みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

恋がしたい──ぞく・おれというペスト

 

  ***

 

 ジョン・ルーリーはおれを赦してくれたようだった。だったらどうだって?──もういい。駄べりの好きな、口の巧いひとびとがなんとも目障りになり、おれはまたひとつのゲームから降りることになった。もちろん多くのものと袂別しなければならない。どこかしら通底するところのあってつながっていたひととも。おれは疲れた、憑かれている。潔く去るしかない。
 日曜日、職場のオーナーである未亡人からの誘いで、横尾忠則現代美術館へいくはずも携帯電話がない。見つからない。おもいだすかぎり、先週の水曜日に触ったのを最后にして行方知れずだ。室を掻きまわし、問い合わせの電話を入れるもつながらず、店に出向いた。曰く利用停止を申請した電話をGPSによって探すことはできない、という答えだった。おれは入院と療養中の滞納分を払えなかった。ふた月分である。分割はできなかった。それでというわけで金が貯まるまで待ってもらえるようにしたのだが、こうなってしまった。おれは金については要注意人物で、すでにリストに載せられているから、新しい契約をほかで結ぶこともできない。ほんとうのところ、携帯電話なんざ好きではない。それでも連絡に差し障りがあるというのは居心地がわるかった。そもそも水曜日、おれはなにをやっていたのか。昼に出かけてから、いちど帰って映画を観、ふたたび出かけた。牡蠣丼を喰い、そのあまりの不味さに気分がわるくなって、どっかの便所でぜんぶ吐いた。それからの記憶がない。
 それから今週の水曜日。救急外来の世話になったが、肝心な問題はわからないまま。頓服をもらって帰った。そしてそいつが効かないこと、みずからの死が近づいてるのを感じとった。ひどい寝起きだ。おれたちのそれぞれの軍隊をなだめながら、いまはこいつを書いている。もしかしたら、また入院になるやも知れない。望みはある、ただ躰がまったくついてこない。死ぬのはかまわない。ただ痛みの極みのなかで、みずからの意思とはかかわりなく死にたくはない。それならイグジット・バッグをかぶってバルーン・タイムの栓をひらいたほうがずっといい。バルーン・タイムならすでに買ってある。命を粗末するひとはきらいだって?──しかしきみのその科白と、きみの行動はまったくもって一致してないではないか。おれに死んで欲しいのか、欲しくないのかすら不明じゃないか。世界が砂に埋まれるのか、アイス・ナインがすべての水を氷に変えてしまうのかはわからない。ただいえるのは、ものごとはすべて異口同音で、おなじ現象の反復と増減でしかないということだ。いまさらジタバタしたって、古今和歌の時代から、まったくちがうおもいを吐きだすのだってできやしないんだぜ。せいぜいわるくない女を抱いて、わるくない文化に触れるくらいが関の山である。
 木曜日にもおなじ病院へいった。それから近所の内科へ。いちばん強い鎮痛剤を二種類だ。ともかく痛みで寝起きもままならならなくなっていた。左半身がどうしようもなく痛む。鳩尾、脇腹、下腹部、背中と、動くと動かざるを問わずにである。おれは参ってしまった。金欠のときほど、わるいことは起きる。まさしく弱りめに祟りめ。しかたなくおれは内容証明をつくって、未払いの賃金について問い合わせた。相手のことは以前、短篇のなかでも書いていて、大阪の門真にその寮がある。うまくいけば、3万ちかくはかたいはずだ。悪足掻きとはわかっていても、なにかをせずにはいられないのだ。それが愚かものの証しである。

 

   ***

 

 日曜日。馬はだめだった。馬というよりもおれ自身がだめだった。電話は見つかった。ちょうど機種変更の話をしているところへ発見の報せと来た。もし携帯電話がなければ、酒場への本採用も消えてしまうところだった。おれは滞納金をオーナーに借りることにして室に帰った。
 月曜日。オーナーはおれの携帯電話の支払いのために金を貸してくれ、おまけに家電のためにボーナスを前払いしてくれるという。前者はともかく後者には少し怖気づいてしまった。おれはそこまでのやろうじゃないというわけだ。それでもともかく話をまとめた。おれは「ひとに誉められたい」というだけの、ちっぽけで、からっぽな人間でしかないからだ。シオランはそういった欲望を《これほど恥ずかしい弱さを公然とさらけだすよりは、冒瀆のありたっけを犯した方がずっと名誉なことであるから》と、だれもそいつを打ち明けない理由を語っている。そこいらの人間とおなじくおれだってなんにもわかっちゃいないくそばかだとしても、おれはそういった弱さや疚しさを正直に語りたい。ほかの連中が涼しい顔を決めていれば猶のことである。おれは生来から多数派の人生を嫌悪していたし、事実それとはちがった人生を送っている。おかしなやつとおもわれるのは癪だが、それはしかたがない。それこそおれが望んでいたことだから。それでも多くの期待は失望に、好意は悪意に成り果てたのが、この三十余年だった。絶えまなく、傷つけて来し、傷ついて来た。多くのひとがおれから去っていった。それでも残されたもののために書いている。
 火曜日。午前7時。きのうになってようやく詩集に添付する絵葉書を印刷した。ぜんぶで、4種8枚。まあ、こんなもんだろう。イラストレーションの報酬も入るし、まあまあな月末だ。おれには確かな才能がある。ただ、その行使がうまくない。いつも躰とおもいが一致しない。傷は完治してない。肝臓の数値があがってる。それでも、きっと来年はマリブ・ビーチあたりで大笑いしていることだろう。若死にしたいという欲望はある。負けの美学ってやつなのかはわからない。死んでしまいたいというおもいはある。だが、それはいま行使すべきではない。おれは恋がしたい。最后の可能性に賭けて、最愛ってものに出逢いたい。この齢いになって、ほんとうにひとを好きになるのはむつかしい。「人生で恋ができるのは3度まで」なんてことを伊丹十三が書いていた。12歳、16歳、23歳──とっくに3度を過ぎていた。よっぽど頻繁に会わないかぎり、他者に対してつよいおもいを抱けない。おれはすぐにひとのなまえだって忘れてしまい、度々非礼をやらかしてしまう。どんなに好みの女性をまえにしたところで、熱くなれなくなってしまっている。それでも恋がしたい。おれはふたりのひとをおもい浮かべ、かの女たちの顔や、声、交わした会話を反芻し、熱い茶を淹れた。──そうとも、恋がしたい。わるい記憶をすべて塗り替え、呼吸法を新しく学習するんだ、ペスト(迷惑な人物)なおれとはオサラバを決める。近頃、ふたりの女性が気になっている。ただ好きといえるほどじゃない。
 バーテンダーの職は手段であって目的ではない。賃仕事は、しょせん他人のための、他人がつくった、他人の仕事だ。おれはおれ自身の仕事を確かなものにしたい。そのために金がいるからやっているだけだ。用済みになれば、やめてしまえばいい。三十を過ぎて、充たされず、なにもかもが夢のままで、ひとに使われるなんざおぞましいかぎりだ。いつまでも人生を切り売りして暮らすわけにはいかない。そんな暇はない。おれはなにひとつ諦めていない。できることをぜんぶやりたい。
 水曜日。つくづくいまの職場でいやなのは、業務とは直接関係ない物事をとやかくいわれることだ。その夜、おれは本を持って来ていた。筋力トレーニングについての指南書なのだが、それをオーナーの未亡人が見つけ、「あたしもHくんも自己啓発本なんかきらいなんだよ、そんなもん読んだ時点で終わってるッ!」──そういった。いったいなにが終わるのか? 人生? 世界? 業務スーパーの営業時間?──かつておれに「おまえの人生、終わってる」と放言した醜女の同級生がいた。休みの時間、かの女はいきなりふり返ってそういった。なんのために?──名塩グリーンハイツにかの女の実家があるから、もしかしたら理由がわかるかも知れない。どうだっていい。
 ともかくオーナーの口ぶりが不愉快だった。それにH氏のふるまいもいけ好かなかった。かれはいつもじぶんがなにがきらいかを繰り返し、捲し立てている。SNSをやる人間、電子メールを送る人間、バッド・エンドの映画、藝術気取りの映画、日本映画、あれをやる人間、それを好む人間、だれそれ、そのほか。笑顔でそういったざれごとを曰う。女客相手には「恋人なんかいらない」とか「血筋を絶やしてやる」とか、ひたすら自身の孤独について明るくいっているが、そういった言辞が反動的なものでしかないのはあきらかだった。むきだしの嫌悪や諦観は、匿された恐れと不安でしかない。それはおれ自身、憶えがあった。かれが明るく話せば話すほど、おれは白々しく、苦いものを感じる。好きだ、きらいだとおなじ話を1日に幾度も聞かされているうちに、だんだんと、かれ、かの女の虚栄が透けて見えてしまった。他人の人生観や価値観が、そこから生まれる指摘が、なんの役にも立たないのはよく知っている。真に受けて、失敗したところでだれも責任なんか取りはしない。ばからしい。口が巧く、立場がいいからといって、おれの人生や価値観にまで手を出さないくれ。そいつは職務とはなんのかかわりもない。わたしは宣伝のためにSNSに登録し、電子メールを遠方のひとびとと交わし、救いのない結末を観ることもある。藝術気取りの日本映画も含めてだ。ひとに雇われるということは、こういったざれごとを捌く必要がどうしてもでてくる。なにもかも金のためだ。おれは微笑みを浮かべて、毒を浴びるしかあるまい。
 きょうは木曜日だ。ようやく詩集を発送できる。売れたのはたった3冊だ。仕方ない、なにせ3年もまえのやつの新装版だ。前回みたいに40部も売れるはずもない。それでもこの詩集には大きな意味があったし、いまも存りつづける。図書コード申請できてよかったとおれはおもっている。夏頃には個展もやる。画廊ではなく無料のアート・スペースを借りることにした。長篇小説はしばらくお預けだ。ひさしぶりにおれは絵と写真を学びたい。画集も限定で販売し、版画にも挑みたい。とにかく新しい経験が、まったく新しい関係性が必要だ。

