティは片目をみずからえぐり取ってしまう。男には電話があり、作品の採用を告げられる。でも、ベティはショック状態でもうなにも認識しない。

 

 「ケルアックがいったことを憶えとけ」ぼくはため息まじりにいった。「至宝とは、真の中心とは、目の奥の目なんだ」

 


『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』予告

 


Trailer BETTY BLUE - 37,2 Grad am Morgen (Deutsch)


 原題は「朝、三七度二分」。フィリップ・ジアンは1949年生まれ。冒頭のブローティガンの引用をはじめ、ケルアックが数度引用されている。遅れて来たビートニクといった趣きだろうか。この作品はもちろん映画のほうが有名で、パンフレットには詩人の八坂裕子が寄稿している。わたしはインテグラル版しか見ていないので、かの女のいうように《200%男の映画》という言辞がしっくり来ない。無気力な生をつつましく暮らすしかなかった男を、ベティが作家にまで変身させた愛の映画だとおもっている。たしかにベティを都合よく亡き者にし、それに対して当然といった語りをする主人公は、ある意味では悪漢かも知れない。だが、美しく優しいものだけが愛ではないのだ。残念なことに本書は絶版であり、全訳でもないことを付す。

 

「そのころ鱗ついて考えてた。それがこの髪型に結びついたわけです」(本人談)

 

   *

 長篇小説「裏庭日記/孤独のわけまえ」はようやく校正が終わった。今週発送する。それでだめなら短縮版をつくって賞にでも送ろう。最近はずっと校正と読書に浸かってほかのことはなにもしてないと来る。そろそろあたらしい作品を書き始めなくてはならない。残念なことに娯楽作品は書けないから、またも青春残酷物語と相成るしかないだろう。とにかく賞に受からなければなにも始まらない。ものを書いていておもうのは、一作ごとになにもかも原初からはじめなくてはいけないということだ。自己模倣のわるくはないが、そいつはそれでエネルギーがいる。けっきょくはあたらしいものを書くしかない。それも手元に参考などと称して他人の作品を置くのもやめたほうがいいだろう。《書くか、さもなくばなにもしないか》──チャンドラーはそういっていた。なにもしないまでも書く時間と読書の時間は混淆するべきではない。混ぜるな危険である。まさしくサンポールである。義務感に駈られて書くのもいけない。書きたくなければ書かないのがいちばんだ。創造的世界はそんなことをやっても開いてはくれないからだ。

   *

 相も変わらず、携帯もネットも復活できていない。プリペイド端末はいけるが、フィマートフォンはだめだ。あとはネット復旧のために金を払い、室に線を引かなくちゃいけない。とりあえずネットカフェ頼りの生活から脱しなきゃだめだ。電話が使えるようになったら郵便局の面接でもいこうとおもう。金にはならない仕事ではあるが。
 正直にいっておれの人生はうまくいってない。負債はあるし、それを支払う能力がない。小説の構想はなかなか降りて来ない。五年まえの友情の破綻について書こうか、それとも郵便局での労働について書こうか。どうなるのかはわからない。けれども応募だけでもきちんと果たしたいとおもっている。

   *

 おとついは短歌、きのうはあたらしい詩をふたつ書いた。手紙も一通書き、長篇も加筆。なかなかいいスタートだ。しかしどうもおれの才能は夜用らしく、けっきょく朝まで書いてしまった。本も一冊読んだ。早く賞のための小説を書きたいが、他者との交流のない生活のなかでいったいどうすれば違和感のない他者をつくりだせるか、それが課題だ。

   *

 おれは尼崎がきらいだ。なのにおれの本籍地は出屋敷にある。生まれた場所でも棲んだ場所でもない、ただ父方の祖母がいたところだ。おれは分籍届をだしておれの人生から、あのうすぎたねえ町を葬ってやるのさ。

   *

 図書館で「ピカソになりきった男」という贋作画家の自伝を見つけた。これは買って読んだほうがいい本だと直感した。

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 金でも飯でも仕事でもおれに恵んでおくれ、だ。

母の日には生ベーコンを

 

