みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

仕事探しと映画「シン・エヴァンゲリオン」

 


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告【公式】

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 ようやく仕事が決まった。青果物の仕分けだ。時間は11時半から20時半まで。場所は南公園。ポートライナーで20分ほどのところだ。それでも安心できないのは身体の圧倒的な衰えからだ。足腰が弱ってしまってるし、階段を昇るのも一苦労。去年から筋トレをサボってしまってるので、腹筋すらうまくいかない。焦って、やってみるもさらに焦るだけだった。それでもしばらくはつづけるしかない。やれることはぜんぶやってしまうことだ。

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 「新世紀エヴァンゲリオン」をはじめて見たのは、小6のころだった。22話の後半から見た。おれの故郷じゃテレビ大阪系列はほとんど映らない。ノイズだらけの画面のなかで、アスカが精神攻撃に苦しむさまを見た。それからしばらくして漫画を買った。それから中学生になってビデオを買ったり、クラスメイトに貸してもらったり、深夜放送を見たりして、じぶんのなかで補完してった。春と夏の映画にもいった。当然ひとりきりで。おれには友だちがいないという事実に気づきはじめたころだった。言葉を失うほどの完成度に圧倒された。今年の1月に旧劇のリバイバル上映にいった。映像の凄さよりもテーマのシンプルさに気づかされた。つまるところ、「ひとは他者がなければ成立しない」ということだ。それから新作は延期され、ようやく9日になって「シン・エヴァンゲリオン」を観た。はじめて予約して発券して観た。長い作品で、終わったときにはひどく疲れてしまった。大勢の観客にかこまれて、おれは映画館をでた。あの場面はなんの意味があったのか、あの科白にはどんな意図があったのか、なんてことをぼんやりおもいながら帰った。それから何日もネットの書き込みを見た。大勢の根拠ない解釈や、跳ねっ返りのつよい戯れごとなんかも混ぜて読んだ。
 おれがおもったのは情報量に対して描写が追いついてないということだった。わざわざ解説が必要なものを映画とも、作品とも、おもえない。まあ、例外もあって「神々のたそがれ」ぐらいの作品なら、おれは赦すだろう。でも、今回は情報を鬼のように吐きだす、あの衒学的なつくりが、もはや時代錯誤にしか、おもわれなかった。そもそも物語を伝えるまえに余計なノイズが多すぎる。作為というものが剥きだしの感情を拒絶する。キャラクターの人数も多く、そのバックストーリーも多い、設定も多い、専門用語も多い、その作品にさらに人物を、設定を、いろんなものを追加していく。正直、胸焼けしてしまう。情報と物語の均衡がとれてるとはいえないし、物語に情報を支える強度があるともおもえなかった。
 たとえば、マリというキャラクターはこの新劇に存在してなんの意義があったのかは疑問だ。シンジとあまりにも接点を持たないまま安易に繋がってしまいってるのが、いけ好かない。いったい、マリはゲンドウをどうしたかったのか、ユイについてどう考えてたのか。わからない。「渚指令」というのもわからない。梶リョウジとの関係も不確かなままだ。映画は2時間以上、たっぷりの時間を使ってた。わるいのはキャラクターでもエンディングでもなく、欲張りな脚本と、ほとんど無意味な衒いに終わってる設定だ。あとはCGの不出来だ。肝心な戦闘シーンは重力、物量といったものを感じさせないし、巨大化されたレイの場面などで痛々しいほど違和感をだしてる。
 だからといってこの映画のすべてがわるいとはいわない。少なくとも希望的な結末に繋げられたことは賛辞を送りたい。最後の最後でシンジの声が変わってるのは残念だが、なんとかあの結末にもっていけたのはいい。ただやはり脚本と構成にはどうしても疑問しか残らないというのがおれの私見だ。あれもこれもではいけない。これがそれしかないんだ。それと正直、貞本義行薩川昭夫もいないエヴァは淋しい。

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 ところでおれの新作を佐々木英明氏(寺山修司記念館・館長)がTwitterでアップしてた。これといって特筆に値するものではないが、ともかくだれかが作品に興味を持ってくれたらとおもう。

 

 というわけでなんとか、週末も乗り切った。残金¥3000と少し。少しでも筋トレして仕事をするしかない。おれはここで立ち止まるわけにはいかなかった。ただそれだけのことだった。鯖缶を喰い、紅茶を呑み、だれもいない室のなかで、さむざむしい散文の荒野にまみれ、そして死んでいった架空の人物たちに懐いを馳せたりもする。そういうことだ。

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