 

   ***

 

 そういえば未明、黒人街でちょっとした騒ぎがあった。どうやらジャイナ教のモスクまえで組織の三下が揉めごとをやらかし、それに怒ったトルコ系神戸人が襲撃を仕掛けて逃走、アフリカ系神戸人たちに助けを求めたところ、黒人街にはすでに組織の連中が張っていて、襲撃犯の引き渡しを要求、それを拒絶した二者のあいだで戦いが起き、双方、18人が負傷ということらしい。人間の憎悪はとどまるところを知らない。いまさらどんなものに神を見出そうとも、われわれは救われない。そんなことを訓(おし)えられる。そのいっぽう中華系神戸人はどちらにつけば利益になるか、算盤を弾いているさなかだ。低空飛行する警察車輛の群れ、おれはそいつを眺めながらセンター街まで歩き、地下のイタリア料理屋で、アボガードと生ハムのリングイネを喰い、シチリア系神戸人の女の子たちを眺めた。かの女たちは美しかったが、ナンパでもしようものならマフィア出身の父親か親戚に半殺しは免れまい。おれにできることはなにもなかった。
   おまえはなにを見てるんだ?
 料理人のひとりがカウンターから身を乗りだしてきた。しまった、見つかった。
  なにも見ちゃいないさ。しいていえば天然の美だね。
   ふざけるな、すけべやろう。
   おまえの噂は有名だ、いつだってやらしい眼つきで女を見る。
   じぶんの右手とヤッてろよ。
  生憎、おれは左利きだ。
 料理人は怒り顔で電話に左手を伸ばし、なにごとかを喚いた。いっぽんめの右手でナイフを、もうひとつの右手で電針銃を握っている。おれが逃げだそうと尻を動かした一瞬、さっきまで知らないふりを決めていた女の子のひとりが、おれの腕を掴む。
    いい加減にやめて、ルイーノ!
   なにをいってるんだ、コロンバ!
    とにかくやめるのよ、使用人!
   きみの父上にいいつけてやるぞ!
    薄汚い、男根主義者の卑怯者!
 かの女は、コロンバは、おれをそとへ連れだした。レザー製の、黒いレギンスがたまらねえ。おれたちは黙ったまま地上へあがり、連絡先を交換した。これからなにが起るのか、まったく読めない。別れ際に軽い抱擁と口づけをし、おれはしばらくかの女のうしろ姿に見惚れていた。33歳をまえにしてようやく人生がまわりだした。恋の終列車に乗って、いったいどこへむかうのか。
 現在、午前11時58分。これでお終い。おれはみずから書き、やがてみずから滅びる。あたりまえのことだ。それでも書かずにはいられない。自滅しか待つものがないとしても、もはやそれをやめることはできないだろう。失墜しつづけることの快楽と愉悦。勝ちめのないのをわかっていても、おれは書く。これから郵便局への小旅行だ。書かずにいられる人生ならもっと幸せだったのもわかる。でも、いまさら嘆いたところでなにも変わりはしない。愉しむしかない。きのう注文した下着がもう届いた。ブロス──ではなく、安いグンゼのが。それを穿いて丘を降ろう。インターネットの自称詩人たち、紙媒体の自称詩人たち、空疎な受賞歴、お偉方、他人の人生におかまを掘るやつら、おれのような男にやさしくしてくれる女性たち、おれやおれの作品に興味を示してくれている女性たち、かつて片思いを抱いた女性たち、青い木立ち、非加熱の壜ビール、サニーデイ・サービス──無意味(ナンセンス)のちからを信じたいんだ。──わかるかい?

 

   ***

 

 おれは無駄口が多い。もうずっと本を読んでない。絵も描いてない。写真だって。なにもだ。こんなざれごとを書き撲ったところで、なんになるというのか。

 

 

おれというペスト──蛮族の雄叫び

 

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   ***

 

