みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

断章

   *

 おれはTwitterで、ほかの詩人たちと繋がろうとしない。ひとと繋がることになんら、神聖なものを感じたりはしない。鬱陶しい決まり文句をお互いに嘔いて、これからはじめる道連れになんら花を咲かす気にも、おれにはなれない。糞づまっているからといって、なし崩しに手を組もうなどとはおれはおもわない。かつてもいまも孤立しているというところではおなじだ。肉親とはすでに縁がない。分籍もした。姉や妹たちとはもう10年会ってない。血というものほど排他的なものはない。ひとがおもうよりもたやすく親たちは子供を殺すだろうし、子供は親を殺すのだ。夢のなかにかつての関係性の残滓が浮かぶ。おれにはなにもできない。いまは金も職もない。あしたには20日の前払いがいくらか入るらしいが、せいぜいのところ、たった5千で、それでどうにか救われるという金額でもない。孤立、そして立身できないおれ自身についてひとに語ったところで、なにもならない。
 坂口恭平というひとが自殺者防止のために電話番号を公開していた。かつてヘリウム自殺に失敗したおれはかけてみたのだが、いっこうに繋がらず、繋がっても「あしたにしてくれ」といわれ、さっき書けて繋がって、話をした。たぶん、おれのような人間にはもともと用のない人物だった。かれがわるいというわけじゃない。ただおれはおれの在りようにさえ、あまり切実にはなれなかったということだけだ。孤立についておれは話さなかった。友人がひとりもいないこと、恋愛もしたことのないことを、おれは喋らなかった。話はおわった。
 おれの散文を読んで、どれだけの人間が、おれという人間に失望してるのかがわかって来た。おれはだれにも笑顔を見せないし、すぐに泣き言をいい、拳をふりあげる。まったく、救いがたいことに差し延べられる手を払いのけ、唾を飛ばして来たのだ。いまになってこんなことを書くのも、積年の憾みと、功名心、そして人類とは隔離された存在としてのおれが、さっきの電話で、すっかり精気を喪ってしまったからだろう。ああいったものに感化されるひとびとはひととの繋がりをよほど神聖視しているようにおもう。おれにとっては大方の人間は社会の軛を喜んでいるようにしか見えない。たやすく友だちをつくっては、その関係性に苦しめられる咎人のようにおもう。おれにはひとの助言も慰みも、蚊がつくった痒みのようなものにしか感じられない。もちろんのこと、1部の人物を除いてだ。だが、こうにも多くのひとが繋がることを求めるなかで、おれはやせ我慢のようになにもしないでいる。だれのためにも、じぶんのためにもならないことをやりつづける。おれは笑い方を忘れてしまったようだ。いまは金がない。想像力も働かない。余剰過ぎる時間のなかで、ほんとうに心一条に打ち込めるものが見つからない。
 おれはおれのルサンチマンにすら見放された。もはや、かつてのようにじぶん以外の人間をまっとうな社会生活を理由に、頭上において考えはしない。かれらかの女らもただの人間で、べつにじぶんのような人間が特別劣っているわけでも、変わっているわけでもないことを知ったからだ。過古は過古へ。塵は塵へ。劣等感をいつまも変わらず、保存できるのは社会のなかに身を置きながら、苦闘している人間ぐらいなものだろう。まあ、1日で仕事を喪ったのは事実だが、だからといって、おれがすべてに於いてわるかったとはおもわない。わるい情況が重なりすぎただけともいえる。しかし、苦々しいことにおれが世界を視る姿勢はまるでアンリ・バルビュス「地獄」の主人公、そのもののようにおもえる。壁の穴から隣室を覘くようにおれはこの世間を視ている。
 驚きとか、警告とか、そんなものはない。ただ静かに終わってしまう世界で、おれは壁の世界を通して、ものを書き綴るしかないのか。もはや、だれにとっての内部者になれないまま老いてしまうのか。不安はつきないが、こういった不安はじぶんでどうにかするほかはなく、他者に助言を乞うとか、電話で解決するとか、そういったむだな行為に走ったところで、さらに苦しむはめにしかならないということをきょうは学んだ。

   *