みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

バナナな日

 


   *

 夏の陽ざかりのなか、南瓜の梱包と荷積みが終わって、みんなが苺や林檎の検品と袋詰めに狩りだされた。寒いくらいに冷房の効いた上組という会社の倉庫のなか、おれは午後の作業が始まるまでを待っていた。こういった単調な労働ばかりしていた。腰を入れて働くことにも、関係性を築きあげることにも、まったく興味が持てなかったからだ。男たちは灰色の作業服、女たちは黄色いヤッケを着て、待っている。おれは期間作業員として、協同クリエイトに雇われていた。春から秋までのあいだ、いくつもの営業所をまわされ、けっきょくは兵庫に落ち着いたというわけだ。スポーツドリンクを水筒から呑んでいると、女がやってきた。
 「あの、何歳なんですか?」
 「35歳」
 年齢を訊かれるたびにじぶんが歳をとったようにおもえる。
 「そうですか」
 髪のみじかい、若い女だった。もっといえばかわいげのある女だ。要領を得ない顔で去ってった。いったい、年齢なんか訊いてどういうつもりなんだろう。おれは訝った。かの女はそれきり、おれになにもいわなかった。いったい、おれの齢がどうしたっていうんだろう。午後の作業が始まった。おれはパレットに積まれた林檎の凾を降ろし、ローラーのうえに置いていく。女たちが林檎を検品して、やがて6つずつ袋に入れ、最期にシールを貼る。そしてまたべつの凾に入れ、パレットに積んでいく。積むのは男だ。パレットがつぎつぎと搬入される。指示をする男が声を荒らげて、命令を下す。そんなことがずっとつづいた。検品のほうはなかなか進まない。おれはやり場を喪い、落ち着かない。けっきょくは検品を手伝うことになって、傷物や黴の生えた林檎を白いビニール袋に投げ込みつづけた。あるいは6つそろった林檎を薄いビニールに入れ、並べたりもした。じぶんのやっていることが、とことんばからしくおもえてしまうのは、いったいどうしてだろう。人生についての焦りがひとつ、じぶんに対しての苛立ちがひとつ、まわりのひとびとへの不安や怖れが4つあった。おれは歳をとるほどに、ばかになってしまったような気がして、なにもかもがいやになる。それでも時間になってしまえば残業もなしに仕事は終わった。日当をもらい、着替えて、中央市場駅まで歩く。地下鉄で帰って、室のなかに落ち着く。
 ちかごろは書きものもやめてしまっていた。年始めに短歌をつくって、賞に送ったくらいで、ほかにはなにもしてない。作家になりたという夢はまだ生き残っている。それでも、なにを書くのかがまるでわからないままでいた。新鋭とか、あたらしい才能だとかいわれて、じぶんよりもずっと若いやつらがデビューしてゆくなかで、おれは取り残され、血に飢えて久しい、ていたらくだった。――今年こそ、歌集をだそうなどとおもった。でも、詩の世界にはもう飽きあきしていたし、だれもそんなものを望まないことにも気づいていた。おれにはなにもできそうにない。黴臭い蒲団のうえで、おれは過古の作家たちにおもいを馳せた。まるで千通りの人生を生きてきたようなひとびとに焦がれた。棄てることのできない欲求のなかで、じぶんの位置を見失い、そして失速してしまうまで、おもいを滾らせ、そして睡眠薬を嚥む。あしたもまた仕事が待ってる。