 おとついは火曜日で可燃ごみの日、もちろんそいつも忘れ、いっぱいになった袋が玄関に転がってる。医者にいきそびれ、痛みと不安のなか、太陽は元気だ。寒さも全裸でなれば気にすることもない。わたしは老い耄れてしまうばかりだ。ようやくきのうになって詩集とフリーマガジンを発注した。前者については、出版コードこそ記載したが、バーコードについては不安があったから、いちど業者にでもまかせてみるしかない。それでもって絵葉書のこと。まずは絵のサンプルファイルをふたたびつくらなければならなかった。去年の3月、錯乱してたわたしはファイルを高架下においてきてしまった。だれかがおれを殺しに来る。──そんなふうにいかれてた。昼頃になって1軒のみ、開いてるのを見つけ、高尿血酸症──つまり痛風の薬を処方してもらった。
 術後の経過は芳しくない。それでも金のために働く。午前零時、終わって室に帰れば、もはや声もでない。金のほかに獲るものがないわけじゃない。けれどあまりにも躰がやわになってた。抜糸も忘れたまんまで、どおりで痛いわけだった。どうにか近場に外科をみつけた。開くのは午后4時である。どうにもこうにも朝がひどい。おもに左の脇腹や背中が痛む。術後の生活がわるいらしい。焦って仕事に戻ってしまったうえに、薬も満足に呑んじゃなかった。またもや自業自得ってわけだ。
 きょうは金曜日で可燃ごみの日、もちろんそいつも忘れ、回収車が去ったあと、いっぱいになった袋だけを通りへ棄てた。棄てるはずだった段ボールも木板も室にそのままだ。躰の痛みはあいかわらずひどい。朝はなにもかもだめだ。金はない。水曜日に使い果たしてしまった。なに消えたかは知らない。大きな買いものもしないまま1万2千がなくなった。またしても酔ってた。絵は描いてない、小説もだ。他人の発言の洪水にやられてる。そいつを掻き分けて、伝える意思が弱すぎるのだ。本だってひらいてない。遠い狼煙や醜聞の数多、どうだっていい過古のひとびと、同級生ども、教職員ども、親というならずもの。かれらかの女らの行為や発言の数々をいまでも懐いだす。だしたくないときにいつもだ。終わった羞恥と屈辱の多重露光と来たもんだ、くそ! おれがなにをしたってんだ!──撲られ、嗤われ、盗られ、辱められ、そして見棄てられてしまった。わたしだけではなく、多くの醜いひとびとがだ。
 できることはあるのだろうか。ひとまず考えてみよう。きょうは印刷屋から本が納入された。これもまたひどい。表紙の裁断にまちがいがある。「足し塗りアリ」の設定がよくなかったか。やってしまった。これでは売りものにはならない。いっぽうでM氏からの依頼は突貫工事で完成だ。「火星移住希望者」を募るためのポスター・アートらしい。わたしは宇宙にも空想科学にもうとかった。それでもなんか、というわけだ4千円也。もっと仕事がいる、もっと共犯者がいる。
 新しい詩の投稿サイトは、すぐに飽きてしまった。顔の見えないやりとり、そのものに嫌気が差してしまってた。ただ文字が表示されてるだけだ。なにも起らない、だれも死なない、だれも蘇らない。わたしは三つの作品を落として終わりにした。もうたくさんだ。
 投稿サイトのなにがいやかって、けっきょくは古い俗物根性を塗り替えただけでしかないからだ。中身はおなじだ。高等教育によって文學だの、藝術だのに覚醒めましたって手合いの群れ。そんでもってそこの主人「天才詩人」は、大麻とコカインと女と海外生活を謳歌してるだけで作品といえるものはない。たわごとと御為ごかしだ。確信のない、曖昧なオダをあげ、拳をふりあげてる。話しがしたいと突起人にいわれたが、やつはわたしの態度が気に入らないらしく、それはわたしもおなじだった。
 常に自身を上位に置きながら、相手を小馬鹿にしていた「天才詩人」。けっきょく対話は破談になった。《のんだくれは相手しない》? けっこう、わたしもヤク中で、海外生活の果てに自己陶酔しつづけてる人物は御免だ。たぶんわたしは踊れないやつなんだろう。ステップが踏めない。少なくともみなが好むあの音では。ただ藝術とか、wired などと着飾ったって、人生以上のものなんか書けやしない。
 そしてまたも批評だ。ネット詩の批評のなにがいやかって、それは相手がこちらの使った用語や文脈について厳格な定義を求めてくること。わたしは本職の批評家ではないし、詩は学校教育とちがって、正しい設問も正しい答えも存在しないのにけっきょく互いの優劣を云々するための徒労でしかない。人生の浪費。なにもかもがいたちごっこだ。
 このまえ、コンクリート・ポエムをめぐって悶着になった、矢田和啓という若い男は、kindieに5冊もだしてる。それも短じかいあいだにだ。若いってのはいい。来歴もふるってて《後期入試のため静岡に行ったときに東日本大震災を経験する》、そう書いてある。ほんとうに書いてある。《現在静岡大学農学部環境森林科学科森林生物科学研究室在学中》。経歴はといえば、ネットサイトでの受賞、詩誌での入撰、さらには写真作品掲載というのまであった。写真作品?──そういったものがなんの役に立つのかはわからない。わからないままでいい。わかりたくなかった。だからいまでは、ネット詩人という人種には用心してる。そうならないように気をつけてる。むつかしくはないはずだ。手を引っ込めて、扉を閉じさえすればいい。
 かれら、かの女からすれば、鼻つまみものもいいところだ。わたしはけっきょく過古への復讐をやってるだけだった──それはまえにもいったろ!──とんでもない羞しらずの見世物。きょうは喰うものもなく、とてもじゃない、書けない。詩なんかいっそやめちまえばいいのだ。それにまつわるもろもろこそ足枷みたいになっちまってる。
 そしてもはや土曜日の未明。わたしは過古の記事を手直しした。加筆し、助詞の重複を直したつもりが、まちがいをふやしただけだった。文章の面でも、倫理の面に於いても。ランボーが「幸福」で書いたみたいに《いくら喋ったってなんになろう/言葉なんて/逃げて吹っ飛ぶだけのことだ》。

 

   ***

 

 いつかだったか、酔ったわたしは電話魔になってひとりの女性と話した。おなじ齢だというのに、最后までわたしは敬語。かの女は丁寧に話を聴いてくれた。はるか南国の女ボスといったところの、落ち着きのある喋りだった。映像の仕事をしてるということのほか、なにも知らない。29歳のときにSNSで話し、誤植の多い詩集を送った。いっとき、わたしはかの女へひどい迷惑をかけたうえに、逆恨みさえしてしまった。それもまたあのひとのことでだ。まえにもいったようにわたしはひどい火傷で、気が狂ってた。自身の醜さにのたうちまわってた。
 わたしは自身の不始末について詫びを入れ、これまで「謝り方がわからなかった」といった。実際、何年も対話方法を試行錯誤しながら、けっきょくは失墜し、さまざまなところに毒を残してしまっていた。まさしくわたしはペストだった。いまだって、わるいおもいに絡められやすい。じぶんでじぶんを承認できていないのだろう。場当たりで、破滅へ突っ込むみたいなマネをやってしまう。
 臆病な少年みたいな喋りで語って電話を切った。かの女から「またね」といわれて、またしても戸惑った。決まりきった挨拶や社交辞令にさえ、考えてしまう自身が果てしなく滑稽だった。わがうちなる神を鎮めようと、チェイサーを呑んだ。
 言語行為に染まったことがわるいのか、いいのかはわからない。表現活動に夢中になったり、ひとびとの、言葉にはしない態度や考えに怒ったり、そのときそのとき、ふりまわされる。相も変わらず、伝わる、伝わらないということに過敏でいるし、臆病なほどに第一声が遅く、短い。わたしのことを欺瞞だというひとも多いだろう。そうおもわれても仕方あるまい。そいつは事実だからだ。
 現在午后4時45分。もう仕事の時間になってしまった。きょうの昼はジョン・ルーリーtwitterからブロックされた。かれの使っている画材について尋ねたのだけれど、そのあとがよくなかった。かれに《blood》と答えられたわたしはからかわれているとおもい、冗談めかしたことを書いた。するとすぐに拒絶だ。有名人にからむ小穢い東洋人、そいつがわたしだ。なんと素晴らしい世界交流!──謝罪のために別のアカウントまでつくって発言したものの、《70%は水彩、あと油彩、そしていくらかのインク》という返信が来たくらいで、赦してはくれないかも知れない。作品よりも作者のほうがずっとおぞましくて、鼻持ちがならないといった作家がいたっけ。──仰る通りです。
 そもそもSNSでいいことなんかありゃしないじゃないか。この6年、まさに災禍を招き果てたというわけだ。身のほど知らずもいいところ。もうアカウントは消してかまわない。自身を宣伝するという行為も、見ず知らずのだれかと交流するという行為にも「だからどうした? それがなんになる?」としかいいようがない。わたしに適したいちばんのやり方は、たったひとりで読んで書く、というものであって、受けを狙って蜻蛉返りをするのではない。またしても流れるのみだ。
 わたしは、新しくはないが別の認識に乗って、山麓道路をくだり、やがて職場にたどり着くというわけだ。近頃、さまざまなことを懐い、書きて来て、出てきた結論がそれだ。敵も味方もない、かつてに戻れる日は来るのだろうかとおもいながら、わたしは短距離飛行の無人バスへと乗り込んだ。空調がよく効いている。上着を脱ぐ必要もなかった。坐席には、それぞれ感知器があって、それがあるものを温め、あるものを冷やしているからだ。加納町交差点の上空はあいかわらず公僕どもがいた。密集する犯罪(アウト)組織(フィツト)の動向を諜っていはいたが、いつもいつも三文芝居みたいな佇まいで、なにも起らずに終日監視がつづいている。わたしはフラワー通りの終点、ネオ・フィネスト三ノ宮の屋上から、老いた女とともに地上へ降りて、それぞれの方角へと去った。あの老女にも、かつて片思いというものがあったのだ。わたしは通称・北の光(ノーチツヒ)(独逸語らしかった)と呼ばれる闇市場で、大勢の黒人たちと夕食を喰い、またしても見習いのバーテンへともどった。
 じゃあ、──またね。