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   *


 いっておくが語ることは大してない。気分のままに書き散らして、《そこ》になにかあるように見せる、おれからのプレゼントだ。いまは金がない。だから気が立ってる。無駄遣いをしたのは、きのうのおれ自身だ。だから胸くそがわるい。というわけでこいつを書いてる。きみがどうしてるのか、もはやおれにはわからない。
 おれの「ユリイカ」への投稿はほとんど期待できない。「現代詩手帖」へ乗り換えようかと考えている。もしかしたら詩そのものがむいてないのかも知れない。いまはじめて吉増剛造を読んでる。「黄金詩篇」だ。先週末はひどかった。24日もつづいた禁酒をやぶってしまい、アルコール漬け、からだを壊してしまった。そしてきのうも妙なところで金を使ってしまった。飯はあまり喰えてない。なにか簡単なものをつくって腹に入れるべきなのに。筋トレも中断してる。こんなことではいけない。それなのにまともなことが、まったくまともにできない。長篇を「群像」に送るのはあきらめた。やはり「裏庭日記」は頁数が多すぎる。新しい作品をはじめから書くなら「文學界」のほうが頁数が少なくていいだろう。写真はあきらめるしかない。清里への準備は金がかかりすぎる。いまはまだ耐えるしかない。あたらしい小説におれは「夢の汚物」という仮題をつけた。自身の夢に裏切られる青年の話だ。あるいは郵便局員の話だ。
 音楽についていえば、なんの進展もない。このまえチューナーを買ったが、おかしなことに♭チューニングができないと来た。そんな代物があるとは露にもおもってなかったし、そんなものに金を払ってしまったじぶんが情けなくて仕方ない。いまのアコースティックギターは弦高を調節できない。手頃な値段でちゃんとしたギターを買いたい。秋頃にはなんとか、ライブへでるまでになりたいものだ。町のなか、ギターを背負った老若男女を見ると羨ましくなってしまう。しかし、いまはただ読書と小説だ。最近はスタージョンの「輝く断片」とスタークの「悪党パーカー/逃亡の顔」を読み終えた。前者はSF。おれにとっては、はじめてに等しいジャンル小説だ。新鮮な気分で読むことができた。いまはフリップ・K・ディック「トータル・リコール」とモルモット吉田の「映画評論・入門!」を手に取ってる。いっぽうエルロイの「クライム・ウェイヴ」は中断してしまってる。読んでない本は多い。しかもその情況で本棚が足りないんだ。ところがまだ携帯もネットも復旧してないから仕事もできない。あと4千円ちょいで通信料の未払いは終わる。電話はソフトバンクプリペイドを遣うしかないだろう。さすがに12万を返済するのにいまのままでは年月がかかってしまう。またしてもおれは倉庫係になるか、郵便局で夜勤の仕分けをやるか、どっちかでしかない。おれみたいな愚かな男でもできる仕事といえばそれぐらいだから。
 今月は小説の最后の校正。最低でも3人の人間に読んで批評や訂正箇所なんかを御教授給う予定だ。来週にはたぶん最新の製本が届くことだろう。それを森忠明先生に送ってかれを介して数人に読んでもらい、商業作品としての価値を高めたい。2月7日から書き始めてずいぶんと手間がかかった。自伝小説を書くのなら年譜をつくってからにしてから、というのが今回の教訓といったところか、出来事、時事、主要なおもいで、存在意義にかかわる重要な考えや科白、それらをもっと書くまえに決めてたら、何百回も訂正する必要はなかったろう。しかしおれのなかの作家はそれを我慢できなかったんだ。
 おれの文章のわるいところは饒舌過ぎるということだ。読み手になってみたとき、おれの文章は密度が濃すぎて息苦しい。もっと余白を活かした文体への変化が必要だ。すかすかで改行の多い文章もわるいが、おれみたいに喋りまくって息切れしてるのも質がわるい。そこでどうなるか。すべてを忘れ、ゼロからやり直せということだ。サリスが「ドライヴ」でやったような文体、またはシェパードが「モーテル・クロニクルズ」でやったような、カーヴァーが「ぼくが電話をかけている場所」でやったような──なんていえば切りがない。ほんとうに必要なことだけの文体、最小限のエネルギーによって綴られた文章。それこそがおれの望みだ。


