みずから書き、みずから滅ぶってこと。

中田満帆 / a missing person's press による活動報告

パンケーキの墓(初稿/2011)

f:id:mitzho84:20190621173609j:plain

 

 

  *


 森からぬけでる。するとぼくらはいつも腹をすかし、手持ちはまるでなかった。ちいさなさまよいを味わい、土埃をまきあげる。それは雨の日であってもおろそかにしない。廃屋のなかや水のない涸れた貯水槽のうえでたびたび誓ったことだった。ぼくらは未踏の道を拓くつもりで来る日もくる日も踏み歩いた。しかし野苺の季節が過古に収まってしまうと、口は淋しく、草笛──ぼくはできない──も長くはつづかなかった。夜の訪れを戸口にそれぞれ家路に就くときにはあたらしい企みが肩に覘いてはいたが、とにかくやりきれない気分だった。

 あんまり腹がすくのでぼくらはたがいにだしあって食うものを手に入れることにした。森奥や真夜中の兵糧となるものを探す。その小金を得るためにちょいとばかしいやなこともした。たとえば古長靴に黄の花を植えたり、納屋に長らく眠っていた遺影たちを起こして回ったり、落ちている車からタイヤを抜いてまわったり、草芽吹く鉛管を欲しいやつに売りつけたりもした。


 ある日曜の朝、台所からふたりの声が聞こえてきた。そんなに大きくはない。しかし両者ともに言葉を尖らし、発声するたびにテーブルを揺らした。やがて父が溜め息をついてでていく。母が溜め息をつき、ほんのみじかいあいま泪する。ガレージのほうから父のグラインダーの金属を削ぐおとが高くなる。姉が二階から降りてきて母に気づく。けれどなにもいわない。ぼくは寝たふりをしたまま耳をすませる。しばらく妹たちが起きてきて、まだ寝ているとぼくを冷やかすころには母はもう平然と朝餉の支度をしていた。ぼくはスープを啜りながら母の顔を盗み見る。泪らしい跡はない。姉妹はかの女たちの世界をしっかり守りながらおしゃべりし、そこにたびおたび母もくわえる。そうしてさっさと遊びに興じる。なにもいわずぼくは食べ終え、父のいいつけがかからないうちに森のほうへ歩いていく。


 ぼくらは森からもっともちかい店を撰んでいた。そこは古ぼけたパン屋でいつも客はなかった。窓はくもっていて主でさえもカウンタのむこうに蔭がちらつくのみで正体がわからず、よっぽど注目しなくては切れかけの電燈があらわす、影絵にしか思えない。そとからそっとわれわれは品定めした。展示ケースのなかに大きさも値段もおあつらえなパンケーキを見つけた。そいつに決めてぼくらはなかにはいる。長年にわたって染みついた埃と油の臭いが鼻を突き、胸のなかを期待が脹れあがる。ふるえるような足どりでカウンタに体を寄せた。どっちが声をかければいい? ぼくがいうと相棒は唇ちをとがらせて答えする。どっちだっていいだろ? ぼくらがぐずぐずしていると、音もなく男が入ってきた。このへんでは見かけないやつで、細身に背広を着て小ぶりの旅行鞄を提げている。さきをこされてはなるまい。ぼくはあわてて声をかけた。このパンケーキをください!

 カウンタの向こうはからっぽでなんの気配もない。いったいどうなっているんだろう。思っていたすきまに小さな声が、新しく焼くから待っていなさいと答えた。男なのか女なのかわからない、皺の多く高い声だ。ふたりしてうしろへさがる。長椅子にそろってかける。男が黙ったまま前へでる。やつはポケットから紙切れをだし、そいつを厨房へ投げ込んだ。しばらくすると包みがカウンタに現れて、やつは支払いもせずに去っていった。ぼくは主に声をかける。ねえ、さっきのひと金を払わなかったよ。──いいんだよ、あれは。なにがいいのかわからないままにぼくらは待った。そのうち窓のなかで雨が弾け、葉っぱが泣き、暮れがちかくなってもパンケーキは焼きあがらなかった。ぼくらは腹をすかせ、たがいに睨みあった。なんだってこんなところに来てしまったのか。