 

   ***

 

馬は美し、ひとは醜し

korekara-doh-suruno? / [2012]

 

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   ***

 

 このまえは自身の来歴やおもいについて料理のレピシを交えながら語ってみた。きょうはそのつづきを書くとしよう。どこにも求められてない文章を書くというわけだ。 それでもこいつは長篇小説のための訓練みたいなものだと考えている。使えるものはなんだって使うことさ。
 わたし自身はシオランの追従者ではないが、かれの人間ぎらいと自殺の肯定、多数派への共犯を拒絶するといったおもいには諸手を挙げてやる。さっさと退場したくてならない。
 先週は、安田朗という、中央大卒で「自由市民党」党首とひと悶着。きっかけは文章の校正依頼で、わたしの考える手法とかれのとではちがっていたということ。そしてかれが救いがたい莫迦であったことだ。在宅勤務で「出版及び電子書籍のための文藝作品編輯」と掲げたはずが、政治パンフレットの校閲をするはめになってしまった。
 「中卒! きちがい! 詐欺師! ラーメン屋にでもいって修行しろ! 関西の弁護士に訴える!」というありがたきメッセージを頂いたので、お返しに「学歴差別に精神障碍者差別、職業差別──いったいどんな弁護士に依頼する気だ?」と返信をさしあげた。さらに「中央大学惹句は行動する知性だそうだが、あんたはまるで行動する反知性だね」とも書き送った。たかが校閲をめぐってくその投げ合いなんざごめんだぜ、ベイビーってなわけだ。
 収入を求めて火あぶりに処されている。できれば、眼鏡のレンズを交換して──またしても視力がさがった──来月のあたまには映画「シベールの日曜日」をかの女と見に行くぜ。もちろん、かの女とは、おれの左手のことだ!

 

   ***

 

 「苦渋の三段論法」でシオランが書いてるように《三十代になったら、ひとはもはや世間の事件に興味をもつべきはない。天文学者が巷の噂話に興味をもつべきないように》と書いてある。然り。まさに正鵠を獲てる。どれほどの人間が好事家になることと教養人なることを履き違え、自身を苛んでいるかだ。
 だからはわたしはニュースなど読まない。人生の浪費に過ぎない。批評だってそうだ。わたしとしてはもう批評なんか懲り懲りだ。素人同士でがやがやと褒めたり、腐したり、それがなんになるっていうんだ? 一切やるなとはいわない、だがいつもやるものではないのは知ってる。わたしを見てみれば納得がいくだろう。対人感覚が麻痺し、世の光りへとでていくのが億劫になってしまっただけだ。批評なんか才能ないものに任せればいい。自作について能弁な書き手には警戒したほうがいい。自身がそうなってしまわないためにも、語りにはつづまりがいるんだ。
 ネットワーク上での表現に充足してしまう危険についてはさんざ自身で体験してきたので、いまさらそれをひとに伝える意味があるのかはわからない。ひとや世代によってはネット上での自己完結こそ至高なひともいるし、そんな場所でおれが発言する、助言するのは滑稽か否か。ともかくわたしにとってネットは余技、紙は本番だ。
 インターネットでは新しい投稿サイトができあがった。わたしは気に入らなかったが、ふたりの人物に恩義があって投稿するはめになった。久しぶりに新しく「ブロスの下着」という詩を書き、投げ入れた。澤あづさ氏は、本人のいうところ「酷評」をされていたが、なんのことはない。「昔はよかった」ということだ。一介の作家志望としては6年もまえの作品を絶賛されてもあまり感じるところがない。それにかの女が仰るほどに「小説としては問題がありすぎるほど詩的」とか「でたらめなくらい大胆に飛躍」していたとはおもえない。素直にじぶんの好きな世界を書いただけといまでもおもっている。過古に喜ばれた作品の焼き直しなんかできない。たとえ不評であれ、あたらしくいたい。


    ブロスの下着

 

  だれかおれを連れ去って欲しい
  たとえそのだれかが
  きみであっても
  それはとても素敵なことで
  長い孤立からきっと
  救ってくれる 

  人生に勝ちめなんかないのは知ってるとも
  まちがいがあまりに多く
  ただしいものがあまりに少なくとも
  語りかけてみたい
  すべてを

  女を知らないやつがこんなものを書いてるんだ
  嗤いたければそうするがいいさ 
  平日のマーケットで
  金色の星を浴み 
  ブラームスの二番を聴きながら
  ブロスの下着を撰びたい

  そしてアパートに帰って
  シュトラウスドン・キホーテをかけながら
  かの女がくそをしたあとの、
  便所の水のながれをずっと聴いてたい
  ずっと聴いてたいんだ
  それはきっと
  美しいにちがいない

 

 けっきょくわたしだって過古の賞賛が忘れられないのだ。改稿してコメント欄に投げた。反応はなかった。だれも見向きもしやしない。べつのサイトへ投稿では、「初稿で涙を流した」という女性から、不満のメッセージが来た。「初稿をもっと大事にしてください」といわれた。そうとも。いっぽうでは救いがたいコメントもあった。ひとを虚仮したいというおもいが伝わって来る。
 《もう10年くらい前、ハリウッドのユースホステルでフロントの仕事を任されていたことがあるんですが、春休みシーズンで日本人の女子大生がたくさん宿泊しておりました。ドミトリーのベッドが満員になり、普段は男女別のところを相部屋にすることになったのですが、夜半すぎある女の子が、やっぱり男との人と同室は無理です。トイレにもいけません。と陳情してきました。バスルームは各部屋の中にあるのですが、やはり日本女性として用を足している時の音が聞かれるのがはばかれるとか、たぶんそういう話だろうなと僕は受け取ったんですが。このあたりの気遣いというか、わたしにいわせれば行き過ぎたエチケットのようなもの。これはほとんど日本人特有なのではないだろうか。白人女性ならたぶん大胆に「クソ」もするし小便の音くらい聞こえたって問題ない。
 この作品は、「クソをしたあと」の流止まない水洗便所の音がいざなう、異郷。英語でいうとディスプレースメントですが、作者の「心ここにあらず」という現実から浮き上がってしまう感覚。それはきっと外国語文学のスタイルを消費したり写真集をめくったりすることだけでは決して癒やされない、根深いなにかである。そしてそれはたとえ作者に女ができ、性的快楽に浸る日々が訪れたときも消えることはないだろうと俺は断言できる》。


   ブロスの下着(改稿案)

  だれかおれを連れ去って欲しい
  たとえそのだれかが
  きみであっても
  いいよ
  紳士売り場ではブラームがかかってて
  そいつを聴きながら
  おれはブロスのパンツを撰ぶ
  手触りのいいそいつを
  だれもない平日のマーケットで
 
  あんたはだれ?──知らない女がいう
  あんたは救いを求めてるのっていう
  おれはなにも答えられずに
  ポケットからサーディンの罐を手渡した
  これこそがおれにとっての救い
  まちがいは多く
  ただしさはあまりに少ないけれど
  勝ちめのないのを知りながら
  それでも連れ去って欲しい
  たぶんそのだれかが
  きみであったら
  いいのに  

