みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

どうしてかれが蒟蒻なのか、そのとき、わかりませんでした。

 

f:id:mitzho84:20180717141304j:plain

*空想はイメージです。


 とうとうわたくしも34歳と相成りました。最近はずっと小説にとっくんでます。けれども反文学を志しながらわたしのなかには映像ばかり。以前に映画監督ジム・ジャームッシュの《英文学を専攻していたが、書くものがどんどん映像的になっていった。そして映画科の願書を取りに行った》という一節をおもいだし、わたしもいまの作品が片づけばシナリオ書きに転向しようかとおもっています。小説はなにかと不経済な方法で、書き上げるまで時間も魂しいも使い切ってしまいます。その点、シナリオはつねにどこかで募集があっていい。寺山修司式にラジオに売り込むという手もある。

 中篇「犬を裁け」改稿のためにはもっと広い視点がいる。種本をカミュの「異邦人」に変更。冒頭にあたらしい序章を入れる。小説のための要素を再考すること。「群像」新人賞用に「ソクラテスというポン引き(あるいは「女衒としてのソクラテス」)」というのを考えている。その美しさから女衒に狙われる歌手志望の女と通称ソクラテスと呼ばれる老ポン引きの話し。女がショービズで勝ち上がるなか、ソクラテスは哲学を懐き、明晰になっていくも零落の一途。しかし、これはシナリオ向きかも知れない。ラストは海辺、過古の醜聞を暴かれた女歌手と、老人が手をとって波へ消えていく。でも死ねない。死は解決ではないから。

 長篇はなんども加筆と削除のくり返し。今月中が締め切り。未練はあるが予算とレイアウトの都合上238頁を厳守しながら改稿するのは疲れる。ネットで出遭った女との会見とか、書き足りない挿話はあるものの、どれもがぶつ切れで橋渡しのやりようがない。頁が足りない。ここはあきらめてまずは採用されることだ。
 あと、もうじき電話を復活できそうです。遅くとも来月初めにはなんとかなるかも知れません。空腹と蝿に耐えながらきょうは読書の日です。ドーキンス「神という妄想」という無神論の本を読んでます。
 では失敬 

 

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

 

 

 

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 
ソクラテス (岩波新書)

ソクラテス (岩波新書)

 
ソクラテスに聞いてみた

ソクラテスに聞いてみた

 
Transaction De Novo

Transaction De Novo

 


Bedhead - Disorder

よりかからないでください。──極私的・エレファントカシマシ小論

 

エレファント カシマシ II

エレファント カシマシ II

 