 6時半には起きて朝餉を喰った。それから8時に間に合うように地下鉄を乗り継ぎ、中央市場で降りた。そこから20分歩く。協同クリエイトの兵庫営業所。汚れた建物に入り、1階で着替えを済ます。それから2階へいって、じぶんの配属を確かめる。5階だった。別棟の5階でバナナか、アボガドの検品をやるんだ。女たちの笑い声が、かの女らのロッカールームから零れている。おれは朝礼を待った。主任がでてきて、入荷状況を説明する。それからみんなでラジオ体操をした。みんながいい加減に手をふったり、腰をねじったりをやる。おれは憂鬱だった。またも品のない女たちのからかいの的になることにうんざりしていた。
 ヘルメットと鞄を持って、地階に降りて、上組倉庫の別棟にむかった。エレヴェータで5階にあがり、荷物を置き、ヘルメットをかぶった。フォークリフトの浅黒い年増女がバナナでいっぱいのパレットを作業台のまえに寄越した。みんなが作業台にローラーをふたつ置き、ふたりの女が鎌を持ち、袋とシールを用意した。おれは凾をひとつずつ降ろして、なかのバナナを作業台にあげた。まえの女がバナナを3つごとに切り、うしろの女たちが袋に入れてシールを貼って、段ボールに入れ、ローラーに流す。最後尾の男が凾に蓋をして、パレットに積む。いつもの倉庫よりも楽な仕事だったが、女たちはやたらにツンケンした態度をしていて、なにもかもやりづらかった。
 「プレート、ください」
 寸づまりな体の女がいった。小肥りで、鼻が尖ってる。茶色い髪を真ん中でわけ、無愛想にこちらを見た。プレートを倉庫のうしろから持って来る。かの女らはプレートと呼んでいるが、ここがヤマトなら折りコンと呼ばれてるものだ。おれの室にもふたつある、折りたたみ式のコンテナ・ボックスだ。
 「もっと急いでください」
 無表情でかの女たちはいう。おれは頭のなかで、存在しない過古や未来について幻視する。バナナで作業台はいっぱいだった。あたらしい凾を降ろさずに、バナナを鎌のほうへ押しやった。10時45分になって休憩になった。大半のやつらが階段を降りていく。おれは残って、スポーツドリンクを呑み、逆さにした、ビールケースのうえに坐った。女ふたりがおれを怪訝に見ていた。ひとりは痩せていて、もうひとりは太っていた。いったい、なにが気に喰わねえというんだ? おれは腐った胸のうちで唾を垂れ、そしてそっぽをむいていた。
 「好きな食べものってなんですか?」
 なんだってそんなことを訊く。おれは一瞬硬くなってしまった。まったくいまの情況に関係もくそもない。
 「リングイネです」
 「なんですか、それ?」
 「パスタの1種です」
 女たちは黙った。これで終わりだと安堵した。でも、終わりじゃなかった。
 「有名人で、だれに似てるっていわれたこと、あります?」
 ひょっとして、この女たちはアンケートでもやってるんじゃないかとおもった。それもくそくだらないのを。おれはだれにも似ていない。そいつはおれがいちばん知ってる。いつかの入院中に水泳のキタジマに似てるとは看護婦にいわれたが、そんなことはなかった。
 「べつにありませんよ」
 「でも、どっかで見たような気がするんですよ」
 「そうですか」
 おれは視線をそらした。かの女たちはおれを見つめる。どうにもおれは珍獣扱いを受けてしまうようだった。どこにいっても異分子であるのを1発で見抜かれてしまう。やってられない。 やがて、つぎの作業になった。それも終わって昼食になった。おれは車道を横切ってファミリーマートまで歩く。貨物トラックが何台も違法駐車して、運転手たちはなかで眠っている。道にはかれらのだしたごみと雑草で汚れていた。おれはサラダチキンとエナジーバー、ウィルキンソンを買った。早々と喰って、5階にもどろうとする。倉庫まえのベンチに坐った、さっきの太っちょ女がおれに声をかけて来る。
 「なに買ったんですかあ? ビールですかあ?」
 おれは自棄になっていった。
 「いや、ウィスキーですよ」
 「楢崎さん、好きな球団はどこですかあ?」

