みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

バナナな日

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   *

 とにかくバナナだった。凾のなかのバナナ、作業台の上のバナナ、廃棄袋のなかの黒いバナナ、女の手のなかのバナナ、そしておれの手のなかのバナナ、おれの股間にぶらさがっているバナナ。おれは通称ゴカイで作業をしていた。薄暗い倉庫の別棟の5階で、男3人、女6人でだ。とにかく澱んだ空気が鬱陶しいなかで、パレットに積まれたババナの凾を降ろし、作業台に中身をぶち撒けて、それから袋をやぶって一列に並べた。バナナはおれの腕のなかで重みを増し、まるで重力の法則が少しずつイカレてしまうみたいにして時間が進んでいく。おれはバナナに取り憑かれたのか。パレットはやがて空になった。すると次ぎのパレットを年増女のフォーク・リフターが運んで来る。ぴっちり、隙間のないやり口で。だからおれはふたたびバナナを、バナナのなかで思考し、バナナとともに汗を掻いたのが、2年まえの夏だ。できのわるい悪夢のようにむかいの若い女がバナナの蔓に鋏を入れる。そしてビニール袋に小分けして、段ボールにつめていく。おれはおもった。質のわるい冗談だって。それでも離れにあるべつの倉庫で、バンダシをやってるよりは遙かにマシにおもえた。その瞬間またしてもバナナが作業台に溢れ、おれは慌てて零れ落ちようとするバナナを堰き止める。バナナはバナナだ、バナナでしかないという事実。感傷の余地のない労働のなかでおれは耐えた。耐えるしかなかった。やがて休憩の時間になった。ほとんどのやつらは階下へむかう。おれと、むかいにいた若い女、そしてその友人だけが残った。かの女たちはいつもおれに質問する。
 「好きな食べものは?」
 「えっと、──リングイネ
 「なんですか、それ?」
 「ショートパスタの1種です」
 そして沈黙。
 「似てるっていわれる有名人はだれですか?」
 「え?──カズオ・イシグロ
 また沈黙。
 「お昼、なに食べましたか?」
 「エナジーバーを」
 さらに沈黙だ。かの女たちは、うんざりするような退屈な質問をくり返す。おれは適当に答える。かの女たちはハナから興味がないみたいにおれの答えを聞く。あきらかに侮蔑の色があった。でもおれはなにもいえなかった。はじめてこの倉庫に来たときも、二十歳そこそこの、ショートカットの女の子から年齢を訊かれた。なかなかいい娘のように見えた。かの女は答えを聞くと、そのまま去っていってしまった。それからはなにもない。いったい、なんのつもりがあるのかもわからない。スベタめ、とおれはおもった。なんでほっておいてくれないんだ。女も男もひとのことをやたらに詮索しやがる。おれの物語、おれの事情、おれの叙情、おれの教養詩、おれの叙景のすべてが、いったい、おまえらのなににかかわるというんだって?
 いつだったか、女3人と街で出会したことがあった。ひとりが「どこへいくのか」というから、「医者へ」とおれは答えた。すると、その女はいうんだ、「一緒にいきましょうか」って。真顔でひとをからかってやがる。明らかな意志を持っておれを侮辱しようとしていた。性根のくさった女たち。かの女たちはじぶんの腐れまんこに、廃棄のバナナを突っ込むべきだった。 おれは他人にうんざりしていた。肉体労働者たちのゲスな話題、その標的にされることを心から厭いてしまっていた。男たちは、女に較べれば我慢のできるやつらだった。将来の保障のないやつらは時折おれをほんとうに気づかい、心配してくれたこともあったし、笑い飛ばしてくれることもあった。それでも達しがたいのは、おれの読書をからかい、「おまえに本なんか読めるのか」と突っ込まれることだった。おれはやつらとちがって、一端の教養人だというのに、それが理解されないとおもい、怒りもした。
 「なに読んでるんですか?」
 「え、──あの、推理小説です」
 「おまえ、本読むのか?」
 「ええ」
 「わたし、推理小説だったら最期から読むわ。犯人わかってから読む」
 フォークの年増が嗤った。不愉快な笑いだった。エレヴェータに乗って、5階へ。15時の休憩が終わったんだ。みんなが所定の位置について作業を始める。バナナはまだまだ有った。おれの自尊心を粉々するほどにあった。おれはじぶんの屈辱について、うまく適応できないでいた。なにか、癪に触ることがあるたびに、それを処理できず、長期記憶のほうへ押しやって、自我を抑圧してしまっていた。なんだって、どいつもおれを珍獣みたいに扱うのか。たしかにおれは自閉症スペクトラムで、アルコール性の痙攣に悩まされる、愚かな男だったが、いままで他人の沽券を踏みにじるようなマネはして来なかったし、いつも沈黙を以て、他人を尊重してもいたんだ。おれにはおれの紳士協定がある。それだのにされることは不快なことばかり。だれもが蛮族の雄叫びをあげておれをバウンドさせる。おれはいつも破裂しそうなぐらいな気分で耐える。それだけだ。ひとはなぜこうも口さがないのか。労働環境のせいか、将来の不安からか、将又家庭生活の破綻からか。どうでもいい考察をくり返し、時間を見る。あと2時間半、あと2時間15分、あと2時間5分と……。