  やがてブロスを撰び終えておれはマーケットを去った
  さっきの女がアボガド・ワッパーを喰いながら
  ずっとバス・ターミナルに立ってた
  雨が降ってて
  なにもかもいやらしくて
  おれは話しかけてみた
 
  「きのう死んだ映画監督がかつていってたんだ、 
   花を愛でるのは少年であり、
   虫を殺すのは少女であるってね」

  喰いかけのワッパーをおれに渡して
  女は笑いかけてきた
  早くアパートに帰って
  シュトラウスドン・キホーテをかけながら
  かの女がくそをしたあとの、
  便所の水のながれをずっと聴いてたい
  ずっと聴いてたいんだ
  それはきっと
  愛おしく
  美しいにちがいない


 できあがった作品について他者になにをいわれたところで、それを書き換えるのはわるあがきでしかないということを知る。ふたりの女性による新作詩とその改稿案への反応ではっきりした。いい大人がたやすく自作を翻してはいけないということ。最后の判断は作家の責任でしかない。じぶんの愉しめるようにやるしかない。語法のいちぶを改めるとか、説明臭さを消して暗示的にするといった感じであって、根本までいじっては、もはやわたしの作品ではない。いえることはけっきょく、わたしは器用な書き手にはなれないということだ。観客のまえで、筋書きを考えたり、書き換えたりはできない。わたしはシェイクスピアでも、カポーティでも、T・Wでもないからだ。あくまで自身のなかにある基準を高めつつ、それに沿って書くだけなのだ。転んだって自業自得だ。澤氏の答えを待つまでもなく、あの改稿はわるい冗談でしかなかった。
 自身でも批評のほうもあとになってやってみたが、あまりに救いがたい作品ばかりですぐにやめちまった。突起人のひとりである天才詩人という通り名の作品「藝術としての詩-3」及び「THE COLD WAR」にもコメントを寄越した。空腹に耐えながら。あしたになれば金が入るぞとおもいながら書いた。かれの詩はあいかわらず冗漫で退屈だったが、当人がそれを認識するのは、あと80年はさきの話しだ。

 

     ◎天才詩人へ

 

 文章としての完成度や異郷を伝える紀行文としての佳さはあると感じる。けれど「傷つく能力」というものを、この作品からも、作者自身からもわたしには感じ取ることができない。抒情や感傷をいたずらに煽り、肯定するつもりは毛頭ないが、あまりも書き手も作品がうまく、器用な人生を送っているということだけが──わたしの僻みでもあるだろう──匂い発ち、再読に耐えるものではないというのがわたしの見解だ。凝縮のなさ、異常なほどの清潔さ。たとえば「パニック発作」はあなたになにを与えただろうか。現実原則が饒舌に語られるいっぽうで、空想現実との交差がまったく皆無なところに《「藝術としての詩」とは何か》という問いはただ浮遊しているだけで、はっきりいえば空虚で場違いだ。
 この作品を体験記ではなく詩文学足らしめるには、現実原則を突き抜け、空想現実と果てしなく行き来しなければならないだろうとおもう。そのために作者はまず「傷つく」能力を獲得しかないだろう。でなければ安全なるアマチュアによる、印象の弱い作者で終わりかねないだろうと考えている。

 それに対してかれはこう返した。

 

 至極もっともなコメントだという気がします。そのいっぽうで禁じ得ないのは、当の中田氏は「傷つく能力」を持っていると公言できるのだろうか、という素朴かつ、根源的な疑問。僻みのせいで読むに耐えない文章がこの世に存在するとするならば、それはあなたが何かを諦めてしまった証拠であり、詩文学うんぬん以前にそうした自分の僻みをぶち壊すのがさきだろうと。
 あなたのように頭がよく物事のエッセンスを取り出すのに長けた人間には何人か出会いましたが。みんな一様に何かを諦めている。純粋に「楽しい」「ゆめをあきらめない」という馬鹿げたくらい単純でポジティブなマインド。それがあなたにはない。これは私からあなたへのエールです。

 

     ◎天才詩人へ──ふたたび

 

 わたしは論理的とはいい難いし、あまり作品から離れた部分について書きたくはないのですが、気になったところがあるので手短に申し上げます。《当の中田氏は「傷つく能力」を持っていると公言できるのだろうか、という素朴かつ、根源的な疑問》とはなんでしょうか。《僻みのせいで読むに耐えない文章が──略》というのも曲解でしかない。わたしは作中や作者の態度について語るのは、失礼であるかも知れないので「──わたしの僻みでもあるだろう──」と添付したのであって、「僻みのせいで読むに耐えない」とは考えていません。それをそのまま飛躍して《自分の僻みをぶち壊すのがさきだろう》というのはミスリードではありませんかね。いかがでしょうか。
 〆にある《みんな一様に何かを諦めている。純粋に「楽しい」「ゆめをあきらめない」という馬鹿げたくらい単純でポジティブなマインド。それがあなたにはない》というのも、一種の逃避に感じる。わたしは作品について語ったけれど、生き方には興味もない。そういったことはラビにでも訊かれたほうがよろしいでしょう。わたしはこの作品が「楽しい」とおもいながら、書かれたようには読めないうえに、なにかを諦めてもいない。そういったことを難ずる手法が果たして正しいのか、それこそ《素朴かつ、根源的な疑問》です。わたしは今年個展をやるし、恋人もつくる、アルバムを録音できるし、映画も撮れるし、「白鳥の湖」だって踊れる。ただ多くのひとびとよりも時間がかかってしまっているというわだけだ。他者の存在や人生を値踏みするのが批評であるというのなら、わたしはもはやなにもいうまい。

 コメントの書き出しに『「傷つく能力」というものを、この作品からも、作者自身からもわたしには感じ取ることができない。』というフレーズを置くのは、批評態度として「弱い」と言いたかった。そもそも「傷つく」というのは主観的な問題で、その「傷」を物質として取り出して、メロンパンみたいに俺のは大きいとか小さいとか、他者に明示したり比較できるものではないでしょう。あなたの言い方には、ネット詩の常連にありがちな、「詩」は社会から疎外された人間特有の表現手段であり、「傷を負った」経験を生々しくつきつけねばならない・・というような意図が読み取れた。そうした作品群の価値をわたしは否定しませんし、感動を与えるものもなかにはある。ただしそうした路線を唯一の「詩」のあり方と措定する立ち位置から、作者は「傷を負っていない」という言葉で低く評価するのは、やや押し付けがましさを感じる、ということです。もちろん中田さんがそこまで頭が悪いとは思わない。ただ批評としての強度が足りない、と俺は思うのですよ。

 

    ◎ふたたびのふたたび

 

 わたしの場合、こういったスタイルを持った作品の系譜というものをまったく知らないから、そういった無知な読みになるのかも知れません。なぜ海外生活のなかで出来事を細微に書きつられながら、「藝術としての詩」というものにこだわりつづけるのだろうかとも考えてしまう。わたしは批評家ではないし、批評を上達させたいくはない。《批評の強度》なるものが、どういったものなのか、わたしにはわからない。