 《よりかからないでください》──これは、'88年「PATI-PATI」誌上に載ったエレファントカシマシ「THE ELEPHANT KASHIMASHI Ⅱ」の広告コピーである。深読みすれば、これはきっと「おまえらを励まし支えるような気楽な歌ではない」ということだろう。わたしがかれらを知ったのは'97年、「今宵の月のように」からである。わたしは13歳だった。かれらの素直な声と演奏は、当時のシーンの装飾過多な世界から遠く、そして心地よいものだった。はじめてのライブは'03年の"BATTLE ON KOBE"で、これは元スライダースの村越とのジョイントだった。わたしが熱心に聴いた作品は、エピック期の「浮世の夢」、「生活」、「奴隷天国」、ポニーキャニオン期の「明日に向かって走れ─月夜の歌─」、「愛と夢」、東芝EMI期の「俺の道」、「扉」、「町を見下ろす丘」である。ユニヴァーサル期のものは正直いまだに買っていない。強気なメッセージは空回りし、商業ロックのなれの果てといった趣がするからだ。それでも公平に見れば、初期にはいくつかはいい曲もあった。けれどデビュー30週年を迎えて猶、現在活動しているかれらの新作アルバム、「Wake Up」は試聴してあまりの酷さに辞もなかった。
 個人的な恨み辛みでもなく、もはやメジャーレーベルですら作品をつくりあげるということに興味も金もなくなったというのが、第一印象だ。狭小住宅がその半径2.5mを歌っているようなていたらく。ユニヴァーサルではなく、スピードスターあたりなら、もっと優れた作品を残せたかも知れない。もはや、かつてあったアルバムのトータル・コンセプトなどというものはなくなり、シングル曲とそれを埋めるだけの新曲あるだけだ。持ち味はなんだ、ジャケット・デザインか?──いいや、あんなものよりもすぐれたデザインならおれでもできる。サウンドか──いいや。編曲か──いいや。内容のない空疎なアルバムだ。ユニヴァーサルのオーヴァープロデュースが盛んに槍玉に挙げられるが、それを含めてもバンドとしての現状維持でしかない情況や、あきらかな予算のなさ、オマケ付きCDの連発、歌詞の劣化(内容の狭さ、語彙の貧弱さ、対象性の曖昧さ、繰り返される無責任な励ましと自己慰撫)、音づくりの平均化は眼を覆いたいほどだ。そして音楽雑誌は宮本ひとりの心模様を伝えるだけで、決して批評はしない。褒めそやかすだけだ。ただの広報紙でしかない。かつて岩見吉朗というひとが洋楽誌の「Rockin'on」で、エレファントカシマシの批評を書いていた。あの一連を読んだときの亢奮と驚きはいまでも忘れがたい。批評が機能し、それが野次馬ではなく、書き手自身とのつながりを明確していた。けれどもかれは「生活」を批判したのち、一切エレファントカシマシには触れていない。いまは漫画原作者であり、大学講師である。それにしてもあの「RAINBOW」の腑抜けた顔の写真が、高橋恭司の撮影であると知ったときも驚きを禁じ得なかった。かれがあんなにもつまらない写真を撮ってそれをデザイナーがさらにつまらなくする。いったい、なんなんだ?──わたしだってもっとましなものがフリーソフトで充分つくれる。

 


エレファントカシマシ ~ 自宅にて (sound only)

 
 去年、刊行された「Rockin'on Japan」のエレカシ本もわたしは不満であった。宮本の発言のみを切り取った書物には当時の空気が感じられない。読者投稿もコラムやレビューすらもなく、特に識りたかった東芝期の同時代性を窺い知ることもできない。なぜあんなものをつくったのか。けっきょくはファンアイテムのひとつでしかないうえに、一部の音楽雑誌はもうすでに精神性や心模様といったものでしか音楽を語れないほどに地に落ちたということなのだ。渋谷陽一山崎洋一郎もMUJICAの連中も、音楽を云々する資格なんかない。ミュージシャンと馴れ合いがやりたいというのなら客に見えないところでやってくれ。山崎洋一郎の功績なんざ「奴隷天国」を腐しつつ「東京の空」への橋渡しをつくったぐらいだ。あとはずっと駄法螺をやっているだけで、音楽が不在ななかでただ相手を褒め、甘やかすだけである。
 わたしの希望としてはユニヴァーサルが潰れるか、バンドがふたたび解雇され、今度こそインディーズにいくか、もっと制作環境のいい会社に移ることである。せいぜいその程度だ。曲の面でも詞の面でも百凡に陥っていることについていえることはなにもない。わたしはわたしの音楽をやるしかないのだから。

 《ここまで言っても誰も怒らないんだろうなあ》──「奴隷天国」の広告コピーより。

 

 

風に吹かれて -エレファントカシマシの軌跡

風に吹かれて -エレファントカシマシの軌跡

 
マンガの方法論 マンガ原作発見伝

マンガの方法論 マンガ原作発見伝

 

 

小説を書くうえでの悩み(pt.2)

f:id:mitzho84:20180703142938j:plain

6/24

 

 小説「犬を裁く日」。第一稿完成。まだ28枚しか書いていない。あと50枚はいる。これから風景と回想と独白を入れる。不条理小説としてイベントが足りないようにもおもう。あとバックストーリーをもとにしたものを入れる必要がある。たんに回想だけでなく本文にも読者の興味をそそるものがいる。展開も大雑把すぎる。細かい橋渡しが必要だ。あしたは眼鏡を買う、USBを買う。