 そこへまたドアがひらき、入ってきたのは女で、それはごみ集積所に生まれた精霊といった趣きの皺くちゃなやつで、罅割れたレンガや雨に降られる、打ち捨てられたガットギターにも見えた。女は茶色い布を外套がわりに巻きつけていて、そこから汚れを吸った滴が床に筋をつくった。灯りのともった怪談屋敷で仕事の終わったもののけを見るようにぼくらはただじっと見つめた。まさに古い時代の西洋おばけそのものだった。女はぼくらが見えないようにふるまい、商品棚をあさると、おき去られて硬くなっている食パンを二斤とってでていった。扉のそとでもう日は暮れていた。

ついていこうぜ。相棒がぼくの肩を叩く。かれはぼくよりも勇敢で好奇心があった。ぼくはうなずいてドアをひらく。パンケーキは焼きあがりそうになかった。ぼくはこわがりな気丈を隠し、落ち葉まみれの暗い道を跳ぶ。えい、やっと! そのむこうに精霊兼ガットギターも見える。ふたりして足早にたどっていけばやつの塒がどんなものか拝めるぞ。ゆっくりと静かに土を進み、径をひらく。あたらしい拠点ができる気がして、よろこばしい思いに浸っていると女がふり返った。なんの表情もない。それは顔が削げ落ちたみたいだった。ぼくらは足をとめ、沈黙にこころをかためる。女はゆっくりと仕掛けの狂った人形みたいに近づいてきた。それは年季のいった骨が音を発てるようにして、濡れた両の手が広がり、ぼくらを包もうとする。そのときになってはじめてぼくは逃げようと思う。でも遅かった。そうしてぼくらは捕まって三年半が過ぎた。そのあいだぼくらは互いの見分けがつかなくなった。


  *


 帰ってきてもまだパンケーキは焼きあがっていなかった。ある夜ぼくらは女の死を看取ってささやかな弔いをした。かの女の正体はまるでなかった。小さな絵手紙が宛名のないまま散らばっているだけで、かの女がどんな人生を生きてきたのかはなかった。くたびれた屋敷をでて、救急に連絡すると足をパン屋に向けた。主はまたも姿をみせない。ふたりは待つだけだった。手のひらには写真がいちまいあるだけだ。それは怪談屋敷で拾ったもので写っているのはおそらくあの女だ。十四、五の娘がレンガの壁にもたれ、微笑みもせずにカメラを見据えている。立っているあしもとに猫がいっぴき尻をむけている。

 ぼくらは墓をいつか立ててやるつもりになっていた。けれど時間は遅く、家や森に残してきた古い遊びや、やらずじまいのたくらみごとが急に気にかかりだした。パンケーキのことなど忘れて、ふりだしへ戻ろうとするこころが湧きだしてきたときだった。ふたたび音のないしかたでドアがひらき、ギターケースを抱えた青年が入ってきた。そいつは倒れこむようだった。青白い顔に汗をしたたらせ、唇ちを震わせながら小銭をカウンタに寄こした。すぐになにかがあらわれて差しだした手に消えた。ぼくらはまたついていくことにした。目の合図ひとつでだ。そとへでてすぐにかれはふたりに気づいた。──きみたち、なにをしているんだ? まるでぼくらがかれを狙う殺し屋でもあるかのように声がうわずっている。ぼくらはくすくすしたいのをおさえて、さあね──ポケットのなかで両手をぐりぐりさせた。かれは恥ずかしそうに顔をゆがめ、おれはおかしいものじゃない、たしかにこの土地ははじめてだが──かれは発見された諜報部員のようにばつの悪い表情で、ポケットからさっき買ったらしいホットドッグをだし、ぼくらにすすめた。──町へでる、だれも通らない道を教えてくれないか? かれがすがるようにいう。これはおもしろい、こいつはきっとなにかとんでもないのをどっかでぶちかましたんだ。ぼくらはこの青年が追っ手に捕まる場面と、ぼくらは首尾よく逃がしてやる場面を空想した。そして目を合わせた。とりあえず、後者を採って貯水池からはじまる登山道へ案内することにした。そこをいけばこの高原地帯から、だれにも遇うことなく、小さな町へでられる。かれと連れだって灯りのない、坂を下りていく。これがまちがいだった。貯水池とお不動さまの、小さな社が見えてくる。──お参りしていかない? ぼくが軽い気分でそういうと、ギター青年は首をぶんぶんふり、一言。──そういうの、怖いんだ。かれにはお不動さまが追っ手と同じに見えるらしい。穴のあいたフェンスをくぐって橋のうえに立ったときだった。大きな灯りがふたつ坂をおりてきて、三人を照らしつくし、まごついているぼくらを車に押しこんでどこかへ連れ去っていった。

