みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

エセ詩学の半ダース・パック

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   *

 おれの短歌がイッた。歌集のための前準備が終わったということだ。あとは15年分の作品を撰んで本にするということだ。撰はわが師に任せるとして、おれは来週から装丁のためにラフに手を着けることにした。金曜の長い午后のことだ。おれはもう2年、まともに絵を描いてない。絵を描かない画家もどきだ。せいぜいのところ、年賀状のために描いたくらいで、ほかになにもしてない。暗がりのなかでひとりわが身を慰めるだけだ。蠅が飛ぶ。また蠅が飛ぶ。かれらの呻りにはぞっとしてしまう。ちらかった室のなかで、なにか熱くなれるものはないかとねだる。せいぜいのところ、Spotifyで音楽を聴いてるのが関の山だ。
 ひとりの男としても、あるいはなにかの才能を持った人間としても、おれはまったく要なしのくずだ。絶えまない猜疑心のなかで過古を憾み、未来をも唾棄する。もはや、だれにもかまってくれないというだけの事実。なにをどういってもつづきがない、終わりしかないということ。もはや35にもなってどこにもいくところがない。もう10日も働いてない。港湾労働にもついていけず、また求人を捲ってた。倉庫内作業、あたまにあるのはそいつだけだった。縋るおもいで応募する。いまのところ、返事はたったひとつだけ。あとの連中はこの週末、けつさえ動かさなかったっていうわけだ。おれはじぶんについてるだろう値札をおもい、うつろな気分になる。これではどうしようもない。
 6月の終わりからスリップしてしまった。つまり禁酒をやぶってしまったということだ。救いようもなくまずい安酒に酔って金を失った。気づいたときには誕生日が過ぎてた。35年。おれは所詮は残りもの、あまりものでしかない。なにものかになろうとするもののうずき。あるいは諦観とか、憬れだとか、出世欲だとか、そんなものが頭をもたげる。過古はうつくしかった、──ちがう。ただいまよりも少し可能性があったと推測されるだけのことだ。蠅が飛ぶ。蜘蛛が這う。おれは書く。教室の片隅で生きた淋しさ、冷たい家庭のなかから逃亡を繰り返した夜々のこと、定時制時代に好きだった女の子のこと。おれはけっきょく何者でもない。詩人でも、絵描きでも、写真家でもない。断片的で利己的な営為に溺れ、さ迷ってきただけの男だった。詩や付随する行為たちが、おれを慰めることはない。むしろ追いつめていくんだ、──早く見返してやれと。だが、そうはいってもおれにはけっきょくなにも残っちゃない。おれはかれらかの女らをおもいながら、短歌のかたわらに詩を書いていたんだ、そうとも。
 35年。──おれは同時代人の饗宴や祝福や立身から零れてきた。とっくに遅れてしまった。若さにはなんの意味もないということをおもい知らされる。いまもむかしも要領のわるいばかものでしかない。世界にむかって肛門を突きつける痴れものでしかないということの悲しみをこれを読むだろう、紳士淑女たちにわからせてやりたい。虚勢を張るのはよそう。最近おれが詩と称して書き散らしたものはみな、それらしい語句をそれらしい語句に繋いだだけの工作物でしかない。