   *

 余分な間投詞の多さ、余分な接続詞の多さ、現在形にするか、過去形にする、過去完了形にするか。──《人生とは感嘆符にするか、疑問符するか、ためらうことだ》とフェルナンド・ペソアは書いてた。文章と文体、または彫琢される人生を求めておれは走っていく。おれには沈黙が必要だ。書くためにはまず黙らなければならない。あたらしい小説を2頁ほど書いた。あまりに主観がうるさい、あまりにアクションがない、からだを動かすように場面を動かしたい。動きがあって人物は生きる、思考や感情はあくまでアクションあってのものだ。痛みがあってひとは動くのではない、動くから痛みがある。ふたたび、おなじ筋で書き直しかない。

 

 発送口の片隅にビニールのカーテンがかかってる。かつて透明だったビニールは、脂と煤にまみれ、そのなかで青年はベンチに坐ってる。うつむいたり、天井をみあげたりで、落ち着きがない。
   キネサキホフランが勝ったらしいね。配当も凄いって。──隣の男がいった。カナメは先週、おなじ馬で三千円スッたところだった。喫煙所で油を売ってると、ろくなことを考えない。やつはハズレ馬券でドールハウスをつくると宣う。
   生憎、あの馬とは相性があわないらしい。
  おまえはどの馬ともあわんよ。
   それよりも午后の配達遅れんなよ。
 カナメは舌を突きだして水死人みたいに戯けた。なにもおもうことはない。休憩が終わって、かれは次の区画へカブを走らせた。みじかく長い人生のなかでできることはそう多くはない。馬はなにもかもを追い抜いてしまうし、胴元を潤すほかできることはないといっていい。好きだった女たちはみなカナメをきらって逃げてったし、友だちもいない。あとに残るのはせいぜいのところ、三〇歳まで五年だ。これこそ猶予といっていい。でも、なにができるか。そうともなにもできやしない。かつてあったような夢はなにひとつ叶わない。新興住宅地を四時間かけてまわったあと、団地に二時間。ほんとうならもっと早くできるはずだ。毎日のように上司にせっつかれてる。まぬけめ、とみずからにいった。一時間半は遅れてる。慌てて局にもどって転送の処理や、書留の処理をした。たかが時給千円でまじめにやる気もない。ロッカー室で着替えをし、そとへでる。莨火を点して、駐輪場へむかった。春の夜の寒さが沁みる。かれは吸い終った両切りをフェンスのむこうへ投げ、エンジンをかけた。家まで二〇分だ。その途上、酒屋でスコッチを買い、罐詰をふたつくすねた。きょうはオイルサーディンとオリーブ。なにもおもうところはない。アパートに帰って酒をつくり、汚れたベッドに坐った。サイドテーブルには読まれないままの本がある。たとえばシオラン「時間への失墜」、ファンテ「太ったウエイトレスからの口づけ」やなんか。二月、いまの仕事に就き、翌月生活保護は切れた。それでも入る金は一万しかちがいはない。寝る、起きる、喰う、仕事、そして酒、眠る。とてもかつてみたいに本を読むことも、なにかを書くことも、ギターを弾くのだってできない。もっとましな職を探すべきだ。それでも帰って来ると、疲れと焦りでいっぱいになった頭が酒を求める。カナメは根っからのアル中だった。父の、その父みたいに酔うと暴れた。かつてじぶんがされたように父を撲り、母を罵った。いくつもの飯場と病院を転々としたのち、みずから町へでて役所にでむいた。それから二年、断酒会や集団療法に加わった。内心、こんなちんけなものと吐き棄てた。はじめて持ったじぶんの室、だれも訪れないところ。

 

 

   *

 さておれは昼餉を喰いにでていこう。スーパーで夕餉の食材を買い、図書館にいく。──じゃあな。

 

 

輝く断片 (奇想コレクション)

輝く断片 (奇想コレクション)

 
クライム・ウェイヴ (文春文庫)

クライム・ウェイヴ (文春文庫)

 

 

ディック・フランシスを読んだことがない

                  ('07年「おかまやろう」改作)