 着けば遠い町の演芸場で、青年の正体は逃げだした楽隊の一員だった。かれはぼくらが逃亡を手助けしたと、飼主にいいふらし、ぼくら壁のすきまをふさぐために五年を過ごさなければならなかった。二年経ったある冬の日、かれは河のなかで死体になった。


  *


 ふたたび戻ってきてもパンケーキは焼きあがっていなかった。ぼくらはもういらないといったが、主はできないと告げた。もうそのころには野苺が来ていて、ぼくらはそっちのほうが欲しかったが、待つほかはなかった。またも日が暮れかけて気を焦らせる。ぼくらが窓を見ていたら、でぶでよろよろな老人が名札のついた年月をぶらさげて、音もなくあらわれた。かれはふところから曲尺をだしと、そこらじゅうを測り始めた。カウンタの低さ、ショーケースの狭さ、電燈の笠の半径を測り、薄汚れた壁から過古の亡霊をひっぱがして隠しに突っ込んだ。そして床の陰を集める。なにをしている?──かれはいきなりぼくたちをみた。少しばかり驚いた。だれがですか?──きみらだよ。パンケーキを待っているんだ。それは時間がかかるのかい?──ああ、うんとかかってるよ。老人は帽子をとってくるくる回しはじめた。どうだい、いい仕事がある、ついてこないか?──わかった、いくよ。でもすぐ戻れるだろうね。ぼくらはなにせ時間のかかるパンケーキを待っているのだ。かれがすぐにすむといったから三人でおもてへでた。そこには散歩中の霊柩車のような、黒く巨きな車があって、ぼくらが乗り込むと灰を吹きながら、森や貯水池や、このあたりでもっとも美しい製材所を越え、工業地帯に着いた。老人はぼくらを小ぶりな倉庫に案内した。──さっそくはじめてもらいたくいと老人は作業着を支給して、ぼくらに一通り構内をみせた。それから測定室とかかれた広い部屋に立たせた。なかには長椅子と机、体重計、身体測定器、巻尺が置いてあった。そして記入用紙、筆記用具、クリップボード。老人の合図でひとがはいってきた。ひらいた扉から長い列を組んで女の子たちが入ってくる。かの女らは裸だ。そのあらわになった背中や踝をぼくらは測ることになった。かの女らがなんなのかをぼくらは知らない。昼も夜もそこにはなかった。ひっきりなしに人間どもがやってきた。終わってしまうとたいへんな疲労で、砂浜に埋められる魚のように動けなくなった。老人はぼくらにはやさしかったが、女の子たちにはすこぶるきびしくて、なにかをちょっとでもまちがえたりすれば頭を小突いた。たぶん傷になっても見えないようにするためだ。かれは女になめられるということを異常に怖がっているふうに見えた。

 季節が変わるころ、ぼくらは女の子の何人かと秘密の交際をもったが、いつもふたりでひとりを愛した。かの女たちはなぜかと訊く。安全だからだと決まって答えた。いったいなにが安全だったのか、いまもってわからない。ぼくらはたがいの心の区別がつかなくなった。

 