   *

 おれは作業場にもどって時間を潰した。チャンドラーの「高い窓」を読みながら、時間に耐えた。耐えるのはむつかしい。痩せた女がひとりビールケースに坐って、電話をいじくってる。おれにはどうだっていいことが、やたらに眼をついてしまう。またなにかいわれるのかを意識してしまう。無意味な緊張感がして、おれは読んでいる本の文字列にまったく没入できなかった。
 作業が再開しておれはホッとした。感情を抑えて、ただただ凾を降ろし、開けて、なかのバナナを台のうえに抛った。痩せた女が鎌で剪って、個数を揃え、つぎの作業にまわしていく。薄汚れた倉庫のなかで荷を捌く。もう3パレットまで来ただろうか。埃っぽい空間で、廃棄のバナナが増えていく。いっぱいになった袋の口をテープで閉じ、段ボールの輪っかを外す。それからあたらしい袋を段ボールの輪っかで補強し、廃棄のバナナを投入していく。3つの袋がいっぱいになったら、フォークリフトがそれらをパレットごと片づけて、つぎの袋の支度をする。
 「ナラザキさん、お腹でてますね」
 痩せた女がいった。その通り、おれは太ってる。でも、いまいうべきことなのか。おれは「あなたこそ、口がわるいですね」と返しかけてやめた。こんなところで下手を打ちたくない。敵をつくったところで仕事が終わるわけじゃない。おれは苛立ちを咬みながら、作業をつづけた。16時50分になってみんなが片づけをはじめた。ローラーをもとにもどし、空凾を処分して、プレートを倉庫のうしろにもどした。掃き掃除をして、それぞれが荷物を取る。痩せた女がまた近づいてきた。
 「ナラザキさん、その髭、麻原彰晃のマネですか?」
 あくまで吹っかけるつもりでいるんだ、この女は。おれが怒るところが見たいらしい。だけどおれは相手にならなかった。疲れ切っていたし、そんなことで仕事を喪うのもばかげたことだったからだ。でも、ほんとうのところは怒る度胸もなかっただけだ。地階にいくと、かの女はほかの仲間たちにも話してた。顔立ちこそわくなかった。かの女はちびだったし、スタイルがわるかった。
 「ナラザキさんの髭、麻原彰晃のマネみたい」
 どうしてああも悪意を嘔けるのか、まったく理解できなかった。夕立ちで湿った地面をみんなが歩いていく。おれは屈辱を押し殺して歩く。なんとも苦しい時間だった。バナナに塗れた、バナナな日よ、おまえはどうしておれをそっとしてくれないんだ。呪詛をくり返し、日当をもらい、その足で酒を買って帰った。呑みながら歩き、あしたはいちばんキツいキンタンという作業だという事実に、えらく打たれながら、雲の裂けて消え失せていく夕空をしばし羨んだ。どうしてあの女たちは人間らしさを喪っているのだろう。なぜあんなものいいができるのだろう。育ちのわるさとか、仕事の環境とか、いろいろ考えてみたものの、しっくり来なかった。いっそ訊いてみるがいい、どうしてそんなに口さがないんだって。――でもおれはなにも訊かないだろうってことはわかっていた。かの女たちには教養もない、本なんか読んだりもしないんだろう。おれの想像のつかない、反文化的な生活におのれを投入し、浪費しつづけるだけの被造物に過ぎないんだ。くそっ、なんてことだ、おれはこれだけ本を読み、咀嚼しているっていうのに、なんにも反撃ができない。おれは意気地なしだ。のたくれやろうだ。くそっ、いままで表現してきたものの、ひとつでさえも役に立ちはしない。
 帰ってチャンドラーを読み、また創作について考えてみた。おれにはどうして小説が書けないのか。ひととの交わりが足りないのか、他者への洞察が足りないのか、その両方なのか。おれは蒲団にうずくまってじぶんの不出来を歎いた。どうか見棄てないでください、チャンドラー卿、どうかおれを作家へと鋳造してくださいまし、森花幸先生、そしておれの幻影のなかのうつくしい女たちよ、おれを毒婦たちから守り給えよ。おれは長いこと、祈った。そしてひらめいたフレーズを、題名を、紙に書いた。