 あわやぶちこまれそうになった。──どこに?──留置場ではない、救済所でもない、失業者相談窓口でもない。おれのけつの穴へ、銃口でもなければ、パイプでもバイブでもないもの。骨のない、やわらくなったり、かたくなったりするものが、皮と肉と管によってできてて、おれやあんたの股のあいだにあるやつがだ。
 「おい、おまえ。そこでせんずりしろ!」──なんでだ、手品はどうした?──これも裏切らせないためだ。──おれは寝台へ、全裸でよこたわり、またぐらをしごきはじめる。やつはそれをじっと眺める。そして鞄からおもちゃのあひるをとりだす。「これがなんだがわかるか?」──おもちゃのあひるだ。──おもちゃのあひるです、だろうが!──すみません。──こいつが怒りだすまえにいき果てろ。わかったか?──やってみます。
 「おまえ、紫色の公衆電話の話、知ってっか?」──いいえ。──まあいい。おまえにいったってしょうがねえ。──ポルノがテレビから流れてる。さえない代物だ。おれは勃つんじゃない! ──そう自身へいいつづけてた。──はやくしろよ、それともおれがしごいてやろうか?──しびれを切らしたか、小男はおれのを掴んだ。立ちあがっておれの背後にまわる。
   おれが入れてやる。
   痛くはない。
 それだけはやめてくれ!──おれは哀願し、なんとかその場を遁れた。いったいなんのためにおれはこんなところにいるんだろう。