 

6/29

 きょうも「文學界」新人賞のために書いている。伊丹十三「「大病人」日記」を読み、映画のストラクチャーを、三幕形式を、小説に流用するという企みは破綻してしまった。映画ならば、いくらでも雄弁な沈黙があって、状況を画面全体で魅せることができるが、小説にはそれができない。けっきょく枚数だって三幕では到底足りなくなる。あてにしていた種本、サマラキスの「きず」も数年ぶりに再読してみるとまったく用を足さない。ただきょう届いた藤原新也アメリカ日記」はすこぶる役に立ちそうだ。書き手の観察力が少ない行数で、鋭く書かれている。とりあえず通読してから考えたい。いまのところ、六幕構成+序章で60枚。応募にはあと10枚が必要。それでやっと最低枚数の70枚に届くというわけだ。苦しいものである。まずはあたりまえのことを、あたりまえに書く必要がある。

 

6/30

 最後の朝食、サラダチキンと卵とカット野菜、セロリ。あとはスープと燕麦しかない。サローヤン「パパ ユーア クレイジー」読了。大変愉しかった。図書館へ。小谷野敦の「芥川賞の偏差値」を読み、考えを変える。わたしは文学をやるべきではない、アンチ文学をやるべきなのだと。多くのひとびとが心地よいとするものを書いてはいけない。じぶんを愉しませるものを書くべきなのだ。またブコウスキー、ボーマン、ジョーンズを再読することだ。とにかく盗める引き出しを増やすことである。炊き出しはカレーとバナナと煎餅だった。帰ってスープをつくる。固形スープにセロリ、ピーマン、ホットソース、バジル、コリアンダー、パプリカ、オリーブ油、ドレッシング、燕麦、そしてクラッカーのかわりに煎餅を入れる。料理のセンスがあってつくづくよかったとおもう。わたしはかつて父のつくった、ぞっとするような野菜炒めをおもいだす。当然ながら勧められても断った。かれの愚かさったらないね。帰ってからずっと永山則夫の鑑定記録についてのルポを読んでいる。小説に手が届かんわい。
 来月、Tシャツのデザインをはじめる。クレジットを添えてだ。じぶんで着るため、あるいは配るため、ひとに送るため。これは伊丹十三の真似だ。

 

7/01

 未明、「永山則夫 封印された鑑定記録」読了。やはり死刑制度はまちがいであるとおもう。一旦眠った。時間は8時20分。もっと眠っていたいというのに最近はまったくだめだ。半分の状態で、本をひらく。速読の本、苫米地博士の英単語の本、「ピカソになりきった男」を読む。町田康「外道の潮騒」を再読しようとしたが断念。苫米地の「free経済学」はわたしには用がない。長篇、きのうおもいつた箇所を加筆する。これでほとんど完璧だ。「ピカソ──」を読んで絵が描きたくなる。でもいまは基礎ですらできそうにない。予定としては「ピカソ──」のあとにブコウスキーとグーディス、ボーマンを再読しながら、中篇の加筆について考えるつもりだ。夕暮れ、最後に残ったインスタントの味噌汁を啜り、飯はなくなった。あとは紅茶と緑茶と烏龍茶だけである。夜、「ピカソ──」読了。

 

7/02

 

 無駄な行動ばかりで残金1千円ちょっと。とりあえずガスと電気を払い、ネット屋へ。散文への反応を見る。大したことはない。ただ現代詩フォーラムのLisacoという女は愚鈍だ。為にする議論、目的化した議論、あるいは非難のための非難、いささかの合意形成も得ようとしないのであれば勝手にするがいい。消えちまえ。しかも岩城春雄を擁護している。わたしがどれだけ理不尽で執拗な攻撃を受けたことも知らないで、「死んでしまえ」といったわたしを非難する。なんの発展もない。議論の価値はない。ブンゴクではTというひとと、わずかに理解し合う。このぐらいでいい。絶賛もいらない、全否定もいらない、中庸がいい。食材を買って帰る。森先生より葉書。散文を好意的に書いてくれている。それに満足するのがいい。もう終わった。あたらしいメモ帖と安い万年筆を買う。アマゾンでジョーンズ「拳闘士の休息」を安く買う。ヤフオクで2千円のビンテージの革ベルトに入札。

