みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

疫病時代の夢(not found : story)

 

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 欲しいものはつよい繋がり、あるいは拳銃。モーゼルあたりがきっとぼくには似合うだろうと当りをつけた。すべての女は、男からまともな頭を奪い去ってしまい、それきり帰っては来ないということに、もう15年以上も悩んでるのはたぶん、ぼくが過ぎ去ったことにこだわるせいだ。キーツ詩学についての本をぼくはあきらめた。ぶ厚い本のまえでは、辞なんか無力におもえたからだ。それにキーツは、かれにかかわらず、すべての英語詩は原語で理解するべきだと突如としておもったからだ。きょうは銀行のキャッシュバックで¥159入った。それで9食分の麺を買って帰った。雨が降り始めた。五月雨のつづく窓、そして空調機の運動が絶えずにぼくの脳を刺激する。過去、過去、過去、みな過ぎ去ったひとびとについてのおもいだ。
 いま室に立ってるのは13年まえにぼくを嘲ったふたり組の同級生、そしてなんとも輝かしかった数人の女の子たちだ。ぼくは問いかけもせず、ただただかれらかの女らに現在のぼくの姿を見せ、品定めさせる。3回、ぼくは笑った。そして悪態をついた。成長出来ないじぶんの人生を呪い、そして消費する、一連のロング・ショット。映像の詩学はなによりもまずカメラの位置を決めることからだ。ぼくは映画になりたい、そうおもってた時期もある。いまはどうか?──まず、詩人にも、歌人にも、小説家にも、画家にもなりたくない。ぼくはまともな男になりたかった。
 もう10年もこの街に暮らしてるというのに、ぼくは正常さから放逐され、だれとの繋がりも得られてない。ぼくの話を聴いてくれる友人がたったひとりもいない事実、ぼくの内奥を充たしてくれる、たったひとりの恋人もいない事実。あらゆる事実のなかで極だった事象がぼくを追いつめ、丘のうえに縛りつける。この議論だけが先走った思考をモーゼルで吹っ飛ばしたい。12歳のぼくを執拗にからかった中学生のふたり組、そしてユカコとのささやかな交流を踏みにじった担任の禿げ頭とか、あるいは18歳のぼくに笑いかけたユウコのことなんかを懐いだしては室に配置する。
 長い童貞の時代の終わり、ぼくはバーテンをしてた。それを懐いだし、当時の同僚たちを配置する。貧窮院での苦しい戦いの毎日を懐い、その住人たちを配置する。あるいは29歳のぼくがソーシャル・サービスを通じて罵った、数々の同級生たちを配置する。どうしてこんなにもおもってしまうのか。それはぼくがじぶんの人生に納得がいかず、また折り合いがついてないからだ。酔うと電話をかける。醒めると後悔で潰されそうになる。ぼくはもうじき37だというのに、決心も覚悟もつかないでいる。ひとつのことに的を絞ってうごけない。音楽はどうするんだ、商業イラストについて勉強はどうなる? 答えのないまま、じぶんの内奥を、じぶんで充たそうとしてマスを掻いてるだけだった。実際のところ、公に創作をやってて、だれもおれに声をかけた過去の人間はない。まさか、ぼくのような人間を赦し、迎えてくれるようなやつなんかいなかった。かつてはじぶんが歓談の中心にでもなって、花を咲かせる空想もした。3ダース以上もの会話を考えだしたこともある。だけれど、ぼくのところにはだれも来やしない。褐色の時代、コロナの時代だ。もっともっと耐える必要があるだろう。仕事はずっとしてない。3月の冷蔵倉庫からずっとだ。障碍者たちの作業所に通ってる。工賃は皆勤で1万だ。ぼくは広汎性発達障碍といわれてる。ぼくは動画の編輯をちんたらやりながら、その日暮らしだ。なにか、ほんとうにやりたいことにむかって生きてみたいが、それがなんなのかがわからない。文学は好きだ、だけど大した読書体験や人生経験があるわけじゃない。絵も好きだ、だけど、商業作品をつくる技術はない。写真も好きだ、だけどろくな機材もない。音楽も好きだ、だけどギターといい、作曲といい、確かな知識や腕があるわけじゃない。絵を磨けば金になるかも知れないけれど、飛び込んでゆく勇気がぼくにはない。
 でも、とにかくこの疫病の時代に生き残って、やれることをやるほかはない。今月になって絵の教本を買い、イラストの勉強を始めた。じぶんがこれまで書いた線と、まったくちがう線を描くのは苦痛だった。長いストロークで鉛筆を持ち、人物のバストアップをなんども描くのも苦痛だった。愉しさのなかに学びがあると信じてたぼくにとってはキツいことだ。
 ふとぼくはふり返る。ぼくのうしろの撮影隊に目配せをして、床に倒れた。照明が顔に当たって、なにもかもが真っ白になる。言葉のない世界で監督が手をふった。かれのポケットには花が咲いてる。いくつもの妖精がガン・マイクのまわりを踊ってる。やがて撮影が終わって、ぼくは起きあがる。ぼくはひとり芝居をしてたんだ。ちくしょうめ。眠るほかにできることはなかった。数千の妄想のなかで眼を閉じ、そして横たわる。なにかもがうまくいかない。