 かつて高校時代、「万人の共通コードは好悪の感情のみである。好きだ、嫌いだ以上に説得力を持った言葉を私は知らない。とにかくものを伝える以前に不要なコードが多すぎる(1988、岩見吉朗)」という考えを愛唱していたわたしには、この詩から感情表現や身体表現(あッ、主観だな!)が乏しいので、読んでいて語り手と共有できるものが見えて来ないなというわけです。最后に「痛み」についていえば、それはたとえばドストの書簡集で「借金や病気の話がいちばんおもしろい」といった程度であったり、この作品に見せ場がないという意図もある。わたしは読み物であるなら、愉しませてもらいたいとおもっています。生活や日常のなかにいながらにして、それをおちょくってしまうような飛躍やアクションは欲しいとおもう。ただ現時点では「異国の生活」以上のものは、門外漢のわたしには読めて来ないというだけだ。──これでオシマイ。餅は餅屋だ。批評もおなじく。もうなにもいうまい。詩論ならば書いて損はないかも知れないといったぐらいにしか、考えてない。わたしに書けるのはわたしの詩であって、他人の詩ではない。どんなひどい眼に遭おうが、みずからやっていくしかあるまい。だれも助けられない、それが表現や藝術ってものだろうに。勝手にしやがれだ。わたしもあんたたちも。
 とうに歌人も詩人も組織化し、来歴を権威で塗り込めなければ生きていかれない。わたしには滑稽に見える。プロもアマも大したちがいはない。あんたは最果タヒが好きなのかい? それとも織川文目?──だとおもったぜ。
 早熟という語、そのものに愛想が尽き、嫌悪しか湧かない。わたしは32歳になっている。芸術はもはや高等教育のなかで、答え合わせを待ってるだけではないか? 正しい問題と、正しい答えの存在するのを疑わない学生の世界。そして学生のまま年老いていくんだ。もちろん、これは中年の晦渋に過ぎない。
 もう有名になりたいという欲求がなくなった。かつてわたしを嗤った連中を見返してやろうと考えたけど、文学賞のために作品を書くということがまず馬鹿らしい。高見順のいうように作家が作家を撰ぶという愚行に共犯する気はもうない。同年の作家たち、年下の作家たちが、メジャーのなかで活躍し、名を馳せるいっぽう、わたしは永遠のマイナーで、自身が心から読みたい、読まれたいものをめざして作品を、本をつくっていくしか道はないようにおもう。

 

   ***

 

 日曜日も、この2ヶ月もけっきょく競馬はできなかった。わたしはひどく酔っていた。あちこちでウィスキーの水割りを呑んだ。浪費以外のなにものでもない。競馬クラブへ加入料が痛々しい。けっきょく仕事で獲た2万3千500円も、軍用コートの支払いや、衝動買いした古本──セリーヌの「死体派」やなんかでほとんどがなくなり、わたしはできあがったデモ音源を聴かせようと、三田市は相野くんだりまでいった。正気の沙汰ではなかった。わたしは焦りすぎていた。三田までの移動手段を考えていると、もう夜に近かった。
 「茹で蛙のレシピ」はまったく受けなかった。15年来の知人が、記事をシェアしてくれてはいたが明確な反応はなにもない。わたしは酔って電話をかけた。もと同級生で近所だった男にである。宝石や装飾品の修理、リメイクをしている。金持ちの息子で、美的センスのかけらもなく、ものを知らない有閑マダムども相手に商売している、侏儒のようなやろう。わたしは敬語で話しかけた。むこうはというと、畿内訛を穢く、横柄に使い、「おまえと話しすンは時間のムダや」といって切った。あまりにも予想通りで、ありきたりの答え。おそまつな出来事。オイル・サーディンでも持ってやつの店までいってやろうかともおもったが、やめにした。西宮は苦楽園とはいえ、時間と金のむだであるのにちがいはなかった。まあ、売れる文章になるのならべつだが。
 そうはいっても腹が立っていた。ほかのやつらも電話にはでなかった。前回にも書いたべつの、もと同級生にダイヤルした。かれにことのあらまし、過古の悩みや現在の怒りや失意について話した。ずいぶん長いやりとりだったが、文学や哲学を触れている相手との会話は軽快だった。かれはわたしにモームの「月と六ペンス」を勧めた。作品モデルになったゴーギャンは、その植民地主義などを理由にきらいだが、いちど読んでみようとおもった。かれもわたしが先日勧めたシオランに興味をもってくれていた。かれはわたしに好感を抱いてくれていたし、友人として認めてくれていた。正月、「またな」への返事については、ただただわたしが臆病だったというわけだ。かれとしては素直な本音だった。「ミツホが迷惑だったら最初からいってるよ」という。
 いつかふたたび会うと誓って、バスに乗った。さらに三田駅から相野まで。冬の道を歩く。高校の先輩がやっている喫茶店を見つけるまでに20分はかかった。馬糞の臭気をさまよい、暗い歩道で立ち小便をした。ローソンの隣りに店はあった。灯はなかった。2階と勝手口には燈火がある。けれど扉を叩こうが、来訪を大声で伝えようが、だれも現れなかった。わたしは持ってきた最初の詩集を郵便受けに突っ込み、悪態を尽きながら、相野駅まで引き返した。もっと早く来ていれば高校生のころ、好きだった女の現在を聞けたかも知れない。
 途中、線路際の小道に降り、歩いているうちに泣いてしまった。17歳のころの、古い歌をおもう。《あゝ、この静けさに堪えかねて嗚咽を漏らしているのはだれだ?》。それは、この負け犬だ。おもうに初恋のかの女は要領のよく、品も知性もへったくれもない男たちが好きなんだろう。かの女の友だちの一覧をおもいだして気づいた。ごろつきのようなやつらばかりじゃないか。
 最后に会ったとき、一緒に歩いてた男だってその類だ。弱いものや、劣っているものへの仕打ちの数多。暴力と嘲笑。かれらは「憶えていない」という、だがわたしは憶えている。宝石修理の小男だってそうだ。かの女の親戚だという小汚いやつも。
 どうしてあんな男たちになぜ嫉妬するのか。自身を軽蔑したことも、人生に疑いを持ったこともない。ましてや、書物や藝術なんか手にとったりもしない。環境のよさに胡座をかいて、弁舌のよさに陶酔しているだけだ。中身はからっぽで、はったりしかない。本物なんざひとりだっていやしない。かの女が鼎談した人物たちもそうだ。だれもかれも虚業を誇ってる、最低のやろうども。たしかに知名度は高い、だがそれがどうしたっていうんだ?
 《一見うんさくさいひとだけど発言は正しい》なんていうやつらがいる。医療や福祉に自己責任を叫んだ、長谷川豊にだって賛同者はいる、高城剛苫米地英人山本一郎をありがたがるひとびとだっている。わたしだってモーリー・ロバートソン高橋ヨシキはきらいではないし、やや頷くことだってありはする。それでもおもうのは《一見うんさくさいひとだけど、やっぱり発言だって胡散臭い》ということだ。
 わたしが勝手に美化していただけで、かの女にはなんの落ち度もないけれど、やはり純真なものを壊されてしまったという気分だ。醜いものを傷つけるのは正しく、じぶんたちを傷つけるのは絶対悪ってわけだ。くさった共同体幻想の成れの果てじゃないか。なにが《命を粗末にするひとはきらいです》だ。わたしがなにをやろうとも考えようとも、きらいはきらいなんだ。わたしが安ホテルでヘリウムによって自裁を遂げたところで、かの女たちはなんともおもわないだろう。19歳で自裁したという過古の同窓生の女性──おれは喋ったこともないかった──だってきみたちには助けを求めなかったわけだろう? 生へと背中を押すために《命を粗末に》というのならわかる。けれどきみのは、ちがった。冷たく突き放して嗜めてたいがため、穢れを払うためにだったようにおもえる。
 口先だけのおそまつな連中に怒りと悲しさと羞ずかしさが溢れそうだった。三田市から750円かけてわが町へと帰った。わたしはまだ無意味な劣等感、ひとびとがみなじぶんよりも優れているという幻想を棄てられないのか? いいや、そんなはずあるものか──。
 かつての映画「みな殺しの霊歌(1968)」で、主人公が作品の終わりでやって見せたみたいに「おまえらに美しいものを破壊する権利がどこにあるんだ!」と、いまだって叫びたい。

 

   ***

 

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茹で蛙の梅肉ソース和え──blogの趣旨に代えて

 

路上 /  in a road of haginocya-ya [2011] 

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 いまは自伝的長篇を考えてる。でもなかなか体験と自己を引っ剥がすのは楽じゃないぜ。短篇集と並行しながら、作業中だ。まずは独白の初稿を書き、次に場所と行為の第2稿を、3つめになにがあるか、という具合だ。きょうはとりあえず、「茹で蛙の梅肉ソース和え」のレシピを以下に紹介するから、みんな美味くつくってくれよな!