そこになにか意味があるような、風景があるような書き方をしただけのものだ。そしてミクロ単位でレイ・カーヴァーを模倣してる。ひどい代物だ。こんなもののために死んでいくなんておれは認めたくはない。──最低だ。どうしてもっと詩誌に投稿しなかったのだろう。どうしてもっと売れるもの書かなかったのだろう。それはけっきょくおれに堪え性がなく、安易な解決をいつもしてきたからだ。ほんとうにじぶんを救うために書いてたら、こんなことにはならなかった。じぶんの問題から眼をそらしつづけ、ほとんどなにもして来なかったからだ。
 35年。去年よりは幾らかマシな人生。仕事だってやったし、貯金だってしてる。去年のように万引きで捕まったり、初恋の女の実家へいってわめき、警察を呼ばれた挙げ句、ストーカーとして処理されたことをおもえば上出来だ。でも、だからなんだっていうんだ。すべてはアルコールに魅入られたなかでのことだ。ただそれだけの事実だ。アルコール、おまえはおれをどうするつもりなんだ? おれからわるいものを抽出して蒸留し、世界中にばらまくことか。でも、おまえとはこれっきりだ。ほんとうに。いまのおれはウィルキンソンを呑みながらタイプするだけの存在。ほとんど受け身で他人を眺めてるだけの存在。あいもかわらず、じぶんの問題から逃げつづけてる。そんなおれを笑ってるやつがいる、イレイザー七〇四だ。かの女についてはまえにも言及した。かの女の存在についてはあまりおれを責めないで欲しい。お願いだ。
 「今夜は珍しく書くのね?」とかの女はいった。「まるで、いいわけみたいに書いてるのね」
 「わかるだろ?」おれはふり向いた。かの女は本棚のまえに立っておれを見ている。少し蔑みの色があった。
 「わかるだろ?──もうずっと外界との接触もなしなんだ、気がどうにかなるね。だれもおれなんかに関心なんざ持たないってことがよくわかりすぎてつらいんだ、おい」
 「ぜんぶ、いいわけよ。いいわけの塊。あなたはずっと繰り返してる《おれは悲惨で無様だから赦されるべきだ》って」
 そのとき、おれのなかでなにかが毀れた。おれは立ちあがって、ウィルキンソンを手にとった。そいつを呑み干し、坐ってた折りたたみ式の椅子をかの女にむかって投げつけた。かの女はコンロ台まで吹っ飛んだ。悲鳴さえあげない。だって人間じゃないからな。でも、それまでだった。イレイザー七〇四がおれに突進したからだ。床に叩きつけられる。腰が砕けそうになる。背中にエフェクターやアンプが喰い込む。悲鳴をあげるおれをかの女は足踏みして遊ぶ。
 「ああ!」おれは叫んだ。祈った。「わるかった!」
 「大事なことを忘れているわ」
 「なんだよ、ゥゥゥゥ」
 「あんたの師匠のいったことよ、《女を敵に回して生きてけない》ってね」
 おれの背中でダイナコンプのスイッチが入った。どうやら激しい夜になりそうだ。立ちあがってじぶんの血を眺めた。背中に手をまわして、その色を確かめた。青じゃなかった。
 「そのとおりだよ、ベイブ」
 「これ以上ふざけないで」
 かの女の瞳が紫から赤に変わった。もうおれにはどうにもできない。というわけでこの文章はここいらで切りあげることにしよう。そうしよう。うしろから声がする。いや、まえからだ。イレイザー七〇四がおれをじっと見つめてる。
 「このヌケサク、さっさとしな!」立ちあがって、おれは灯りを消した。