  *


 もどってくれば二十歳の冬だった。灰茶緑の外套に両の手を入れ、雲をかきまわしていた。窓のなかで雪がステップを刻み、道がみるみる失われ、おまけに暮れが近づいている。パンケーキはまだ焼きあがってはいなかった。ぼくらは店に来るまえにそっと眺めた、我が家について語り合っていた。知らない子供や大人たちが這ったり歩いたりしながら生活していた。赤い車がのっとられ、気ちがいみたいに排ガスをふるい、放熱器を温くさせていた。家具はどれも薄黒くなった中古るで、グラスはどれもはかない炭酸酒にあわ立っていた。──そんなとき入ってきたのは警官みたいな、三人の男たちだった。それぞれ脂に黄ばんだかげを曳き、勝手に売れ残りのパンをむしゃむしゃとやりだした。食べながら莨をふかし、ポケット壜に口をつける。そして太った、ぶっかこうな万年筆で、なにかを手帖に書きつけた。──店主はいないのか。ひとりがいいながらカウンタを越え、厨房にはいていく。だれもいないらしい。首をふって戻ってくるや、ここはもぬけの殻だ。そうつぶやいてまた手帖に書きつける。ゆっくりとぼくらは気づかれないように出ていこうとした。なぜだかまずいような気がしたからだ。しかしこれもまちがいだった。ドアをあけて夜風に襟をなびかせようとしたとき、三人の男はぼくらに掴みかかった。それまでふたりにかまいもしなければ、いないようにふるまっていたのに。──おまえら、ふたりも客か? そうです、なにか御用ですか。なにか注文があるのかね? パンケーキを待っていたのですが──パンケーキ? そいつはなんの隠語だ? 隠語とはどういう意味ですか?

 なにもわからないままかれらはパトカーによく似た車へぼくらを押し込めた。どういう嫌疑があって捕まえるのかを質してみる。男のひとりは誓いを破ったからだといい、もうひとりはパンケーキを注文したからだといい、残りのひとりは気に喰わないからだと吼えた。

 奥行きのない町の書割、大小の非常口、ひと殺しを探す検問を過ぎ、海辺に降ろされた。砂浜に建つ黒い小屋に連れられ、警官もどきの男たちが宣言する。通告があるまでこの小屋のなかで暮らせ。それだけいうとそのまま去っていった。質問はいっさい許されないとつけくわえたうえでだ。ぼくらはなにもいわず、椅子に腰をおろした。長い時間を肋骨に感じた。ひとりだけ若く給仕のようなやつが食事のときだけやってきて、ぼくらと一緒に食した。かれは一言も話さず、きまぐれに本やレコードをぼくらに提供した。小屋に窓はなく、前はシャッターになっていて昼間のみ開放が許された。そのそとは竹の囲いがみじめったらしく周りを囲っていた。ほとんどが無人の海辺、夏にやってきたひとたちは表情のない顔でぼくらを眺め、ぼくらも同じ仕方でみてやった。


 ここは年中薄暗いし、ひと気もなく、冷めた空気が流れている。冬といわず、夏といわず、波がきびしい。なにもかもがまことにささいながら失意を抱えている。昼はあいたシャッターのそとで砂を踏む。それがなによりの生のたしかさだ。夜は波音を聞くしかない。通告はひと月たったところでなにもなかった。給士のようなやつはぼくらの問いかけに答えず、ただやつと睨めっこをしただけだ。かれはがまんしたように口もとをかたくし、時折腹や肩やうなじを小さな動作で、こそこそと掻いたり、なぞったりしてぼくらを黙らした。この拘留の正体やら出口をあきらめたぼくらはとうとう砂遊びに夢中になったり、かぜに流れてくるひとの声に物語をつけたしたり、カレンダーにありもしない予定を立てて空想したり、一見気のふれたような仕方で時間を殺してまわった。そのままのかたちでひと月は一年になり、がまんの断ち切れたように給士もどきはぼくらに楽器を与えた。かれとしては狂っていくぼくらに歯止めをかけたかったのかも知れない。楽器はほとんど週替わりで、小さなピアノだったり、笛だったり、ギターやベース、民族楽器であったりした。はじめはおもちゃだったり、粗悪な品だったのが、回を追うごとによくなっていった。なにもわからないまま毎日鳴らしては通りがかったひとびとに聞かせた。するとかれらはもののけにあったかのように身をすくませたり、棒立ちになって聴き、おれはなんともないだというふうの顔をして過ぎていった。しばらくふたりともどれだけおかしな音が出せるか、競い合っていた。

 あれについてもここで話さなければならないだろう。真夜中になればかならず一度ぼくらはますをかいた。ひとりづつ便所にこもり、できるだけ時間をかけて一発おみまいする。思い浮かべるのはかつて交際した娘たち、あるいはまだ交際していない娘たち、浜辺に見た娘たち、天使、女神、サキュパス。

