Sum Shepard "Motel Chronicles"/ City Lights 1982
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本書は映画「パリ、テキサス」に原イメージを与えたとして知られている。けれどもわたしがこの本を知ったのは、大阪難波のジュンク堂で偶然眼にした、青山南の「旅するアメリカ文学」での紹介と引用だった。それは不可思議な一部分で、しばらくわたしのなかに滞留しつづけた。やがてちくま文庫版を手に入れて、その箇所を繰り返し読んだ。読んでみたんだ。
それこそ飢えた犬のような毎日だった。先の見えない施設ぐらしのなか、午は町を歩き、夜は本を読んでいた。窓から見えるスーパー玉出のネオンサインがぎらぎらとするなかで、その本の文章はどこを読んでも光っていた。
●ラジオが「友だち」だというギタリストを知っていた。彼は音楽よりも、ラジオの声によほど親しみを覚えるのだ。その声の、なにか人工的な質。ラジオを通して聞こえてくる声ではない、ラジオの声そのものだ。遠くにいる人々がすぐ近くで喋っているように錯覚させるラジオの力だ。ラジオに話しかけた。ラジオに口答えした。彼は遠くの方にラジオの国があると信じていた。それはいくら探しても見つからない国で、だから彼はその国から送られてくる声にただ耳を傾けるしかないという。彼はラジオの国から追放された身であり、それ以来、永久に電波を手さぐりし続けなければならない放浪者の運命なのだ──彼を彼の失われた故郷に連れ戻してくれる魔法のチャンネルを、いつか奇蹟的にさぐり当てる日を夢見ながら。
79/12/22
ホームステッド・ヴァレー、カルフォルニア
萩ノ茶屋の貧窮院のベッドに坐って、わたしはこの本と一緒に旅をしたといっていい。この本はおおむね3つのパートが混在していて、ひとつは一人称による過古の記憶、三人称で語られる現在のこと──しかしこのルールは必ずしも正確ではない、──そして詩だ。その作風はカーヴァーやブローティガンをおもわせる。あるいはもうひとつ写真だ。写真のほかにはすべて日付と場所が付されてあって、この本が移動生活のなかで書かれたメモの塊りであることがわかる。劇作家として、俳優として、アメリカをぶらつく男の回想と生活が書きつらねられている。
かわいそうなテキサスが
彫り抉られている
他の至る所と同じように79/3
サン・マルコス、テキサス
わたしは罪作りにもこの本を種本して、はじめての長篇「裏庭日記/孤独のわけまえ」を書いた。現実の出来事、そして空想の物語が交差し、詩が混ざり合うスタイルで1年と3ヶ月かけて書いたものの、こいつはなんの実りにもならなかった。せいぜいのところ、自己観察のざれごとでしかなかった。たぶん、あまりにも物語ということに囚われていたのだろう。とてもじゃないが、そのころのじぶんはこの本にあるような開放感や自由さには遠かった。
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サム・シェパードは77年、ヴィム・ヴェンダースに出会った。そして数年後、出版前の原稿をかれに見せた。当時は「トランス・フィクション」という題名だったという。そしてはじめて書かれた脚本は、交通事故で死んだ男所有の「トランス・フィクション」という原稿をめぐる物語だったという。だが、シェパードもヴェンダースも気に入らず、シェパードが「話を脚色しようとするのはやめて、ストーリーの文字どおりのエッセンスをキャラクターに生かすことを考えてはどうか」といったところ、「ひとりないし、ふたりのキャラクターのアイデアをつくるとこから出発した」。そして生まれたのが、トラヴィスとウォルトだった。そして映画「パリ、テキサス」が始動した。
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いまは帯付きの単行本を持っている。文庫本は'11年秋の出奔でなくしてしまったからだ。
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