 工場は米の投入役を求めてた。採用された。ミラーの「冷房装置の悪夢」を持ってった。ふたりの若い男が退職をひかえて嬉しそうだった。仕事は単純だった。いやなやつがひとりいるらしい。そいつはリフトを運転してた。リフトが運んだ米袋を開封し、脱穀機へながした。父が勝手におれの鞄をあけた。ミラーを見て激怒した。職場に本などもっていくな!──というのが新しい訓示だった。理由を聞いても答えない。従わないことでおれは、その謎を解こうとした。しばらく経って、やつは気に入らないことに怒ってるだけなんだと合点した。福知山の脱線事故のあとだった、「たつや」の女将から電話があった。おれが巻き込まれたのか、心配してくれてた。あの事故で亡くなったひとで知ってるのは、小学生のときに通った床屋の女将だけだ。
 仕事は粉塵による鼻炎がひごく、2週間でやめた。米の粉が吹きあがって来る。マスクをすればよかった。三田の駅前で電話をかけた。やめますといい、途中で切ってしまった。それでも金は入って来た。おれはもういちど東京へむかった。とりあえず路上に坐った。老いたルンペンがよってきた。
 よお、あんた、どっから来たんだ?──神戸からです。なにしてる。──いまはなにも。仕事を探してます。──おれはきょう金が入るんだよ。そのまえに飲みもの、奢ってくんねえか。あとで返すから。痩せたからだに半袖を着てて、金はなさそうだった。それでも、おれは老人を信じて飲みものを買った。見返りのためじゃない。かれは亢奮ぎみに「おまえに11万やるよ!」といった。11万は来なかったが、かれがよくしてくれた。もとはやくざで、移民2世、妻が死んでから路上に入ったといった。菓子パンやスピリタスをわけてくれた。2日たっておれはいった。
  なにか仕事はありませんか?
   ホストなんてどうだ?
   あんた、いい顔してるしなあ。
   あるいはシンナーでも売るかだな。
   しかし最近じゃあ警察がうるせえからなあ。
  飯場とかないですか?
  倉庫とか?
   そういうのならいっぱいあるよ。
 翌朝、地下道でかれは手配師にひきあわせた。話しはすぐに決まった。小さな路線をひきつぎして飯場、加藤組へ来た。そこは八王子の住宅地のなかにあってトタンで覆われてた。まずは食堂に招かれ、ひさしぶりに飯を喰う。つぎに湯に浴みだ。「東京流れ者」を口にしていると、湯加減はどうかと声がする。
  問題なしです。
 室は大部屋で何十人との共同だった。莨に黄ばんだ壁をながめてると、男らが帰ってきた。かるく挨拶をすます。あとはなんにもできることがない。10時の消灯までうごけずにいた。ノートを広げて発想を待つ。観察されてるようなさわりがあった。たしかにだ。ここのまえにも所沢の中村組という飯場にいた。室が決まるまでコンテナハウスのなかに入れられた。室は、3人組の相部屋で、室の入り口にはアニメキャラクタの等身大パネルがあった。初日、中目黒のアパートメントに行かされた。基礎工事の手元作業。コンクリートの打設のため、鉄骨をブラシで洗った。地上へは仮設階段がある。昇り降りするたびに揺れ、怖かった。昼食、おれは弁当を忘れてしまってた。それを察したのか、老人が菓子パンをくれた。夜、仕事から帰って来ると、室の長らしいのが凄んだ。──おまえ、挨拶もできねえのかよ!──ぶっ飛ばされたいのか!──こんなところにはいられない。あたまのいかれたおたくやろうなんざごめんだった。おれはさっさとでた。
 村下渉に出会ったのは、翌々日だった。やつはワゴンの窓際でけだるそうにしてた。現場は大日本印刷・事務所ビル。黒い鉄骨をむきだしにした陰茎のようにみえる。からだがまるでうごかなかった。足場を組むのを手伝ったり、ガラだしをやってるあいま、倒れそうになる。不安定な仮設階段はめもくらむ揺れをくれた。
   そこのおまえ、足場を組め!──おまえ、おれより喰ってるんだろうが!──もっと動け!
 ひょろ長の男が罵声を浴みせるのを黙って聴いてた。こいつを叩きのめして、スコップの味見をさせてやりたい。休憩のとき、おれは氷をタオルに包み、頭にあててた。雨季をまえにして夏は来てる。地下の詰め所に降り、じぶんの飯場の卓を探す。そこにはあのちびっこがいた。──大丈夫か、あんた?──じぶんでもわかるほど顔が青くなってた。坐って相手をみた。160センチ、あるかないかのちびだった。でもこいつだって要領よくやってるんだろう。涼しい顔をしてる。どんなことでも抜かりなしといった様子だった。おれは自身を憐れみ、ただ腰を降ろした。──歳は?──今年で21だよ。──おれとおなじじゃないか!──やつは笑って莨をさしだした。いっぽんとって喫む。つまらねえ代物だ。酒を呑みたかった。やつは村下渉と名乗った。
 「おれはじつはやくざなんだよ」とやつはいった。14歳からかずかずの非行を重ねて来たとか、もとは金髪だったとか、年上の女と実家で暮らしてるとか、医者にハルシオンを要求して拒否されたとか、そんな与太を喋った。じぶんには別に仕事があって、そこは高給で楽ちんだ、おまえも来ないかといった。
  なんでこんなところにいるんだ?
 「しくじりをやらかしてよ、組長の命令で来たんだ。どうだい、こっちをでたらいい仕事がある。──のらないか?」──おれは警戒して遮った。いや、おれもでたら用事があるんだ。わるかったな。──おれは警戒してた。こんなやろうとは離れるべきだ。それでもだんだん。ふたりで話すようになった。晩酌のビールをやつとわけあい、やつが仕事についておれをフォローしてくれることもあった。しかし飯場にも労働にもあきあきしてた。とてもおれのからだに合わない。詰め所でぼやいた。
 もうやめるよ。──やめてどうする?──地元に帰って工場にでももどるよ。──もどれないだろ。──さあな。──おれの仕事についてこいよ。来週の金曜日に満期なんだ。──どんな仕事だ?──それはいえない。でもあんたのことが心配なんだよ。
 ある晩、どぎつい仕事を終え、公園にいった。やつがおれを待ってた。──とりあえず、組長に話しをつけてきた。月20万はかたいぜといった。──それでどうすればいい?──まずは組長のまえで手品をしてもらう。──仕事の内容は?
 「電話をかけるだけでいい。多重債務者にだ。それでおれたちが肩代わりして利子を儲ける。あんたなら1ヶ月はなにもしなくてもいい」──いい出会いに恵まれてる。うれしくおもった。やつの満期で飯場からずらかることにして室へもどった。盆休みになった。8月12日、金曜日。やつは満期。おれは酒壜を鞄にしまいこみ、やつのあとを追った。やつは遅いといった。手元には盆休みの5千円あった。まずはバスに乗って駅をめざした。やつがさえずる。聴くに耐えなかった。
 「おれはまえにいちどバスの運転手をしめてやったよ。おれが1万しかもってねえっていったらよ、そいつ、そんなじゃ支払いにならねえと抜かしやがった。おれはバスからやろうをひっぱりだして、停留所の看板でぼこってやったよ!──あれは傑作だったなあ。土下座もおまけだ」。
 そんなことがやつにできようとはおもえなかった。おれはやつから見えないように酒を口にした。──おれたちは環状線に乗りこんだ。雨脚はつよくなり、やつは落ちつかず、いらだちをもろだしにしてた。そして目的とはちがう飯田橋駅で降りてしまった。おれたちはパチンコ屋にいくことになった。雨が降りだした。帰ろうかとおもった。どこへ? やつがいうに金を作るという。おれが店内をうろちょろしてるとやつがおれの肩を小突いた。──おい、来る気ないだろ!──いや、あるよ。──手品の道具がいる。ビニール紐とばかちょんカメラを買って来い!──やつが千円札をいちまいきり渡した。追い立てられるようにおもてへでた。商店街をみつけ、紐とカメラを用意した。やつが喰わせものとはわかってたが、20万のきらめきは、なかなか消えてくれなかった。パチンコ屋のまえで2時間待ていたらやつがあらわれた。黙ったままだ。換金の列にはくわわり、なにがしかを受けとった。いずれおれはこのことを書くんだ。やつをしっかり見る必要がある。でも、おれのほうも焦ってた。ようやくにしてやつの地元にきた。上野だ。
   ここじゃあ、おれもそれなりの顔だ。敬語で話せよな。
  ああ。──ああ、じゃねえよ。わかりましただ。
  わかりましたよ。

