みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

アルパカを逃がせ

 

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 じぶんの人生の私家版をとっくのむかしに書きあげてしまった。育成歴、学歴、職歴、犯罪歴、なんでもござれだった。でも、その本はまったく売れなくて、今度の文学イベントにもたずか2冊だけ、タダで配るつもりだった。原価がかかり過ぎた。うぬぼれが過ぎた。わたしはずっと惨めな暮らしをしてきて、これからもそれをつづけることになるのは確かだった。あらゆる鉤に吊され、やがては細切れにされて売られる。そんな嬉悲劇を望んではないのに。見放された作家志望の男として、36歳の凡夫として、やがては売れ残って、1片残らず、廃棄される、そんな人生の主になるとはおもっても見なかった。だれかが詩で書いたように《おれは注意深く髭を剃る/かつては才能を磨けといわれていた男》のひとりなのだ。
 人生は回転を速める。以前よりは幾分マシになったようなことだってある。歳をとることに怖れを抱くこともないし、じぶんが生涯を鰥夫で送るだろうことにも、だれにも愛されないということにも、なんとなく馴染んでしまった。そしてかつて憬れたすべてのものが、どうしようもない愚作に見える。まあ、歳をとって善くなるのは蒸留酒でたくさんだ。最近じゃあ、すっかりウィスキーを呑まなくなった。ほとんどはウォッカ、そしてテキーラだ。競馬はやめた。わたしには向かない。夜ぴって海まで歩くなんてこともやめた。眠れない夜は薬で解決できるからだ。悲しみを叙情詩で癒やそうとするのもやめた。悲しみ、そのものを感知できなくなったからだ。多くのひとびとが、わたしの領域から立ち退いていった。わたしもだれかの領域に立ち入るのをやめた。知らないふりを決め込んだ。たとえわたしのそばに溺れる男がいたとしても、わたしなら平気でいられるだろう。母がわたしを見棄てたように、わたしは父を見棄てたつもりになっている。ばかな、あの男なら好き勝手に生きていられるだろう。なんたって、わたしの父なのだ。流れる血の半分はかれのものだ。そして母方の祖父がわたしに言い含めたように嫌悪するべき血なのだ。いったい、なんのために言葉を憶えてしまったのかはわからない。わたしは時折、絵描きだったころの、幼いじぶんをおもう。そのまま、絵だけを描いていれば、数々のまちがいを冒さずとも済んだであろうに。
 10代、20代と、居場所に飢えていた。30代は気楽にやりたいものだ。それでも、このパロールがあるかぎり、わたしはそれに苦しめられるだろうし、またはどこかでひとを苛んでいるかも知れず、その内部に隠された往復運動のなかでわたしは老い、死んでいくのだ。最期の、最期まで手を繋いでくれる、やさしい人間も得られずに。気がつくと、日曜日の朝になっていて、わたしはそとへでだ。たかが図書館へいくしか道はなかった。ひとびとはマスクで顔を匿い、新型の地下鉄車輌へ乗る。わたしも乗る。このまま、この土地から逃げ去ってしまいたい。いちど北陸の田舎まで出掛けたことがある。集団生活をする、若者たちに混じってわたしも暮らそうとしたが、他者との距離があまりに近すぎて、厭になってしまった。わたしはこの土地で、見ず知らずの他人のままで生きることを撰ぶしかない。ものごとはみな過古になり、ひとも言葉もその響きだけが残る。いままでどれだけ、人生を蔑ろにしてきたかを他者たちの顔が考えさせる。