 あたらしい記憶をでっちあげ、ふたりとの恋人の関係に酔う。あたまのなかで裸になった娘たちの身体をたしかめる。ことばははじまりとおわりだけにあって、なんの感情もないように装っている。あるときそれがふいにくずれる。ぼくらふたりにぴったりなのが、順番にくわわる。ぼくらは目を瞠る。かの女の頬がゆるみ、視線がやわらかくなっていき、安堵して光る。そしてどんどん近づいてくる。ぼくらは彼女の手をとって測定代にのせ、巻尺をひっぱりだす。勤めに入るまえの、おびえているような肌を軽くさすってやったりしながら測り終え、たがいに小さな合図を送る。老人を出し抜くのにぼくらは何ヶ月もかかった。無言のまま語りかける方法を少しづつ掴み取った。眉を見えない腕のようにもちあげ、笑いかけるように踵を鳴らす。するとかの女たちは裏階段をのぼってくる。仕事のふけたあとにぼくらの寮へ足音を鳴らす。あとは室のなかさ。室のなかはいつも散らかっていた。寝台にも便所にも机にも本があった。どれも表紙の黄ばんだ古本で、物語であったり、詩であったり、時事評論であったりもした。かすかな莨のくさみがそれらにかぶさって隠し味をつとめる。ぼくらはつねにちがう時代の物事やひとについて思い、話し合った。冷たい床板が歩くたびにきいきい鳴いて女たちはふるえる。そいつを抱きとめてぼくらは夕食にかかり、寝台に倒れ掛かる。もう一度あれを演じたい。そう思いながら発射した。──午前二時ふたたび眠りに落ちる。


 五年目の夏になった。もう楽器はどれも手になじみ、それらしく弾けるようになった。本のなかにいくつか教本も混じっていたんだ。給仕もどきにささやかに感謝だ。うらさみしい浜辺にも観衆は増えつつあり、水遊びの娘たちがぼくらに声をなげかけてくる。あなたたちはどうしてそんなとこに閉じこめられてるの? ぼくらは素直に答える。警察みたいなへんなのに捕まってるんだ。かの女たちはとりあわない。どうせ娯楽番組の企画ね。残念なことにテレビと現実の区別がつかないのだ。通告はいつまでたっても来ないし、そんなものあがることをぼくらは信じていなかった。かれらはきっとどこかでこの小屋を眺めて酒でも呑んでいるんだろう。娘たちはどこかへ去っていき、男たちがひやかしをいう。ぼくらの奏でる音だけが取り残され、捨てられた黄色い西瓜にまじって、いまいましく落ちている。ぼくらは苛立ちをふかめ、お互いにいがみあうことが多くなった。そして給仕もどきにも牙をむけた。かれをひっぱったり、ゆすったり、ねじったりしてみたが悲鳴すら聞こえてこなかった。


 おとつい冬の兆しがきて時化にそなえていたら、ひとりの娘が柵越しに声をかけてきた。いくどか演奏を聴きにきていた娘だ。かの女はぼくらの話を信じるといってくれた。そこからでたくないの? できればね。だしてあげようと思うの。──どうして?

 かの女は答えにつまる。なんだってそんないじわるなことを聴いてしまったのだろう。おたがいにまごつき沈黙が溝を流れる。ぼくらはぼくらの目的をとうに失い、脱出などどうもうでもいいことのようにしか聞こえなかったのだ。どうやってぬけでるのさ? 囲いを切ればいいのよ、簡単なことじゃないの。──そうだろうね、でもこっちだってそう思っていたんだ。かの女は声を高くした。ならどうしてやらないの? 面倒だからさ。──ほんとうはちがう。かっこよく抜けられる機会をいつも探しているんだ。でもいつだってそれはのくさく、やぼったい。ましてや女の子に助けられるなんて正直な話、目を覆いたかった。ぼくらはかの女に礼をいって別れようとする。貴重な申し出をありがとう。もうすぐ給士みたいなのがやってくるし、シャッターを降ろして夕食だ。──それなら真夜中にやってくるわ。天候がよくないからもっと晴れた日にしないか? 今夜じゃなければだめ! かの女はそれだけいて駈けていった。勝手な娘だ。