 観月荘の4階に室をとった。古い宿だ。寝台がふたつ、姿鏡が1枚、冷房、テレビ、便所、廊下にはビールの自販機。室に入ろうとしたとき、やつは「バイバイ」と手をふった。どうすんの?──やるよ。──なんでおまえのホテル代まで払わなきゃならねえんだよ!──どうすんだよ。──やり場を喪い、シャワーを浴びた。──その態度じゃ、うちの組長も切れんべ。金が欲しいだけなんだろう?──うちの会社、入ったからには、それなりの働きをしてもらわねえといけねえんだよ。おめえから金貰いたいぐれえなんだよ。おまえ、甜めてるるだろう、こっちはやくざなんだよ。おまえなんてすぐに殺せるんだからな。すぐ、ふてくされるしよ。──耐えかねて、やめるとおれはいった。──それじゃあ、おれの面子はどうなんの?──ホテル代は払います。──兄貴や彫り師は呼んであんの。払わなかったらどうすんだよ。怒られるのはおれ、なんだぜ。室の頭金も払ってんの。払えよ。身分証なんかなくたって探せるんだぜ、てめえの家族に取り立てるぞ!──やつは激昂して捲し立てた。うんざりだ、おれはおまえを信じてたんだ。しばらくしてやつも大人しくなった。たがいにビールを流し込む。やつが話した。組長が今夜これないという。かわりにここで手品をやって写真にとるといった。
   おまえまず、裸になるんだ。
   裸で手品をやるんだよ。
 戸惑っておれが脱ぐ。やつがおれをビニール紐でしばりつける。しかしそれだけだった。あとは要領を得ず、紐はけっきょく切られてしまった。おれの全裸をやつが写真に収める。いったい、こいつはなんなんだ? 問いかけのしようもない。おまえ、そこでせんずりしろ!──おい、手品はどうしたんだ?──裏切らせないためだ。
 テレビが光りを放つ。ポルノだ。おれはいつまでも勃たなかった。いやものを浮かべて勃たないようにした。父の顔や、クラスでいちばんの醜女をおもいうかべた。やつは痺れを切らし、おれのうしろに立った。やつはズボンを降ろして態勢をつくった。
   おれが入れてやる。
   痛くはない。
  それだけはやめてくれ!──あわやぶちこまれそうになった。やつはしぶしぶ、じぶんの寝台へもどった。おれを睨む。坊主頭で、やせぎすで、しかし態度と声だけはでかい。いっぱしのちんぴらやくざにふさわしい声色じゃないか。おれは怒声を浴びてるしかなかった。けつを奪われかけて寝台のうえで正座した。
 まぢめにやれよ!──すみません。──まぢめに働く気もないんだろう!──楽して金が欲しいっておもってるだろ?──もう仕事の話しはなしだ!──聞きながらおれはじぶんがなぜこんなことになったのかをおもいめぐらした。たしかにおれは楽がしたかった。大金を得たかった。まぢめでもない。でも、おれはじぶんの居場所が欲しかった。
 だからっておまえ、逃げるんじゃねえぞ、おれには調べがつく!──逃げればおまえの家族だってただじゃおかねえからな。おれが紹介するから、おまえそこで働け。それとも金持ちババアのヒモにしてやろうか?──金はいいです。とにかく帰してください。
 このホテル代だっておれが払ってるんだぜ、そうはいくかよ。──やつはおれの鞄からノートを引き抜き、なにやら店やひとのなまえを書きだした。ひどい悪筆かとおもえば、きちがいみたいにきれいな楷書だった。地階の電話で、飲食店だかの番号を調べた。104に何度もダイアルし、そいつを書きとめた。見つからない店のほうが多かった。わずかな答えをたずさえて戻った。──おれの先輩がやってる店がある。おまえ、そこいけよ。ボーイの仕事だ。一生懸命働いて母親に仕送りでもしてやれ。そうしたら前に仲が悪いっていってた親父ともよくなるだろうしな。休むときはちゃんと連絡してこういうんだ、明日はがんばりますのでお願いしますってな。そうすりゃ認めてくれる。──さっきまでけつの穴にぶちこもうとした相手にいう科白か?──おまえには夢とかないのかよ?──詩人だ。──なんだそれ、小説とどうちがうんだ?──なにも思いつかなかった。──まあ、おれも駅前で酔って買ったことがあるけどな。いいちゃいいし、よくわからん。──ただただ時間が過ぎるのを待つ。──飯場できらいなやつはいなかったか?──いないよ。おれはうそをついた。これ以上ややこしくなるのはご免だった。やつの説教を再発させたくはない。おれにきらいなやつがいた。茶色いのパーマの男。長い髪で、ジョン・レノンそっくりのやつが。くそ狭い銀行支店、たしか三菱だったとおもう。そこではじめて一緒になった。気性の荒いやつで、おれを追い払いたくてたまらないのだ。どけだの、うせろはあたりまえ。でも、ちがう現場でのことだ。無言でやつのいうことに従ってたら、ひどく困ったつらで「頼むから返事してくださいよお」──か弱い声をだした。──明日は早いんだ、もう寝ろ。
 やつは灯りを消した。肛門が痛みだした。やつは眠ってる。おれはまたしても急性胃腸炎にやられた。便所で嘔吐し、いきんでもいきんでも腹はおさまらず、夜通し便所にいた。肛門がただれるように温く、それはきっと紫をしていたにちがいない。逃げだすこともならず、紫色、それだけがあった。朝、ホテルをでる。具合はまだわるい。やつもまだ不機嫌そうだ。──これ、おまえが処分しろ。おれの裸を撮ったカメラだった。やつはやくざでもちんぴらでもなく、ただのおかまやろうかも知れない。その鞄、ロッカーに入れろよ。まるで家出してきましたっていってるようにみえる。
 「でも」──おれはためらった。──でもじゃねえよ。
 「ロッカーの金あるか?」──金はない。