   *

 ということがあったわけだ。べつにどうだっていいけれど、お寒い自己観察をどっかで終わらせるにはイレイザー七〇四ぐらいの怒りがあればいいということらしい。そういえば文藝なんぞをやってたじぶんというのもあったっけ。いま書いてるのはそんなものとは関係ない日常のあれこれだ。同時代の、同世代の活躍なんかどうだっていい。同時代の人間に評価されることなんかどうだっていい。地に足をつけることだ。そうでなくてはなにも成就しない。わかってはいる。では、なにをおたおたやってるのか。それはけっきょく自尊心を擽るからだ。だれのなまえもだしたくはないが、それでもかれらかの女らに反発とうしろめたさを感じる。たしかにおれはじぶんのどうしようもなさを自慢してる。それでどこかで免罪符を得ようとしてるんだ。最近はブログの読者も増え、読み手は存在してるにちがいない。それでも作品を買うとなれば話はべつだ。買うやつなんかいやしない。退屈だ。ソクラテスなら「魂への配慮」とかいいながら、どっかへ歩いていってしまうだろう。でもこれはおれの作品なんだ。永遠にアマチュアで、半端ものの世界。そしてもはやまっとうな生き方、普通の社会で暮らしていくことの遅さをおもう。
 あたらしい仕事を見つけること、マックを買うこと、歌集をだすこと、いまのおれにあるのはそれだけだ。港湾労働にいっても、いちばんきつい仕事をやらされ、軽い仕事をやってるやろうの愚痴を聞かされるはめになるだけだ。やつは40過ぎで、中卒。おれは高卒だというのに5階のバナナとアボガドの検品でなく、べつの地上の冷蔵倉庫でケースのバナナ10段積みをハイ・スピードでと来る。帰りの地下鉄で、おれはやろうと話す。けっきょくおれは逃げるか、やり通すかのどちらかだ。やるときはやり抜く。でなきゃ、はじめからやめておく。おれも所長にあの仕事はできないといってやればいいものを、それができない。けっきょく今月はずっと貯金を切り崩す生活だ。だれだってつらいのはわかってるつもりでも、おれは嘔きだしてしまう。
 35年。いつだったか、宝石商の、もと同級生に詩集を送った。たぶんまた酒に酔ってたんだ。やつは届いたら電話するといったきり。もはやなにもない。実社会で生きることのできない人間なんかだれも相手にはしないということだ。詩を読める人間というのはけっきょく幼年期のまま、ことばが社会と個人、空想と現実に分化されないまま育ってしまったものだけだ。そしてそれがかれらかの女らの無益な特権なのだ。おれはもう他人の書くものを読まなくなった。どれもが耐えられない。たとえ「ユリイカ」や「手帖」の作品であっても読んでいられない。やつらはいったいなにを書いてるんだ?
 「そもそも本屋に在庫がないでしょ?」
 またしてもイレイザー七〇四だ。
 「おれの作品に入って来ないでくれるかな?」
 かの女は少し笑って足を組んだ。わるい足じゃない。決してわるくない。めずらしく服を着ていた。緑色の上着に黒のスカートで決めてた。いつもは全裸なのに。
 「いまさら社会に迎合するの? それとも惨めなりとも歴史を残すの?」
 「おい、そんな設問、答えようがないじゃねえか」
 「どこがよ」
 「だってそうだろ?──社会との繋がりがなければ作品は売りようがないし、生計も立てられない。歴史がどう判断するかはそれを書く人間たちの勝手なたわごとであって、運命でも、決定でもないじゃないか。おれは生きなければならない、少なくとも死ぬまで愉しくやりたいよ。結婚だってしたい」
 「結婚?──頭大丈夫?」かの女は笑った。シニカルな笑いを笑った。
 「おれだってしたいよ!」
 35年。だれにも赦されなかったおれという存在を受け入れてくれる夢魔のような女が現れて欲しいとおもう。だが、それだってもはや忘れかけてる夢だったと気づく。情熱は存在しない。あるのは虚妄と畏れだけだ。おれはだれにもやさしくなれない。おれは黙って室をでた。午后23時。こんな時間にこんなものを読むやつはいない。いつものコンビニでウィルキンソンを買い、生田川の上流まで歩いた。静かな夏だ。なによりも静かで毒気もないが、決してだれも癒やさない夏だ。長距離バスの発着場から河を見た。それから新神戸駅の2階へあがって、小さな本屋をみた。スノビズムの見本市としかいえないよな。かつてはだれもが美しかった、なんてわけがない。ずっとまえから、おれとおなじ階層の人間たちは確実に存在し、その作品とともにして消え去る運命なんだ。おれが帰ったとき、イレイザー七〇四はいなかった。葉書に小さく、なにか書かれてあった。おれはそれを読む。そして泣いた。

 《さよなら どうか、忘れて》

   *

 

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