 とにかく脳内にずっと雑草が生い茂っている状態だ。休めない。スイッチが入りっぱなしのまま、切れない。そわそわと考え、つぶやき、奇声を発する。いかれた虫のような生活がつづいている。わたしは不安だ。それに焦ってもいる。さらに孤立したなかで、自己完結した発想が、ひとりよがりのまま発露しようと背を伸ばし、殻をやぶりつづける。もう我慢ならない。あしたこそはカウンセリングを受けて、今後を考えること。少年時代の虐待による海馬の萎縮についていちど検査を受けたい。

 再度出かける。忘れたUSBを引き取る。ツタヤで返却。「ブラウン・バニー」はもう一回見たかった。ヴェンダースを借りようとおもったがやめた。あと千円しかない。崩してしまえばあっというまだ。それよりもあした、ひとりでわが誕生日を祝おう、呪おう。

 

7/03

   チアノーゼ色の菖蒲を剪りてわが誕生日なり 生るるは易し──塚本邦雄(「日本人霊歌」)

 

 ひさしぶりに8時間眠る。それでも物足りないくらい。為す術もなく34歳になった。中篇小説は一旦休み。短歌でもつくるか。朝、長篇にまたも手を入れる。旅役者の部分を加筆、終幕部から一行削除。これでやっと終わりか?

 現代詩フォーラム、おもった通り、Lisacoは感情的な議論の泥沼におれを引きずりこみたいらしい。論点すら整理されていない。だいたい《笑》なんか文末につけるやつがほんとうに笑っていた例しがない。青筋立ててヒステリーをあげるだけ、相手を非難するだけ。コメント欄は議論の場所ではない、非難の場でもない、やりとりをする場所でもない、スレッド掲示板でもない。だのに延々と捲し立てている。みっともないよなあ、憐れであるよなあ。なぜじぶんの意見を文章化しないのか。その能力がないからなのか。ブンゴクがおれに目配せをしているとさかんに主張しているが、そんなことはおれの知ったことじゃない。そんなことは運営と戦えばいいのであって、おれに拗ねたってしかたないだろう。まったくどこまでばかなのか。

 森忠明先生が仰っていたように《女を敵にまわすと生きていけない》というのは確かだ。だから今後、ああいった女が現れたら、平謝りをして済ますのが、いちばんだろう。すべてわっちがわるぅござんしたぁってなわけだ。なにが悲しくて、なにが愉しくて、絡むことしか能がない女の相手をしなければいけないんだ。おれはもうたくさんだ。閑人ではないし、ほかに考えること、やることがいっぱいなんだ。

 ひさしぶりにカウンセリング。いちど心理検査をするという辞をなんとかかんとか心理士から引き出す。次は17日17時。あしたは高校時代に好きだった子の誕生日。お元気ですか、キタムラさん。幸せでいて欲しい。

 映画はあきらめた。残った小銭で林檎黒酢とノンアルコール・ビールを買い、夕餉。鶏胸肉を蒸し、茹で卵とセロリ、大根サラダ、オリーブで一皿。夜風がいい。

 