  不在の天使たち
  ニック・ケイヴ、あるいは不機嫌な天使たち
  月面の侍者

 すんなりと、3つの題名が浮かんだ、やったぞ楢崎郁己よ。昼のあいだ、ばか女たちにへし折られた鼻を元通りにしておれは立ちあがった。やったぞ、今度こそ書いてやるんだ。――そうおもって机のまえに坐った。でも、さっきあったはずのイメージはどれも生彩を欠いていた。なにをどういじっても、いい文章が浮かばない。砕かれたおもいで、椅子のうえに呆然となり、おれはなにもかもを喪った気がした。
 だって、もはや35になるってのに、ろくな物語さえおれには書けないのだから。いったい、なにをやって来たんだろう。いまさら小説なんてだめかも知れない。絵でも描いたほうがいいのかも知れない。
 9月になるまで働いた。おれの事情についてやたらに訊きたがる男たちに手を焼いた。べつの仕事が決まってるとか、そんなうそを吐いた。でも、女たちに較べればかれらには邪気がなかった。悪意が感じられなかった。やがておれのことをほんとうに心配していると知った。
 「おまえ、つぎの仕事にいったら簡単に辞めるなよ、いまはどこも厳しいんだからな。おれらだって歳喰ったらもう生活保護受けるしかないしな」
 長谷川という細長い棒きれのような男がいった。
 「そうやで、おれら1日7千もらって、あとはなんの保障もなしや。おまえ、がんばれよ」
 中山という茶髪の中年がいった。
 「ええ、それはどうも」
 最終日の仕事を終えて、おれは主任にいった、
 「きょうで期限なので辞めます」
 「そうか、更新せんのか」
 「ええ」
 地階へ降りる。駐輪場で女たちが笑っていた。おれはかの女たちから見えないように更衣室に入った。声が聞える。――あのナラザキってひと、なにいっても、まったく怒らないから愉しいわ!――いっぺんに胸糞がわるくなった。まるで耳の穴に舌を突っ込まれたようだった。おれの魂しいが犯され、悲鳴をあげる。おれは慌てて、駐輪場にでて、女たちを睨んだ。おまえら、くたばっちまえ!――そう吼えたかった。でも、声がでなかった。女らはまったくの無表情でおれを見る。おれはヘルメットを地面に叩きつけた。そして、そのまま帰途に就いた。多くの作家たちが描いた挫折の場面をおもった。おれは詩人にはなりたくなかった。ろくな作品も詩論も書けず、場所に依存するかれらかの女らのことが好きじゃなかった。シオラン箴言をいたずらに捲った。ひらいたページにはこうあった。――《現実はわたしを喘息にする》。
 まさにその通りだとおもった。この息苦しくてならない現実をどうやって破るのか、詩では弱すぎる、短歌もだめだ。散文だ、さもなくば音楽が必要だった。おれにはまったくあたらしい関係性が必要なんだ。だって、そうだろう? このままおなじところにとどまってじぶんの価値が下落していくのを見守っているわけにはいかないんだから。おれは飛んでやる、人力飛行機で飛んでやるんだよ!
 おれは初秋の町を歩いて、歩きながらことばを紡いだ。やがて道が終わり、河が横断する。その河の上流を目指して歩いた。坂のうえの駅、その下のバス発着場に橋がある。そこから河の上流が見える。ここから秋は始まってる、おれはそうおもった。やがて書くだろう、小説のために、この風景を、光景をポケットに忍ばせて、歩きつづけようとおもった。だれもないバスが、ゆっくりと動きだし、やがて坂をくだって港湾都市の心臓まで進むという幻想と一緒になって、おれは坂を降り、アパートへ。そして昏くなったモニターのまえで、キーボードに手をかけた。神は、――神なんか信じないけど――飢えた表現者と、肥え太った現実とをつくりだし、「これで善し」と見給えたことをいまおれは悟った。そしておれは禁酒の誓いを立て、あたらしい小説を書き始めていた。

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Nick Cave & the bad seeds | From Her To Eternity

 

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