 「プレート、持って来てください」
 無愛想な寸胴女がおれにいう。プレートは倉庫のエレヴェータまえにあった。ヤマト運輸だったらオリコンと呼ばれているものだ。おれはかの女に渡す。女はおれのほうを見ようとせず、片手で受けとった。なんて忌々しい女なんだ。鼻が鷲みたいに尖っている。女たちはみな黄色い上っ張りを着て、男たちはサイズの合わない作業着を着ていた。廃棄のバナナがプレートをいっぱいにした。おれはそれを持って、ごみ袋に運んで入れた。いっぱいになった袋はビニールテープで口を閉じた。バナナはパレットから作業台へ、そこから袋に小分けされ、箱に入れられ、蓋をされ、最後方にあるべつのパレットに積みあげられていく。やがてぜんぶの凾が終わった。小さく喘ぎながら、胸を反らす。そのときだった。
 「ナラザキさん、お腹でてますね」
 むかいの女が冷たく言い放った。そして隣の男が笑いながら、
 「すっごいでてるなぁ!」
 そういった。喜色満面とした顔が汗でぬめっている。おれは久しぶりだった。こんなにも悪意を隠そうとしない人間どもに出会したのは。そうだ、中学生以来だとおもった。あのときはぶ厚い唇をやたらめったらに揶揄されたものだ。嗤われたものだ。こんなところで記憶と経験の再生産が行われるとわかって胸くそがわるくなった。バナナをひと掴みして、やつらにむかって突撃したくなった。15屯の重りと、セルフディフェンスが必要だった。
 「──その通り」
 なんとか声を絞りだしたものの、それは別人みたいに弱々しかった。その声の響きには憂いさえあった。それにしても腹のことをわざわざ、この場でいうなんてどういう神経してるんだ、あの女? でも、あと1時間の我慢。おれとやつらは階段を降りた。最後の1時間、これから5番倉庫で林檎の検品があるからだ。地上へ降り、道を横切り、機械類のまえを通って倉庫に来た。冷蔵の効いた、寒いくらいの場所で、ローラー台を準備し、パレットの林檎を流す。どうでもいい仕事だ。いままでやって来た、どの仕事と同じように、おれでなくとも勤まる仕事だった。だれでもいい仕事だった。肉体労働によって消費されるおれの人生の時間。おれだけのもののはずの時間が、どうだっていいことで消えてしまう。幼少からずっと働いてきたのに、どうしていまだに仕事に馴染むことがないのか。それが大きな疑問だった。辛い場面なら、もうずっと体験しているのに、それが鈍磨しないのはいったいだれの料簡なのか。神のいない国で、たったひとりぼっち、より良い選択肢もなく、うずくまるように墓穴を掘るのはなんの因果なのか。だれもかれもが馬鹿に見えた。でも、いちばんの馬鹿で、場違いなのはこのおれだ。ずっとずっと、いままでも、これからもおれは部外者なんだとおもった。
 就業10分まえ、おれとやつらは室を掃除した。ごみを集めた。袋に入れた。袋をパレットに乗せた。同時におれは、おれ自身の考察を袋に入れ、パレットに積んだ。そして手無沙汰のまま、あたりを観察するみたいに歩いた。むかいの女が不意に近づいてきた。なにをいわれるだろう。おれは身構えた。心のなかで追い払おうとする。
 「その髭、アサハラショウコーを意識してるんですか?」
 沈黙。おれはなにも答えなかった。かの女を睨みながら、かの女を怖れていた。
 「──いいえ」
 終わった。仕事がだ。ビニールのシャッターがひらき、作業員たちが退去していく。その群れに潜り込もうとおれは歩を早めた。さっきの女がほかのばか女どもに話すのが聞えた。
 「ナラザキさんの髭、アサハラショウコー意識してるんだって」
 おれはおれの髭を撫でた。いったい、それがなんだっていうんだ。女の底知れぬ悪意に怯えながら、おれは協同クリエイトにもどった。着替えをし、2階の事務所で日当をもらい、階下に降りる。女たちはまだ上でわいわいやっているところだ。男たちも雑談に忙しい。それを狙っておれはあの女の自転車を見つけると、サドルにむかって尿をした。バナナ女め、くたばりやがれだ。──おれが立ち去ろうとしたとき、中年男がこっちを見ているのに気づいた。いつも帰りに一緒になる男だった。一瞬戸惑った。でも、ここでは紳士協定だ。おれは「おつかれさまです」と会釈して、そのまま、いやできるだけ早く、帰途に就いた。バナナはもうたくさんだった。もう2度と見たくない。港湾都市の交通網に逃れ、自身を慰め、時のはざまのなかでさ迷うおれの映像が、いっせいに共有され、そのほかの情報とともにバナナの隠語として昇華されるのをおれは室に帰っても、しばらく忘れられないでいた。

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