 やつは朝餉を喰いに蕎麦屋に入った。おれは自由になったというわけだ。でもやつの裏切りは淋しかった。とりあえず駅の商店や古本屋を見てまわった。飯島耕一の「アメリカ」という救いようもなく、つまらない詩集があった。そのあと、もしものときをおもって交番へいった。とんでもないでぶの警官がいた。不機嫌な顔して立ってた。女房や子供に豚呼ばわりされたせいかも知れない。おれは話した。けつの穴と手淫のほかを。
  それであなた、裸の写真を撮られたんだね?
  なんの抵抗もしなかったの?──仕事が手に入るならと。
  カメラは?──返してもらいました。
  ちょっと署のほうで、もう1度話してくれるかな?
 ふたりしてちかくの警察署へいった。若い刑事は軽装で、半袖のボタンシャツにジーパンだった。おれは取り調べのせまい室に入れられた。かれは20代らしかった。おれはもう1度説明した。飯場でのこと、やつの素性、仕事のことやなんか。犯された女のような気分だった。恥ずかしく、そしてけつの穴がむずむずする。警官は諭すようにいった。田舎に帰って仕事を探せ。でぶと一緒におもてへでた。
  高校はどこ?
 有馬高校です。
  名門じゃないか。
 定時制であることはいわなかった。おれは高架下のルンペンたちに会いにいった。かれらは眠ってた。おれに気づかないふりをしてた。立川で作家の森忠明と会い、3千円を借りた。立川基地の跡を歩き、かれはおれの俳句についていった。──《帰らぬといえぬわが身の母捨記》、これ季語ないけど秋だよな。──おれは終夜営業のレストランで夜を明かした。金なんかすぐになくなった。母から金を無心しながら2日、3日を路上で過ごしたあと、夜行バスに乗った。窓をながめ、去っていく町をみる。そのまま夏は終わりかけてた。

