みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

ヴィクトリア様式の古便所

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 シャシンについて序章

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 おれがまず手にとった父のカメラだった。それから小学6年生の修学旅行でトイ・カメラを買った。110フィルムを使用するやつだ。こいつで卒業記念に写真を撮りまくった。でも現像してみれば、ちゃんと写ってるものは数枚しかなく、大抵は露出不足か、対象の1メートル上を写してしまったものばかりだった。
 中学に入ったころ、おれは1枚の写真に興味を持った。それはエレファントカシマシの「明日に向かって走れ─月夜の歌─」のジャケットだった。写真は佐内正史。アウトフォーカスの夜景がなんともよかった。翌年、映画「ラブ&ポップ」を観にいった。主人公はいつもカメラをぶらさげ、シャッターをしつこいくらいに切る。映画の写真集を買い、戸崎美和を知った。さらに翌年、くるりの「さよならストレンジャー」がでた。写真は佐内正史。いちばん初めに好きになった写真家だ。心底、いい写真だとおもった。でも、そのころおれはまだカメラを持つ気にはならなかった。さらに翌年から音楽雑誌を買うようになって、写真を見る機会も増えた。だれが撮った写真かを確かめるようになった。でも、わたしが最初のカメラを買ったのは18歳になってからだ。スメナ8をネットで買った。多重露光や、バルブ撮影を憶えた。
 そのころ、寺山修司作品に触れるようになり、森山大道に興味が移った。「にっぽん劇場写真帖」の迫力、ど現実さに圧倒された。それからはしばらくカラーをやめてモノクロで撮るようになった。なんとしてもかれの写真に近づきたくて、カメラを持った。しかし'05年の上京でカメラが毀れてしまった。生活もままならず、おれは写真を諦めた。それでもイアン・ジェフリーの「写真の読み方」や「現代写真論」などを読む、写真について考えを巡らしていた。6年経って、'11年の冬。骨董屋で千円のカメラを買った。ミノルタhi-matic。電池は廃番になっていたが、通電を自作して乗り切った。おれはまた写真を撮りつづけた。それらは第2詩集「38wの紙片」に結実した。レンズに疵をつけたアクリル板を貼り、光りが分散するように仕込んだ。

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 もういつのことかはわからないが、ネットで高橋恭司のインタビューを読んだ。かれは生前のブコウスキーとも会ってるという。興味を持って「津津と…―異本ザ マッド ブルーム オブ ライフ」を買った。けれども、そこにブクの写真はなかった。けっきょく小宮山書房で¥3000の用美社版をたまたま見つけて買った。大版カメラで撮られた写真はどれも素晴らしかった。必要なものが必要なだけ、フレームに収まっている。対象に垂直、水平で、なんの気取りもない写真。そこにひどく惚れた。じぶんも大版のカメラが欲しいとおもった。でもそれは断念した。真似をしたってしょうがない。
 去年のある夜、おれはネットオークションで、スメナ・シンボルを見つけた。いまはずっとそれを使ってる。

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──という文章を書いてみたんだが、どうにも浅彫り。写真について辞で語れるほど、わたしは成熟していないということが見て取れる。というわけでこいつは没だ。

 ところで、このブログのサイドバーには「amazon list」というものがある。知ってるか? わたしに活力を与えたい、あるいは堕落して欲しいひとはそこからなにかを送って欲しい。あるいはわたしの口座に投げ銭でも入れてくれるのもいいだろう(作品が気に入ったらお願いだ)。きょうはひさしぶりに港湾労働。食い扶持を見つけるのは容易くない。来月からはもうちょっと楽な仕事を見つけたい。どうか慈悲を、慈悲を、慈悲を、まったくうそのない、とりかえしのつかない人生、そいつを机に叩きつけながら、わたしはこれからも書く。もちろん、こんなことを書いていれば確実にきらわれるだろうけど。

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