   ***

 どうしてこんなありさまになってるんだ、とおもうときがある。わたしは32歳。7月で33になってしまう。織田作の死んだ齢いだ。齢を重ねるということについて、すでにうんざりしているし、けっきょく現象の増減と反復でしかないのはと考える。もちろんその反面、なにもかもよくなっているという実感も、確かにある。作品が金に変わり、ひとがわたしを正直に見えくれるようになった。これはいままでの人生ではなかったことだ。いつでも誤解と疎外と偏見が蔓り、身うごきさえとれなかったのだから。
 出版局をようやく本物にできた。3年もかかってだ。フリーマガジンだってそうだ、おなじぐらいかかっている。ひとを集めるにはなによりも、ひとに好かれなければならなかった。わたしを囲む問題だってそうだ。それがなんなのかを識るのに時間がかかった。否、かかり過ぎてしまった。わたし自身の精神障碍に26年、薬物療法を断ち切るのに5年、愛着障碍であると理解し、安定を迎えるまでに32年がかかった。躰のことだってそうだ。7歳での台車事故によって、後年は成長するごとに腰、首、頭、胸の痛みに苦しめられ、満足に治療も受けられず、ひどい生活を送った。それが癒えるまでやはり、それなりの年月がかかった。
 いちばん厄介なのは対人関係、対話能力の問題で、わたしは言語の発達が遅く、話したいことが話せず、誤解や嘲笑の的だった。理解できない化けものだった。わたしにできるのは絵を描くこと、森林を歩くことだけだった。幼少時代の友人などひとりもない。親しいひとはだれない。かれらかの女らはわたしをあくまで下位の存在として許容できはしたが、わたしの知性も感情も赦さなかった。ふた親とも関係はない。姉や妹たちもいたが、いまではどこに棲んでいるかもわからない。まさしくわたしは鼻つまみものだった。父からの打擲と過干渉から、母の無関心から遁れ、物理的な居場所を手に入れるのに27年もかかった。

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 わたしは29のとき、赤十字病院に入院していた。6月。馴染みの急性膵炎でだ。古本で買った恋愛ものを読んでいるとき、好きだった女たちに逢いたいとおもった。3人のなまえを懐いだしたが、そのうち2人とは連絡のしようがなかった。わたしは初恋であるひとになんとしてでも再会したかった。高校入学直後、駅ビルでかの女から話しかけられたことがおもいだされた。そのとき、かの女がわたしに暴力をふるっていた男とならんで歩いていたのも。
 ほったらかしにしていたfacebookのアカウントを更新して、手当たり次第に小学校時代の連中に承認を乞うた。かの女と共通の友人がいなければ、かの女にはリクエストを送れないからだ。けっきょくは送ったものの反応はなかった。わたしはいろんな同級生にかの女のことが好きだったとうち明けた。断っておくが、わたしは過古もいまもかの女との交際や浪漫なんか想像もしたことはない。かの女にも家庭がすでにあって、なにもかもが無意味だとも知っていた。子供ができたことだって。それでも青年期、いつか再会して、今度こそふつうに会話をと願いながら、冥府みたいな歳月をさまよったのはつらかったし、それが叶わないまま中年に達してしまったのはむごたらしいの一語に尽きる。
 11月の終わり。わたしはかの女に託けを送った。これでだめなら死ぬしかない、そうおもった。1発め、明るく好感のある返事、ふたつめ、わたしの希死念慮を批判する厳しく冷たい返事。「命を粗末にするひとはきらいです」。まさに不意打ちだった。慌ててとりつくろい、さらにはかの女の男友だちをからめて非難した。かつてわたしを侮辱の対象にしたと。子供っぽく拗ねた。
 「好きとか嫌いとか軽蔑するかではなく、あなたの存在に困惑しています」。それで終わってしまった。つづく1年、わたしはかの女の沈黙のなかで詩集「38w」をだし、幾許かの金を手にした。けれど充たされはしなかった。わたしはかつての仇──そうはいっても子供時代である──を攻撃し、非難した。ある女を責め立てたあと、そいつの男友だち──初恋のひとの親戚でもある──から「友だちを虐めるな」とメッセージが来た。わたしは答えた。「友だちだって? ただの記号だろ?」。自身の行為が正しかったとはまったくおもわない。けれども、わたしの見解を訊かずにいきなり「いじめるな」とはなんだろうか? 女のほうだってわたしに謝ったではないか。いじめを責めるのはいじめなのか。わたしはただ過古にされた行為に対してずっと悩まされてきたし、それを責めただけだ。執拗であったのは確かだ。けれどわたしだけがわるいのか?──こういった違和感が何度も沸き起こった。わたしはひどい沼地に嵌って、怒りと恨みを撒き散らしていた。いつもアルコールと精神薬がそこにあった。発言すること自体、わたしには怖れであったけれど、他者の反応を識る、それそのものが幻惑であったけれど、かの女からの返答がないなか、過古に復讐するほかにやれることはなかった。女たちはおもてむき謝り、男たちはなにも応えなかった。
 14年の12月23日の夜、突然かの女からメッセージが入ってきた。「ひとを傷つけるひとはきらい!」。反応する間もなくブロックだ。わたしは狂った。まさに《はじめの火傷がいちばん堪える(チャールズ・ブコウスキー「あるアンダーグラウンド新聞の誕生と死」)》というわけだ。そいつに尽きる。
 だれもかもがわたしを避けた。大きなきっかけは、わたしがかの女を実名で書いたことや、タイムラインに憎悪を垂れ流しつづけたこと、そして15年の4月ごろ、みずからの傷害事件と、執行猶予判決を曝露したからだった。ほとんどのひとがわたしをブロックし、黙殺した。何度かメッセージを交わし、愉しく話せていたひとびともですらも。わかりきった話だ、わたしには気づかってくれるひともない。もしほんとうに友人がいたなら、わたしのひどい発言を戒めてくれただろうし、わたしになにが起って豹変してしまったかを、怒りの理由を聞いてくれたはずだ。でも、そんなやつはひとりだっていやしなかった。
 たしかに中学校とちがって、小学校は新興住宅地に在って、ひどい虐めはなかったのかも知れない。ブチブルやろうどもは、鼻を垂らしていただけだともいえる。しかし、まちがいなくわたしのうちっかわで燻りつづけていた。ようするにかれらかの女らにとって、わたしは異物であり、捌け口でしかなかった。
 00年4月に出会ったかの女の笑顔、わたしを名字ではなくなまえで呼んだ声、いつかは、なにもかもおもいだせなくなる。「20歳になったら校庭のタイムカプセルをみんな掘り起こそう!」だとよ。──うそっぱちもいいところだ。わたしは呼ばれなかったし、アカの教師によって作文さえも入れさせてもらえなかった。最近になってわたしのほかにも呼ばれなかったもののいることを知って、気が済んだ。一昨年の12月は呼びかけ人の実家に抗議と内容証明を送る旨を書いて送るほど、この挿話を気に病んでいたから。
 余談になるが、ハマザキというアカの担任は、せっかくかの女から渡してもらった自己紹介のカード(卒業ちかくにみなに配っていたものだ)を取りあげ、ふざけたことを書くな、これをおまえに渡したのはだれかと詰問し、わたしからかの女のなまえを告白するように強要した。かの女は教卓のまえに呼ばれ、なにか訓戒を聞かされていた。いったいなにをいったのか。生きているあいだでも、死んだあとでも、ぜったいこの人物を赦しはしない。
 去年の暮れ、ようやく発見した。わたしのやらかしてしまった行為の数多は、岡田尊司が「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」のなかですべて書いているものだった。心理学者のなかではすでにパターン化された言動でしかないと知ったときの悲しさといったらない。もし発刊当初の11年にこれを読んでいたら、なにも問題は起さなかった。初恋を破壊するなどありえないことだった。
 この世界でのいちばんの秘密、それがかの女へのおもいだったのに。もうなにかも手遅れだ。生きようが、死のうがなんの意味もない。だれも児童心理なんかに興味なんかない。あるとすれば傷ついた人間と、それを診る側であって、わたしがいまさらどんな手段を採っても、だれもふりむかない。ほとんどのひとは正しい設問と正しい答えが存在すると盲信しながら生きるのであって、根本を問いたださずとも気持ちのよくなれるからだ。そんななかにあってわたしの懐疑と反省は、瘋癲のいいわけだ。これほど淋しいのに生きる必要があるのだろうか。