7/04

 きょうは高校時代に好きだった子の誕生日。フリースクールから定時制へいったあの子。幸せになってて欲しい。

 CWはおれの「政治パンフレット」を笑っていた。ネット屋へ。ブログ記事の修正。現代詩フォーラム、Lisacoへ最后の返信(日記の一部より抜粋)。5chのスレッドにておれを非難する書き込みがひとつ。まったく手垢のついた非難、そして文末の《笑》。それで勝ったつもりか?──たしかにあんな場所にもう何年もかかわっているのは、病理といわれてもしかたないだろう。自己批判ができてないというのも確かだ。おれは詩そのものから手を引くしかない。さもなくば、とにかく当てずっぽうでも詩誌に送るべきだろう。特に「詩と思想」へだ。あそこなら認められることはむつかしくない。インターネット詩人どものなかで、じぶんを貶めてもしかたがない。だいたい詩人なんて人種は救いがたい。多くが不愉快かつ醜い。おれのそのひとりなのかとおもうとやりきれない。「文学極道」での7年のあいだ、できることはすべてやった。けれども有意義だったのはそのうち2年ぐらいだ。あとは腐れ縁でしかない。断ち切るしかない。いまは小説と短歌に打ち込むことだ。わざわざ、じぶんよりずっと稚拙な連中に合わせる必要はない。

 尼崎市役所へ。分籍届をだす。腐れ縁を断ち切るために。戸籍謄本を見る。おれは祖父母のなまえすら知らなかった。もちろん両親の出生地も。本籍地を現住所へ移した。親とも故郷である生野高原とも、もうオサラバだ。これでよし。帰りの電車のなかで買ったばかりの傘を忘れた。三宮に帰ってふたたびネット屋へ。藤原新也アメリカ」を買おうとおもうもやめる。bedheadのアルバムもやめる。サニーデイ・サービス「MUGEN」を再購入。ツタヤで4本の映画を借りる。「アメリカ、家族のいる風景」、「ランド・オブ・プラントリー」、「荒野のダッチワイフ」、「ロボコップ(リメイク版)」。オークションで落とした、ベルトの代金支払。丸山耳鼻科にいく時間がない。しかもあしたは木曜日と来た。急ぐわけではない。あとは食料。8時過ぎに帰って飯の支度。蒸鶏のサラダ、茹で卵、インスタント蜆汁。いつもより眠ったというのに、いつもよりも疲れ果て、眠い。23:14。さてみずからを慰めて眠ろう。

 

 

 

アメリカ日記 (Switch library)

アメリカ日記 (Switch library)

 
ピカソになりきった男

ピカソになりきった男

 
パパ・ユーアクレイジー (新潮文庫)

パパ・ユーアクレイジー (新潮文庫)

 
永山則夫 封印された鑑定記録 (講談社文庫)

永山則夫 封印された鑑定記録 (講談社文庫)

 
芥川賞の偏差値

芥川賞の偏差値

 
拳闘士の休息 (河出文庫 シ 7-1)

拳闘士の休息 (河出文庫 シ 7-1)

 
真説・外道の潮騒

真説・外道の潮騒

 

 

小説を書くうえでの悩み


 いまは「文學界」新人賞にむけて中篇を書いている。今回は伊丹十三の「「大病人」日記」を参考にして、映画シナリオの書き方を流用している。三幕+序章という形式。シノプシスを書き、本文にまず場所を書き、それから科白だけを入れる。そのあと簡単でみじかい地の文を書き入れ、展開を調整しながら、加えるべきものを考える。
 ところが風景描写がなかなかうまくいかない。地理についてぼやかしてあるというのもあるが、わたしは草木の種類も、建築様式の知識もなかったのだ。これではまずいときょうは図書館でそれらしい本を探した。それからロード・ノヴェルという性質を高めるために旅行記の類いを買うことにした。そこで藤原新也の「アメリカ日記」などを購入。そして種本としてサマラキスの「きず」を買い、参考として映画「ブラウン・バニー」と「審判」のソフトを借りて来たのだった。

 

 ○小説「犬を裁く夜(仮題)」

  ふたりの演奏家が巡業している。しかし理不尽な出来事に遭いつづけ、最期には消息を断つ。

 ○課題

  出来事の前兆を感じさせないこと、袋小路を利用しつくすこと、主人公たちの履歴、人物造形を練り直すこと。


 わたしはこの作品によって中篇小説の技術と場面描写の技術、風刺の手法を確立したいとおもっていまる。だれがふたりを現実から遠ざけ、ブラックボックスへ閉じ込めるのか、そしてかれらはそこから現世に復帰できるのか。まだまだわたしはふたりについてよく知らない。あと3ヶ月で70枚書かねばならない。現在30枚。わたしはどこへいくのか?

