みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

びしょ濡れアリスちゃん


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 ウクライナの問題は、はっきりとわれわれのなかの敵を見つけてくれる。数年前のグレンコ・アンドリー氏の警句は決して遊びではなかったということだ。反戦デモの甘さを軽々しく超えてミサイルが飛ぶ。戦争があるということは裏で儲けているやつらがいるということだ。
 ところで、あの場ではすっかり、馴染んでしまった田中宏輔氏の差別心についておもう。自身の性的志向への攻撃には敏感なのに、かれは「手帖」、「ユリイカ」の、二大詩誌以外を「クズ」といい、中也賞を「クズ」といい、じぶんに反発するものに「ユリイカに載ってから云え」と云い放った。まったく悪しき詩壇の階層に胡座を掻いて、差別行為をしているではないか。恥ずかしくないのか。あるときおれは、執行猶予中に無賃乗車で捕まって、篠山警察の留置場にいた。新聞を読んだ。城戸朱里が詩の批評をやっていた。ふたつは思潮社で、もうひとつは書肆山田だった。まったくの戯言。くされまんこのなれのはて。くそでもってじぶんを慰む、最低の品々・・・・・・。
 それでもって田中氏は、「現代詩フォーラム」で「詩の日めくり」という内輪ノリのごみ日記を、詩と称して投稿している。かれの言辞に沿えば、ネット詩人はみな「クズ」でしかない。欺瞞はくそだ。そして、それはかれ自身が喰らうべきなのだ。そしてかれの作品を温かく迎えてくれるのは、まさしく、かれのいう、「ユリイカ」にも「手帖」にも、載れないクズ詩人たちだ。こんな皮肉がいままでにあったろうか? あったら教えてくれ。
 そういえば平川綾真智が思潮社から詩集をだすんだと。そのまえにてめえのセクハラ行為と、文学極道の始末をつけろよといいたい。おれはなにも善人を気取っているわけじゃない。ただ、おれを含めてくされやろうは、裁かれるべきだとおもっているわけだ。詩について語ることがあるとすれば、恥辱と宿業の知らない詩人は消えるべきだ。言葉以前に自己に肉薄できないのなら、詩人にはなれない。ただの言葉遊びで終わってしまうだろう、そんなやつらはくそくらえだ、けつでもくらえだ。なぜにそうしたやつらに配慮して詩を書くのか? きっと弱いじぶんに我慢ならないからだ。でもおれは書く。田中氏がどうした? ヒラコーがどうした? 手帖が? ユリイカが? そんなものはどうでもいい、ただじぶんが気持ちいいものだけを書くんだ、だって、やつらは最悪だからだ。
 おれは某人のやろうみたいにその場凌ぎのコメントで終わりにはしない。云いたいことはすべて言語化する。田中氏とその信奉者がけつを喰らうまでいってやってもいい。すべては燃えあがる書物のうえを飛ぶ一羽のからすが知っているはずだからだ。