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 図書館と商業施設のあいだの狭い道で、車がエンコしていた。やがて警官たちがやって来て、運転手の男に尋問する。男は見るかぎり、ハンドルにうつぶせになって、なにやら口を動かしてる。人だかりができて、わたしはそこを立ち去ろうとした。大きな悲鳴がした。男の悲鳴が。わたしはなにも見なかった、聴かなかったふりをして、施設のなかに入り、そのまま通り抜けて、歩道に立った。パチンコ屋の電飾がむなしく、光っている。わたしは6年まえ、あそこの入り口で男を撲った。かれに非はなかった。ただわたしは酔ってもいたし、失恋を漂っていた。むろん、そんなこととは関係なく、そのまま逮捕されて、執行猶予が3年と6ヶ月ついたというわけだ。いまではかれのための損害賠償を月に2千つづ払っているというわけだ。おれは北六甲台小学校は、'97年度の卒業生で、ふたりめの犯罪者だ。もうひとりは電車のなかで集団痴漢を女子高生にカマしたスケベやろうだ。あいつはおれよりもずっと運がない。実名報道された挙げ句、実家棲まいであるのがバレてしまい、同級生たちのなかでしばらくの話題だった。いまではかれらかの女らにわたしは完全見限られてしまっている。どうだっていいことだ。遅かれ、早かれ、わたしの運とはそんなものだ。ほんとうの友人などいない。女たちの声がする。
 「それで、そのまま置いて来ちゃったの!」
 「えーッ、それで、どうにもなんないの?」
 「え、だって、だれも見てなかったし、いちおうそんときはまだ生きてたんだから」
 「最悪ぅ。――だってもし、それがあなたのだってわかったら、――」
 「いまごろ、ひとりぼっちでいるのかな?」
 「たぶん、あなたのなかに還って来るって。あしたが来たときにはまるでなにもなかったかのように来て、あなたが目醒めるのを待ってくれるはず、だから、きょうは卵を温めて過ごそうよ」
 「そうだよね、いまごろステレオでも内蔵した制服警官たちが指令を待って充電ポッドに入ってるだろうし、あなたのいう回帰が、神からなのか、資本からなのかがわかる頃合いには、ひとのひとりも死んじゃってて、でも、だれも手を合わしたりしないないんてこともあるはずだって!」
 女たちは去っていった。わたしは信号を渡り、パチンコ屋の店頭テレビのニュースを見た。どっかの遠い街で、若い男が父を殺して逃走中らしかった。凶器は酒壜だった。わたしは帰りにCCをいっぽん買った。わざわざ東門街の酒屋にいって。もちろん無料のライムもふたつ貰った。地下鉄で新神戸までいき、生田町の安アパートに帰る。冷蔵庫をあけてウィルキンソンジンジャーエールと氷をだし、グラスに注いだ酒をわった。そこにライム果汁とピールをくわえ、軽くステアしてから一気に呑んだ。いい気分だった。男たちの声がする。
 「それでおれはかの女が帰るのを待って、ロビーに立ってたんだ」
 「何時になって女は帰ったんだ?」
 「午前4時半だった」
 「それまでおまえは立ってたのか?」
 「いいや、何度か階段に腰掛けてさ」
 「別れをどうやって?」
 「いやあ、べつに、《おれたち終わりだね》って。それだけ」
 「なるほどな、かの女はきみの愛情を喰い尽くそうとしてたんだ」
 「さあな、おまえのほうはどうなんだ? うまくいってるのか?」
 「いいや、こっちもよろしくない」
 「だろうな、女ってのはフルタイムの仕事だからな」
 「そうだ、それにタイムカードもないと来る」
 「おれはおもいだすよ、夏の海辺でかの女を誘ったことを。まだかの女はモノラルだったし、ちっぽけな真空管がふたつあるだけのプリアンプだった。おれの母親はメダカだったし、父親は裸だった、祖父は鶏冠で、祖母は烏賊、兄は放浪癖のある立派なシラカバだった。もう間に合わないのはわかってる、でもおれにほんとうに必要なのは、分割された礼子の黄金幻想だったんだな」
 「なあ、気を落とすなよ。おまえのなかで眠る旋律、いまにもふるえそうな戦慄、とどかないところで泣く殲滅、いまやがて来る前立腺、腺、腺。そして戦場、そして洗浄。溶解するおまえの顔、潰瘍できるおまえの胃腸、きっと手術台、たぶん二度とない、まったく意味のない空前の恋、もっと濃いなにかがおまえを責める、でもそれだけで終わらない。週末ずっとステーキ屋で、繰り返されるおまえのディナー、血の滴るような牛肉なか、おまえの出したスペルマがいま、芽吹いてる。だってそう、そこがおまえの世界、だってそう、そこがおまえの意識、おまえのなかで沈んでしまえ。おれならおまえを救ってやれる、おれならおまえを救ってやれる、おれならおまえを救ってやれる。繰り返される、おなじよな文学!」
 「ところで、そろそろ金返してくれない?」
 「え?」
 「返せよ、いま」
 男たちは去っていった。まあ、間に合わせでもいいから快楽ってものが欲しいものだ。わたしにはもうずっとそれがない。痩せた現実を、空想で補うことはできない。両者のあいだに主従関係を敷くわけにもいかないし、いまさら、他者を求めようにも、学も職も貯金もない30男を相手にするような女なんかいやしない。それにけっきょく、ひとりでいることにもはや馴れきってしまっている。いまさらだれかとの距離をちぢめたところで、愛情よりも憎悪を膨らましかねない。いっときのお遊びならいいが、それ以上は面倒すぎる。人間ぎらいのエセ・インテリに成り下がってしまったようだ。少しは愛と希望を持ちたいものだが、この街が没落していくみたいにわたしの人生もまた墜ちてしまうような気がする。おれは電話をとって詩人に電話をかけた。詩人の声がする。
 「もしもし、中田ですが――」
 「わるいけど、いま忙しいんだよ!」
 詩人も去っていった。独りよがりの夜だけがラフレシアのように咲き乱れる。どうしようもない。酒を友にして、わたしは諧謔曲を踊った。キーボードのうえで。もちろん、980円で買ったキーボードは見事に毀れてしまったが。わたしのなかにはどれだけ使ってもいいくらいに言葉が詰まっていた。ただし、どこを切ってもそこにはなんの感情もなく、愛もなく、ただただ人間らしい営みを喪失したものの、むなしさばかりがあぶれていて、とてもじゃないけど、ひとさまに見せられるものではなかった。未明まで踊ったあと、隣からの苦情を受け、すべての音楽と、すべての言葉、そしてすべての電化製品の電源を落として、次の13時48分まで眠ることにしたというわけだった。

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