 

 

興奮 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-1))

興奮 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-1))

 

 

おれにだって死にたいときはあったし、うつろなときもある

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 頭に充電器をぶちこみたい気分だ。長篇小説はほとんど泥沼、入稿した端からまちがいが見つかる。けっきょく1万5千の損だ。それだけあれば椅子だって買えたというのに。きょうになってようやく最終稿。予算さえ赦せばもっと余裕のある文章をかけただろう。頁300くらいで。手頃な印刷所を探さねばならない。来月までの4日間、どう過すかだ。キングブラザーズの旧作を注文した。なんとか精神的な豊かさが欲しい。読書は、ジェムズ・サリス「コオロギの眼」を再読したところだ。あとスタージョン「輝く断片」、ボルヘス「詩という仕事」、バロウズ裸のランチ」、「雨月物語」を読んでる。いつも通り、選択肢が多すぎる。あるいは少なすぎる。おれに課せられたことの半分もできちゃない。課したのはだれか?──おれ自身だ。来月には小説と詩集をあたらしいところでテスト印刷したい。「製本直送」は便利だが、やはり高すぎる。1冊ごとの単価をどう抑えるか、それにかかってる。あるいは小ロットで刷れるところにかかってる。短篇集のほうは止まってる。ふるい作品を記憶を頼りに復元しただけだ。いままでとはちがった作風のものが書きたい。そのために本を読む。
 短歌のほうは、とにかく結果でないと話にならない。「研究」にしろ、「角川」にしろ、実を結ばなくてはならない。いまのおれができるいちばんの表現は短歌だ。あとのものは理解されるまでに半世紀はかかってしまうだろう。詩にしろ、小説にしろ。このまえ「手師の惜別」という題で、40首つくった。最近のように賞に合わせてではなく、ひと月に1篇は最低でもつくることにしょう。腕が鈍ってしまうから。森忠明は《寺山修司の影響が消え、中田満帆の歌になって来た》という。たしかに最近はずっと寺山短歌に触れてない。もっとべつの、短歌以外のものからの影響が多いのだろう。

 このblogもtwitterも、そのほかのSNSもみな、いまのおれにとっては食傷気味だ。おれのようなペストに近寄って来る人物がいるとして、かれらかの女らになにかを求めてもしかたないのかも知れない。ネット復旧のために負債を返し、──あと1万4千──溜まった電話料金もなんとかしなきゃならない。12万。むずかしいところだ。書評や映画評を書くなり、もっと生産的なものを書けばいいものを、その力がいまは湧いて来ない。細かい調べものもできないうえに沙汰止みごとで足許がいっぱいだ。他人のウケを狙ってもしょうがないが、永遠のマイナーとしてやっていくほかはないのか。情熱と方針を見失い、さまよってるばかり。人脈も実績もない以上、どうすることもできないのか。
 去る年、おれは自裁に失敗した。ヘリウムで死のうとしたが、ガスがあまりにも苦しく、かぶってる袋をやぶってしまった。30すぎると1年なんてすぐだ。気を取り直して生きることにしてる。まあ、なんとかなるさ。