 しかたなくかの女の好きにさせることにした。シャッターを降ろし、夕食の支度だ。給仕もどきは運んできたものを温めなおす。われわれは死んだ鯨を囲んで葡萄酒を呑んだ。食事をすませ、給仕もどきが帰るとき、かれははじめて口を利いた。きみたち逃げだす気だろ?──ぼくたちは顔をしろくさせて立ち止まる。そんなんじゃないさ、風にあたりたいだけさ。──そういうことなら、とやつは隠しから鍵をだしてぼくに渡した。シャッターの鍵を渡しておくよ。ありがとうとぼくらはいった。かれは閉まったドアの向こうで、どうなっても知らないからなといった。いつだってかれはものごとのそとにいるというのにだ。寝台に入り、波音を黙って聴いた。そとから給仕もどきの自動車が去る音が聞こえる。ぼくらは声もださずにさよならを告げた。


 午前一時をまわってぼくらは起き上がった。そして荷をまとめる。しかしなにもないのだ。ただ外套を着て、靴を履く。シャッターをあげ、海の風を吸い込んだ。鼻いっぱいに。雨はまだふっていない。かの女はすでに来ていて、柵を毀しにかかっていた。かの女はのっぺらぼうのように表情のない顔でこちらを見、唐突に笑った。ぼくらが黙ったままでいると、不審そうにどうしたのと訊く。ぼくらはかの女の言葉を信じていなかった。素直にそいつを詫びた。かの女はとりつかれたように作業にかかり、鋸とバールで柵はたやすく開いてしまった。

 かの女はうちがわに入ってきて訊いた。どうしていままででようとしなかったの? 囚人の自主性ってやつを見せたかったんだ。つまりお悧巧さんだってところを。思ってもいないことをいい、かの女をあきれさせ、浜に足をおろす。夜風がつよく吹きつけて雨を予感させた。黒い雲がうずを巻いて空にべっとりくっついている。波が柵の根元にまでかかってくる。──楽器はもっていかないの? 看守がもって帰ったんだ。残念、もっていたら、ふたりが演奏できるところだって探すのに。──ここで伝わるように看守とやつのことをいったのがなにか悪いような、気の毒なような気がした。

 かの女に導かれて浜をのぼり、町のあるらしいほうへ急ぐ。風にかしいだ電信柱をよけ、交番や死の臭う民芸品店をさけ、表通りにでる。そこは上り坂になっていて、これを山のほうへたぐっていくと駅に着くらしい。歩きだしてすぐ、うしろからあのパトカーそっくりの車が猛烈な勢いでやってきた。警官みたいなやつらは、まえにあったときとちっともかわらず、窓から顔や銃みたいなものを突きだしてなにやら一心に呶鳴っている。そして拳銃みたいなもので静かに狙いをつけていた。まず一発目は街灯を撥ね、つぎは窓を砕き、さらにシネマのネオンをやっつけ、そして女の子に当たった。かの女は倒れ、ぼくらは走りつづけた。やつらのうしろから、ほんものの警察が現れたからだ。そのまま改札を抜け、赤電に飛び乗った。


 もどってくると春がちかくに来ていた。森林のその多くが切り拓かれ、死者のいない、あたらしい家がならぶ。道はどれもまっすぐにのびて、かげもぬかるみもない。ぼくらの家なんか、とっくになくなっていて、知らないひとたちの世界だけが見てくれもよく、そろえられていた。ただあのパン屋だけが吹きだまった落ち葉のなかので隠れるようにあった。疲れ切った身体で扉をおす。ぼくらはもう食べる気力もなかったから、主が今できたところだよといったとき、石でも投げつけられたみたいにとても狼狽してしまったんだ。代金は払ってあるし、しかたなく受け取った。どこへいくあてもなく、そのまま歩きだした。放浪を楽しんだところはもうあとかたもない。山茄子も煙きのこだ。けっきょくは公園にいき、そのもっとも昏いところにパンケーキを運び入れ、そして穴を掘り、包みのままで埋葬した。ぼくらは草笛──ぼくもできるようになった──を吹き、鎮魂歌を奏でて土を降った。雨が降りだしていた。ぼくらは旅の愚痴からおたがいを罵り、それきり別れてしまい、いまはどこにいるかもおたがいに知らない。日々は糸くずのようにふきだまり、過古の戸口をぬけてはもっともうつろな空を産む。ぼくらはいまもそこにある。ぼくらの天国なのだ。


  *