 

 

「大病人」日記

「大病人」日記

 

 

きず (創元推理文庫)

きず (創元推理文庫)

 

 

学歴というもの──マミー石田を再考する

 


  そういう享楽的な諸君の姿を見ていると胸糞が悪くなります!──セリーヌ「死体派」


 かつてマミー石田という男がネット上にいた。おもに「高卒者」を嘲笑するためにアジビラまがいの投稿を繰り返していた。かれには追従者もあったし、かれのサイトには共犯者もいた。かれらはどこにいったのか。当時わたしは夜学の高校生で、じぶんが高卒者になってしまうことをひどく怯れた。もちろんかれらの影響によってだ。わたしは担任に勧められるまま、無名大学を受験した。3万円の受験料。なまえさえ書けば受かるという噂。けれどもわたしは落ち、いまではその大学もなくなってしまっている。石田は自称MITだったが、やがて東京大学であることが露見した。かれはひどくうろたえたらしい。かれのサイトには高卒者を嘲笑する小咄などもあった。たしかこうだ、──2台の自動車事故が起きる。警官がそれぞれの学歴を訊く。いっぽうは大卒、もういっぽうは高卒。警官は高卒者のみを勾留した。──まったくおもしろくはない。ただただ書き手の復讐心が稚拙に表現されているだけである。いやしくも高学歴を盾にユーモアをやるのであれば、最低でもモンティ・パイソンの作品は知っておくべきだろう。
 かれの主張は要約すれば「いまどき勉強のできないものさえFラン大学に通っているというのに、高校しかでていないものは頭に欠陥があるか、障碍があるとしかいえない」というものだった。ひとびとの俗物根性を煽るにはもってこいの主張である。ところが、ここにはふたつの疑問がある。大量生産された大卒という資格がいったいなにをもたらしたか、ということ。経済的な背景や発達障碍などの問題が見過ごされていることだ。かれはひどく不公平な見地に立ってものを見ている。そして知性と向上心といったものを学歴というひとつの基準でしか考えておらず、けっきょくはじぶんの気に喰わないものをいかに嘲弄するかが、主張の目的になっている。
 そしていま、はっきりとおもうのは知性や教養は学歴とは関係ないということだ。かれが学資と労力をかけ、東大に入ったのはたしからしいが、かれは品のない、そしてこじつけでしかない妄言を垂れ流すことしか、喜びがないのだ。おそらくかれの発言をいちばん真に受けたのは、かれの非難する高卒者のひとびとであろう。かれと同等か、それ以上の人間の共感を呼んだとはおもえない。かれとその共犯者が教養やユーモアを持たず、ひたすら下品な笑いをしていたのは、けっきょく日本の教育制度が、暗記を重視し、考えさせる、疑うということを教えて来なかったことにあるのではないか。だからこそ最高学府という場所で思考停止に陥り、そのさきの展望が皆無という情況を産んだのではないか。しかもこれはかれのようなネットミームの特殊例ではない。実際に大学以後、いっさい学ばずに老いていくだけの人間は多いだろう。社会にでてから学ぶということが、この国ではあまりに不寛容にしか受け止められていない。更新されない知識は古びていくだけなのである。かれの言動にショックを受けたものとしてわたしは書いている。ルサンチマンを学歴によって正当化することはできない。「わるいのはおれじゃない!」と喚いたところで情況はかわらない。当然のことである。かれのサイトには掲示板もあって随分意見を戦わせたらしいが、けっきょく自己の価値観の絶対化と、他人への侮蔑しか目的がなかった。相手が大卒であっても、つねに東大(文系は除外)やMIT未満は人間として値しないといったふうな応えだった。まったく不毛の一語に尽きるというわけだった。
 そしていま匿名掲示板で流行ってる言説は「高卒で地方公務員になったほうがへたな大学にいくよりも得」というものである。
 石田の主張から約16年ほど経って登場したのがこれだ。わたしはもうすでに公務員になる年齢を過ぎてしまってるのでどうしようもないが、理解はできる。ここには学歴で満足することなく、そのさきの人生を射程に入れているからだ。スノビズムにはちがいないとはいえだ。面壁九年といえばいいのか、ものを書き、読みつづけるなかでようやく本質がわずかに見えて来たようにおもう。石田がどう就職し、自己の不平不満や憎悪をいかに解決したか、しなかったのか、そんなことは想像する気にもなれない。どうだっていいことだ。しかし目的と手段をとりちがえた学歴論や、学習法のベストセラーがいかに多いか、そしてあいかわらず教育は一辺倒で、学びの多様性なんかどこにもない。国語は「作者の心情」をいい、英語は学習指導要領と学閥のために歪められ、体育は危険行為を強制し、数学なんかはわたしにはさっぱりだ。わたしはいずれ学習障碍を克服するために学習をはじめるだろう。ただしじぶんに合った学習法を試行錯誤しながらである。これはわたしの人生だ、あなたのではない。ひとを類型でしか認識できない想像力のなさ、人生の流れを手前勝手に定義づけするおろかさ、常識という幻想に囚われた果ての愚行、──もうやめようじゃないか、そんな相互監視な人生は。少なくともわたしは降りる、石田やその子孫たちを振り切って。かれをおもうとき、わたしは祖母殺しの朝倉泉少年を連想してしまう。じぶんの環境や、自身の至らなさを他者に着せることで、現実と理想とのあいだを埋めようとして死んだ少年の姿にどうにもかれがダブって仕方がないのだ。学歴がない人生は不幸だ、だが学歴を求める人生のほうが、もっと不幸である、という方程式も成立するのではないかとおもえて来てならないのである。かれには学力があった。だが知性はなかった。ユーモアも、みずからの対義も、そして客観性も、肉体的交歓も、半ダースほどのちっぽけな詩学も。