 海のなかの眼。ロサンゼルス分類から除外された家具のためにコラールをつくろうとする歯科医は、婚前旅行が楽しみでならないという午后のニュース。生まれたばかりの独裁者がキャンディバーを嘗めるころ、牛殺しの山男が回転式のナイフを特許申請する物語が放映される。でも、連続12回はちょっとキツい。涙ながらに母が裁縫する姉の産着が、膨張して家を破裂する希望を抱いて私立大学の門を叩く。切り開かれたダビデが空洞の裸体で街を破壊する夢を見る水牛の1日が、失われた女の顔を、さらばさらばと手をふってるのが一段と赤くなる。星の受像機にはくだらない詩人たちの遠吠えがノイズになり、伝統詩形の産みだした塵が「歴程」を焼き滅ぼす。それはきっと長い溜め息のように美しい曲線だからか、交響曲を作曲したい。ぬかるみのなかで片足が爆発する。そして追いすがる馬たちが・・・ ・・・。

 2時間かけてぼくは室を掃除した。まずは箒で抜けた髪や陰毛、埃を集め、それから床に洗剤を噴射して、雑巾とブラシで磨いた。なにかやりたかったことがほかにあったのかも知れないが、できることはこれだけだった。PCで映画を流した。サリンジャーの伝記映画だった。かれの作品は「ライ麦」のほか、読んだことがなかった。映画も掃除も終わって、サローヤンを読んだ。「空中ブランコに乗った勇敢な青年」を読んだ。たかが11ページの掌篇のなかにさまざまな感情があった。さまざなおもいが存在してた。
 ぼくは蒲団で腹這いになって読んだ。気づけば17時を過ぎてる。夕餉に鶏肉を焼いた。肉はもうない。あとは16食分のうどんと、11食分のフジッリ鯖缶だけだ。希みを持ってなにかにむかうには遅すぎたような気もする。もし、もっと若かったらとおもうときがある。だけど若いだけではなにもなせない。環境だ。それが整っていなければ戯れごとだって嘔けやしない。ぼくはずっと放浪のなかにあったし、じぶんという存在、他人という存在にほんとうにうんざりさせられてきた。ぼくのような気狂いがなんの助力もなしに、やっていけるほどこの世界は甘くない。ぼくには助けが必要だ。独力で生きる力がない以上は、合法的に生活するための助けが必要なんだ。むかしのように盗みをくり返すわけにいかない。そのために意識の統合が必要なんだとおもう。超越瞑想のレクチャーを受けようとも考えたが、いまは虜の身だ。自由が効かないとき、なにをするのか?──けっきょく書く以外にはない。
 つよい繋がりも、モーゼルも手に入らないのなら、けっきょくの空白そのものを書く以外にできることはない。物語が始まらない? じぶんの声がわからない? なにが最善かがわからない? いいとも、それに抗ってやろう。ぼくにできるのはそれだけだからだ。微笑して過去を見るべきなんだ。まともにやっていくには少なくとも、そうでなきゃならない。

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 ぼくの人生の原理は、他人がじぶんとちがう顔をしてるからといって怒るみたいなものなのかも知れない。多くの人間がぼくから離れていった。環境のちがいだったり、すれちがいだったり、ぼくの猜疑心と敵意のためだったり。かつてほどではないにせよ、いまも劣等感と焦りでいっぱいだ。作品は注目されない。仲間といえる人間も、読者と呼べる人間も少ない。大ウケするような作品は読めないし、そもそも書けない、好きじゃない。じぶんが見てきた世界をじぶんのやり方で投影しようという試みはいつも期待はずれに終わる。この文章がそうであるようにエゴと作品とを混同するは、挙げ句に愚痴だけ書いて、物語を発見できないまま終わることもしばしばだ。ぼくは小銭を数える。あと¥8がすべて。今月はもうなにもない。作業所とマス掻き、そして少しの音楽だけ。金のためにやりたくもないことをするには時間がなさ過ぎた。人生の大事な部分を失ってしまったぼくにとってはいまこそがすべてだ。疫病さえなければもっと自由になれたものを、いまはただ室のなかで言葉の無駄づかいをしてる。もはや空想のなかにですら恋人はなく、現実のどぎつさを紛らわしてくれるのはスコッチくらいになってしまった。そしてスコッチを買う金もない。気づくとスクリーンはからっぽだった。ぼくには観客がいなかった。坐席を抜けて、映画館をでると、いつものぼくの室があって、ぼくを待ってた。PCを起動し、音楽をかけ、なにかが頭のなかで起爆して、想像力を刺激してくれるのを待った。時間はたっぷりある。じぶんを律するためには書く以外にない。けっきょくはそう信じて椅子にかけた。なんにせよ、やるしかない。それが夢でしかないとしても。

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