 

   ***

 

 15年の夏だった。かの女らしいひとが、初恋のひとらしいひとが、インターネットの鼎談記事にでていた。わたしがよく閲覧していたニュース・サイトだった。手元にコピーなんかないから、記憶を辿って書く。司会はたしかドワンゴのだれかで、出演は、田原総一朗西村博之堀江貴文村上隆、──そしてM村Y子。はなしをまとめれば、M村女史はじぶんを好きだという小中時代の同級生に困らされている。作品を送りつけられたり、facebookでメッセージを送られたり。かれはかの女が好きというが、自身は既婚者だ。かれは世界的な藝術家で詩や絵、音楽の才能がある。かれが「来年の4月に個展をやる」と書き込みをした途端、あらゆるところからコメントを求められ、それは職場にも来たという。なかにはかれを極端に擁護するものもあったという。かの女の旧姓はムラカミで、かれの母方の祖父の遠い親戚だという。いちばん迷惑なのはネットに実名をだされていること。田原は「それがどうして困る?」といい、西村は「そういう迷惑な行為をするひとは無視すればいい」といい、堀江はマスコミとの個人的な体験と確執を語り、村上はただただ場違いのようだった。かの女は最后に「かれはASDなんですよ、このままじゃかわいそう」と発言していた。
 わたしは半信半疑ながらも、かの女へひどい迷惑をかけたことを知り、書き込みのいくらかを消した。わたしのことを擁護しながら、かの女を責める人物がいるというのにも驚いた。なぜ金にもならない落書きやろうが「世界的な藝術家」に飛躍しているのか、わからないまま海外との接触はやめ、逃げるように過ごした。
 この出来事がほんとうだったのか、いまでもわからない。アタマもイカれていたし、くそ暑いなかで、あの直後血を吐き、熱中症として入院するはめにもなってしまうぐらいだったから。真夏の白昼夢、まさにそんなところってやつだ。それでもしばらくすると怒りが湧いてきた。かの女が被害を訴えることではなく、登場した場所、鼎談の出演者たちだった。なぜよりによってあんな山師どもと一緒なんだ。声がでかいだけの田原、倫理不在なうえに違法行為をうまく逃げ切っただけの西村と堀江、村上隆についてはよく知らない(いえるのは「芸術家起業論」は実践の参考にはならない、くその役にも立たないということだけだ)。たやすくいえば過古のひとびとだ。わたしとしては、かの女の悩みはもっともで、なにもかもおれがわるい。けれどできればもっと品のある場所で、品のあるひとびとと話して欲しかった。どこをどうしたら、あんないんちき連中にかどわかされてしまうんだ? 毎年、大量生産される聞き書きのくだらない本で小銭稼ぎしてる日本の実業家なんて、わたしはとてもじゃないが信頼できない。かの女はわたしについて詳しいけれど、でもわたしはかの女をまったく知らない。過古のなまえと姿だけだ。
 今年の正月、小中時代の知人に会いにいった。かれとは小学校、中学校、合わせて二度一緒だった。わたしの漫画のはじめての読者だ。そんなかれでもけっきょくは「なぜあまり遊んだこともないおれのところに来るんだ?」という。悪意がないのはわかってる。でも、わたしは駅に送ってもらったとき、「じゃあな」としかいわなかった。かれの「またな」に返事はできなかった。
 それでもかれからは詩や絵について助言をもらったし、それはよかった。ただ、かれのいうように「だれかにむけて詩を書く」なんてのはできない。「読み手にむけて」としか、わたしにはいえない。

   ***

 

 夜間高校に入学してまもなく、昼間の女生徒に声をかけられた。中学でいっしょだったTという女で、わたしをしつこくからかっていて不愉快だった。あの笑顔、あの声。もしかしたらM村女史のときだっておなじかも知れない。珍獣を発見した昂奮であり、嬌声だ。しょせんおれは気持ちのわるいやろうでしかない。
 メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」を連想する。なまえもない怪物の話を聴き、心を傾けてくれたのは、たったひとりの盲人であったのを懐いだす。おなじように顔も知らないひとびとが、わたしの作品や発言を読んで、少なからず支持してくれるようになって来た。特にスロヴェニアの日本人女性は画材や金を送ってくれる。
 わたしのような人種は、表現なしでは生きられないだろう。もしわたしが「喪失」と「憧憬」というふたつのものから脱却できたのなら、かの女との再会が叶い、ふつうの会話ができるのなら、わたしにも家族できれば、もはや言語行為は必要はないかも知れない。絵だけを描いているかも知れない。
 けれどそんなものは虚妄だ。ほとんどのひとは「再評価」などというものはしない。うちなるハイエナを手懐けるよりも、屍肉を与えるほうをみな撰ぶのだ。わたしがどんなに普遍性を求め、反省し、立ち直ろうと足掻き、職業訓練や仕事に就いても、作品を売っても、かれらかの女らは絶対に認めたりはしない。水平的人間、政治的人間、あるいは演技する人間たちは、それを無意識に恥辱と見做すからだ。
 かの女からは多くの作品を与えてもらった。正月に送った最后の葉書では《あなたから着想を得た作品はすべて破棄します》などと書いたが、どうせ当人は読んでない。わたしは作品を売らなければならない。あたりまえながら。
 新しい曲「Omaenanka, Omaenanka!」も、もちろんのこと、いま書いている短篇「灰は灰へと還す」も「囚われもの──(This Not a)Loveletter」も、わたしのなかのかの女が登場している。だが、それでどうなるというのか。どうもなりはしない。さらにきらわれ、蔑まれるだけだ。
 もはや、わたしにはかつてのように無差別に他者へ咬みつくことはない。毒のほとんどを棄ててしまった。いまもかの女が好きなのかと問われると正直わからない。ごくごくたまに夢のなかでかの女のことを見るくらいだ。かつてのような感情が死んでしまったにしろ、会って話がしたいのはたしかだった。ただし会ってしまえば、なにかが喪われるのも確かだ。
 もう日曜日、競馬だ。バーテンの給与もでたし、いい馬に当たっていい女性と巡り逢いたい。少なくとも、情熱のあるひとにだ。でも、そのまえに5ヶ月まえの体重に戻すこった。

 

   ***

 

 こんな感じだ。まだ書きたいこともあるが、またいずれ。これを読んだあなたは立派に「茹で蛙の梅肉ソース和え」がつくれる、素敵なひとになれることだろう。わたしを支援したいというのなら、いつでも歓迎だ。是非連絡を乞う。

 そして今夜未明はメールマガジンをだすつもりだ。登録フォームtwitterに載せてあるから、決してナフタリンの壜をあけないこと! 約束だよ!

 

   ***

 

つづくのか?