 
 最後に余談をふたつ、映画監督の黒木和雄は脚本を書いてきた松田優作にむかって「高卒ごときに脚本が書けるか!」と罵倒したという。これは伝聞に過ぎない。しかしほんとうならばかれが晩年に監督した原爆云々の、反戦云々の人間ドラマなどぺらぺらのお飾りでしかなく、権威に笠を着た、俗物根性の発露でしかないのではないか。加えて松田は伊丹十三をきらってた。なんだか同族嫌悪のような気がする。「魚眼レンズのように端っこの人物がぼやけてる」と松田は伊丹映画「お葬式」についていうが、「人間の証明」のような人物説明(描写ではない)ありきの作や、「蘇る金狼」のように動機不在のアクションありきの作に出演するところが、おれにはよくわからない。「陽炎座」や「家族ゲーム」は比類なき傑作だったが。
 もうひとつ、むかしに「真剣10代しゃべり場」という番組があった。あれもまた俗物根性を刺激するための装置であった。議題はいつも「10代は~すべき!」だ。いい加減ほっておいれてくれ、わたしの人生はわたしが決めるんだ、外野どもよ。かれらの人間性?──おれの人間性?──まあ、いずれにせよ、どうだっていいことだ。

 

追記:

この文章を書いてからすっかりじぶんの人生と折り合いがついてしまった。学歴なんておれにはいらねえ。どうだっていい。

学歴フィルター (小学館新書)

学歴フィルター (小学館新書)

 
非学歴エリート

非学歴エリート

 
学歴分断社会 (ちくま新書)

学歴分断社会 (ちくま新書)

 
セリーヌの作品〈第11巻〉死体派

セリーヌの作品〈第11巻〉死体派

 
高学歴モンスター: 一流大学卒の迷惑な人たち (小学館新書)

高学歴モンスター: 一流大学卒の迷惑な人たち (小学館新書)